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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第72話 告発者たち



 資料館の閲覧室には、火の匂いがしなかった。


 古い紙。革表紙。磨かれた木の机。乾いたインク。資料を守るための白い手袋。高い窓から差し込む薄い光。遠くで鳴る時計の音。そこにあるのは、保存された過去の匂いばかりだった。


 けれど、クラウディオ・ルジェリウスには、その静けさがひどく白々しく思えた。


 火刑台の煙は、もうない。

 広場もない。

 群衆もいない。

 鐘も、今は鳴っていない。


 それでも、紙の上には名前が残っている。


 ロウェナ・ミル。


 菓子を焼いただけの女。

 病人へ温かい飲み物を出した女。

 孤児へ焼きすぎた菓子を渡した女。

 赤い瞳を持つ子どもへ、熱いから冷まして食べろと言った女。


 そして、記録の中では魔女にされた女。


 閲覧机の上には、彼女の裁判記録の続きが置かれていた。昨日までの記録には、罪状と判決が並んでいた。魔女の軟膏。吸血鬼への供物。異端者の治療。悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。


 その言葉を読んだ時、クラウディオは資料を閉じた。


 だが、記録はそれで終わらなかった。


 人間は、燃やした後まで几帳面だ。火をつける時には目を逸らすくせに、帳簿や証言や配分記録だけは妙に丁寧に残す。面倒な生き物である。まったく、滅びるなら先に事務処理能力を置いていけ。


 資料館職員が、薄い紙束を机へ置いた。


「こちらが、告発者たちの聴取記録です。保存状態は良くありませんが、読める部分は多く残っています」


 灰色の髪を後ろでまとめた職員は、必要以上にクラウディオの手首を見ないようにしていた。昨日より賢くなっている。人間にも学習能力があるらしい。記録しておこう、たぶん絶滅危惧の長所だ。


 クラウディオの左手首には、牙の跡が残っていた。


 袖口から見えている。

 隠していない。

 傷は深くない。血も止まっている。けれど、吸血鬼同士の噛み跡だと分かる者には分かる形をしている。


 昨夜、火刑の夢に呑まれかけたクラウディオを、ルストが現実へ戻した痕。


 それは吸血ではなかった。

 支配でもなかった。

 痛みで、現在へ引き戻した証だった。


 クラウディオはそれを認めていない。

 認めていないが、隠していない。


 資料を押さえる手の横に、牙の跡がある。過去の記録と現在の傷が、同じ机の上に並んでいた。


 ルスト・ヴァルレインはそれを見ていた。


 見ていたが、何も言わなかった。

 言えば、クラウディオは隠すか、怒って傷を消そうとする。あるいは、両方する。面倒な男である。鍵穴の多い金庫より面倒だ。しかも金庫の方は少なくとも噛み返してこない。


 ルストは、ただ隣に立っている。


 クラウディオは資料の一枚目を見下ろした。


 告発者名簿。


 そこには、ロウェナ・ミルを魔女として告発した者たちの名が記されていた。


 名前。

 職業。

 居住区。

 教会との関係。

 証言の要旨。

 処刑後の財産処理への関与。

 寄付、施し、病人、孤児、夜の灯り、赤い目の少年。


 黒いインクの列が、乾いた虫のように紙の上へ並んでいる。


 ルストが低く言った。


「多いな」


「火刑台は一人では組めない」


 クラウディオは淡々と返した。


 その声に、怒鳴るような熱はない。嘆きもない。ただ冷たい。古い傷が凍り、そのまま刃になったような響きだった。


 職員は一歩下がった。

 現地警察の協力者は、持っていたメモに視線を落とした。二人とも、この会話に立ち入るべきではないと判断したらしい。珍しく正しい。人類、時々こういう賢明さを見せるから厄介だ。


 クラウディオはページをめくった。


 最初の告発者は、ロウェナの菓子屋の近くで別の店を営んでいた男だった。


 古い記録では、職業は乾物商、または小麦粉と保存食を扱う商人と記されている。ロウェナの店とは扱うものが完全に同じではない。だが、市場での客の流れは重なっていたらしい。


 証言には、こうある。


 ロウェナ・ミルの店には夜になっても客が出入りしていた。

 甘い匂いで人を集めていた。

 子どもたちは彼女の菓子ばかり欲しがった。

 病人の家族すら、教会へ行く前に彼女の店へ立ち寄った。

 祝祭日にも、彼女は教会の配給とは別に菓子を配っていた。


 クラウディオは鼻で笑った。


「商売敵か」


 ルストは記録へ目を落とす。


「嫉妬だな」


「嫉妬だけなら可愛いものだ。信仰の衣を着せれば、嫉妬も証言になる」


 クラウディオは紙面から目を離さない。


「子どもが菓子を欲しがった。病人の家族が店へ行った。祝祭日に菓子を配った。実に恐ろしい魔女だな。町を小麦粉で滅ぼすつもりだったらしい」


 皮肉は鋭い。

 しかし、いつもの軽さはない。


 記録では、その商人は処刑後、ロウェナの店の棚と石窯の一部を安く買い取っている。さらに、彼の店は教会の祝祭用菓子の納入を任されるようになった、と小さな追記がある。


 ルストがその行を指した。


「得ている」


「恐怖は便利だ。利益を隠す布になる」


 クラウディオの手首の噛み跡が、紙の横で薄く赤い。


 ルストはその痕を見なかった。

 見ないまま、次の資料へ視線を移した。


 二人目は、町の書記だった。


 徴税や許可証に関わる役人で、教会との連絡役も務めていたらしい。記録の字は妙に整っていた。証言の中身より、自分の立場をよく見せたい者の筆跡だ。紙の上でまで背筋を伸ばす人間というのは、だいたい面倒くさい。


 書記の証言は、こうだった。


 ロウェナは教会へ届け出ず、病人へ飲み物を渡した。

 孤児を店の裏口から入れた。

 夜に灯りを消さず、夜の者を招く合図を送った。

 町の秩序を乱した。

 教会の施しを待たず、勝手に食物を分け与えた。


 クラウディオは低く言った。


「教会を通さなかったのが罪らしい」


 ルストは答えない。


 記録の追記には、その書記が後に教会から推薦を受け、別の管区の徴税権を得たことが残されていた。


「役人は教会へ取り入ろうとした」


 ルストが言う。


「そして成功した」


「人を燃やせば出世できるとは、たいそう信心深い町だな」


 クラウディオの声は冷たい。

 けれど、ただの嘲笑ではない。


 彼は知っている。


 ロウェナは秩序を壊そうとしたのではない。

 空腹の子どもへ菓子を渡した。

 病人へ温かい飲み物を出した。

 孤児を裏口へ入れた。


 だが、助ける順番を間違えた。

 教会より先に手を伸ばした。

 役人より先に人を見た。


 それが気に入らなかった者がいた。


 善意は、手続きを通さなければ罪になる。

 人間社会はいつもそういう顔をする。なんとも立派な泥仕合だ。


 三人目は、教会公認の施療係だった。


 町の治療師とも、薬師とも読める。ロウェナが薬草を扱っていたことを、最も強く問題視していた人物らしい。


 彼の証言には、嫉妬の匂いがした。


 ロウェナの薬草は正規のものではない。

 病人が彼女の飲み物を欲しがった。

 彼女は祈りを待たず、温かい飲み物を渡した。

 患者が彼女の菓子を食べるとよく眠った。

 その眠りは神のものではない。

 夢に悪しき影を入れた可能性がある。


 ルストの眉がわずかに動いた。


「病人が眠れたことまで罪になるのか」


「眠らせたのが教会ではないからだろう」


 クラウディオはページを指で軽く押さえた。


 噛み跡のある手ではない。

 白手袋をした右手だった。


「自分が助けられなかった病人が、菓子屋の薬草茶で少し楽になった。それが屈辱だった。だから異端者の治療にした」


 ルストは言った。


「自分の無力を隠したかった」


「人間は無力を嫌う。だから、自分より先に誰かを助けた者を燃やす」


「乱暴だ」


「記録の方がもっと乱暴だ」


 クラウディオの言葉は短くなっていく。


 読み進めるたび、余裕ある皮肉が削られていく。残るのは、冷えた分析と乾いた怒りだけだった。


 四人目の記録は、貧しい住民の証言だった。


 ロウェナから焼き菓子を受け取ったことがある家族。

 子どもが熱を出した夜、彼女が温かい飲み物を持ってきた家。

 孤児ではないが、飢えていた。ロウェナの裏口で何度か焼きすぎた菓子を受け取っていたらしい。


 証言は曖昧だった。


 彼女の菓子を食べると、子どもがよく眠った。

 薬草の匂いがした。

 夜に店へ行く者がいた。

 赤い目の子どもにも、彼女は食べ物を与えていた。

 自分たちは何も知らなかった。

 彼女が異端者だとは思わなかった。

 ただ、今思えば不自然だった。


 クラウディオはしばらく黙っていた。


 その沈黙は、資料館の静けさよりも重かった。


 職員が息を殺す。

 現地警察の協力者もメモを取る手を止める。

 ルストは、クラウディオの横顔を見る。


 クラウディオの目は笑っていない。


「助けられた者ほど、よく喋る」


 声は低かった。


「恩は重い。だから人間は裏返して捨てる」


 ルストは反論しなかった。


 今ここで、全員がそうではないと言っても無意味だ。

 ロウェナを庇った者もいたかもしれない。

 目を逸らしただけの者と、積極的に嘘をついた者は違う。

 恐怖で証言した者と、利益を得た者も違う。


 それでも、紙には名前がある。


 助けられた者の名がある。


 その事実は、クラウディオの中の何かを冷たく補強していた。


 クラウディオは記録をめくる。


 五人目は隣人だった。


 夜に店の灯りがついているのを見た。

 裏口に小柄な影が立っていた。

 赤い瞳を見た気がする。

 ロウェナはその影を中へ入れた。

 その夜、店から甘い匂いがした。

 そして、町では血を抜かれた死体の噂があった。


 クラウディオの手首の噛み跡が、机の上でわずかに動いた。


 ルストはそれを見ない。

 見ないが、分かる。


 赤い瞳。

 悪しき血を持つ少年。

 甘きものを与えし罪。


 過去の言葉が、現在の手首の痛みの横へ重なっている。


 クラウディオは笑った。


 ひどく静かに。


「人間は大勢で罪を薄めるのが上手い。一人では殺せなくても、百人でなら祈りながら殺せる」


 その言葉に、閲覧室の空気が止まった。


 資料館職員の指が震えた。

 現地警察の協力者が顔を上げた。

 ルストだけは、動かなかった。


 クラウディオは続ける。


「便利だな。証言が増えれば増えるほど、一人あたりの罪は軽くなる。誰も殺していない。皆で少しずつ薪を運んだだけだ。祈る手で署名すれば、火をつけた手にはならないらしい」


 その声には、ロウェナの火刑台の下で聞いた鐘の音が混ざっているようだった。


 ルストは低く言った。


「だからといって、全員を同じ火に投げ込む理由にはならない」


 クラウディオの目が、ゆっくりルストへ向いた。


「つまらん正論だ」


「必要な線だ」


 ルストの声は静かだった。


 説教ではない。

 慰めでもない。

 ただ、境界線を置く声だった。


 ロウェナを告発した者たちの罪は消えない。

 町の恐怖も、保身も、嫉妬も、利益も、沈黙も醜い。

 だが、それを理由に全員を同じ火へ投げ込むことはできない。


 クラウディオが後に裁く側へ回ったとしても、それで火刑台の下の子どもが救われるわけではない。


 クラウディオはルストを睨んだ。


「貴様は本当に、腹の立つ線を引く」


「越えれば燃える」


「俺が火を恐れるとでも?」


「恐れているとは言っていない」


「嘘が下手だ」


「見ているだけだ」


「見るな」


「無理だ」


 クラウディオは鼻で笑った。


 だが、それ以上は言わなかった。


 ルストの言葉を受け入れたわけではない。

 納得したわけでもない。

 ただ、切り捨てなかった。


 それだけで十分だった。


 職員は、二人の会話が一段落したのを見て、控えめに次の紙束を示した。


「こちらが、没収財産と処刑後の配分記録です」


 クラウディオは、白手袋をした指で資料の端を押さえた。


 そこには、ロウェナの店の権利の移動が残されていた。


 商売敵の名。

 教会への寄付。

 店の棚の売却。

 石窯の部材。

 土地の借用権。

 菓子型。

 薬草の保管箱。

 包み紙の残り。


 包み紙、という文字で、クラウディオの視線がわずかに止まる。


 ルストは気づいた。


 菓子の包み紙。

 工房《箱庭》へ届いた、古い菓子屋の包み紙に似せた紙片。

 焼けた砂糖の匂い。

 ロウェナ・ミルの記録。

 そして、久遠院怜司。


 すべてが一本の線ではない。

 だが、同じ灰の中へ埋まっている。


 ルストが資料へ目を落とす。


「恐怖だけではない」


「恐怖は便利だ。利益を隠す布になる」


 クラウディオは先ほどと同じ言葉を、今度はさらに冷たく言った。


 資料を進めると、処刑後に教会への寄付金が増えている記録もあった。


 火刑の翌日。

 その三日後。

 祝祭日前。

 町の有力者たちからの寄付。

 異端を退けたことへの感謝。

 町の安寧を願う献金。

 清めのための奉納。


 ルストは低く言った。


「この構造は、夜見坂教会事件と重なる」


 クラウディオは薄く笑う。


「ようやく見えたか」


「少女、神父、聖女像、祈願文、寄付、告発。形は違うが、罪の集め方が同じだ」


「旧欧州は火刑台を使った。夜見坂は聖女像を使った。紙が違うだけだ」


「久遠院は、これを参考にした」


「可能性はある。証拠ではない」


「だが匂いはする」


「嫌なほどな」


 クラウディオは椅子の背へもたれなかった。


 姿勢はまだ崩れていない。

 手首の噛み跡も隠れていない。

 告発者名簿は開かれたままだ。


 ルストは資料を見ながら言った。


「久遠院は火をつけない。火をつけたくなる場所を教えるだけだ」


 クラウディオが横目で見た。


「俺の台詞を取るな」


「お前が言いそうだった」


「不愉快だ」


「なら訂正しろ」


 クラウディオは少しだけ口元を歪めた。


「久遠院は火をつけない。火をつけたくなる場所を教えるだけだ」


 ルストは頷いた。


「それでも火をつける者がいる」


「だから火が消えない」


 その言葉の後、しばらく沈黙が落ちた。


 久遠院怜司。


 あの男は直接、火をつけない。

 直接、命じない。

 直接、罪を貼らない。

 だが、人間が何を恐れ、何に嫉妬し、どこで保身し、どんな言葉なら正義の顔で人を傷つけられるかを知っている。


 夜見坂教会事件で彼が見ていたのは、聖女像ではない。

 告発がどう育つか。

 祈りがどう変質するか。

 誰か一人へ罪が集まる時、人々がどれほど安心するか。


 旧欧州の記録にも、それがあった。


 ロウェナ・ミルは、強大な悪に殺されたのではない。

 小さな嫉妬。

 小さな恐怖。

 小さな保身。

 小さな利益。

 小さな沈黙。


 それらが重なって、火刑台を作った。


 誰も、自分が殺したとは思っていなかった。

 だからこそ、彼女は燃えた。


 クラウディオは資料の上に置かれた名簿を見下ろしたまま、低く言った。


「商売敵は店を得た。役人は教会の覚えを得た。治療師は無能を隠した。住民は自分の名を守った。全員が少しずつ得をした。だから全員が少しずつ殺した」


 ルストは何も言わなかった。


 その言葉は極端だ。

 だが、まったくの嘘ではない。


 それが厄介だった。


 職員が、別の小さな紙片を確認していた。資料の端に貼られた目録票を見て、眉をひそめる。


「少しお待ちください。処刑前記録の欄に、注記があります」


 クラウディオの視線が動いた。


 ルストもそちらを見る。


 職員は、古い目録の複写を慎重に開いた。そこには、処刑前夜に関する短い記載が残っていた。


 処刑前夜。

 本人より手紙一通提出。

 宛先不明。

 押収後、保管。

 後年、所在確認不能。

 現物所在不明。


 閲覧室の空気が、わずかに変わった。


 クラウディオの手が止まる。


 噛み跡のある手首だった。


 白い光の中で、牙の跡と古い文字が並んでいる。


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 クラウディオは何も言わない。

 皮肉もない。

 笑いもない。


 ただ、その一文を見ていた。


 ロウェナが処刑前に残したとされる手紙の存在が示される。ただし現物は失われているとされていた。


 職員は低く言った。


「手紙の現物は、現在の所蔵目録にはありません。写しも確認されていません。ですが、存在したことだけは、この注記から分かります」


 クラウディオは黙っていた。


 ルストも何も言わない。


 処刑前夜。

 ロウェナ・ミルは、一通の手紙を残していた。


 誰に宛てたものだったのか。

 何を書いたのか。

 「あの子を責めないで」の続きだったのか。

 それとも、ただ菓子屋として、誰かに棚や石窯や孤児のことを頼んだだけだったのか。


 分からない。


 現物は失われている。


 記録はそう言っている。


 だが、ロウェナが燃やされる前に、何かを書いたことだけは残っていた。


 クラウディオの指先が、紙の端で止まる。


 手首の噛み跡は、まだ隠されていない。


 ロウェナ・ミルは、燃やされる前に一通の手紙を残していた。

 ただしその現物は、失われたものとして記録されていた。




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