第78話 科学の神殿
警察庁の庁舎は、火の匂いがしなかった。
それだけで、かえって不気味だった。
旧欧州の教会には、石壁に染みた湿気と、古い蝋と、鐘の音と、何世代も積もった祈りの残骸があった。あの土地では、神の名を口にする声が、時に人を燃やす薪になった。ロウェナ・ミルの名を「魔女」に変えた紙は古く、手触りは脆く、灰の匂いがした。
だが、ここにあるのは白だった。
白い廊下。均一な照明。床に反射する冷たい光。壁の案内板。監視カメラ。カードゲート。無機質な受付。金属探知のゲート。識別証を下げた職員。入館記録を読み取る端末。エレベーターの電子音。静かすぎる空調音。
祈りの声はない。
鐘も鳴らない。
だが、何かに頭を下げる空気だけはある。
クラウディオ・ルジェリウスは、カードゲートの前で足を止め、ゆっくりと庁舎の奥を見た。まっすぐ伸びた白い廊下の先には、また別の扉がある。その向こうにはさらに廊下があり、会議室があり、鑑識資料があり、数値があり、映像があり、表がある。
旧欧州の教会が祈りで人を追い詰めたなら、ここは記録で人を追い詰める。
クラウディオは薄く笑った。
「ここは随分と清潔な教会だな。祈る対象が神から数値に変わっただけか」
受付に立っていた警察庁の職員が、一瞬だけ表情を固めた。榊悠真は横で苦い顔をする。白石澪奈は手元の端末から目を上げ、何か言いかけて、やめた。
ルスト・ヴァルレインだけは動かない。
灰銀の髪も、鋼色の瞳も、警察庁の白い光の中で異物のように浮いていた。彼はクラウディオのすぐ横に立っている。前に出すぎず、後ろにも下がらない。距離は近い。だが、誰もその距離に名前をつけられない。
警察庁の人間たちは、二人の距離感を測りかねている。単なる協力者ではない。だが恋人とも言い切れない。監視者でもなく、保護者でもない。ルストはクラウディオの横に立ち続ける。警察庁の人間たちは、それを止めるべきか、認めるべきか、そもそもどう分類すべきかを判断できずにいる。
人間は、名前を貼れない関係を見ると途端に挙動が悪くなる。分類表から外れた瞬間に迷子になるらしい。文明社会の限界が、こんな白い廊下で露呈するのだから大したものだ。
職員の一人が、ルストへ視線を向けた。
「ええと、ヴァルレイン氏は……」
その先を言えずに止まる。
クラウディオは冷たく見る。
「見るな。珍獣ではない」
職員は口を閉じた。
榊が眉間を押さえる。
「余計に話をややこしくするな」
「俺は事実を訂正しただけだ。貴様らの施設には、視線の教育が足りない」
「視線の教育なんて部署はない」
「作れ。仕事が増えて良かったな」
榊は返事を諦めた。人間として正しい判断である。時には撤退こそ最良の戦術だ。クラウディオ相手なら特に。
金属探知のゲートを通り、カード認証を抜ける。入館記録が端末に残る。識別証が渡される。警備員の視線がクラウディオの顔、手元、隣に立つルストへと動く。
クラウディオの手首には、もう噛み跡がほとんど残っていない。
完全に消えてはいない。
袖口に隠れたり、歩く動きでわずかに見えたりする程度だ。旧欧州のホテルで、火刑の夢から戻された時の痕。ロウェナの記憶に呑まれかけた自分を、ルストが現実へ引き戻した証。本人は相変わらず、そういう面倒な意味を口にはしない。だが消していない。
白い警察庁の廊下で、その薄い痕だけが、冷たい数値では拾えないものとして残っていた。
エレベーターの扉が開く。
内部もまた白に近い灰色だった。磨かれた金属の壁に、クラウディオとルストの姿がぼんやり映る。榊、澪奈、警察庁の職員。誰も余計なことを言わない。
電子音が鳴る。
旧欧州の鐘に比べれば、軽すぎる音だった。
それでも、クラウディオの瞼が一度だけ細く動いた。
ルストは気づいた。
何も言わない。
扉が開く。
会議室は、窓がなかった。
透明な仕切り、白い壁、長机、複数の資料端末、壁面の大型モニター。隅には番号管理された証拠品のケースが置かれ、封緘された袋には管理番号が貼られている。祭壇の代わりに会議机があり、聖遺物の代わりに証拠品が並ぶ。祈祷文の代わりに鑑定報告書。神託の代わりにDNA照合。聖歌の代わりに電子音。
ここでは誰も祈らない。
それでも、数字の前で人は頭を下げる。数値は神ではない。だが、神のように扱う人間がいれば、そこは神殿になる。
クラウディオは椅子に座る前に、会議室を見渡した。
「祭壇の代わりに会議机か。聖歌の代わりに電子音とは、趣に欠けるな」
榊が息を吐く。
「ここは教会じゃない」
「分かっている。教会より清潔で、教会より退屈だ」
「退屈で悪かったな」
「悪いと思うなら内装くらいどうにかしろ。白すぎる。人間は罪を隠す時ほど白を使いたがる」
警察庁側の管理職らしき男が、机の向こうで眉をひそめた。
五十代ほどの男だった。背広に皺はなく、声を荒げる気配もない。感情よりも手順を先に置く種類の人間に見えた。彼の前には資料端末があり、そこには今回の元鑑識官死亡事件に関する資料が並んでいる。
男は名乗った。警察庁刑事局の管理官だという。名前は告げられたが、クラウディオは覚える気がない顔をしていた。人間の管理職の名前など、だいたい後で別の似たような人間が出てきて上書きされる。便利な消耗品めいた存在である。
管理官は淡々と口を開いた。
「本日は任意での事情聴取にご協力いただきます」
クラウディオは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
「任意とは便利な言葉だ。首輪に花飾りをつけるようなものだな」
管理官の目がわずかに冷える。
「我々は手続きに従っています」
「そうだろうな。火刑台にも手順はあった」
榊が低く言う。
「クラウディオ」
「事実だ」
クラウディオは涼しい顔で返した。
管理官は反応を抑え、端末を操作した。会議室のモニターに資料が映し出される。
警察庁の会議室では、鑑識資料、監視映像、血液分析、DNA照合、位置情報、通話履歴が並べられる。どれもクラウディオの犯行を示しているように見える。
マンション玄関の監視映像。
エレベーター内の静止画。
被害者宅の血痕分布図。
血液分析の結果。
DNA照合表。
通信記録。
位置情報ログ。
靴跡写真。
繊維片の分析表。
人形の破片の写真。
皮膚片の検出結果。
被害者の勤務記録。
そして、クラウディオとの接点らしきデータ。
それらは整然としていた。
あまりにも整然としていた。
証拠は、まっすぐクラウディオへ向かっている。まるで、迷子にならないよう矢印でも置かれているかのように。
澪奈は資料を見ながら、静かに言った。
「分析結果だけなら、かなり強いです。ですが、強すぎます。現場に残るべきノイズが少なすぎる。クラウディオさんを示す証拠が、あまりにも説明的です」
管理官が澪奈を見る。
「白石研究員。あなたは警察庁側の分析結果に異議を唱えるのですか」
「異議ではありません。確認が必要だと言っています」
「結果は出ています」
「科学は結果を出します。でも、結果がどう作られたかを見なければいけません」
会議室の空気が硬くなった。
澪奈は逃げなかった。
彼女は科学を否定していない。むしろ、科学を信じている。だからこそ、都合よく並んだ結果に違和感を覚えている。科学が出すものは大事だ。だが、科学を扱う人間が、どのような前提で何を取り、何を切り捨てたのか。それを見なければ、白い紙は簡単に火をつける。
クラウディオは澪奈を見て、口元を歪めた。
「科学の巫女にしては、まともなことを言う」
「巫女ではありません。科捜研です」
「では科捜研の巫女だな」
「悪化しました」
「語感は良い」
「よくありません」
榊は苦い顔をしていた。
榊は科学捜査を否定しているわけではない。むしろ証拠は必要だ。証拠なしで人を疑えば、ただの魔女狩りになる。人の噂、感情、憎悪、恐怖。それだけで人を裁けば、旧欧州でロウェナを燃やした連中と何も変わらない。
だが今回の証拠は、正しすぎる。その正しさが、かえって不気味だった。
「証拠は必要だ」
榊は言った。
「証拠なしで人を疑えば、ただの魔女狩りになる。だが、これは……整いすぎている」
クラウディオが榊を見る。
「進歩したな、榊。証拠を拝まなくなった」
「お前に褒められると腹が立つ」
「なら良い。腹が立つうちは、まだ拝んでいない」
榊は言葉に詰まった。
管理官が端末に視線を落とす。
「正しすぎるという印象だけで、科学的証拠を退けることはできません。監視映像、位置情報、通話履歴、血液分析、DNA照合、皮膚片、指紋、靴跡、繊維片、人形の破片。すべてがルジェリウス氏を指しています」
「随分と勤勉な証拠だ」
クラウディオは画面を見たまま言った。
「持ち主より働いている。涙ぐましいな」
「ふざけている場合ではありません」
「ふざけてなどいない。あまりに真面目な檻に感心しているだけだ」
クラウディオは資料を見ても怯まない。ただし内心では、旧欧州で見た魔女狩り記録と重ねている。
ロウェナ・ミルは、証言と噂と教会の記録によって燃やされた。
告発者たちは口を揃えた。
教会は記録した。
町は安心した。
そして一人の菓子職人は「魔女」になった。
今のクラウディオは、映像と血痕と数値によって閉じ込められようとしている。
マンションの映像。
床の血痕。
DNA照合の表。
通話履歴。
位置情報。
人形の破片。
科学的に正しい顔をした資料たち。
かつてロウェナは、証言と噂と教会の記録によって燃やされた。今の自分は、映像と血痕と数値によって閉じ込められようとしている。形が変わっただけで、人間は同じことをしている。
クラウディオの脳裏に、焼け残った手紙の断片が過る。
あの子は悪魔ではありません。
お腹を空かせていただけです。
どうか、あの子に罪を着せないで。
今度は、誰が書くのだろう。
クラウディオ・ルジェリウスは犯人ではありません、と。
誰も書かないだろう。
だから、檻の出来を見てやると言ったのだ。
クラウディオは笑う。
「証言が映像に変わり、噂が数値に変わっただけか。火刑台は白くなったな」
管理官の目が細くなる。
「あなたは自分に向けられた証拠を、すべて作為だと主張するのですか」
「すべてとは言っていない。だが、綺麗に並んだものほど疑え。人間は部屋の掃除も満足にできないくせに、罪を並べる時だけ妙に几帳面になる」
「侮辱ですか」
「観察だ」
ルストが、クラウディオの横に立ったまま言った。
「証拠が多すぎる」
管理官はルストへ視線を移す。
「あなたの立場は」
ルストは答えない。
クラウディオが横目で見た。
「聞かれているぞ」
「必要ない」
「説明を放棄するな。場が面倒になる」
「既に面倒だ」
「それはそうだ」
榊が咳払いした。
「ヴァルレイン氏は、これまでの怪異関連捜査における協力者だ」
管理官の視線は鋭いままだった。
「協力者が容疑者の隣に立ち続ける必要がありますか」
ルストは淡々と言った。
「任意なら、こちらにも選ぶ権利がある」
空気がまた変わる。
低い声だった。脅しではない。怒号でもない。だが、そこにある圧は明確だった。壁にかかった時計の音が、急に遠くなる。
ルストは警察を力で脅しているわけではない。少なくとも表面上は。ただ、クラウディオを一人でこの白い神殿の中央へ置く気がないのだと、その場にいる全員に伝わった。
クラウディオは不機嫌そうに言う。
「俺の後見人面をするな」
「していない」
「では何だ」
ルストは答えなかった。
ほんの一瞬、言葉が喉の奥で止まる気配があった。
伴侶。
そう言いかけたようにも見えた。
だが、ルストは言わなかった。クラウディオもそれを追及しなかった。追及すれば、自分の方も逃げ道を失うと分かっているからだ。
この二人、本当に説明責任という概念を窓から投げ捨てている。窓がない会議室でよかった。あればまた人類の施設管理に被害が出ていた。
管理官は不満を押し殺し、再び資料へ戻った。
「ルジェリウス氏。あなたは被害者である元鑑識官と面識がありますか」
「ない、と言いたいところだが、貴様らの資料によればあることになっているのだろう」
「通信記録上、事件前に接触があったと見られます」
「見られる、か。便利な言い方だな。見たいものがある時に使う言葉だ」
榊が口を挟む。
「今は確認だ」
「なら確認しろ。俺に罪を着せるための朗読会なら眠るぞ」
管理官の声が少し硬くなる。
「危険個体としてのあなたの性質を考慮すれば、通常より慎重な対応が必要です」
クラウディオは笑った。
「危険個体とは便利な言葉だ。魔女より少しだけ近代的だな」
会議室の空気が凍る。
「呼び名を変えれば、火刑台ではなく管理になるわけか。好きに呼べ。呼び名で俺の中身が変わるわけではない」
管理官は沈黙した。
その沈黙の中に、旧欧州の群衆の気配が重なる。ロウェナを見た町人たち。夜見坂教会で誰かの罪が暴かれることを待っていた信徒たち。そして今、科学証拠を盾にしてクラウディオを見る警察庁の人間たち。
彼らが単純な悪人でないことは分かる。
証拠がある。
危険性がある。
責任がある。
世間に漏れれば叩かれる。
逃走や証拠隠滅の危険があると判断する理由もある。
だからこそ危うい。
悪意だけで組まれた火刑台なら、まだ分かりやすい。だが善意、責任、手順、正義、危機管理、数値。それらを積み上げて作られた檻は、自分が檻であることを認めない。
榊は管理官へ向き直った。
「拘束を急ぐべきではありません。現場資料には不自然な点がある。証拠の再確認が必要です」
「現場の判断は尊重します。ただし、上層部としては、危険性を放置する判断はできません」
澪奈が静かに言った。
「証拠が強いことと、証拠が正しく読まれていることは別です」
「白石研究員」
「今回の現場は、クラウディオさんを示す証拠だけが説明的に残りすぎています。科学的な結果は結果として扱います。ですが、結果がどう並べられたかを見なければ、結論を急ぐことになります」
管理官は即答しなかった。
大型モニターには、血液分析の表が映っている。数字の列。照合率。注記。採取場所。管理番号。見慣れた者にとっては意味の塊であり、見慣れぬ者にとっては白い呪文のようなものだ。
クラウディオはその表を見た。
ロウェナの裁判記録を思い出す。
告発者名。
職業。
証言。
教会側の注記。
没収財産。
処刑記録。
形式は違う。
だが並び方は似ている。
誰かを燃やす時、人間は必ず表を作るらしい。罪を整理し、署名し、番号を振り、後から見ても正しかったように保管する。悪趣味な整理整頓だ。棚だけは綺麗になる。魂は汚れる一方なのに。
クラウディオはゆっくりと口を開いた。
「灰の代わりに報告書が残るなら、後世の資料館は楽だろうな」
榊が小さく舌打ちした。
「冗談に聞こえない」
「冗談ではない」
ルストはクラウディオの横顔を見た。
手首の噛み跡は、袖の影に隠れている。だがルストには、その位置が分かっている。昨夜、火刑の夢から戻すために噛んだ場所。クラウディオが怒りながらも隠さなかった痕。旧欧州で「隠す理由がない」と言った傷。
今、その傷はほとんど消えかけている。
だが、消えていない。
ロウェナの記憶も同じだ。
消えないまま、この白い会議室へ来ている。
管理官が資料を閉じた。
「現時点で、状況証拠、科学的証拠ともに強い。任意の事情聴取だけで済ませるには、対象者の危険性が高すぎます」
榊の顔色が変わる。
「まだ再鑑定も終わっていない」
「逃走の可能性があります。証拠への干渉も否定できない」
ルストの視線が冷えた。
クラウディオは笑った。
その笑いは、火刑台の下で動けなかった子どものものではない。だが、あの子どもを完全に捨てた笑いでもなかった。
管理官は言った。
「事情聴取ではなく、身柄確保が必要では」
会議室の空気が、一段深く沈んだ。
澪奈が息を呑む。榊が椅子から半ば立ち上がる。ルストの肩がわずかに動く。警察官たちの視線が、一斉にクラウディオへ集まった。
クラウディオだけが、ゆっくりと笑みを深めた。
白い会議室の中で、火の匂いはしなかった。
それでもクラウディオには、檻の扉が一段近づく音が聞こえた。




