第75話 灰の中の甘さ
旧欧州の空は、帰国の日も白かった。
晴れているのか曇っているのか分からない。雲は薄く、光は鈍く、石造りの町並みには夜の湿り気がまだ残っている。雨は降っていない。それなのに、石畳の継ぎ目には黒ずんだ水が残り、古い壁は冷えた灰を含んだように沈んで見えた。
クラウディオ・ルジェリウスは、ホテルの玄関前で空を見上げた。
懐かしい、などとは思わない。
この町は、懐かしむための場所ではない。かつて腹を空かせた子どもが裏口に立った町であり、菓子職人の女が笑って紙包みを渡した町であり、やがて彼女の名を「魔女」へ塗り替えた町だった。美しい石畳も、古い教会塔も、観光客向けに磨かれた店先も、クラウディオにはどれも薄く灰を被って見える。
人間は本当に器用だ。火刑台の跡地に噴水を置き、魔女裁判の町を観光地にし、菓子屋の跡を「近世石窯遺構」と呼ぶ。過去の罪にもラベルを貼れば、見学料が取れる。さすが、恥を保存する技術だけは発達している。文明の使い道が相変わらず終わっている。
ルスト・ヴァルレインは、フロントで受け取った封筒を鞄にしまった。中には、資料館から発行された複写資料の受領書、教会地下で確認した焼け焦げた紙片の調査記録、ロウェナ・ミルの裁判記録に関する閲覧証明が入っている。
紙ばかりだ。
数百年前、紙に書かれた言葉が一人の女を魔女にした。数百年後、その同じ紙が、彼女が魔女ではなかったと告げている。紙は便利だ。罪も無実も同じ顔で載せる。だからこそ質が悪い。紙に人格はない。そこへ何を書くかを決めるのは、いつも人間だ。
クラウディオは、黒革の手袋を片方だけ手に持っていた。
もう片方の手、左の手首には、薄くなった噛み跡が残っている。夜半、火刑の夢に呑まれかけたクラウディオを、ルストが現実へ引き戻すためにつけた傷だ。牙が皮膚を破り、血がわずかに滲んだだけの傷。吸血というより、痛みだった。火刑台ではなく、ホテルの部屋に戻るための、今の痛みだった。
吸血鬼の回復力なら、もう消せていた。
隠すこともできた。
だが、クラウディオは消していない。袖口も深く下ろしていない。そこにあるものを、あるままにしている。
ルストは、その手首を見ないようにしていた。
見ればクラウディオは怒る。
見なくても怒る。
この吸血鬼王の情緒、触れたら鳴る罠どころか、近づいただけで館ごと爆発する仕掛けではないのか。誰が設計した。本人か。だろうな。
「行くぞ」
ルストが言った。
クラウディオは視線だけを寄越した。
「命令するな」
「なら、戻る」
「言い換えればいいと思うな」
「帰国便の時間だ」
「人間の飛行機など、多少遅れたところで世界は滅びん」
「遅れたら面倒だ」
「貴様の語彙は面倒でできているのか」
「半分はそうだ」
クラウディオは鼻で笑った。
いつもの調子に近い。少なくとも、火刑台跡の広場で鐘の音に視界を揺らがせた男には見えない。ホテルの白いシーツを灰と錯覚し、群衆の声に「俺ではない」と掠れた男にも見えない。
だが、ルストは知っている。
戻ったからといって、治ったわけではない。
眠れたからといって、過去が消えたわけではない。
噛み跡を隠さないからといって、素直になったわけでもない。そんな簡単な生き物なら、そもそも七千年級の吸血鬼にここまで面倒をかけていない。迷惑の年季が深い。
二人はホテルを出た。
空港へ向かう車が来るまで、まだ少し時間があった。ホテルの前の通りをまっすぐ行けば、旧市街の小さな市場へ出る。昨日まで何度も通った道だ。石畳は朝の光を鈍く返し、店先では布屋根が張られ始めている。果物の木箱。焼きたてのパン。香辛料の袋。濃い珈琲の匂い。遠くには教会塔が見える。
鐘は鳴っていない。
それだけで、空気が少し軽い。
クラウディオは何も言わずに歩いていた。昨日より、歩く速さは落ちている。逃げるような速さではない。かといって、穏やかでもない。ただ、追われている足ではなくなった。
ルストは横に並んだ。
途中、小さな菓子屋の前を通った。
第63話の日に、クラウディオが足を止めた店だった。窓辺には、蜂蜜を塗った小さな丸い菓子、粉砂糖のかかった焼き菓子、端に焦げ目のついた薄いパイが並んでいる。店内からは小麦とバターの匂いが漏れ、少し焦げた砂糖の甘さが朝の冷たい空気に混じっていた。
クラウディオの足が止まった。
今度は、無意識ではなかった。
自分で止まった。
ルストは少し意外そうに見るが、何も言わない。
ここで「買うのか」などと聞けば、クラウディオは確実に「誰が」と返して去る。人は時に沈黙によって世界を救う。いや、この場合は焼き菓子一個だが、それでも貴重な進歩である。
クラウディオは店の前に立ち、硝子越しに並んだ菓子を見た。
ロウェナの菓子ではない。
同じはずがない。
作る手も違う。時代も違う。窯も違う。紙包みの折り方も、蜂蜜の塗り方も、焼きすぎた端の色も違う。
それでも、少しだけ似ていた。
似てしまっていた。
クラウディオは不機嫌そうに扉を開けた。
店員が明るく挨拶する。クラウディオはそれを無視し、並んだ菓子の中から、小さな焼き菓子を一つ選んだ。蜂蜜入り。端が少し焦げている。紙に包まれた、小さなものだった。
会計を済ませ、店を出る。
ルストはまだ何も言わない。
クラウディオは紙包みを片手に持ったまま歩き出す。
しばらくして、苛立ったように言った。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ」
「買うのかと思った」
「買った後に言うな」
「食べるのか」
「質問が多い」
クラウディオは紙包みを開いた。
小さな焼き菓子の表面には、薄く蜂蜜が光っている。端は少し焦げていた。香りは甘い。だが、火刑台の煙の匂いではない。焦げた砂糖が混じっているのに、あの喉へ張りつく苦味とは違う。
クラウディオは一口だけ食べた。
ほんの少し。
噛む。
飲み込む。
そして、眉を寄せた。
「まずい」
ルストは黙っていた。
本当にまずいかどうかは分からない。
クラウディオが「懐かしい」と言うはずがない。
「甘い」とも言わない。
「嫌いではない」などと言おうものなら、どこかの教会塔が倒壊するかもしれない。世界の安全のためにも、彼は「まずい」と言うしかない。吸血鬼王の語彙、世界防衛機構のように扱われている。面倒な話だ。
クラウディオは顔をしかめたまま、菓子を紙包みに戻した。
捨てなかった。
紙包みを畳み直し、鞄の外ポケットに入れる。ぞんざいな動作に見えるが、潰さないようにしている。
ルストはそれを見ていた。
何も言わない。
言えば、捨てる。
あるいは怒る。
あるいは、どちらもする。
クラウディオは不機嫌そうに言った。
「何だ」
「何も」
「顔がうるさい」
「黙っている」
「黙っていてもうるさい顔というものがある」
「便利な理屈だな」
「貴様に言われたくない」
二人は市場を抜けた。
古い教会塔が、遠くで影のように立っている。朝の光を受けても、塔は明るくならない。あの塔そのものがロウェナを燃やしたわけではない。あの鐘そのものが群衆を呼んだわけでもない。それでも、クラウディオの中では、鐘と火刑台と祈りの声が絡んでいる。
完全にはほどけていない。
ほどけるはずもない。
だが今、彼の鞄には小さな焼き菓子が入っている。
それは火刑台の煙ではない。
ロウェナそのものでもない。
過去を清算する証でもない。
ただ、捨てられなかった小さな甘さだった。
ホテルへ戻る途中、クラウディオはふと手首を見下ろした。
噛み跡は、もう薄くなっている。
吸血鬼の回復力で自然に塞がり、赤みもほとんど引いていた。消そうと思えば完全に消せる。袖を下ろせば隠せる。手袋をすれば誰にも見えない。
けれど、まだ消していない。
ルストが言った。
「まだ隠さないのか」
クラウディオは不機嫌そうに目を細めた。
「隠す理由がない」
言ってから、少しだけ沈黙が落ちた。
それは噛み跡の話であり、同時にロウェナの記憶をなかったことにしないという意味でもある。
もちろん、クラウディオ本人はそんな説明をしない。してたまるか、という顔をしている。自分の感情を注釈付きで提出する吸血鬼王など、もはや別人である。だが、袖を下ろさないこと。傷を消さないこと。噛み跡が薄くなっても、そのままにしていること。そこには、言葉よりもずっと厄介で、ずっと正直な意味があった。
火刑の記憶ではなく、現実へ戻された証。
ロウェナの名を灰の中へ戻さないための、小さな抵抗。
それをクラウディオは認めない。
だが、隠さない。
ルストはそれ以上、何も言わなかった。
ホテルへ戻ると、荷物はすでにまとめられていた。
クラウディオの鞄には、資料館で得た複写資料が入っている。ロウェナ・ミルの裁判記録。告発者名簿。焼け残った手紙の記録。菓子屋跡地の調査写真。古い魔女狩り記録の写し。夜見坂教会事件との構造比較。久遠院怜司の助言記録との照合メモ。
旧欧州調査は終わった。
終わった、というより、必要なものを掘り返した。
厄介な発掘だ。人形が壊れるたびに証拠が出土し、教会を掘れば手紙が出て、菓子屋跡地へ行けば石窯が残っている。人類の罪、地下収納が得意すぎる。片づけの才能を別方面に使ってほしい。
ルストは机の上で資料を整理した。
クラウディオは窓辺に立ち、遠くの教会塔を見ていた。もう火刑台には見えていない。少なくとも、今は。鐘も鳴っていない。
ルストが言った。
「構造は繋がった」
クラウディオは振り返らない。
「誰かを魔女に仕立て、周囲の恐怖と罪悪感を一人へ集め、正義の名で燃やす。その手口は、時代が変わっても形を変えて残っている」
ルストは資料の上に手を置いた。
旧欧州の火刑台。
夜見坂教会の聖女像。
告発怪異。
祈りの台本。
寄付金。
神父の手袋。
作られた聖女役の少女。
世間の断罪。
久遠院の助言記録。
形は違う。
だが、芯は同じだ。
対象者が本当に罪人かどうかは重要ではない。人々が信じれば、その人物は燃える。旧欧州では火刑台だった。夜見坂教会では聖女像と告発怪異だった。現代では、SNS、報道、科学、世論、警察記録さえ、新しい火になりうる。
科学まで火刑台になるとは、人類の道具の使い方は本当に雑だ。刃物でパンも切れるが人も刺せる、という話を何千年やっているのか。そろそろ反省文を提出してほしい。十万字で。
クラウディオは静かに言った。
「久遠院は古い火刑台を見つけただけではない。現代でも燃えるよう、薪を組み直した」
ルストは頷く。
「なら、次は薪を崩す」
クラウディオが薄く笑った。
「貴様はいつから解体業者になった」
「必要ならなる」
「器用なことだ」
「お前ほどではない」
「俺の真似をするな」
会話はいつも通りに戻りかけていた。
だが、机の上にはロウェナの記録がある。鞄には焼き菓子がある。クラウディオの手首には薄い噛み跡がある。
いつも通りに見えて、同じではない。
クラウディオは、ロウェナの死を完全に整理したわけではなかった。罪悪感が消えたわけでもない。火刑台の記憶が消えたわけでもない。彼はまだ「俺のせいではない」と言い切れない。ロウェナの手紙を読んでも、「救われた」とは言わなかった。石窯の前で、泣きもしなかった。
だが、少なくとも「自分がロウェナを殺した」という形からは、少しだけ離れた。
救えなかった、と言えた。
ルストの「殺したのはお前ではない」を、否定しなかった。
それは小さな変化だ。
小さすぎて、本人なら鼻で笑うだろう。だが、灰の下に残った火種のように、小さなものほど消えずに残ることがある。人類、悪意だけでなくこういうものも残しておけ。たまには役に立つ。
空港へ向かう車の中で、クラウディオはほとんど喋らなかった。
旧市街が窓の外を流れていく。
低い屋根。
古い壁。
市場の布屋根。
教会塔。
石畳。
細い路地。
遠ざかる菓子屋。
クラウディオは窓の外を見ていた。
ルストは隣にいた。
過剰に慰めることはしない。触れもしない。手首の噛み跡についても、それ以上は言わない。クラウディオが鞄の外ポケットに入れた紙包みにも触れない。
その沈黙が、今はちょうどよかった。
空港は、旧市街とは違って無機質だった。
硝子と金属。白い照明。動く表示板。整列する人々。手荷物検査。多言語の案内。どこにでもある現代の移動装置。火刑台とは違う形の管理空間。人類、移動するだけでも檻を作る。まあ便利ではある。便利さはいつも少し不気味だ。
搭乗前の待合で、クラウディオは資料の入った鞄を足元に置いた。
その隣に、焼き菓子の紙包みがある。
ルストは一度だけそれを見た。
クラウディオは気づいた。
「見るな」
「見ていない」
「また嘘をつく」
「捨てないのか」
「捨てる理由がない」
ルストは少しだけ目を細めた。
クラウディオは不機嫌そうに言う。
「何だ」
「何も」
「その何もという顔をやめろ」
「難しい」
「努力しろ」
「考えておく」
「覚えておく、の次は考えておくか。貴様の返答は信用ならんな」
「必要なら守る」
「必要を勝手に決めるな」
クラウディオはそう言いながら、紙包みを鞄の中へしまった。
大切に、ではない。
乱暴に、でもない。
ただ、捨てずにしまった。
搭乗が始まった。
帰国便の中、二人の席は隣だった。窓際にクラウディオ。通路側にルスト。機内の低い音が絶えず続き、薄い毛布が座席に置かれている。鞄は足元へ収められた。資料も、焼き菓子の紙包みも、その中にある。
飛行機が滑走路を進む。
クラウディオは窓の外を見ていた。旧欧州の町は見えない。空港の灯りと滑走路の線だけが流れていく。
やがて、機体が浮いた。
地上が遠ざかる。
教会塔も、石畳も、菓子屋跡も、火刑台跡の広場も、資料館も、地下の石窯も、すべて白い雲の下へ消えていく。
クラウディオは目を閉じた。
ルストは横を見る。
クラウディオの呼吸は、浅くない。
昨夜のようにシーツを握り潰すこともない。額に汗も浮かばない。目元の奥に血の赤みが滲む気配もない。
ただ、疲れていた。
それを本人は絶対に認めないだろうが、疲れていた。
飛行機の音が低く続く。
雲の上へ出ると、窓の外が白くなった。
灰のように白い雲が広がっている。果てがない。どこまでも薄く、冷たく、燃えた後の町を上から覆う灰のように見える。
クラウディオは眠った。
今度は、火刑の夢を見ない。
完全に癒えたわけではない。
たった一度、夢を見なかっただけだ。
火刑台の記憶は消えていない。
ロウェナの声も、手紙の断片も、告発者たちの名も、まだ彼の中にある。
噛み跡は薄くなったが、消えてはいない。
それでも、一度眠れた。
ルストは、クラウディオの手首を見た。
袖口から、薄い噛み跡が少しだけ見えていた。
隠していない。
ルストは何も言わなかった。
ただ、前方へ視線を戻す。
鞄の中には、ロウェナ・ミルの記録と、小さな焼き菓子がある。
久遠院怜司は、旧欧州の記録をただ引用しただけではない。人が誰かを燃やしたがる構造に興味を持っている。誰かへ恐怖を集め、正義の名を貼り、周囲に火を持たせる。その仕組みを、現代へ移し替えている。
夜見坂教会事件は、その一例だった。
次は信仰ではないかもしれない。
科学かもしれない。
証拠かもしれない。
警察記録かもしれない。
世論かもしれない。
正しさそのものかもしれない。
クラウディオが目を閉じたまま、低く呟いた。
「信仰の火刑台は見た。次は何を使うつもりだろうな、久遠院」
眠っているのか、起きているのか、曖昧な声だった。
ルストは短く返す。
「何を使っても、燃やす前に崩す」
クラウディオは答えなかった。
だが、眠りは浅く乱れなかった。
窓の外の雲が、灰のように白く広がっている。その中にほんの少しだけ、焼き菓子の甘い匂いが残っている気がした。
焦げた砂糖ではなく。
灰の中に、まだ消えずに残る甘さのように。




