第79話 任意の檻
聴取室の扉は、閉じられていなかった。
少なくとも、見た目にはそうだった。
扉は内側から開けられる形をしている。鍵穴がむき出しになっているわけでもない。鉄格子もなければ、古い地下牢のような湿った石壁もない。火刑台の薪も、教会の鐘も、祈る群衆もない。
だが、部屋の外には警備が立っていた。
廊下の角には監視カメラがある。天井の黒い半球が、無言でこちらを見下ろしている。入退室には職員のカード認証が必要で、クラウディオが座らされた聴取室から廊下へ出るには、誰かが扉の外で手続きを踏まなければならない。水を取りに行くにも職員がつく。トイレへ行くにも確認が入る。移動のたびに記録が残る。
表向きは任意同行。だが部屋の外には警備が立ち、クラウディオの動線は制限される。
名前だけが柔らかい檻だった。
人間は檻に名前をつけるのが上手い。自由、保護、管理、任意。好きな札を貼れば、鉄の匂いが消えるとでも思っているのだろう。実に涙ぐましい努力である。鉄は鉄だし、檻は檻だ。札の字面で噛み合わせが変わるなら、鍵屋は廃業している。
クラウディオ・ルジェリウスは、椅子に深く腰掛けていた。
背筋は伸びている。足は組んでいる。乱れたところはない。聴取室の無機質な白い壁も、天井の照明も、机の上に置かれた録音機器も、透明な水のペットボトルも、彼を萎縮させることはできない。
ただ、彼の目だけが冷えていた。
かつて王だった吸血鬼にとって、檻の匂いは敏感に分かる。石でできた牢でも、白い会議室でも、警備員が立つ廊下でも、檻は檻である。鍵が見えない檻ほど、たちが悪い。捕らえている側が、自分たちは檻を用意していないと本気で思っているからだ。
聴取室は清潔だった。
白い壁。固定された机。録音機器。天井の無機質な照明。窓のない空間。資料ファイル。タブレット端末。空調の低い音。硬い椅子。机の向こうに座る聴取官。
火も煙も鐘もない。
それでも構造は同じだった。
誰かを一つの席に座らせる。周囲が証拠を積む。本人の言葉より、記録の方が重くなる。その場で、有罪の輪郭が作られていく。
クラウディオは机の上の水を見下ろした。未開封のペットボトルは、透明で、清潔で、何の匂いもしなかった。
「任意とは便利な言葉だな」
彼は低く言った。
向かいに座る聴取官は、感情を動かさなかった。四十代半ばほどの男で、声は落ち着いている。怒鳴る気配も、挑発に乗る気配もない。書類上の手続きを淡々と進める種類の人間だった。
クラウディオを怪物扱いするのではなく、書類上の容疑者として扱う。
それが、別の意味で不快だった。
「任意での聴取です」
聴取官は言った。
「扉の外に警備を置いておいて、任意か」
「安全管理上の措置です」
「人間は檻に名前をつけるのが上手い。任意の檻。なかなか悪趣味だ」
聴取官は、資料ファイルを一枚めくった。
「事実関係を伺っています」
「確認です、か。便利な言葉が多いな、この建物は」
「確認です」
聴取官は同じ言葉を繰り返した。声は揺れない。そこに悪意はない。ただ、質問を積むための平坦さがある。
クラウディオは薄く笑った。
怒鳴りつける相手より面倒だった。怒りや嫌悪をむき出しにする者なら、まだ牙の立て所がある。だが、こういう人間は書類を盾にする。自分はただ職務を果たしているだけだ、手続きに従っているだけだ、事実を確認しているだけだと、どこまでも平らな顔をする。
火刑台に薪を運んだ町人たちも、きっとそんな顔をしていたのだろう。
自分が火をつけたのではない。
証言しただけ。
見たことを言っただけ。
教会に従っただけ。
町のためだった。
言葉が変わっても、やっていることは大して変わらない。文明とは本当に器用な言い換えの技術だ。進歩したのは火のつけ方ではなく、責任の薄め方である。
聴取官は端末を操作した。
机上のモニターに、死亡した元鑑識官の資料が映し出される。
「被害者は、元警察庁鑑識部門所属。現在は法医学関連施設に勤務していました。死亡推定時刻は、二十二時から二十三時の間です」
「それで」
「この時間帯、被害者の自宅マンション玄関カメラに、あなたに酷似した人物が映っています」
モニターに静止画が表示された。
顔は鮮明ではない。だが、輪郭、髪、身長、歩き方、外套の形。どれもクラウディオに似ている。似ている、というより、似せている。
「エレベーターの記録も一致しています。該当階への移動時刻、降車記録、さらに入退館記録も、死亡推定時刻と矛盾しません」
「よくできた作文だ」
「事実関係です」
「作文にも事実は使える。並べ方で物語になる」
聴取官は表情を変えず、次の資料を示した。
「現場の血痕の一部に、あなたの血液型および登録情報と矛盾しない反応が出ています。詳細な照合は継続中ですが、既存データと強く符合しています」
「血まで勤勉だな。主人より先に現場へ行くとは」
「冗談を言う場ではありません」
「冗談ではない。俺の血の方が社交的らしいと言っている」
聴取官は反応しなかった。
資料が進む。
「床に落ちていた人形破片は、あなたの工房《箱庭》で使用されている素材と極めて近い。表面には微量の血液が付着していました」
画面に、小さな白い破片が映る。
血痕の近くに落ちていた人形の破片。白っぽい素材。古びた塗装。微量の血液。破断面。指とも、頬とも、関節部とも取れる中途半端な形。証拠品としてはよくできている。見る者に「クラウディオの人形」と思わせるには十分だ。
クラウディオの目がわずかに細くなった。
「この破片は俺の人形ではない」
「鑑定上は、あなたの工房で使用される素材と矛盾しません」
「だから何だ。素材が似ていれば人形になるとでも? 骨と肉があれば人間になると思っているなら、貴様らの採用基準は相当ゆるいな」
聴取官は資料をめくる。
「あなたは、この破片に見覚えがないと」
「ない。俺の人形ではない。俺の真似をした、見苦しい死骸だ」
声が冷えた。
クラウディオにとって、人形はただの小道具ではない。記憶や喪失を閉じ込める器だ。失ったものの形を固定しようとする反復であり、届かないものに手を伸ばすための檻でもある。
ロウェナに似た人形を作っては壊したことがある。
何度も。
どれだけ似せても、彼女ではなかった。焼き菓子の匂いも、粉のついた手も、「熱いから少し冷ましてから食べなさい」と言った声も、人形には宿らなかった。だから壊した。壊して、また作った。
人形は、クラウディオにとって喪失の形だった。
それを、誰かが勝手に証拠品へ落とした。
犯人当ての札のように、床へ置いた。
人形を知らない者が、人形の皮だけを被せた。
クラウディオの笑みが深くなる。
「人形を証拠品に落とすな」
聴取官は一拍置いた。
「証拠品として現場に存在していたものです」
「だから落とすなと言っている」
「意味が分かりかねます」
「分からんだろうな。喪失の器を、犯人当ての札にするような感性だ。説明して理解できるなら、最初からこんなものを置かん」
聴取官は、そこには踏み込まない。
人形の意味など、捜査資料上では重要ではない。重要なのは、素材、血液、付着物、現場での位置、鑑定結果。それだけだ。
そのズレが、クラウディオの不快感をさらに冷やしていく。
「さらに、被害者の端末には、クラウディオ・ルジェリウス名義のメッセージが残されていました」
画面が切り替わる。
短いメッセージが表示された。
被害者と会う約束をしたように見える文面。クラウディオの名が使われている。文体も、どこか彼に似せている。皮肉めいた言い回し。相手を見下した調子。短く、冷たい文章。
だが、浅い。
薄い。
まるで高価な香水を水で薄めたような、嫌な似方だった。
クラウディオは一瞥して、鼻で笑った。
「俺の名を使うなら、せめて俺より愚かに喋るな」
聴取官が視線を上げる。
「あなたのものではないと?」
「俺の名を騙った、下手な腹話術だ。これを書いた者は、俺を侮辱したいのか、模倣したいのか、どちらだ」
「文体はあなたの過去の発言記録と類似しています」
「類似、か。影絵を見て本人だと言うほど目が節穴なら、眼科へ行け。もっとも、貴様らは眼科でも数値を拝むのだろうが」
聴取官は資料へ戻る。
「通話履歴、位置情報、監視映像、現場血痕、人形破片、工房素材との一致、被害者端末に残されたメッセージ。これらを総合すると、あなたと被害者の接触は否定できません」
「否定できない、か。やはり便利な言葉だ。真実が分からない時でも、何か言った気になれる」
「あなたは事件当夜、どこにいましたか」
「答える必要はあるか」
「任意聴取ですが、事実関係の確認にご協力ください」
「また任意か」
クラウディオは笑った。
「扉の外に警備を置いておいて、任意か。水を飲むにも見張りがつき、廊下へ出るにもカード認証がいる。鍵を見せなければ自由だと思っているのか」
「安全管理上の措置です」
「檻に布を掛ければ客室になると思っているホテルと、発想が同じだな」
聴取官は、旧欧州での同室など知らない。知らないまま、質問を続ける。
その平坦さが、かえってクラウディオの怒りを削らずに磨いていく。
自分の声を偽装された。
自分の血を模倣された。
自分の人形を真似された。
自分の工房の素材を利用された。
自分の名前を使われた。
自分の過去と喪失の器である人形を、証拠品として落とされた。
自分の声、自分の血、自分の人形、自分の過去を、誰かが勝手に使っている。それは単なる冤罪ではなく、存在の模倣による侮辱だった。
怒鳴るには、あまりに腹立たしい。
暴れるには、あまりに粗末だ。
クラウディオは笑みを深める。
聴取室の空気が、ゆっくり冷えていった。
その頃、隣室ではルストが壁越しの音声を聞いていた。
部屋には榊と澪奈がいる。警察庁側が用意した小さなモニターには、聴取室の映像が一部映っている。音声は遅延なく届く。正式なモニタリングであり、盗み聞きではない。だが、壁一枚を隔ててクラウディオの声を聞いているという事実が、ルストの空気を一段冷やしていた。
一方、ルストは別室で榊と澪奈から状況を聞く。拘束の可能性が高まっていると知り、表情が消える。
それは怒りを露わにするよりも、ずっと危険に見えた。
目の色が冷える。声が低くなる。部屋の空気が重くなる。榊は一瞬、言葉を選んだ。澪奈も息を詰める。ルストは聴取室の方向を見ていた。手は動かない。だが、いつでも動ける気配がある。
榊は低い声で言った。
「俺はあいつを犯人だとは思っていない」
ルストは榊を見た。
鋼色の目が、まっすぐ突き刺さる。
榊は続ける。
「だが、証拠は強い。上は動く」
「拘束するつもりか」
ルストの声は静かだった。
静かすぎた。
榊は顎に力を入れた。
「上層部は証拠を重視する。証拠が完璧である以上、疑わない方が危険だと判断している」
「まだ聴取中だ」
「分かっている」
「分かっていない者が上にいる」
榊は否定できなかった。
組織としては、クラウディオの危険性を無視できない。吸血鬼であり、人形師であり、怪異事件に何度も関わっている。証拠は強い。逃走や証拠への干渉を懸念する理由もある。上層部が早く確保したがること自体は、手順としておかしくはない。
おかしくないからこそ、危ない。
澪奈が資料を手に、静かに言った。
「分析上は強いです。ですが、強すぎるんです」
ルストは澪奈を見る。
「誤差が少なすぎます。人間の現場なのに、人間の乱れが見えない。鑑識教材なら満点です。でも実際の現場なら、不自然です」
榊が頷く。
「完璧すぎる証拠は疑うべきだと俺は思う。だが、上は逆に見る。完璧なら、早く押さえろと」
澪奈は唇を引き結んだ。
「科学は疑うためにも使うものです。結論を早めるためだけのものではありません」
「上にそれを通すには時間が要る」
「時間がないんですね」
榊は答えなかった。
それが答えだった。
ルストの視線が、聴取室の壁へ戻る。
モニターの中で、クラウディオは椅子に座っている。背筋は伸びたまま。足を組んだ姿勢も崩れていない。聴取官が資料を積むたび、表情は冷えていく。だが怯えはない。怯えではなく、侮蔑と怒りと、さらに奥にある古い灰のようなものが見える。
ルストには分かる。
クラウディオは今、この白い部屋を見ていない。
あるいは、見ているが、別のものと重ねている。
火刑台。
告発者。
記録。
ロウェナ・ミル。
焼け残った手紙。
「どうか、あの子に罪を着せないで」という断片。
そして今、自分に向けられた証拠の列。
ルストの指が、椅子の背に触れた。
まだ動かない。
動けば、クラウディオの檻がさらに狭くなる。
それが分かっているから、動けない。
理解という鎖は、時に鉄より厄介だ。なまじ頭が回ると、暴れれば楽になる場面で暴れられない。知性は便利だが、時々かなり意地悪である。
聴取室では、聴取官が次の資料を示していた。
「被害者の端末には、あなた名義のメッセージが複数残っています。内容は、被害者と接触する意思を示すものです」
「俺の名を使えば俺になるのか」
「少なくとも、記録上はあなたとの接点として扱われます」
「記録上、な」
クラウディオは繰り返した。
「旧い教会も同じことを言っていた。記録上、魔女。記録上、異端。記録上、悪しき血への供物。記録上、処刑済み。実に便利だ。紙は何でも運べる。罪も、嘘も、燃え残った善意も」
聴取官は一瞬、沈黙した。
クラウディオは笑みを消さない。
「何だ。旧欧州史の授業も任意か」
「事件について伺っています」
「俺も事件について話している。人間が誰かを犯人として完成させる手順の話だ」
聴取官の手が、資料の端に触れた。
「あなたは、自分が犯人ではないと主張するのですね」
「俺が主張しようがしまいが、貴様らの資料ではもう完成しているのだろう」
「完成?」
クラウディオは、モニターに並んだ証拠を見た。
死亡推定時刻。
監視映像。
現場の血痕。
人形破片。
工房素材との一致。
被害者端末に残されたクラウディオ名義の偽装メッセージ。
エレベーター記録。
位置情報。
通話履歴。
指紋。
靴跡。
繊維片。
皮膚片。
血液反応。
どれも彼へ向いている。
あまりにも丁寧に。
あまりにも親切に。
見る者が迷わないように。
ロウェナ・ミルの裁判記録も、きっと同じだった。焼き菓子は魔女の軟膏。薬草茶は異端者の治療。空腹の子どもに渡した菓子は吸血鬼への供物。町人の証言、教会の記録、没収財産、処刑記録。すべてが彼女を魔女にするために並べられた。
そして、燃やされた。
クラウディオは静かに笑った。
「つまり、俺はすでに犯人として完成しているわけだ」
その声を、隣室のルストが聞いている。
壁一枚を隔てて、声だけが届く。
ルストは、クラウディオが今どこにいるのか理解した。
聴取室ではない。
また別の火刑台だ。
火ではなく証拠。
祈りではなく数値。
群衆ではなく上層部。
告発者の声ではなく、鑑定報告書。
けれど構造は同じ。
榊が低く言った。
「ルスト」
制止だった。
まだ動くな、という声だった。
澪奈も息を詰めている。
ルストは椅子の背を握った。指に力が入る。木ではなく金属の背だったため、音はほとんどしなかった。ただ、部屋の温度がさらに落ちたように感じられた。
クラウディオの声が、もう一度スピーカーから漏れる。
「よくできた檻だ。だが、出来が良すぎる。作った者は、俺を閉じ込めたいだけではない」
聴取官が問う。
「どういう意味ですか」
「見せたいんだろう」
「何を」
「俺が閉じ込められるところを」
隣室で、榊の顔色が変わった。
澪奈が端末を握る手に力を入れる。
ルストは動かなかった。
動かないまま、聴取室の壁を見た。
その向こうで、クラウディオは笑っている。
任意という名前の檻の中で。
隣室で、ルストの表情から最後の温度が消えた。




