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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第74話 菓子屋の跡地


 旧市街の道は、古い地図ほど素直ではなかった。


 資料館で複写された地図には、細い線が規則正しく引かれている。通りの名も、広場の位置も、教会の所在も、書き手の都合よく整えられていた。だが実際の町は、石畳の起伏と建物の増改築と、何百年分もの人間の生活で歪んでいる。地図上では真っ直ぐに見える路地が、現実では緩やかに曲がり、古い井戸を避けるように折れ、低い屋根の下をくぐり、別の通りへ紛れ込む。


 人間は歴史だけでなく道まで都合よく書き換える。まったく、紙の上では全員が建築家で裁判官だ。現実では迷子になるくせに。


 ルスト・ヴァルレインは、古い地図と現在の町並みを照合しながら歩いていた。彼の手には、資料館の職員が用意した複写地図と、現在の観光地図がある。二枚の地図は同じ町を示しているはずなのに、重ねてもぴたりとは合わない。通りの名は変わり、建物は建て替えられ、教会の付属施設だった場所は商業施設になり、古い広場には噴水と観光案内板が置かれている。


 クラウディオ・ルジェリウスは、その地図を見ようとしなかった。


 それなのに、彼は道を間違えない。


 旧市街の細い路地を抜ける時も、古い市場跡の角を曲がる時も、窓辺に花鉢の並ぶ石造りの家の前を過ぎる時も、クラウディオの足は一度も迷わなかった。歩幅は普段より少し速い。苛立っているようにも見える。だが、ただ急いでいるのではない。立ち止まれば、道が自分を引き戻すことを知っている歩き方だった。


 ルストはそれに気づいていた。


 だが、問わない。


 この道を覚えているのか、と。

 ここへ来たことがあるのか、と。

 ロウェナ・ミルの店はどこにあった、と。


 そんな問いは、今ここで投げるものではない。投げれば、クラウディオは必ず鼻で笑う。あるいは怒る。あるいは、すべてを「くだらん」の一言で切り捨てる。人間の繊細な思いやりというものは、相手によっては地雷原に花束を投げ込むような行為になる。花束、爆散。人類、学習してほしい。


 朝の旧市街には、生活音があった。


 観光客の声。石畳に靴が当たる音。店先の椅子を引く音。どこかで食器が重なる音。低い屋根の向こうから、遠くの教会塔が覗いている。窓辺には赤や白の花があり、壁には古い看板がかかっている。市場の名残が残る通りでは、果物の木箱が並び、香辛料の袋が開かれ、パン屋の窓から焼きたての匂いが漏れていた。


 その匂いに、クラウディオの眉がわずかに動いた。


 パン。

 焼き菓子。

 小麦。

 蜂蜜。

 焦げ目のついた砂糖。


 どれも今の匂いだ。今朝焼かれたもの、観光客へ売るために並べられたもの、商売として作られたもの。けれど、記憶は時代の区別などしない。鼻腔へ入った匂いは勝手に過去の戸を叩く。控えめに言って最悪の訪問者だ。ノックしてくるだけならまだしも、鍵を持っている。


 クラウディオは視線を動かさなかった。


 ただ、手首が一度だけ袖の中で動いた。


 そこには、まだルストの噛み跡がある。深い傷ではない。血も止まっている。だが完全には消えていない。クラウディオは今日も隠していなかった。袖口から見え隠れする牙の跡は、昨日までの火刑の夢から戻された証であり、今も現実へ繋ぎ留める痕だった。


 ルストは、視線を落とさない。


 指摘すれば、クラウディオは隠す。

 あるいは隠さないまま怒る。

 どちらにしても面倒になる。いや、現時点ですでに面倒なのだが、それをさらに煮詰める必要はない。感情という鍋は、放っておくだけで勝手に焦げつく。人間も吸血鬼も、もう少し調理を覚えた方がいい。


 クラウディオが低く言った。


「この先だ」


 ルストは地図を見る。


 古い地図では、その角を曲がった先に小さな商業区画がある。かつて菓子屋、パン屋、布屋、薬草を扱う店が並んでいた通り。現在の地図では、そこは別の名で記されていた。小さな古道具店と、観光客向けの土産物屋、修復された商業建築跡。


「覚えているのか」


 ルストは問わなかった。


 ただ地図を畳んだ。


 クラウディオはそれを横目で見た。


「聞かないのか」


「聞いてほしいのか」


「殺されたいらしいな」


「まだ早い」


「時期を選べると思うな」


 いつものやり取りだった。


 だが、クラウディオの声は少し乾いていた。


 角を曲がると、古い建物が現れた。


 それは、現在では古道具店になっていた。表には磨かれた木製の看板があり、硝子窓の奥には古い皿、壊れた燭台、刺繍の入った布、銀のスプーン、使われなくなった時計が並んでいる。観光客向けに整えられた店だった。古いものを、古く見えるように美しく並べている。


 壁の端には小さな金属製のプレートがあった。


 旧商業建築跡。

 地下に近世石窯遺構を保存。

 町の生活文化を示す貴重な遺構。


 それだけだった。


 ロウェナ・ミルの名はない。


 魔女と呼ばれたことも、菓子を焼いていたことも、空腹の子どもに食べ物を渡していたことも、処刑されたことも、何も書かれていない。


 クラウディオはそのプレートを見て、鼻で笑った。


「名を燃やした後は、石窯だけ観光資源か」


 店の入り口で待っていた管理人らしき中年女性が、わずかに表情を曇らせた。資料館から連絡を受けていたらしく、彼女は鍵を手にしている。観光客には公開していない地下遺構を、特別に確認する手筈になっていた。


 クラウディオはさらに言った。


「人間は灰にも値札をつける」


 管理人は返答に困った顔をした。正解だ。ここで何を返しても燃料にしかならない。人類、沈黙の価値に気づいた瞬間だけは偉い。


 ルストが短く言う。


「地下を」


 管理人はうなずいた。


 店内は、表向きには穏やかな空間だった。磨かれた木の床、古い棚、観光客が好みそうな小物。だが、奥へ進むほど空気が変わる。甘い香りも、磨かれた木の匂いも薄れ、古い石と湿気の匂いが強くなる。管理人が奥の扉を開けると、狭い階段が地下へ続いていた。


 低い天井。

 補強された梁。

 暗い照明。

 壁に染みた湿気。

 埃の匂い。

 足音が、石に当たって響く。


 地上の町の音が遠ざかっていく。


 クラウディオは階段の前で立ち止まった。


 そして、吐き捨てるように言った。


「くだらん」


 だが、降りた。


 その一言は逃げの言葉だった。本当にくだらないとは思っていない。くだらないと言わなければ、足を止めてしまう。足を止めれば、過去が追いつく。人は過去を振り切るために歩くが、過去の方はなぜか足腰が強い。ろくでもない持久力だ。


 ルストは彼の後ろを降りた。


 管理人が小さな照明をつける。


 地下室の奥に、石窯の跡があった。


 完全な形ではない。


 崩れた半円形の石。補修された部分。塞がれかけた口。黒ずんだ石の継ぎ目。古い煤の跡。資料保存用の低い柵。照明が当たり、その影が壁へ歪んで伸びている。


 見た目はただの遺構だった。


 役所の報告書なら、近世の食品加工施設跡などと書くだろう。観光案内なら、生活文化を伝える貴重な石窯、とでも言うのかもしれない。人間は、血の通ったものを物に変えるのが本当にうまい。焼き菓子を焼いた窯も、誰かが助かった匂いも、誰かが見殺しにされた記憶も、最後には「遺構」になる。便利な墓標だ。腹立たしいほどに。


 地下は冷たく、石の匂いがする。だが石窯の近くに立つと、微かに小麦と蜂蜜の匂いを思い出す。


 それは実際に残っている匂いではなかった。


 何百年も前の小麦が、地下の石に残っているはずがない。蜂蜜の甘さも、焼きすぎた砂糖の端も、紙包みの温かさも、物理的には消えている。消えていなければ衛生管理の問題である。歴史以前に保健所案件だ。だが、記憶にとって現実の保存状態など関係ない。


 クラウディオには、確かに届いた。


 小麦。

 蜂蜜。

 焦げた砂糖。

 熱を含んだ紙包み。

 少し荒れた女の手。


 彼の視界が、ほんの少し暗くなる。


 古い地下の照明の中で、石窯の口が、別の時代の赤い熱を宿したように見えた。


 ——また痩せたんじゃないの。


 声は、記憶の奥から来た。


 幼いクラウディオは、裏口に立っていた。


 表の通りではなく、店の裏側。細い路地。積まれた木箱。粉の匂い。窯の熱が壁越しにじんわりと漏れてくる場所。


 彼は正面から入らなかった。


 入っていい場所だと思っていなかったからだ。


 王城には広い食堂があった。銀の皿も、重い燭台も、絹の布もあった。だが、そこに彼の席がいつもあるとは限らなかった。用意されても、遠い。冷たい。誰かの視線が刺さる。妾の子。血が汚れている。王族の名を持ちながら、母の名で蔑まれ、吸血鬼の血で恐れられる子ども。


 空腹を口にすることは、弱さを差し出すことだった。


 だから、彼は空腹ではない顔をしていた。


 ロウェナ・ミルは、それを無視した。


「また痩せたんじゃないの」


 彼女は前掛けで手を拭きながら、裏口を開けた。髪は布でまとめ、頬には窯の熱で少し赤みが差している。前掛けには粉がつき、指先は少し荒れていた。綺麗な貴婦人の手ではない。だが、皿を拭き、粉をこね、窯から菓子を出し、空腹の子どもへ紙包みを渡す手だった。


 クラウディオは眉をひそめた。


「痩せてなどいない」


「鏡が嘘をつく家に住んでいるの?」


「俺を子ども扱いするな」


「子どもでしょう」


「違う」


「では、大人なら代金を払いなさい」


 彼は黙った。


 ロウェナは笑わなかった。哀れむ顔もしなかった。ただ、窯の方へ戻り、焼き上がったばかりの小さな菓子を紙で包んだ。蜂蜜の薄い艶、焼きすぎた端の焦げた甘さ、小麦の温かい匂い。


 紙包みは熱かった。


 クラウディオが受け取ろうとすると、彼女は眉を上げた。


「熱いから、急いで飲み込まない」


「分かっている」


「前に舌を火傷したでしょう」


「していない」


「したわ」


「していない」


「嘘が下手ね」


 彼は不機嫌に紙包みを受け取った。


 ロウェナは小さな椅子を足で寄せた。客用ではない。裏口の隅に置かれた、少しがたつく椅子だった。


「座りなさい」


「命令するな」


「立ったまま食べると粉をこぼすわ」


「こぼさない」


「こぼす子ほどそう言うの」


 クラウディオは睨んだ。


 ロウェナは怯えなかった。


 彼の赤い瞳を見ても。

 まだ幼い牙を見ても。

 王城から来たらしい衣服の仕立てを見ても。

 それらを見た上で、彼女は彼を王族としても、吸血鬼としても扱わず、ただ「痩せた子」として見ていた。


 クラウディオにとって、それは屈辱ではなく、ほとんど初めての安堵だった。


 幼い彼は、それを安堵とは呼べなかった。そんな言葉を持っていなかった。自分が何に飢えていたのかすら知らなかった。食べ物だけではない。名前でも血筋でも役割でもなく、ただ腹を空かせた子どもとして見られること。熱いものを急いで食べるなと叱られること。粉をこぼすなと言われること。椅子に座れと当然のように命じられること。


 王城の豪奢な食卓より、その裏口の小さな椅子の方が、ずっと現実に近かった。


 クラウディオは紙包みを開いた。


 湯気が薄く立つ。


 彼は少しだけ口をつけ、熱さに眉を寄せた。


 ロウェナが皿を拭きながら言う。


「ほら」


「うるさい」


「牙があるなら、噛む前に冷ましなさい」


「牙は関係ないだろう」


「あるわよ。急いで噛むから熱いの」


「俺を何だと思っている」


「偉い子でも怖い子でも、空腹なら食べるの」


 クラウディオは黙った。


 ロウェナは、何でもないことのように言った。


 偉い子でも。

 怖い子でも。

 空腹なら食べる。


 王族でも。

 吸血鬼でも。

 妾の子でも。

 赤い瞳でも。

 牙があっても。


 腹が空いているなら、食べる。


 それだけだった。


 幼いクラウディオは、その日も礼を言わなかった。


 次に来た日も、言わなかった。

 その次も、言わなかった。


 代わりに、裏口へ立つようになった。


 ロウェナは、焼きすぎた端を渡した。余った菓子を渡した。時には温かい飲み物を出した。薬草の匂いがする時もあった。クラウディオが嫌そうな顔をすると、「薬じゃないわ。飲み物よ」と言った。彼が「苦い」と言えば、「生きている味よ」と返した。


 彼は毎回文句を言った。


 ロウェナは毎回、気にしなかった。


 ——なら買えるようになったら払いに来なさい。今は食べなさい。


 その声が、石窯の冷たい影の中で、かすかに戻る。


 現代へ戻った時、クラウディオは石窯跡の前に立っていた。


 長く黙っていた。


 管理人は、二人から少し離れた場所にいる。遺構の説明をしようとして、ルストの視線に気づき、言葉を飲み込んだ。賢い。非常に賢い。いま説明板の朗読など始めたら、吸血鬼王に地下ごと凍らされかねない。観光ガイドと命、どちらが大事かは明白だ。たぶん。


 現代のクラウディオは、石窯跡の前で長く黙る。


 怒らない。

 冷笑もしない。

 すぐに「くだらん」と切り捨てることもできない。


 沈黙だけがあった。


 その沈黙の中に、ロウェナの声がある。

 焼き菓子の匂いがある。

 小さな紙包みがある。

 痩せた子、と呼ばれた記憶がある。

 火刑台がある。

 焼け残った手紙がある。

 あの子は悪魔ではありません、という文字がある。

 そして、手首の噛み跡がある。


 ルストは彼の背後に立つが、触れない。昨夜は抱き寄せたが、今は触れずに待つ。


 昨夜のクラウディオは、夢に呑まれていた。現実のホテルではなく、火刑台の下にいた。目を開けていても、見ているものが違っていた。だからルストは抱き寄せ、手首に噛みついた。痛みで現実へ戻した。


 だが今は違う。


 クラウディオは、自分の足で石窯跡の前に立っている。

 逃げることもできる。

 毒づくこともできる。

 地上へ戻ることもできる。


 それでも、そこに立っている。


 ならば、触れるべきではない。


 触れれば、クラウディオは怒りで逃げる。あるいは、触れられたことを理由に、言葉を閉じる。ここでは待つ必要がある。待つという行為は意外に難しい。人間はすぐ励ましたがる。慰めたがる。質問したがる。沈黙を埋めたがる。だから色々と台無しにする。文明は発展したが、黙る技術は退化しているのではないか。困った生き物だ。


 ルストは黙っていた。


 クラウディオも黙っていた。


 地下の石は冷たい。

 照明が低く唸る。

 地上の生活音は遠く、ほとんど聞こえない。


 やがて、クラウディオが口を開いた。


「俺は、あの女を救えなかった」


 声は低かった。


 怒りではない。

 冷笑でもない。

 昨日までの責任転嫁でもない。


 「あの女は愚かだった」ではなかった。

 「人間に善意など向けるから燃える」でもなかった。

 「俺のようなものに菓子など渡すからだ」でもなかった。


 救えなかった。


 それだけだった。


 火刑台の下で動けなかったこと。

 声を出せなかったこと。

 彼女が「あの子を責めないで」と言ったのに、何も返せなかったこと。

 王城で軽んじられていた妾の子であり、命令する権利も、群衆を黙らせる力も、教会を止める立場も持っていなかったこと。


 それらを、初めて言葉にした。


 ルストはすぐに否定しなかった。


 安易な慰めは、ここでは嘘になる。


 幼いクラウディオは、ロウェナを救えなかった。

 それは事実だ。

 どれほど残酷でも、消えない。


 ルストは静かに言った。


「そうだな」


 クラウディオは動かない。


 石窯を見つめたままだ。


 ルストは続けた。


「だが、殺したのはお前ではない」


 地下の空気が、さらに静かになった。


 その順番が必要だった。


 救えなかったことは否定しない。

 その痛みを「そんなことはない」で消そうとしない。

 だが、殺したのはお前ではない。


 火をつけた者がいた。

 罪を貼った者がいた。

 署名した者がいた。

 黙った者がいた。

 得をした者がいた。

 祈りながら見送った者がいた。


 幼いクラウディオではない。


 クラウディオは答えない。だが、否定もしない。


 それは小さな変化だった。


 第67話で同じことを言われた時、彼は受け入れなかった。ロウェナを愚かだと言い、人間社会を呪い、善意を嘲った。自分の内側へ向かうはずだった刃を、すべて外へ投げた。


 今は違う。


 まだ受け入れたわけではない。

 救われたわけでもない。

 傷が閉じたわけでもない。そんな都合の良い修復があるなら、人類はとっくにもっとまともになっている。現実はしぶとく、傷はたいてい空気を読む気がない。


 それでも、クラウディオは否定しなかった。


 彼は石窯の前に立ち続けている。


 ルストはそれ以上、言葉を重ねなかった。


 管理人も何も言わない。


 沈黙の中で、クラウディオが一歩近づいた。


 柵の手前で止まる。古い遺構を守るための低い柵だ。だが、資料館から許可を得た調査扱いで、管理人が静かに留め具を外した。クラウディオは一瞬だけ彼女を見た。


 管理人は視線を下げる。


 クラウディオは石窯のすぐ前に立った。


 崩れた半円形の石。

 塞がれかけた口。

 黒ずんだ継ぎ目。

 古い煤の跡。


 ここでロウェナは菓子を焼いていたのかもしれない。

 ここで、熱いから冷ませと言ったのかもしれない。

 ここで、焼きすぎた端を紙に包んだのかもしれない。

 ここで、病人へ渡す飲み物を温めたのかもしれない。

 ここで、孤児のための余りを取り分けたのかもしれない。


 証明はできない。


 遺構は、個人の声を持たない。

 石は誰の名も呼ばない。


 けれど、クラウディオには分かっていた。


 少なくとも、この場所には彼女の生活があった。


 魔女ではなく。

 聖女でもなく。

 ただの菓子職人の生活が。


 クラウディオは、ゆっくりと右手を伸ばした。


 石窯の縁へ手を置く。


 石は冷たい。

 指先にざらつきが残る。

 古い煤の跡が、爪の近くに薄くつく。


 その手は、かつて焼き菓子を受け取った小さな手ではない。


 今は大人のクラウディオの手だ。

 暴君の手だ。

 多くを奪い、多くを命じ、多くを裁いてきた手だ。


 しかし、その手首には、まだルストの噛み跡が残っている。


 袖口から牙の跡が見えている。

 火刑の夢から現実へ戻された痕。

 過去に呑まれかけたクラウディオを、今ここへ引き戻した痕。


 ルストはそれを見ていた。


 何も言わない。


 クラウディオも何も言わない。


 石窯の冷たさと、手首の噛み跡のかすかな痛みが同時にある。過去と現在が、同じ手の上で重なっていた。


 ロウェナを救えなかった過去。

 ルストに戻された現在。


 どちらも消えない。

 どちらも、なかったことにはならない。


 クラウディオは、石窯の縁に手を置いたまま、長く黙っていた。


 地下は冷たい。


 けれどその冷たさのすぐ上で、手首の噛み跡だけが、まだわずかに熱を持っていた。


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