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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第6部 【科学捜査の檻】

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第77話 血痕の人形



 会議室の空気は、紙の匂いを帯びていた。


 旧欧州から持ち帰った資料の匂いではない。あれはもっと古く、湿り、灰と革と黴の気配を混ぜたものだった。ここにあるのは、日本の警察組織が吐き出す白い紙の匂いである。均質で、清潔で、無表情で、誰かを閉じ込めるためによく乾いている。


 クラウディオ・ルジェリウスは、長机の端に座っていた。


 前には、警察庁側から送られてきた捜査資料の写しが並んでいる。死亡した元鑑識官の自宅マンション。玄関の監視カメラ。エレベーター記録。血痕。指紋。靴跡。繊維片。通信記録。血液反応。皮膚片。監視映像。どれも、あまりにも行儀よく同じ方向を向いていた。


 すべてがクラウディオへ向いている。


 火刑台ならば、薪を運ぶ手が多すぎる。教会ならば、祈る声が揃いすぎる。科学捜査ならば、証拠が綺麗すぎる。


 人間は本当に、時代が変わっても火を組む癖だけは捨てない。もはや伝統芸能だ。滅びろとは言わないが、せめて品評会を開くな。


 榊悠真は端末を操作し、現場写真を一枚ずつ投影した。白い壁。整った家具。血の跡。倒れた椅子。割れていないグラス。争った形跡の少ない部屋。生活の痕跡はあるのに、事件の痕跡だけが妙に明瞭だった。


 白石澪奈は、会議室の反対側で資料を開いている。科捜研の立場から送られてきた数値、警察庁側の初期分析、現場写真の照合。彼女の眉間には、普段より深い皺が寄っていた。


 ルスト・ヴァルレインは黙って立っていた。


 彼の視線は写真にある。だが、見ているのは写真だけではなかった。血の気配、残り方、写り込むものの重さ。科学の報告書が拾えない部分を、彼は別の感覚で読んでいる。


 クラウディオは、ただ冷ややかに画面を見ていた。


 その手首には、まだ薄い噛み跡が残っている。


 第70話の夜、火刑の夢から現実へ引き戻された証。本人はもちろんそんな言葉では認めない。だが消していない。隠してもいない。袖口から覗くその痕は、白い警察資料の前で、妙に生々しい現在の印だった。


 榊が次の画像を出した。


 床の血痕近くに、小さなものが落ちている。


 白っぽい破片だった。


 人形の一部。


 死亡した元鑑識官の部屋には、小さな人形の破片が落ちていた。それはクラウディオの工房《箱庭》で使われている素材と酷似しており、表面には微量の血液が付着していた。


 破片は、細い指の一部に見えた。


 人間の指ではない。人形の指。関節の途中から折れ、白い芯材と薄い塗装の層が見えている。血液は表面の溝にわずかに入り込み、古い白に赤を沈ませていた。破断面は乾き、現場写真の強い光の下で、妙に説明的に浮かび上がっている。


 榊が言った。


「現場に落ちていた人形の破片だ。警察庁側の初期報告では、お前の工房《箱庭》で使われる素材と酷似しているとされている。表面には被害者の血液が微量に付着している」


 クラウディオは画面を見た。


 ほんの一瞥だった。


「雑だ」


 榊の眉が動く。


「まだ詳しい資料は全部出ていない」


「写真だけで十分だ。雑だと言った」


 クラウディオの声は、怒鳴っていない。むしろ冷たかった。侮蔑が薄い刃のように整っている。


 榊は端末を止めた。


「この破片に、見覚えはあるか」


 クラウディオは目を細めた。


「俺の人形ではない。俺の真似をした、見苦しい死骸だ」


 会議室が静まった。


 人形の破片。


 ただの証拠品としてなら、それは小さな欠片にすぎない。だが、クラウディオにとって人形はただの小道具ではない。


 本人にとって、人形は記憶や喪失を閉じ込める器であり、ただの小道具ではない。犯人が置いた破片は、彼の技法をなぞっているようで、根本が違っていた。


 ロウェナに似た女を作っては壊してきた反復。

 失ったものを固定しようとする執着。

 形にすれば残せるのではないかという、救いにも呪いにもならない行為。


 クラウディオの人形は美術品でも玩具でもない。喪失に輪郭を与えるための器だった。人に見せるための飾りではなく、ましてや殺人現場を彩る記号でもない。


 だからこそ、写真の破片は不快だった。


 素材を似せている。

 形をなぞっている。

 表面だけを借りている。


 だが、内側がない。


「指の重心が違う」


 クラウディオは言った。


「関節の呼吸が死んでいる。塗装が浅い。素材だけ似せても、人形にはならん」


 澪奈が画面を拡大した。


「写真の範囲で、そこまで分かるんですか」


「分からないなら人形師を名乗るな。まあ、俺以外が名乗ったところで大抵は猿真似だが」


「いつも通りの失礼さで少し安心しました」


「安心する場所を間違えているぞ、人間」


 榊が低く言う。


「報告書では、《箱庭》の制作物に使われる素材と一致に近いとされている。工房の過去記録、展示品、流通経路、押収済み資料と照合しても矛盾がない」


「矛盾しないように作ったのだろう」


「断定はできない」


「なら断定するな。警察の言葉はいつも重い。重いくせに、時々ひどく軽率だ」


 澪奈は端末を確認しながら、静かに口を開いた。


「成分だけ見れば、かなり近いです。工房《箱庭》で記録されている素材と矛盾しません。接着剤の系統も近い。表面処理も、報告書上は一致に近い扱いになります。血液の付着状態も、現場の流れとしては説明できてしまう」


 クラウディオの目が冷えた。


「説明できてしまう、か」


「はい。ただ……近すぎます」


 榊が澪奈を見る。


「近すぎる?」


 澪奈は頷いた。


「しかし科学的には、その差は証明しづらい。素材の成分、研磨痕、使用された接着剤の系統、血液の付着状態まで、クラウディオの工房と矛盾しないように作られている」


 彼女はそこで一度、言葉を切った。


「けれど、綺麗すぎます」


 その声には、科捜研の人間としての苛立ちが混じっていた。


「現場というより、教材のようです」


 榊の表情がさらに険しくなる。


 澪奈は画面上の写真をいくつか並べた。


「通常、現場には誤差やノイズが残ります。人間が動けば、痕跡は乱れる。血痕も、繊維も、指紋も、現場の湿度や生活痕、被害者の動き、第三者の過去の出入りで揺らぎます。生活していた部屋なら、なおさらです」


 彼女の指が、床の写真を示す。


「なのに今回の現場は、まるで教科書に載せるために作られたように整っている。クラウディオさんを指す証拠だけが、都合よく残りすぎています」


「教科書とはまた皮肉だな」


 クラウディオが薄く笑う。


「犯罪捜査入門、犯人を仕立てる章か」


「そういう意味ではありません」


「分かっている。だから嫌味で返した」


 澪奈はほんの少しだけ眉を下げた。


「科学は、結果だけを出します。そこに意図があるかどうかは、人間が見なければ分かりません」


「科学は耳を貸しません。だから人間が確認する必要があります」


 クラウディオは澪奈を見た。


 その視線には、いつもの侮蔑がわずかに薄い。


「見込みはあるな」


「褒めてます?」


「人間の中では比較的まともだと言っている」


「褒め方も鑑識不能です」


 榊は端末を見下ろしたまま、低く言った。


「証拠だけ見れば、お前だ」


 クラウディオは笑わなかった。


「そうだろうな」


「だが、ここまで綺麗に揃うと、逆に気持ちが悪い。疑う理由が感覚だけなら弱い。だが、その感覚を無視すると、また誰かを燃やすことになる」


 その言葉は、第59話でクラウディオが榊へ突きつけた忠告の反響だった。


 信仰も科学も、信じすぎれば同じだ。

 証拠は見るものだ。拝むものじゃない。

 信じるな。確認しろ。


 榊は警察官だ。科学証拠を軽んじることはできない。軽んじれば、捜査は祈祷会に成り下がる。だが、証拠を拝み始めれば、それもまた火刑台になる。


 この男がその間で苦い顔をしていること自体は、悪くなかった。人間にしては、だが。


 ルストは写真を黙って見ていた。


 彼は人形の破片へ視線を落とす。


 白い破片。血痕。塗装。割れた関節。写真に映るものは、どれも科学が扱える表面だった。


 だが、その表面の奥に、微かなものが残っている。


 血術の残滓。


 ルストは、血の残り香を読むように目を細めた。


 人形の破片には、普通の血痕とは別に、微かな血術の残滓がある。だがそれはクラウディオのものに似せられているだけで、本人の癖とは違う。


「似せている」


 ルストが言った。


 クラウディオが横目で見る。


「何を」


「血の癖だ」


 榊が顔を上げた。


「血の癖?」


 クラウディオは冷笑する。


「科学の部屋で言うと嫌な顔をされるぞ」


 澪奈は真面目な顔で答えた。


「嫌な顔はしますが、聞きます」


「律儀だな。面倒な方向に」


 ルストは写真から視線を外さない。


「形だけだ。血の残し方が違う」


「ほう。俺の血に詳しいな、灰銀」


 クラウディオの声に、軽い刺が混じる。


 ルストは静かに返した。


「詳しい」


 クラウディオは不機嫌そうに目を細めた。


「開き直るな」


「事実だ」


「事実で人を殴るな」


「お前がよくやる」


「俺はいい」


「そうか」


「納得するな。腹が立つ」


 榊が眉間を押さえた。こんな状況で痴話喧嘩じみた応酬を始める吸血鬼たち、本当に警察の胃に悪い。労災申請が通ってもいい。


 澪奈はそれでも真面目に問う。


「血の癖というのは、科学的な数値では拾えないものですか」


「拾えない」


 ルストは即答した。


「血術の流れだ。形だけなら似せられる。だが呼吸が違う。流れが平坦すぎる。本人なら残るはずの強さがない」


「強さ?」


 澪奈が聞き返す。


 ルストはわずかにクラウディオを見た。


「傲慢なほどの支配感」


「おい」


 クラウディオの声が低くなる。


「褒めている」


「それを褒め言葉として提出する神経が気に入らん」


「事実だ」


「また事実で殴ったな」


 ルストは動じない。


「模倣された署名に近い。形は似ているが、筆圧が違う」


 澪奈はすぐにメモを取った。


「科学的な証拠にはしづらいですが、違和感の方向は分かりました。血術の残滓は、クラウディオさん本人のものに似せられているが、流れが違う。署名の模倣のようなもの」


「そのまま報告書に書けば、上が卒倒するぞ」


 クラウディオが言う。


「書き方は考えます」


「偉いな。人間のくせに」


「それ、褒めてないですよね」


「学習したな」


 榊は写真を見ながら言った。


「問題は、正式な証拠として扱えるものが強すぎることだ。素材、血液、映像、通信記録、指紋、靴跡、繊維片。そこへ人形の破片が重なる。上はこれを見れば動く」


「もう動いているだろう」


 クラウディオの声は冷たかった。


 榊は答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 クラウディオは画面に映る人形の破片を見た。


「人形を証拠品へ落とすな」


 その一言は、先ほどまでの皮肉とは違っていた。


 低く、鋭く、不快が濃い。


「人形を現場装飾に使うな。喪失の形すら知らん者が、よくもまあ俺の真似をしたものだ。これは死骸だ。人形ですらない」


 彼にとって、人形は記憶を閉じる器だった。


 ロウェナに似た人形を作っては壊してきた。失ったものを固定しようとして、どれだけ精巧に作っても本物には届かない。その反復の中で、人形は彼の喪失に形を与えてきた。


 犯人は、その表面だけを借りた。


 クラウディオが人形師であること。

 《箱庭》が人形工房であること。

 人形の破片があれば、見る者がクラウディオを連想すること。


 それだけを使った。


 旧欧州でロウェナの焼き菓子が「魔女の軟膏」にされたように。

 夜見坂教会で少女の祈りが告発の台本にされたように。

 今度はクラウディオの人形が、殺人犯の署名にされている。


 形を奪われ、意味を着せ替えられる。


 火刑台の手口は、いつでも器用に現代へ適応する。


 榊の端末が震えた。


 彼は画面を確認し、表情を険しくした。


「警察庁側から追加連絡だ」


 澪奈も自分の端末を確認する。


「こちらにも来ています」


 会議室の空気が、また一段冷える。


 警察庁内部で「クラウディオ拘束」の準備が進んでいることが示される。証拠が完璧すぎるせいで、現場の刑事たちよりも上層部の方が先に動き始めている。


 榊は文面を読み、奥歯を噛んだ。


「任意同行から、必要に応じた身柄確保へ切り替える準備が進んでいる」


 澪奈が小さく言う。


「早すぎます」


「証拠が強すぎるんだ」


 榊の声は苦い。


「上は危険個体として見ている。吸血鬼で、人形師で、過去の怪異事件にも関わっている。そこへ元鑑識官の失血死と、これだけの証拠だ。現場の違和感より、数値と映像と危険性が先に走っている」


 クラウディオは笑った。


「早いな。証拠が歩くより先に檻が走る」


 ルストの気配が冷たくなる。


「触らせない」


 榊が鋭く見る。


「ルスト」


 クラウディオは片手を上げた。


「お前が暴れれば、俺の罪状が増えるだけだ」


「触らせないと言った」


「耳はある。だから聞こえている。問題は、お前の語彙が物騒すぎることだ」


「事実だ」


「今日の貴様は事実で殴りすぎだ。品がない」


 ルストはクラウディオを見た。


「なら、檻に入る前に壊す」


「馬鹿が。檻に触る前に設計図を見ろ」


 クラウディオは端末へ視線を戻す。


「これは、俺を捕まえるための証拠だけではない。警察に証拠を信じさせるための証拠だ。科学に従っている顔をした火刑台だ。ここで力任せに壊せば、向こうの望み通りになる」


 榊は低く言った。


「……お前がそれを言うのか」


「俺は愚か者ではない。気分が悪いだけだ」


 クラウディオの指が、薄く残った手首の噛み跡に触れた。


 一瞬だけ。


 そこには昨夜の痛みが、まだかすかに残っている。

 火刑の夢から戻された証。

 ロウェナの記憶をなかったことにしないために、完全には消さなかった傷。


 今度の檻は、火ではなく証拠でできている。


 だが、クラウディオはもう、火刑台の下で動けなかった子どもだけではない。


 榊は端末を置いた。


「現場資料の追加開示を要求する。人形の破片も、可能ならこちらで再確認する。澪奈、警察庁側の数値を全部洗い直せ。素材、血液、皮膚片、繊維片、通信記録。矛盾がないように見えるなら、矛盾がないように見せている可能性を探る」


「分かりました」


 澪奈はすぐに作業へ戻った。


「科学は耳を貸しません。だから人間が確認する必要があります」


 クラウディオは薄く笑った。


「その言葉、忘れるなよ。忘れた瞬間、お前の白衣も神官服と変わらん」


「嫌な例えですね」


「有用だろう」


「不愉快なほど」


「なら覚える」


 ルストはまだ写真を見ていた。


 人形の破片。

 血痕。

 白い床。

 整いすぎた現場。


 彼の目は、そこに仕掛けられた何かを追っている。


 クラウディオは椅子にもたれ、静かに息を吐いた。


「人形を証拠品へ落とすな」


 もう一度、低く言った。


 その声は、事件のためだけの怒りではなかった。


 ロウェナの記憶。焼け残った手紙。石窯の冷たさ。手首の噛み跡。喪失を形にしてきた人形。すべてが、血の付いた小さな破片の写真に重なっていた。


 白い紙に印刷された捜査資料は、会議室の光の下で静かに並んでいる。


 そのどれもが正しそうな顔をしていた。


 正しそうなものほど、人を焼く時に便利だ。


 現場が迷っている間に、上はもうクラウディオを閉じ込める準備を始めていた。



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