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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第6部 【科学捜査の檻】

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第78話 科学の神殿



 警察庁の庁舎は、火の匂いがしなかった。


 それだけで、かえって不気味だった。


 旧欧州の教会には、石壁に染みた湿気と、古い蝋と、鐘の音と、何世代も積もった祈りの残骸があった。あの土地では、神の名を口にする声が、時に人を燃やす薪になった。ロウェナ・ミルの名を「魔女」に変えた紙は古く、手触りは脆く、灰の匂いがした。


 だが、ここにあるのは白だった。


 白い廊下。均一な照明。床に反射する冷たい光。壁の案内板。監視カメラ。カードゲート。無機質な受付。金属探知のゲート。識別証を下げた職員。入館記録を読み取る端末。エレベーターの電子音。静かすぎる空調音。


 祈りの声はない。


 鐘も鳴らない。


 だが、何かに頭を下げる空気だけはある。


 クラウディオ・ルジェリウスは、カードゲートの前で足を止め、ゆっくりと庁舎の奥を見た。まっすぐ伸びた白い廊下の先には、また別の扉がある。その向こうにはさらに廊下があり、会議室があり、鑑識資料があり、数値があり、映像があり、表がある。


 旧欧州の教会が祈りで人を追い詰めたなら、ここは記録で人を追い詰める。


 クラウディオは薄く笑った。


「ここは随分と清潔な教会だな。祈る対象が神から数値に変わっただけか」


 受付に立っていた警察庁の職員が、一瞬だけ表情を固めた。榊悠真は横で苦い顔をする。白石澪奈は手元の端末から目を上げ、何か言いかけて、やめた。


 ルスト・ヴァルレインだけは動かない。


 灰銀の髪も、鋼色の瞳も、警察庁の白い光の中で異物のように浮いていた。彼はクラウディオのすぐ横に立っている。前に出すぎず、後ろにも下がらない。距離は近い。だが、誰もその距離に名前をつけられない。


 警察庁の人間たちは、二人の距離感を測りかねている。単なる協力者ではない。だが恋人とも言い切れない。監視者でもなく、保護者でもない。ルストはクラウディオの横に立ち続ける。警察庁の人間たちは、それを止めるべきか、認めるべきか、そもそもどう分類すべきかを判断できずにいる。


 人間は、名前を貼れない関係を見ると途端に挙動が悪くなる。分類表から外れた瞬間に迷子になるらしい。文明社会の限界が、こんな白い廊下で露呈するのだから大したものだ。


 職員の一人が、ルストへ視線を向けた。


「ええと、ヴァルレイン氏は……」


 その先を言えずに止まる。


 クラウディオは冷たく見る。


「見るな。珍獣ではない」


 職員は口を閉じた。


 榊が眉間を押さえる。


「余計に話をややこしくするな」


「俺は事実を訂正しただけだ。貴様らの施設には、視線の教育が足りない」


「視線の教育なんて部署はない」


「作れ。仕事が増えて良かったな」


 榊は返事を諦めた。人間として正しい判断である。時には撤退こそ最良の戦術だ。クラウディオ相手なら特に。


 金属探知のゲートを通り、カード認証を抜ける。入館記録が端末に残る。識別証が渡される。警備員の視線がクラウディオの顔、手元、隣に立つルストへと動く。


 クラウディオの手首には、もう噛み跡がほとんど残っていない。


 完全に消えてはいない。


 袖口に隠れたり、歩く動きでわずかに見えたりする程度だ。旧欧州のホテルで、火刑の夢から戻された時の痕。ロウェナの記憶に呑まれかけた自分を、ルストが現実へ引き戻した証。本人は相変わらず、そういう面倒な意味を口にはしない。だが消していない。


 白い警察庁の廊下で、その薄い痕だけが、冷たい数値では拾えないものとして残っていた。


 エレベーターの扉が開く。


 内部もまた白に近い灰色だった。磨かれた金属の壁に、クラウディオとルストの姿がぼんやり映る。榊、澪奈、警察庁の職員。誰も余計なことを言わない。


 電子音が鳴る。


 旧欧州の鐘に比べれば、軽すぎる音だった。


 それでも、クラウディオの瞼が一度だけ細く動いた。


 ルストは気づいた。


 何も言わない。


 扉が開く。


 会議室は、窓がなかった。


 透明な仕切り、白い壁、長机、複数の資料端末、壁面の大型モニター。隅には番号管理された証拠品のケースが置かれ、封緘された袋には管理番号が貼られている。祭壇の代わりに会議机があり、聖遺物の代わりに証拠品が並ぶ。祈祷文の代わりに鑑定報告書。神託の代わりにDNA照合。聖歌の代わりに電子音。


 ここでは誰も祈らない。


 それでも、数字の前で人は頭を下げる。数値は神ではない。だが、神のように扱う人間がいれば、そこは神殿になる。


 クラウディオは椅子に座る前に、会議室を見渡した。


「祭壇の代わりに会議机か。聖歌の代わりに電子音とは、趣に欠けるな」


 榊が息を吐く。


「ここは教会じゃない」


「分かっている。教会より清潔で、教会より退屈だ」


「退屈で悪かったな」


「悪いと思うなら内装くらいどうにかしろ。白すぎる。人間は罪を隠す時ほど白を使いたがる」


 警察庁側の管理職らしき男が、机の向こうで眉をひそめた。


 五十代ほどの男だった。背広に皺はなく、声を荒げる気配もない。感情よりも手順を先に置く種類の人間に見えた。彼の前には資料端末があり、そこには今回の元鑑識官死亡事件に関する資料が並んでいる。


 男は名乗った。警察庁刑事局の管理官だという。名前は告げられたが、クラウディオは覚える気がない顔をしていた。人間の管理職の名前など、だいたい後で別の似たような人間が出てきて上書きされる。便利な消耗品めいた存在である。


 管理官は淡々と口を開いた。


「本日は任意での事情聴取にご協力いただきます」


 クラウディオは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。


「任意とは便利な言葉だ。首輪に花飾りをつけるようなものだな」


 管理官の目がわずかに冷える。


「我々は手続きに従っています」


「そうだろうな。火刑台にも手順はあった」


 榊が低く言う。


「クラウディオ」


「事実だ」


 クラウディオは涼しい顔で返した。


 管理官は反応を抑え、端末を操作した。会議室のモニターに資料が映し出される。


 警察庁の会議室では、鑑識資料、監視映像、血液分析、DNA照合、位置情報、通話履歴が並べられる。どれもクラウディオの犯行を示しているように見える。


 マンション玄関の監視映像。

 エレベーター内の静止画。

 被害者宅の血痕分布図。

 血液分析の結果。

 DNA照合表。

 通信記録。

 位置情報ログ。

 靴跡写真。

 繊維片の分析表。

 人形の破片の写真。

 皮膚片の検出結果。

 被害者の勤務記録。

 そして、クラウディオとの接点らしきデータ。


 それらは整然としていた。


 あまりにも整然としていた。


 証拠は、まっすぐクラウディオへ向かっている。まるで、迷子にならないよう矢印でも置かれているかのように。


 澪奈は資料を見ながら、静かに言った。


「分析結果だけなら、かなり強いです。ですが、強すぎます。現場に残るべきノイズが少なすぎる。クラウディオさんを示す証拠が、あまりにも説明的です」


 管理官が澪奈を見る。


「白石研究員。あなたは警察庁側の分析結果に異議を唱えるのですか」


「異議ではありません。確認が必要だと言っています」


「結果は出ています」


「科学は結果を出します。でも、結果がどう作られたかを見なければいけません」


 会議室の空気が硬くなった。


 澪奈は逃げなかった。


 彼女は科学を否定していない。むしろ、科学を信じている。だからこそ、都合よく並んだ結果に違和感を覚えている。科学が出すものは大事だ。だが、科学を扱う人間が、どのような前提で何を取り、何を切り捨てたのか。それを見なければ、白い紙は簡単に火をつける。


 クラウディオは澪奈を見て、口元を歪めた。


「科学の巫女にしては、まともなことを言う」


「巫女ではありません。科捜研です」


「では科捜研の巫女だな」


「悪化しました」


「語感は良い」


「よくありません」


 榊は苦い顔をしていた。


 榊は科学捜査を否定しているわけではない。むしろ証拠は必要だ。証拠なしで人を疑えば、ただの魔女狩りになる。人の噂、感情、憎悪、恐怖。それだけで人を裁けば、旧欧州でロウェナを燃やした連中と何も変わらない。


 だが今回の証拠は、正しすぎる。その正しさが、かえって不気味だった。


「証拠は必要だ」


 榊は言った。


「証拠なしで人を疑えば、ただの魔女狩りになる。だが、これは……整いすぎている」


 クラウディオが榊を見る。


「進歩したな、榊。証拠を拝まなくなった」


「お前に褒められると腹が立つ」


「なら良い。腹が立つうちは、まだ拝んでいない」


 榊は言葉に詰まった。


 管理官が端末に視線を落とす。


「正しすぎるという印象だけで、科学的証拠を退けることはできません。監視映像、位置情報、通話履歴、血液分析、DNA照合、皮膚片、指紋、靴跡、繊維片、人形の破片。すべてがルジェリウス氏を指しています」


「随分と勤勉な証拠だ」


 クラウディオは画面を見たまま言った。


「持ち主より働いている。涙ぐましいな」


「ふざけている場合ではありません」


「ふざけてなどいない。あまりに真面目な檻に感心しているだけだ」


 クラウディオは資料を見ても怯まない。ただし内心では、旧欧州で見た魔女狩り記録と重ねている。


 ロウェナ・ミルは、証言と噂と教会の記録によって燃やされた。

 告発者たちは口を揃えた。

 教会は記録した。

 町は安心した。

 そして一人の菓子職人は「魔女」になった。


 今のクラウディオは、映像と血痕と数値によって閉じ込められようとしている。

 マンションの映像。

 床の血痕。

 DNA照合の表。

 通話履歴。

 位置情報。

 人形の破片。

 科学的に正しい顔をした資料たち。


 かつてロウェナは、証言と噂と教会の記録によって燃やされた。今の自分は、映像と血痕と数値によって閉じ込められようとしている。形が変わっただけで、人間は同じことをしている。


 クラウディオの脳裏に、焼け残った手紙の断片が過る。


 あの子は悪魔ではありません。

 お腹を空かせていただけです。

 どうか、あの子に罪を着せないで。


 今度は、誰が書くのだろう。


 クラウディオ・ルジェリウスは犯人ではありません、と。


 誰も書かないだろう。


 だから、檻の出来を見てやると言ったのだ。


 クラウディオは笑う。


「証言が映像に変わり、噂が数値に変わっただけか。火刑台は白くなったな」


 管理官の目が細くなる。


「あなたは自分に向けられた証拠を、すべて作為だと主張するのですか」


「すべてとは言っていない。だが、綺麗に並んだものほど疑え。人間は部屋の掃除も満足にできないくせに、罪を並べる時だけ妙に几帳面になる」


「侮辱ですか」


「観察だ」


 ルストが、クラウディオの横に立ったまま言った。


「証拠が多すぎる」


 管理官はルストへ視線を移す。


「あなたの立場は」


 ルストは答えない。


 クラウディオが横目で見た。


「聞かれているぞ」


「必要ない」


「説明を放棄するな。場が面倒になる」


「既に面倒だ」


「それはそうだ」


 榊が咳払いした。


「ヴァルレイン氏は、これまでの怪異関連捜査における協力者だ」


 管理官の視線は鋭いままだった。


「協力者が容疑者の隣に立ち続ける必要がありますか」


 ルストは淡々と言った。


「任意なら、こちらにも選ぶ権利がある」


 空気がまた変わる。


 低い声だった。脅しではない。怒号でもない。だが、そこにある圧は明確だった。壁にかかった時計の音が、急に遠くなる。


 ルストは警察を力で脅しているわけではない。少なくとも表面上は。ただ、クラウディオを一人でこの白い神殿の中央へ置く気がないのだと、その場にいる全員に伝わった。


 クラウディオは不機嫌そうに言う。


「俺の後見人面をするな」


「していない」


「では何だ」


 ルストは答えなかった。


 ほんの一瞬、言葉が喉の奥で止まる気配があった。


 伴侶。


 そう言いかけたようにも見えた。


 だが、ルストは言わなかった。クラウディオもそれを追及しなかった。追及すれば、自分の方も逃げ道を失うと分かっているからだ。


 この二人、本当に説明責任という概念を窓から投げ捨てている。窓がない会議室でよかった。あればまた人類の施設管理に被害が出ていた。


 管理官は不満を押し殺し、再び資料へ戻った。


「ルジェリウス氏。あなたは被害者である元鑑識官と面識がありますか」


「ない、と言いたいところだが、貴様らの資料によればあることになっているのだろう」


「通信記録上、事件前に接触があったと見られます」


「見られる、か。便利な言い方だな。見たいものがある時に使う言葉だ」


 榊が口を挟む。


「今は確認だ」


「なら確認しろ。俺に罪を着せるための朗読会なら眠るぞ」


 管理官の声が少し硬くなる。


「危険個体としてのあなたの性質を考慮すれば、通常より慎重な対応が必要です」


 クラウディオは笑った。


「危険個体とは便利な言葉だ。魔女より少しだけ近代的だな」


 会議室の空気が凍る。


「呼び名を変えれば、火刑台ではなく管理になるわけか。好きに呼べ。呼び名で俺の中身が変わるわけではない」


 管理官は沈黙した。


 その沈黙の中に、旧欧州の群衆の気配が重なる。ロウェナを見た町人たち。夜見坂教会で誰かの罪が暴かれることを待っていた信徒たち。そして今、科学証拠を盾にしてクラウディオを見る警察庁の人間たち。


 彼らが単純な悪人でないことは分かる。


 証拠がある。

 危険性がある。

 責任がある。

 世間に漏れれば叩かれる。

 逃走や証拠隠滅の危険があると判断する理由もある。


 だからこそ危うい。


 悪意だけで組まれた火刑台なら、まだ分かりやすい。だが善意、責任、手順、正義、危機管理、数値。それらを積み上げて作られた檻は、自分が檻であることを認めない。


 榊は管理官へ向き直った。


「拘束を急ぐべきではありません。現場資料には不自然な点がある。証拠の再確認が必要です」


「現場の判断は尊重します。ただし、上層部としては、危険性を放置する判断はできません」


 澪奈が静かに言った。


「証拠が強いことと、証拠が正しく読まれていることは別です」


「白石研究員」


「今回の現場は、クラウディオさんを示す証拠だけが説明的に残りすぎています。科学的な結果は結果として扱います。ですが、結果がどう並べられたかを見なければ、結論を急ぐことになります」


 管理官は即答しなかった。


 大型モニターには、血液分析の表が映っている。数字の列。照合率。注記。採取場所。管理番号。見慣れた者にとっては意味の塊であり、見慣れぬ者にとっては白い呪文のようなものだ。


 クラウディオはその表を見た。


 ロウェナの裁判記録を思い出す。


 告発者名。

 職業。

 証言。

 教会側の注記。

 没収財産。

 処刑記録。


 形式は違う。

 だが並び方は似ている。


 誰かを燃やす時、人間は必ず表を作るらしい。罪を整理し、署名し、番号を振り、後から見ても正しかったように保管する。悪趣味な整理整頓だ。棚だけは綺麗になる。魂は汚れる一方なのに。


 クラウディオはゆっくりと口を開いた。


「灰の代わりに報告書が残るなら、後世の資料館は楽だろうな」


 榊が小さく舌打ちした。


「冗談に聞こえない」


「冗談ではない」


 ルストはクラウディオの横顔を見た。


 手首の噛み跡は、袖の影に隠れている。だがルストには、その位置が分かっている。昨夜、火刑の夢から戻すために噛んだ場所。クラウディオが怒りながらも隠さなかった痕。旧欧州で「隠す理由がない」と言った傷。


 今、その傷はほとんど消えかけている。


 だが、消えていない。


 ロウェナの記憶も同じだ。


 消えないまま、この白い会議室へ来ている。


 管理官が資料を閉じた。


「現時点で、状況証拠、科学的証拠ともに強い。任意の事情聴取だけで済ませるには、対象者の危険性が高すぎます」


 榊の顔色が変わる。


「まだ再鑑定も終わっていない」


「逃走の可能性があります。証拠への干渉も否定できない」


 ルストの視線が冷えた。


 クラウディオは笑った。


 その笑いは、火刑台の下で動けなかった子どものものではない。だが、あの子どもを完全に捨てた笑いでもなかった。


 管理官は言った。


「事情聴取ではなく、身柄確保が必要では」


 会議室の空気が、一段深く沈んだ。


 澪奈が息を呑む。榊が椅子から半ば立ち上がる。ルストの肩がわずかに動く。警察官たちの視線が、一斉にクラウディオへ集まった。


 クラウディオだけが、ゆっくりと笑みを深めた。


 白い会議室の中で、火の匂いはしなかった。


 それでもクラウディオには、檻の扉が一段近づく音が聞こえた。




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