第73話 焼け残った手紙
古い教会の地下へ降りる階段は、狭かった。
石で組まれた壁は湿気を吸い、表面に薄い黒ずみを浮かべている。手すりは冷たく、触れると指先から骨へ湿った寒さが染みた。地上の礼拝堂は半ば観光地になっていた。白い壁、磨かれた床、古い祭壇、歴史を説明する小さな掲示板。人間は燃やした場所まで綺麗に磨いて、入場時間と閉館時間を決める。じつに几帳面だ。罪を観光資源にするあたり、進化の方向を盛大に間違えている。
地下は違った。
そこには磨かれた敬虔さも、観光客向けの整えられた沈黙もなかった。古い蝋と埃の匂い、湿った石の匂い、錆びた鉄扉の匂い、そして、どこからともなく残る焦げたような薄い匂い。燃えたものなどあるはずがない地下で、紙と木と記録が長い時間をかけて腐り、過去の匂いだけを吐き出している。
クラウディオ・ルジェリウスは、階段の途中で一度だけ足を止めた。
ほんの一瞬だった。
ルスト・ヴァルレインは振り返らなかった。振り返れば、クラウディオは必ず噛みつく。言葉で。場合によっては本当に。人間の作った階段で吸血鬼同士が不毛な喧嘩を始めるなど、建築物への侮辱でしかない。いや、この二人なら十分やりかねないから困る。
ルストは無言で先に立った。
クラウディオの左手首には、まだ噛み跡が残っている。
袖口から見えていた。昨日と同じように、彼は隠していない。資料館の閲覧室でも、古い町の石畳を歩く時も、ホテルから教会へ向かう車内でも、彼は袖を下ろさなかった。傷は薄くなり始めている。吸血鬼の回復力なら、時間を置けば痕は消える。消そうと思えばもっと早く薄くできただろう。
だが、クラウディオは消さなかった。
現実へ戻された証。
火刑台ではなく、ホテルの部屋にいた証。
ロウェナの声でも、群衆の声でもなく、ルストの声が届いた証。
痛みで息を吸い直した証。
そんなものを彼が素直に認めるわけがない。天地がひっくり返っても、ついでに人類が反省してまともになっても、おそらく認めない。つまり実現可能性は低い。だが、認めないまま隠さないという面倒な抵抗だけはしている。
クラウディオは地下の扉を見て、低く言った。
「地上で祈り、地下で証拠を腐らせる。よくできた建物だな」
扉の鍵を開けていた現地教会の管理担当者が、表情を硬くした。年配の男だった。今の教会は歴史資料を保管する立場で、当時の裁判に直接関わった者ではない。そんなことはクラウディオも分かっている。分かっていてなお、教会という器そのものに吐き捨てている。
管理担当者は、何か言いかけてやめた。
正しい判断だ。人間、沈黙できる時だけ賢い。
錆びた鉄扉が重く開く。
奥には、木箱がいくつも積まれていた。湿気で歪んだ棚、布に包まれた記録束、封蝋の残骸、壊れた燭台、折れた目録板。整理はされているが、完全ではない。むしろ、整理しきれずに押し込めたものが時代ごとに層を成していた。
地下なのに、空気の底に焦げた匂いがあった。
クラウディオの指が、わずかに動く。
ルストは気づいたが、何も言わなかった。
管理担当者は手元の台帳を広げた。
「資料館から照会があった件ですが、こちらに異端審問期の控えが残っています。正式目録では欠番扱いになっている箱もありますので、状態は保証できません」
「保証など要らん。教会の保証ほど信用できないものもない」
クラウディオが言うと、管理担当者は目に見えて困った顔をした。
ルストが短く言った。
「箱を」
それだけで話は終わった。
木箱は、地下室の奥にあった。古い教会の印章が押された布に包まれている。封蝋は割れ、紐は色褪せ、箱の角は削れていた。管理担当者が布を外す。埃が舞った。古い紙と湿気の匂いが強まる。
クラウディオは腕を組んで立っていた。
「紙も罪も湿気を吸うらしい」
皮肉はいつもの調子に近い。
だが、声の底が冷えている。
ルストは箱の中を確認した。
処刑記録の写し。
没収財産記録。
告発者名簿の控え。
寄付記録。
教会の収支記録。
異端審問時代の証言書。
処刑後に資料焼却を行った記録。
そして、古い保管台帳。
資料館で見つかった注記と同じ内容が、そこにもあった。
処刑前夜、本人より手紙一通提出。
宛先不明。
押収。
保管。
後年、現物所在不明。
クラウディオの視線が、その行で止まった。
ルストは台帳を少し傾ける。古い紙の文字は薄く、いくつかの箇所は湿気で滲んでいた。それでも、手紙一通という記録だけは読める。
管理担当者は言った。
「現物は、資料館側の目録では失われたものとされています。ただ、この地下には一時的に押収品が移された記録があるため、確認の余地はあると」
「失われたもの、か」
クラウディオが笑った。
「便利な言葉だな。燃やした後に、残っていると困るものへ貼るにはちょうどいい」
管理担当者は黙った。
ルストは一つずつ箱を開けていった。古い資料は脆い。乱暴に扱えば簡単に崩れる。彼は手袋をした手で紙束を持ち上げ、古い封筒や小箱を確認する。
クラウディオは興味がないふりをしていた。
だが、目は動いている。
箱の底。
封筒の端。
台帳の欠け。
紙片の色。
焦げ跡。
湿気で変わった紙の繊維。
見ていないふりをして、見ている。
なんとも器用で、なんとも面倒だ。人間が一人焼けた記録を読むだけでも地獄なのに、その横で吸血鬼王の感情の防犯装置まで解除しなければならない。ルストの仕事量、労基署が見たら泣くかもしれない。吸血鬼に労基が適用されるかは知らないが。
ルストは三つ目の箱の底で、封筒を見つけた。
他の記録とは違う。粗い紙の封筒だった。端が崩れかけている。封蝋は割れ、赤黒く変色した欠片が紙に貼りついている。表には何も書かれていない。ただ、古い教会の保管印が薄く押されていた。
ルストの指が止まる。
クラウディオはそれを見た。
「何だ」
声は平静だった。
平静すぎた。
ルストは封筒を机代わりの木箱の上へ置いた。管理担当者が慌てて保存用の薄い台紙を差し出す。ルストはそれを受け取り、封筒の口を慎重に開いた。
中には、紙片があった。
完全な手紙ではない。
端は黒く焦げている。水を吸ったように波打ち、いくつかの部分はほとんど炭に近い。触れれば崩れそうだった。文字も欠けている。読めるところと読めないところが、焼け跡と滲みで斑になっていた。
それでも、そこには文字があった。
クラウディオが一歩近づく。
地下の空気が急に狭くなったようだった。
ルストは紙片を直接持たず、台紙ごと光へ寄せる。
最初に読めたのは、名前ではなかった。
文の途中だった。
……あの子は悪魔ではありません……
管理担当者が息を止めた。
クラウディオは動かなかった。
ルストは、さらに視線を下げる。
焦げた端の少し内側に、別の行が残っていた。
……お腹を空かせていただけです……
クラウディオの手首の噛み跡が、わずかに赤みを増したように見えた。
もちろん、それは錯覚かもしれない。地下の明かりが揺れただけかもしれない。だがルストには、その痕が今、クラウディオを現実へ留めていることが分かった。
ロウェナの手紙は、過去から戻ってきた言葉だった。
ルストの噛み跡は、現在へ戻された証だった。
二つが同じ冷たい地下の空気の中に並んでいる。
紙片はまだ続いていた。
……どうか、あの子に罪を着せないで……
クラウディオの呼吸が、一瞬だけ止まった。
誰も喋らなかった。
地下のどこかで、水滴が落ちる音がした。石に当たり、遅れて小さく響く。その音すら、ひどく大きく聞こえた。
ルストは紙片を見ている。
クラウディオは、紙片ではなく、その文字の奥を見ている。
火刑台の上で、ロウェナは言った。
誰か、あの子を責めないで。
そして処刑前夜にも、同じことを書いていた。
あの子は悪魔ではありません。
お腹を空かせていただけです。
どうか、あの子に罪を着せないで。
数百年後に、焼け残った紙片がそれを差し出してきた。
人間はよく燃やす。
名前を燃やす。
記憶を燃やす。
都合の悪い記録を燃やす。
だが燃やし方すら下手な時がある。ざまあみろ、と言うにはあまりに遅く、あまりに痛い。
クラウディオはようやく笑った。
低く、冷たく。
「馬鹿な女だ」
ルストは顔を上げた。
クラウディオの目は紙片から離れていない。
「自分が燃やされる時まで、他人の心配か」
声が凍っている。
「だから死ぬ」
管理担当者が息を呑んだ。
ルストは制しなかった。
その言葉がロウェナへの単純な侮辱ではないと分かっていたからだ。
これは怒りだ。
だが、ロウェナへ向けた怒りではない。
火刑台へ向けた怒りでも、教会へ向けた怒りでも、町へ向けた怒りでも、完全にはない。
クラウディオ自身が崩れないための怒りだった。
まともに受け止めれば、罪悪感と悲しみと、救われていた事実が一気に押し寄せる。ロウェナは最後までクラウディオを責めなかった。火刑台の上でも、処刑前夜の手紙でも、彼を悪魔ではないと言い、腹を空かせていただけだと言い、罪を着せるなと願った。
それを受け止めるには、クラウディオの中の何かがまだ硬すぎる。
だから怒るしかない。
「善良さで火は消えない。最後まで分かっていなかった。そんな紙を書いたところで、誰も助からない」
クラウディオの口元は笑っている。
だが、紙片を見つめる目は笑っていない。
「くだらん」
吐き捨てるように言い、彼は手を伸ばした。
紙片へ。
しかし、指先は途中で止まった。
焼け焦げた紙は、薄い台紙の上にある。触れれば崩れるかもしれない。それはただの保存上の危険だけではなかった。
クラウディオの手首には、ルストの噛み跡がある。
現実へ戻された痕。
火刑台から引き剥がされた痛み。
その手が、過去から戻ってきたロウェナの言葉へ伸びて、止まる。
指先が震えていた。
ほんのわずかに。
クラウディオは怒っている。
だが、その怒りは、紙片を破れない怒りでもある。
彼なら、怒りに任せて資料を破ることもできる。燃やすこともできる。くだらんと言って背を向けることもできる。王として、暴君として、過去を切り捨てるふりなどいくらでもできた。
だが、この紙片だけは壊せない。
ロウェナは燃やされた。
その言葉だけが、焼け残っていた。
それを破れば、自分が彼女の最後の言葉をもう一度殺すことになる。
それだけはできない。
クラウディオは、それを認めない。
認めないまま、触れられない。
ルストは、クラウディオが紙片に触れようとして、触れられないことに気づく。
指先の震え。
止まった手。
隠されない噛み跡。
焦げた紙片。
冷たい地下の空気。
そのすべてが、言葉よりもはっきりしていた。
ルストは静かに言った。
「触らなくていい」
クラウディオの目が鋭く動く。
「命令するな」
「命令ではない」
「なら何だ」
「崩れる」
クラウディオの顔から、わずかに表情が消えた。
それは怒りではなく、隠された図星を踏まれた時の沈黙だった。
ルストはそれ以上、踏み込まなかった。正論を畳みかける趣味はない。少なくとも、この瞬間にはない。人間ならここで「彼女はあなたを愛していた」だの「あなたのせいじゃない」だの、善意の棍棒を振り回して相手の肋骨を粉砕するところだ。善意というのは本当に扱いを間違えると凶器になる。ロウェナの件でまだ学ばないなら、もう学校からやり直すべきだ。
ルストは短く言った。
「彼女はお前を責めていない」
クラウディオの唇が歪む。
「だから馬鹿だと言っている」
声は低かった。
ひび割れてはいない。
震えてもいない。
けれど、ルストには分かった。
その言葉は、さっきよりも深い場所から出ている。
ルストは手紙の紙片を見下ろした。
読める部分は少ない。
……私は魔女では……
……焼き菓子は、ただ……
……あの子は悪魔ではありません……
……お腹を空かせていただけです……
……牙があっても、空腹は……
……どうか、あの子に罪を着せないで……
……あの子に火を向けないで……
全文ではない。
穴だらけだ。
焦げている。
湿気で滲んでいる。
ロウェナの言葉は、完全には残っていない。
それでも、残った部分だけで十分だった。
処刑前夜、ロウェナ・ミルは自分の無実だけを書いたのではない。
自分を救ってくれとだけ願ったのではない。
火刑台へ向かう前に、彼女はまだ、あの子のことを書いていた。
赤い瞳を持つ、腹を空かせた子どものことを。
クラウディオは笑った。
「誰も助からない。こんな紙を書いたところで。教会は読まない。町は聞かない。火は止まらない。あの女は最後まで何も分かっていなかった」
ルストは答えなかった。
クラウディオは続ける。
「人間に善意など向けるから燃える。相手を選べばよかった。閉じればよかった。俺のようなものを裏口へ入れなければよかった。菓子など渡さなければよかった。熱いから冷ませなどと、くだらないことを言わなければよかった」
声が低くなる。
「あの女が愚かだっただけだ」
その言葉の最後だけが、ほんの少し乾いていた。
ルストはクラウディオを見た。
責任転嫁だ。
いつものように、ロウェナへ、人間へ、善意へ、火刑台へ、すべてを押しつけようとしている。
だが、今回はそれだけではなかった。
紙片がある。
焼け残った言葉がある。
あの子は悪魔ではありません。
お腹を空かせていただけです。
どうか、あの子に罪を着せないで。
それはクラウディオの責任転嫁を、静かに拒んでいる。
お前のせいではない、と言っている。
腹を空かせていただけだ、と言っている。
悪魔ではない、と言っている。
数百年遅れて届いたその言葉を、クラウディオはまともに受け取れない。だから怒る。だから馬鹿な女だと言う。だから、だから死ぬ、と吐き捨てる。
それでも、紙片を破れない。
ルストは慎重に保存用の封筒を開いた。
管理担当者が慌てて透明な資料袋を持ってくる。ルストはそれを受け取り、台紙ごと紙片を持ち上げた。焦げた端がわずかに揺れる。クラウディオの視線が、無意識に追った。
代わりにルストが慎重に封筒へ戻す。
その動作は、ただ資料を保護する動きではなかった。
ロウェナの言葉を守る動作だった。
クラウディオを守る動作でもあった。
紙片は封筒の中へ戻った。
封をするわけではない。
隠すわけでもない。
ただ、これ以上崩れないように、冷たい地下の空気から少しだけ遠ざける。
クラウディオはそれを見ていた。
「勝手に触るな」
「触れなかっただろう」
「貴様に言っている」
「崩れる」
「知ったことか」
「そうか」
ルストは封筒を資料台の上へ置いた。
クラウディオは、その封筒から視線を離さない。
地下の湿気が、二人の間に重く沈んでいた。管理担当者は何も言わない。言えるはずもない。古い紙片一つで、吸血鬼王の情緒が核爆発寸前になるなど、管理業務の範囲外だ。人類のマニュアルにもたぶん書いていない。書いてあったら怖い。
ルストは低く問う。
「読むか」
「読んだ」
「全部ではない」
「十分だ」
クラウディオの答えは早かった。
早すぎた。
ルストはそれ以上、押さなかった。
クラウディオが言う。
「どうせ同じだ。私は魔女ではない。あの子は悪魔ではない。食べ物を渡しただけ。罪を着せるな。火を向けるな。くだらん。何を書いたところで、火刑台は止まらなかった」
「それでも書いた」
ルストが言う。
クラウディオは目を細めた。
「それが愚かだと言っている」
「そうだな」
意外な返事に、クラウディオの視線がルストへ向く。
ルストは静かに続けた。
「愚かでも、残った」
クラウディオの表情が固まった。
ルストはそれ以上言わなかった。
愚かでも、残った。
役に立たなくても、残った。
火を止められなくても、残った。
町も教会も救えなくても、ロウェナの言葉は数百年後にクラウディオの前へ戻ってきた。
あの子は悪魔ではありません。
お腹を空かせていただけです。
どうか、あの子に罪を着せないで。
クラウディオは、深く息を吸った。
怒りを飲み込むように。
吐き気を堪えるように。
笑いを作るように。
だが、笑えなかった。
彼は封筒を見下ろしたまま、低く言った。
「俺は、あの女を忘れてなどいない」
地下が静まり返った。
管理担当者が動きを止める。
ルストも、何も言わない。
それは初めて、責任転嫁ではない言葉だった。
ロウェナが愚かだったから死んだのではない。
人間に善意を向けたから燃えたのではない。
死にたければ優しくすればいいという話でもない。
少なくとも、その一言だけは違った。
俺は、あの女を忘れてなどいない。
クラウディオは、ロウェナを切り捨てていたわけではない。
忘れたふりをしていただけだった。
愚かだと責め、善意を罵り、人間を嘲り、教会を嫌悪し、火刑台の下で動けなかった子どもを氷の奥に閉じ込めていただけだった。
けれど、忘れてはいなかった。
焼き菓子の温かさ。
紙包みの手触り。
蜂蜜と小麦粉の匂い。
少し焦げた砂糖の端。
熱いから冷ませと言った声。
牙があっても熱いものは熱いでしょう、と何でもない顔で言った女。
火刑台の上で、誰か、あの子を責めないで、と言った声。
忘れてなどいない。
封筒の中で、焼け残った紙片は沈黙していた。
クラウディオの手首には、まだ噛み跡が残っている。
ルストは何も言わなかった。
言葉を重ねれば、その一言まで壊してしまいそうだったから。
地下の空気は冷たく、湿っていた。古い紙の匂いと、石の匂いと、かすかな焦げ跡の匂いがあった。封筒の中には、ロウェナ・ミルの焼け残った手紙が戻されている。
クラウディオはそれを見下ろしたまま、もう一度だけ、声にしない息を吐いた。
それは祈りではなかった。
赦しでもなかった。
感謝でも、懺悔でもなかった。
ただ、忘れていないという、長すぎる沈黙の底から出た一言だった。




