第80話 壁際の灰銀
聴取室の扉が開いた時、廊下の白さが先に流れ込んできた。
火の色ではない。灰の色でもない。旧欧州の石壁に染みた蝋の黄ばみでも、教会地下の湿った闇でもなかった。均一に磨かれた白。照明を反射する床。壁の角に沈む影さえ許さないような無機質な明るさ。天井の監視カメラは黒い半球のまま静かにこちらを見ている。空調の音は低く、遠い電子音が硬い廊下の奥で短く鳴った。
クラウディオ・ルジェリウスは、その白い廊下へ出た瞬間に足を止めなかった。
止めなかっただけだ。
分からなかったわけではない。
聴取室の扉付近に一人。少し離れた壁際に二人。カードゲートの前に一人。エレベーターへ続く曲がり角に二人。非常階段側にも一人。さらに奥、職員用通路の前にも、識別証を下げた男が立っている。全員が露骨に身構えているわけではない。腕を組む者も、端末を持つ者も、ただ立っているだけの者もいる。だが、位置が整いすぎていた。
逃がさない配置だった。
まだ正式な手錠は出ていない。腕に触れられてもいない。書類上は任意のままだろう。実に便利な言葉だ。任意。拘束前の礼儀作法。檻の扉に花を飾って「こちらは庭園です」と書くような、涙ぐましい言語の節約術である。
廊下の奥で、革靴の音が小さく止まった。
クラウディオは薄く笑った。
「任意の次は、白い廊下で囲い込みか」
誰もすぐには答えなかった。
職員用識別証を下げた上層部の男が、ほんのわずかに顎を上げる。年齢は五十代ほど。表情は整っていた。怒りも焦りもない。あるのは、証拠と危険性に基づいて必要な判断を下しているという顔だった。自分は合理的である、と信じている人間特有の、手入れされた平坦さ。
クラウディオはその顔が嫌いだった。
怒鳴る人間よりたちが悪い。罵倒する人間より厄介だ。正しい手順を踏んでいる顔で、人を檻へ入れようとする者は、自分の手の中に鍵があることに気づかない。
「清潔な檻は趣味が悪い」
クラウディオの声は低かった。
恐怖ではない。
クラウディオは怒っていた。恐怖ではない。自分が誰かの作った筋書きに従って『犯人』にされることが、許せない。
自分の名前。血。人形。工房。過去。失ったものの器。誰かがそれらを勝手に並べ、手頃な証拠品へ落とし込み、彼を「容疑者」ではなく「犯人」として完成させようとしている。その手つきが不愉快だった。旧欧州で、ロウェナ・ミルが「魔女」として完成させられたのと同じだった。焼き菓子は魔女の軟膏。薬草茶は異端者の治療。空腹の子どもへ渡した小さな菓子は、吸血鬼への供物。
今はそれが、血痕、監視映像、通信記録、人形破片、血液反応、皮膚片、靴跡、繊維片に変わっただけだ。
火刑台は白くなった。薪は紙になった。祈りは数値になった。群衆は上層部になった。
だが、人を一人の罪へ押し込む構造は変わっていない。
「犯人扱いがずいぶん早いな」
クラウディオは廊下の奥へ視線をやった。
「証拠が歩く前に檻が走ると言ったが、本当に走ってきたか」
上層部の男は眉を動かさなかった。
「安全確保のためです」
「またそれか。檻に使う布の柄を変えただけだな」
「あなたには重大な嫌疑がかかっています。現場証拠は極めて強い。加えて、あなたは吸血鬼であり、血術および怪異事件との関係も複数確認されています」
「危険個体、か」
クラウディオは笑った。
「便利な言葉だ。魔女より少しだけ近代的だな」
廊下の空気がわずかに強張った。
その時、聴取室側の警備員の一人が動いた。若い男だった。緊張で口元が硬い。職務として近づいている。敵意ではない。恐怖を押し殺し、訓練通りの動きをしている。
「こちらへ」
彼は言った。
「安全確保のため、ご同行を」
手が伸びる。
クラウディオの腕へ向かって。
その指先が袖に触れるより早く、灰銀が割って入った。
音はほとんどしなかった。
ただ、廊下の白い光の中に、ルスト・ヴァルレインの背が滑り込んだ。警備員の腕とクラウディオの間へ、切断するように立つ。動作は速い。だが乱暴ではない。警備員を殴ったわけでも、腕を弾き飛ばしたわけでもない。ただ位置を奪った。
それだけで、触れる道が消えた。
次の瞬間、ルストはクラウディオを壁際へ押しやるように庇い、自分の背で警備員たちとの距離を塞いだ。
クラウディオの背後には白い壁。前にはルスト。さらにその向こうに、警備員たち。壁と灰銀の背の間に、クラウディオは閉じ込められた形になった。
守られている。
同時に、逃げ場がない。
庇われているのか、囲われているのか分からない。
それを理解した瞬間、クラウディオの目が鋭くなった。
「庇っているつもりか。これは俺を壁に追い詰めているだけだ」
ルストは振り返らなかった。
視線は警備員たちに向いたままだ。灰銀の髪が、廊下の白い照明を受けて冷たく光る。背は大きい。警察庁の白い廊下を、その一つの身体で塞ぐように立っている。
「動くな」
低い声だった。
その声は警備員へ向けたものでもあり、クラウディオへ向けたものでもあった。場を動かすな。クラウディオに触れるな。クラウディオも不用意に動くな。すべてを含んだ一言だった。
その声は低く、警察庁の廊下の空気が一瞬で冷える。ルストがただの協力者ではないことを、周囲が本能で理解する。
警備員の足が止まった。上層部の男も言葉を切った。遠くの電子音だけが、一度短く鳴る。空調の音が妙にはっきり聞こえた。白い廊下の清潔さが、急に薄く冷たい膜になったようだった。
ルストは怒鳴っていない。威嚇のために牙を見せてもいない。手を上げてもいない。
ただ、立っている。
それだけで、誰も動けなかった。
クラウディオは壁際からルストを睨んだ。
腹立たしいほど近い距離だった。ルストの肩越しに、警備員たちの靴先が見える。白い廊下。壁。背中。逃げ道のない角度。自分の動線が、警察ではなくルストによっても塞がれている。
クラウディオは低く言う。
「俺を庇うな」
ルストは返さない。
「俺を檻に入れたいのは警察だけで十分だ。貴様まで壁を作るな」
ルストの肩がわずかに動いた。だが振り返らない。
「今は黙れ」
「命じるな」
「動けば触られる」
「貴様に塞がれるのも大差ない」
ルストは答えなかった。
答えないことが、また腹立たしい。
クラウディオは壁際でルストを睨む。近すぎる距離。守られているのか、囲われているのか分からない。その曖昧さが、二人の関係そのものだった。
守ることと囲うこと。
庇うことと閉じ込めること。
救済と支配。
愛情と管理。
触れれば戻る。噛まれれば現実へ引き戻される。だが、その痛みを誰が許した。誰が、勝手に自分の手首へ現実の印を刻んでいいと言った。
それでも、あの夜、ルストがいなければ、クラウディオは火刑台の下へ落ちたままだった。
分かっているから、余計に腹が立つ。
警備員の一人が、上層部の男へ視線を送った。動いてよいのか、止まるべきなのか判断を求めている。上層部の男はすぐには答えなかった。
そこへ、廊下の奥から榊が足早に来た。
表情は険しい。普段の乱暴な皮肉を引っ込めた顔だった。警察官としての顔。現場で人を止める時の顔。
「待て」
榊の声が廊下に落ちた。
上層部の男が振り返る。
「榊警部補」
「まだ正式な令状は出ていない」
榊は言った。
「任意同行の範囲を超える」
「嫌疑は十分です。危険性を考えれば、確保が妥当です」
上層部の男の声は落ち着いている。
悪意ではない。手続きを進める人間の声だ。だからこそ厄介だった。彼にとってクラウディオは、恐怖の対象であり、管理すべき危険個体であり、証拠が揃った容疑者である。手続きを急ぐ理由はある。逃走の危険。証拠への干渉。世間に漏れた場合の責任。吸血鬼、血術、人形師、怪異事件への複数関与。どれも無視できない。
だが、無視できないものをすべて積んで檻にすれば、それはまた別の火刑台になる。
榊は引かなかった。
「ここで無理に押さえれば、証拠以前に手続きが壊れる」
「安全確保です」
「任意同行の範囲を超えると言っている。身柄確保に進めるなら、正式な手続きが先だ」
「万一逃走された場合、誰が責任を取るのですか」
「手続きが壊れた場合も同じだ。後で全部崩れる」
上層部の男は表情を硬くした。
「証拠が揃っている以上、慎重すぎる対応は危険です」
「現場には不自然な点がある」
「違和感だけで判断を遅らせることはできません」
「違和感じゃない。証拠の整い方そのものが問題だ」
榊の声は荒くなりすぎなかった。だが、食い下がる強さがあった。
彼はクラウディオを情で庇っているだけではない。正式な令状がないままの拘束は危険だと上層部へ食い下がっている。手続きが壊れれば、証拠の価値も、捜査の正当性も損なわれる。何より、証拠があまりに整いすぎている。完璧すぎる檻を前に、鍵だけ先にかけようとすることが危うい。
澪奈が続いた。
彼女は榊の少し後ろに立っていた。白衣ではないが、資料端末を胸に抱えている。顔色は良くない。だが、声は揺れなかった。
「現場証拠は強いです。ですが、強すぎます」
廊下の視線が彼女へ向いた。
澪奈は深く息を吸う。
「誤差が少なすぎます。血痕も繊維も人形破片も、説明的に残りすぎています。検証前に身柄確保へ進むのは、危険です」
上層部の男が言う。
「科学的証拠として強いのでしょう」
「強いです。だからこそ確認が必要です」
「矛盾しています」
「矛盾していません」
澪奈の声が少しだけ鋭くなった。
「科学は結論を急ぐための道具ではありません」
白い廊下に、その言葉が落ちた。
クラウディオはルストの背越しに、わずかに澪奈を見た。
あの小娘、少しは言うようになった。科学の巫女ではなく科捜研だと訂正しただけの少女ではあるが少しだけ興味を持ったのだった。




