第77話 血痕の人形
会議室の空気は、紙の匂いを帯びていた。
旧欧州から持ち帰った資料の匂いではない。あれはもっと古く、湿り、灰と革と黴の気配を混ぜたものだった。ここにあるのは、日本の警察組織が吐き出す白い紙の匂いである。均質で、清潔で、無表情で、誰かを閉じ込めるためによく乾いている。
クラウディオ・ルジェリウスは、長机の端に座っていた。
前には、警察庁側から送られてきた捜査資料の写しが並んでいる。死亡した元鑑識官の自宅マンション。玄関の監視カメラ。エレベーター記録。血痕。指紋。靴跡。繊維片。通信記録。血液反応。皮膚片。監視映像。どれも、あまりにも行儀よく同じ方向を向いていた。
すべてがクラウディオへ向いている。
火刑台ならば、薪を運ぶ手が多すぎる。教会ならば、祈る声が揃いすぎる。科学捜査ならば、証拠が綺麗すぎる。
人間は本当に、時代が変わっても火を組む癖だけは捨てない。もはや伝統芸能だ。滅びろとは言わないが、せめて品評会を開くな。
榊悠真は端末を操作し、現場写真を一枚ずつ投影した。白い壁。整った家具。血の跡。倒れた椅子。割れていないグラス。争った形跡の少ない部屋。生活の痕跡はあるのに、事件の痕跡だけが妙に明瞭だった。
白石澪奈は、会議室の反対側で資料を開いている。科捜研の立場から送られてきた数値、警察庁側の初期分析、現場写真の照合。彼女の眉間には、普段より深い皺が寄っていた。
ルスト・ヴァルレインは黙って立っていた。
彼の視線は写真にある。だが、見ているのは写真だけではなかった。血の気配、残り方、写り込むものの重さ。科学の報告書が拾えない部分を、彼は別の感覚で読んでいる。
クラウディオは、ただ冷ややかに画面を見ていた。
その手首には、まだ薄い噛み跡が残っている。
第70話の夜、火刑の夢から現実へ引き戻された証。本人はもちろんそんな言葉では認めない。だが消していない。隠してもいない。袖口から覗くその痕は、白い警察資料の前で、妙に生々しい現在の印だった。
榊が次の画像を出した。
床の血痕近くに、小さなものが落ちている。
白っぽい破片だった。
人形の一部。
死亡した元鑑識官の部屋には、小さな人形の破片が落ちていた。それはクラウディオの工房《箱庭》で使われている素材と酷似しており、表面には微量の血液が付着していた。
破片は、細い指の一部に見えた。
人間の指ではない。人形の指。関節の途中から折れ、白い芯材と薄い塗装の層が見えている。血液は表面の溝にわずかに入り込み、古い白に赤を沈ませていた。破断面は乾き、現場写真の強い光の下で、妙に説明的に浮かび上がっている。
榊が言った。
「現場に落ちていた人形の破片だ。警察庁側の初期報告では、お前の工房《箱庭》で使われる素材と酷似しているとされている。表面には被害者の血液が微量に付着している」
クラウディオは画面を見た。
ほんの一瞥だった。
「雑だ」
榊の眉が動く。
「まだ詳しい資料は全部出ていない」
「写真だけで十分だ。雑だと言った」
クラウディオの声は、怒鳴っていない。むしろ冷たかった。侮蔑が薄い刃のように整っている。
榊は端末を止めた。
「この破片に、見覚えはあるか」
クラウディオは目を細めた。
「俺の人形ではない。俺の真似をした、見苦しい死骸だ」
会議室が静まった。
人形の破片。
ただの証拠品としてなら、それは小さな欠片にすぎない。だが、クラウディオにとって人形はただの小道具ではない。
本人にとって、人形は記憶や喪失を閉じ込める器であり、ただの小道具ではない。犯人が置いた破片は、彼の技法をなぞっているようで、根本が違っていた。
ロウェナに似た女を作っては壊してきた反復。
失ったものを固定しようとする執着。
形にすれば残せるのではないかという、救いにも呪いにもならない行為。
クラウディオの人形は美術品でも玩具でもない。喪失に輪郭を与えるための器だった。人に見せるための飾りではなく、ましてや殺人現場を彩る記号でもない。
だからこそ、写真の破片は不快だった。
素材を似せている。
形をなぞっている。
表面だけを借りている。
だが、内側がない。
「指の重心が違う」
クラウディオは言った。
「関節の呼吸が死んでいる。塗装が浅い。素材だけ似せても、人形にはならん」
澪奈が画面を拡大した。
「写真の範囲で、そこまで分かるんですか」
「分からないなら人形師を名乗るな。まあ、俺以外が名乗ったところで大抵は猿真似だが」
「いつも通りの失礼さで少し安心しました」
「安心する場所を間違えているぞ、人間」
榊が低く言う。
「報告書では、《箱庭》の制作物に使われる素材と一致に近いとされている。工房の過去記録、展示品、流通経路、押収済み資料と照合しても矛盾がない」
「矛盾しないように作ったのだろう」
「断定はできない」
「なら断定するな。警察の言葉はいつも重い。重いくせに、時々ひどく軽率だ」
澪奈は端末を確認しながら、静かに口を開いた。
「成分だけ見れば、かなり近いです。工房《箱庭》で記録されている素材と矛盾しません。接着剤の系統も近い。表面処理も、報告書上は一致に近い扱いになります。血液の付着状態も、現場の流れとしては説明できてしまう」
クラウディオの目が冷えた。
「説明できてしまう、か」
「はい。ただ……近すぎます」
榊が澪奈を見る。
「近すぎる?」
澪奈は頷いた。
「しかし科学的には、その差は証明しづらい。素材の成分、研磨痕、使用された接着剤の系統、血液の付着状態まで、クラウディオの工房と矛盾しないように作られている」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「けれど、綺麗すぎます」
その声には、科捜研の人間としての苛立ちが混じっていた。
「現場というより、教材のようです」
榊の表情がさらに険しくなる。
澪奈は画面上の写真をいくつか並べた。
「通常、現場には誤差やノイズが残ります。人間が動けば、痕跡は乱れる。血痕も、繊維も、指紋も、現場の湿度や生活痕、被害者の動き、第三者の過去の出入りで揺らぎます。生活していた部屋なら、なおさらです」
彼女の指が、床の写真を示す。
「なのに今回の現場は、まるで教科書に載せるために作られたように整っている。クラウディオさんを指す証拠だけが、都合よく残りすぎています」
「教科書とはまた皮肉だな」
クラウディオが薄く笑う。
「犯罪捜査入門、犯人を仕立てる章か」
「そういう意味ではありません」
「分かっている。だから嫌味で返した」
澪奈はほんの少しだけ眉を下げた。
「科学は、結果だけを出します。そこに意図があるかどうかは、人間が見なければ分かりません」
「科学は耳を貸しません。だから人間が確認する必要があります」
クラウディオは澪奈を見た。
その視線には、いつもの侮蔑がわずかに薄い。
「見込みはあるな」
「褒めてます?」
「人間の中では比較的まともだと言っている」
「褒め方も鑑識不能です」
榊は端末を見下ろしたまま、低く言った。
「証拠だけ見れば、お前だ」
クラウディオは笑わなかった。
「そうだろうな」
「だが、ここまで綺麗に揃うと、逆に気持ちが悪い。疑う理由が感覚だけなら弱い。だが、その感覚を無視すると、また誰かを燃やすことになる」
その言葉は、第59話でクラウディオが榊へ突きつけた忠告の反響だった。
信仰も科学も、信じすぎれば同じだ。
証拠は見るものだ。拝むものじゃない。
信じるな。確認しろ。
榊は警察官だ。科学証拠を軽んじることはできない。軽んじれば、捜査は祈祷会に成り下がる。だが、証拠を拝み始めれば、それもまた火刑台になる。
この男がその間で苦い顔をしていること自体は、悪くなかった。人間にしては、だが。
ルストは写真を黙って見ていた。
彼は人形の破片へ視線を落とす。
白い破片。血痕。塗装。割れた関節。写真に映るものは、どれも科学が扱える表面だった。
だが、その表面の奥に、微かなものが残っている。
血術の残滓。
ルストは、血の残り香を読むように目を細めた。
人形の破片には、普通の血痕とは別に、微かな血術の残滓がある。だがそれはクラウディオのものに似せられているだけで、本人の癖とは違う。
「似せている」
ルストが言った。
クラウディオが横目で見る。
「何を」
「血の癖だ」
榊が顔を上げた。
「血の癖?」
クラウディオは冷笑する。
「科学の部屋で言うと嫌な顔をされるぞ」
澪奈は真面目な顔で答えた。
「嫌な顔はしますが、聞きます」
「律儀だな。面倒な方向に」
ルストは写真から視線を外さない。
「形だけだ。血の残し方が違う」
「ほう。俺の血に詳しいな、灰銀」
クラウディオの声に、軽い刺が混じる。
ルストは静かに返した。
「詳しい」
クラウディオは不機嫌そうに目を細めた。
「開き直るな」
「事実だ」
「事実で人を殴るな」
「お前がよくやる」
「俺はいい」
「そうか」
「納得するな。腹が立つ」
榊が眉間を押さえた。こんな状況で痴話喧嘩じみた応酬を始める吸血鬼たち、本当に警察の胃に悪い。労災申請が通ってもいい。
澪奈はそれでも真面目に問う。
「血の癖というのは、科学的な数値では拾えないものですか」
「拾えない」
ルストは即答した。
「血術の流れだ。形だけなら似せられる。だが呼吸が違う。流れが平坦すぎる。本人なら残るはずの強さがない」
「強さ?」
澪奈が聞き返す。
ルストはわずかにクラウディオを見た。
「傲慢なほどの支配感」
「おい」
クラウディオの声が低くなる。
「褒めている」
「それを褒め言葉として提出する神経が気に入らん」
「事実だ」
「また事実で殴ったな」
ルストは動じない。
「模倣された署名に近い。形は似ているが、筆圧が違う」
澪奈はすぐにメモを取った。
「科学的な証拠にはしづらいですが、違和感の方向は分かりました。血術の残滓は、クラウディオさん本人のものに似せられているが、流れが違う。署名の模倣のようなもの」
「そのまま報告書に書けば、上が卒倒するぞ」
クラウディオが言う。
「書き方は考えます」
「偉いな。人間のくせに」
「それ、褒めてないですよね」
「学習したな」
榊は写真を見ながら言った。
「問題は、正式な証拠として扱えるものが強すぎることだ。素材、血液、映像、通信記録、指紋、靴跡、繊維片。そこへ人形の破片が重なる。上はこれを見れば動く」
「もう動いているだろう」
クラウディオの声は冷たかった。
榊は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
クラウディオは画面に映る人形の破片を見た。
「人形を証拠品へ落とすな」
その一言は、先ほどまでの皮肉とは違っていた。
低く、鋭く、不快が濃い。
「人形を現場装飾に使うな。喪失の形すら知らん者が、よくもまあ俺の真似をしたものだ。これは死骸だ。人形ですらない」
彼にとって、人形は記憶を閉じる器だった。
ロウェナに似た人形を作っては壊してきた。失ったものを固定しようとして、どれだけ精巧に作っても本物には届かない。その反復の中で、人形は彼の喪失に形を与えてきた。
犯人は、その表面だけを借りた。
クラウディオが人形師であること。
《箱庭》が人形工房であること。
人形の破片があれば、見る者がクラウディオを連想すること。
それだけを使った。
旧欧州でロウェナの焼き菓子が「魔女の軟膏」にされたように。
夜見坂教会で少女の祈りが告発の台本にされたように。
今度はクラウディオの人形が、殺人犯の署名にされている。
形を奪われ、意味を着せ替えられる。
火刑台の手口は、いつでも器用に現代へ適応する。
榊の端末が震えた。
彼は画面を確認し、表情を険しくした。
「警察庁側から追加連絡だ」
澪奈も自分の端末を確認する。
「こちらにも来ています」
会議室の空気が、また一段冷える。
警察庁内部で「クラウディオ拘束」の準備が進んでいることが示される。証拠が完璧すぎるせいで、現場の刑事たちよりも上層部の方が先に動き始めている。
榊は文面を読み、奥歯を噛んだ。
「任意同行から、必要に応じた身柄確保へ切り替える準備が進んでいる」
澪奈が小さく言う。
「早すぎます」
「証拠が強すぎるんだ」
榊の声は苦い。
「上は危険個体として見ている。吸血鬼で、人形師で、過去の怪異事件にも関わっている。そこへ元鑑識官の失血死と、これだけの証拠だ。現場の違和感より、数値と映像と危険性が先に走っている」
クラウディオは笑った。
「早いな。証拠が歩くより先に檻が走る」
ルストの気配が冷たくなる。
「触らせない」
榊が鋭く見る。
「ルスト」
クラウディオは片手を上げた。
「お前が暴れれば、俺の罪状が増えるだけだ」
「触らせないと言った」
「耳はある。だから聞こえている。問題は、お前の語彙が物騒すぎることだ」
「事実だ」
「今日の貴様は事実で殴りすぎだ。品がない」
ルストはクラウディオを見た。
「なら、檻に入る前に壊す」
「馬鹿が。檻に触る前に設計図を見ろ」
クラウディオは端末へ視線を戻す。
「これは、俺を捕まえるための証拠だけではない。警察に証拠を信じさせるための証拠だ。科学に従っている顔をした火刑台だ。ここで力任せに壊せば、向こうの望み通りになる」
榊は低く言った。
「……お前がそれを言うのか」
「俺は愚か者ではない。気分が悪いだけだ」
クラウディオの指が、薄く残った手首の噛み跡に触れた。
一瞬だけ。
そこには昨夜の痛みが、まだかすかに残っている。
火刑の夢から戻された証。
ロウェナの記憶をなかったことにしないために、完全には消さなかった傷。
今度の檻は、火ではなく証拠でできている。
だが、クラウディオはもう、火刑台の下で動けなかった子どもだけではない。
榊は端末を置いた。
「現場資料の追加開示を要求する。人形の破片も、可能ならこちらで再確認する。澪奈、警察庁側の数値を全部洗い直せ。素材、血液、皮膚片、繊維片、通信記録。矛盾がないように見えるなら、矛盾がないように見せている可能性を探る」
「分かりました」
澪奈はすぐに作業へ戻った。
「科学は耳を貸しません。だから人間が確認する必要があります」
クラウディオは薄く笑った。
「その言葉、忘れるなよ。忘れた瞬間、お前の白衣も神官服と変わらん」
「嫌な例えですね」
「有用だろう」
「不愉快なほど」
「なら覚える」
ルストはまだ写真を見ていた。
人形の破片。
血痕。
白い床。
整いすぎた現場。
彼の目は、そこに仕掛けられた何かを追っている。
クラウディオは椅子にもたれ、静かに息を吐いた。
「人形を証拠品へ落とすな」
もう一度、低く言った。
その声は、事件のためだけの怒りではなかった。
ロウェナの記憶。焼け残った手紙。石窯の冷たさ。手首の噛み跡。喪失を形にしてきた人形。すべてが、血の付いた小さな破片の写真に重なっていた。
白い紙に印刷された捜査資料は、会議室の光の下で静かに並んでいる。
そのどれもが正しそうな顔をしていた。
正しそうなものほど、人を焼く時に便利だ。
現場が迷っている間に、上はもうクラウディオを閉じ込める準備を始めていた。




