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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第71話 隠さない傷



 朝の光は、旧い街の石畳を冷たく照らしていた。


 夜の雨はもう上がっている。濡れた路面の隙間には薄い水が残り、建物の影を細く歪ませていた。低い屋根。石造りの壁。窓辺の鉢植え。遠くに見える教会塔。昨日と同じ街並みなのに、夜とは違う顔をしている。


 朝の街は、何も知らない顔をする。


 火刑台の跡も、魔女狩りの記録も、焦げた砂糖の匂いも、夜の夢も、すべて石畳の下へ隠してしまったように、平然と人を歩かせる。


 クラウディオ・ルジェリウスは、その朝の街を、いつも通りの顔で歩いていた。


 髪は整えられている。

 襟元も乱れていない。

 黒い外套の線は美しく、靴音にはいつもの苛立たしいほどの余裕がある。

 ホテルの朝食にはほとんど手をつけなかったが、誰かがそれを指摘する前に席を立った。受付係が控えめに声をかけた時には、礼を言う代わりに一瞥だけで済ませた。あれを礼と呼ぶなら、人類はそろそろ辞書を点検した方がいい。


 平然としている。


 そう見える。


 だが、左手首だけが昨夜を隠していなかった。


 シャツの袖口から、牙の跡が見えている。


 深い傷ではない。血は止まっている。赤黒く小さく残った二つの痕と、その周囲にかすかな熱を持つような薄い痕跡があるだけだ。だが、それはただの擦り傷でも、偶然の怪我でもない。


 吸血鬼同士の噛み跡だ。


 正確な意味を分かる者は少ない。だが、分かる者には分かる。噛んだ者の牙の形。位置。深さ。血を奪うためではなく、現実へ戻すために刻まれた痛みの痕。


 ルスト・ヴァルレインは、その傷に気づいていた。


 気づいていないわけがない。

 自分がつけたのだから。


 だが何も言わなかった。


 ホテルの廊下でも、ロビーでも、外に出る時も、資料館へ向かう石畳の上でも、ルストは一度だけクラウディオの手首へ視線を落とし、すぐに戻した。


 クラウディオも、それに気づいていた。


 気づいていて、袖を下ろさなかった。


 隠そうと思えば隠せる。袖口を引けばいい。手袋をすればいい。吸血鬼の回復力に任せ、わずかな血の力で薄めることもできるだろう。資料館で白手袋を借りれば、少なくとも他人の視線からは見えなくなる。


 だが、クラウディオは隠さなかった。


 理由を問われれば、彼はきっと鼻で笑う。

 隠すほどのものではない。

 その程度の傷に騒ぐな。

 貴様の牙など印にもならん。

 そんなふうに言うだろう。


 けれど、ルストは知っていた。


 それは、そんな単純なものではない。


 昨夜、クラウディオは火刑の夢に呑まれかけた。

 ホテルの白いシーツが灰になり、窓の外の教会塔が火刑台へ変わった。

 ロウェナ・ミルの声が聞こえた。

 この子を責めないで。

 そして、群衆の声がクラウディオへ向いた。

 お前のせいだ。

 お前がいたから燃えた。


 クラウディオは半ば夢に呑まれたまま、掠れた声で呟いた。


 俺ではない。


 ルストは、抱き寄せた。

 声をかけた。

 現実を告げた。

 それでも戻りきらなかったから、手首に噛みついた。


 吸血ではなかった。

 支配でもなかった。

 現実へ引き戻すための痛みだった。


 その噛み跡が、今も彼の手首にある。


 クラウディオは救われたとは思わない。

 助けられたとも認めない。

 ただ、戻された。


 それが腹立たしい。

 もっと腹立たしいのは、その痕を消す気になれないことだった。


 クラウディオはそれを認めない。

 認めないまま、隠さない。


 まったく、面倒な男である。


 ルストは黙って隣を歩いた。


 クラウディオは石畳を進みながら、低く言った。


「見るな」


「見ていない」


「嘘が下手だ」


「見せている」


 クラウディオの足が一拍だけ遅れた。


 それはほんの一瞬だった。すぐに歩調は戻った。しかし、ルストには分かった。言葉が刺さったのではない。言葉が、事実に触れた。


 クラウディオは視線だけをルストへ向ける。


「見せていない」


「隠していない」


 今度は沈黙が落ちた。


 旧い街の朝の音が、その隙間へ入り込む。馬車ではなく車が石畳を越える低い音。市場の準備をする誰かの声。遠くの店先で焼かれる菓子の甘い匂い。教会塔からは鐘は鳴っていない。それでも、塔の影は道の端に黒く伸びていた。


 クラウディオは、手首を袖で隠さなかった。


 ただ、ひどく不機嫌そうに前を向く。


「朝から不愉快なことを言うな」


「事実だ」


「だから不愉快なんだ」


 ルストはそれ以上言わなかった。


 言えば、クラウディオは隠す。あるいは怒って噛み跡を消そうとする。自分の行動の意味を他人に読まれることを、彼は嫌う。特に、それが弱さや傷に近いものならなおさらだ。


 だからルストは黙る。


 黙って、隣を歩く。


 それだけでよかった。


 資料館は朝の光の中で、昨日より白く見えた。


 旧い修道院を改装した建物は、石壁にまだ夜の冷たさを残している。高い窓には薄い雲の光がかかり、重い扉の金具は磨かれて鈍く光っていた。観光客向けの入口は別にあり、二人は研究閲覧者用の小さな扉へ通された。


 中へ入ると、古い紙と革表紙の匂いがした。


 昨日と同じ匂いだ。


 だがクラウディオには、その奥にまだ焦げた砂糖の残り香が混じるように思えた。


 閲覧室へ向かう廊下で、現地の資料館職員が待っていた。灰色の髪を後ろでまとめた中年の女性で、黒い服に薄い手袋をしている。表情は静かで、礼儀正しい。


 その隣には、現地警察から派遣された協力者が立っていた。日本側との連絡役らしく、榊から届いた紹介状を手にしている。淡い色のスーツを着た若い男だったが、目はよく動く。資料館、クラウディオ、ルスト、そして二人の距離を順に確認していた。


 職員は英語で丁寧に挨拶した後、閲覧許可証と記録箱の扱いについて説明した。


 クラウディオは半分も聞いていない顔をしていた。


 ルストは必要な部分だけ聞いていた。


 説明が終わる頃、職員は保存用の白手袋を差し出した。


「資料に直接触れないよう、こちらを」


 その手が、クラウディオの手首の近くで止まった。


 ほんの一瞬だった。


 職員の視線が、牙の跡に落ちる。


 すぐに戻った。

 戻した。

 職業上の礼儀が勝ったのだろう。


 だが遅い。


 クラウディオは気づいていた。


 現地警察の協力者も気づいた。彼は一瞬だけ言葉を止め、ルストへ視線を向けた。噛み跡の意味を正確に理解したわけではない。しかし、普通の怪我ではないこと、そしてそれがルストと無関係ではないことは察したらしい。


 噛み跡の意味を正確に理解する者はいないが、クラウディオがそれを隠さないことで、妙な緊張が漂う。


 資料館の静けさに似つかわしくない、薄い刃のような緊張だった。


 クラウディオは手袋を受け取らず、職員を見た。


「見せ物ではない」


 声は低く、冷たい。


 職員はわずかに顔を強張らせた。


「失礼いたしました」


「失礼だと分かるなら次から目を使う前に脳を通せ」


「クラウディオ」


 ルストが短く呼んだ。


 クラウディオはルストを見上げる。


「貴様のせいで余計な視線を浴びている」


 ルストは淡々と返した。


「隠せばいい」


 クラウディオが黙った。


 隠せばいい。


 あまりにもその通りだった。


 袖を下ろせばいい。

 手袋をすればいい。

 噛み跡を薄めればいい。

 少なくとも他人の視線からは消せる。


 クラウディオは一瞬黙り、結局隠さない。


 代わりに、白手袋を片手で受け取った。

 噛み跡のある手首は、そのままだった。


 ルストは何も言わない。


 職員は気まずそうに目を伏せた。

 現地警察の協力者は咳払いをひとつして、資料の確認へ話を戻した。


 無駄に賢明である。人類もたまには空気を読む。珍しい現象だ。記録しておくべきかもしれない。


 閲覧室の奥に、昨日と同じ机が用意されていた。


 長い木の机。低い照明。資料を置くための布張りの台。横には記録箱が三つ並んでいる。壁際の時計は規則正しく音を刻み、窓からは薄い朝の光が差していた。


 白い光の中に、古い紙の匂いが浮いている。


 職員は記録箱の一つを開けた。


「昨日ご覧になったロウェナ・ミルの処刑記録ですが、関連する補助記録が別箱に残っていました。告発者の聴取記録、没収財産目録、教会側の覚書、それから裁判記録の続きです」


 ロウェナ・ミル。


 その名が出た瞬間、クラウディオの手首がわずかに動いた。


 噛み跡のある方だ。


 痛みが走ったのか、あるいは無意識にそこへ意識が向いたのか。彼の表情は変わらない。だが、袖口から見える牙の痕が、朝の光を受けて妙にはっきり見えた。


 ルストは見なかった。


 いや、見ないようにした。


 クラウディオは資料台の前へ座る。


 椅子の背もたれには触れない。背筋はまっすぐ。目線は資料へ向けられている。昨夜、火刑の夢に呑まれかけた男とは思えないほど整った姿勢だった。


 整いすぎている。


 それは平静ではなく、防御だった。


 職員が白手袋を着け、薄い紙束を机の上へ置く。革表紙の端は傷み、綴じ紐は古くなっている。表紙には古い地方語で、ロウェナ・ミルの名と裁判番号が書かれていた。


 クラウディオは白手袋を片手に着けた。


 噛み跡のある手には、まだ着けない。


 職員が少しだけ視線を動かしかける。

 動かす前に、ルストが見た。

 職員はすぐに視線を資料へ戻した。


 そのやり取りを、クラウディオは気づかないふりをした。


 ふりだけだ。


 彼は、何もかも気づいている。


 クラウディオは資料をめくった。


 古い文字が並んでいる。


 告発者聴取目録。

 証言者一覧。

 町内関係者。

 教会提出記録。

 没収財産配分覚書。


 クラウディオの口元が、少しだけ上がった。


「よく残す。燃やした側の名前だけは、灰にならないらしい」


 その声は静かだった。


 静かすぎた。


 ルストは向かい側に座らず、隣に立った。昨日なら向かいに座っていたかもしれない。だが今日は、隣にいた。クラウディオがそれに気づき、視線だけを上げる。


「近い」


「資料が見える」


「視力が悪くなったなら棺に入れ」


「まだ早い」


「貴様の早い遅いなど聞いていない」


 言いながら、クラウディオはルストを退けなかった。


 資料の一枚目には、告発者の分類があった。


 隣人。

 市場商人。

 教会関係者。

 病人の家族。

 孤児保護担当者。

 目撃者。

 町の有力者。

 その他。


 ルストの視線が一行で止まる。


「病人の家族」


 クラウディオは淡く笑った。


「薬草茶を受け取った連中だろうな」


 次の行。


 孤児保護担当者。


「孤児を食わせたことも罪になった」


 クラウディオの声は乾いている。


 資料をめくる。


 そこには、一人ずつ名前があった。


 ロウェナの菓子を食べていた子どもの母親。

 薬草入りの飲み物を受け取った病人の兄。

 店の裏口へ孤児が入るのを見ていた教会関係者。

 夜遅くまで灯りがついていたと証言した隣人。

 「赤い目の子ども」を見たと語った商人。

 処刑後、店の保管棚を買い取った者。

 土地の借用権を引き継いだ者。

 教会へ多額の寄付をしていた有力者。


 善意を受け取った者。

 恐怖に飲まれた者。

 利益を得た者。

 目を逸らした者。

 自分の保身のために、彼女の名を書いた者。


 彼らの名前が、黒いインクで残っている。


 ルストは低く言った。


「助けられた者の名がある」


 クラウディオはすぐに返した。


「だから言っただろう。善意は燃える」


 その言葉は冷たい。


 しかし、ルストはその冷たさの奥を見た。


 ロウェナを告発した者たちの中に、彼女に助けられた者がいる。クラウディオにとって、それは新しい情報ではないのかもしれない。火刑台の下で、彼はすでに見ていた。助けられた者が目を逸らすところを。菓子を食べていた子どもの母親が黙るところを。薬草茶を受け取った家族がうつむくところを。孤児が隠れて泣くところを。


 それでも、名前として残されることは違う。


 目を逸らした顔が、インクになる。

 沈黙が、証言者名になる。

 恐怖と保身が、記録になる。


 クラウディオは資料の行をなぞらない。

 指で触れない。

 ただ目で読む。


 噛み跡のある手首が、机の上に置かれている。


 隠されていない。


 牙の跡。

 告発者の名。


 どちらも、隠されていない傷だった。


 現地警察の協力者が、資料を覗き込んで言った。


「処刑後に財産配分の記録がある。店の権利が別の商人へ移っています。こちらの人物は、告発者一覧にも名前がありますね」


 澪奈なら、ここで時系列を組むだろう。

 榊なら、利益関係を洗うだろう。

 クラウディオは、薄く笑った。


「恐怖だけで人は燃やさない。恐怖で火をつけ、利益で薪を足す」


 協力者がわずかに黙る。


 ルストは資料を見下ろす。


「誰が利益を得たか見る」


「つまらないほど捜査官じみてきたな」


「お前の真似だ」


 クラウディオは顔をしかめた。


「俺はそんな退屈な言い方をしない」


「似ている」


「耳が腐ったか」


「言葉ではなく、見る場所がだ」


 クラウディオは少しだけ目を細めた。


 怒るかと思ったが、怒らなかった。


 ただ、資料へ視線を戻す。


 記録の中には、何度も同じ構造があった。


 誰かが不安を口にする。

 別の誰かが、それを証言として整える。

 教会が言葉を与える。

 町が沈黙する。

 利益を得る者が、必要な時だけ筆を取る。


 ロウェナ・ミルという一人の女が、菓子を焼き、薬草を煮て、子どもへ食べ物を渡していたことは、記録の中で少しずつ消されている。


 代わりに残るのは、魔女の軟膏、吸血鬼への供物、異端者の治療、悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。


 善意は別の言葉に翻訳される。

 翻訳者は、燃やす側だ。


 まったく、人類は焼き菓子と薬草茶をここまで悪意で翻訳できるらしい。才能の使い道が墓場より暗い。


 資料館の時計が鳴った。


 鐘ではない。

 ただの時計の音だ。


 クラウディオの指先が一瞬だけ止まる。


 ルストは気づいた。


 クラウディオも気づかれたことに気づいた。


「見るな」


「見ていない」


「嘘が下手だ」


「見せている」


「見せていない」


「隠していない」


 クラウディオは今度も黙った。


 資料館職員が、気配を消そうとして失敗している。現地警察の協力者は、目の前の記録より二人の会話の方が難解だという顔をしていた。気の毒に。事件資料に加えて吸血鬼の関係性まで読まされるとは、仕事とは本当に残酷な制度だ。


 クラウディオは静かに言った。


「記録を続けろ」


 職員が慌てて頷き、別の薄い冊子を開いた。


「こちらが裁判記録の続きです。昨日のものは処刑判決まででしたが、こちらは告発者別の聴取内容と、処刑後の追記が含まれています」


 クラウディオの表情は変わらない。


 だが、ルストはその空気がわずかに変わったのを感じた。


 さっきまで噛み跡へ向かっていた意識が、いまは紙へ沈んでいく。


 クラウディオはまだ戻っている。

 昨夜の夢には落ちていない。

 だが、紙の上の名は、彼を別の火へ近づける。


 ルストは低く言う。


「無理なら止める」


「誰に言っている」


「お前に」


「無理などしていない」


「そうか」


「その納得したような顔をやめろ」


「していない」


「嘘が下手だと言ったはずだ」


 クラウディオは資料へ手を伸ばした。


 噛み跡のある手首が、白い光の下に出る。


 職員の視線が、またそこへ落ちかけた。

 今度は落ちる前に止まった。

 学習能力がある。人類も少しは救いようがある、たぶん。


 クラウディオはページをめくった。


 ロウェナを告発した人物たちの名が、そこには整然と並んでいた。


 名前。

 住所。

 職業。

 証言内容。

 教会との関係。

 処刑後の財産処理への関与。


 一人目。

 ロウェナから薬草入りの飲み物を受け取った病人の家族。


 二人目。

 ロウェナの店に出入りしていた孤児を「保護すべき」と訴えた教会関係者。


 三人目。

 店の土地の借用権を処刑後に得た商人。


 四人目。

 夜に赤い目の少年を見たと証言した隣人。


 五人目。

 ロウェナの菓子を子どもが食べていた母親。


 六人目。

 教会へ寄付を増やした有力者。


 七人目。

 火刑後、店の棚と石窯の一部を買い取った者。


 クラウディオの口元が、ゆっくりと笑みの形を作った。


 明るくない。


 冷たいというより、空洞に近い。


「助けられた者ほど、筆を取るのが早い」


 ルストは否定しなかった。


 否定する言葉は、ここでは役に立たない。


 全員がそうではない。

 善意を忘れなかった者もいたはずだ。

 恐怖で黙った者と、利益で告発した者は違う。

 そんな正しい言葉はいくらでも並べられる。


 だが今、クラウディオの前には、助けられた者の名がある。


 正しい言葉で傷が閉じるなら、昨夜の夢はなかった。


 ルストは短く言った。


「写しを取る」


「好きにしろ」


「誰が得たか見る」


「得た者だけでは足りない。黙った者も見ろ」


 ルストがクラウディオを見る。


 クラウディオは資料から目を離さずに言った。


「火をつける者だけで火刑台は組めない。見物人がいる。祈る者がいる。目を逸らす者がいる。終わった後で棚を買う者がいる。そういう連中まで揃って、ようやく人間らしい処刑になる」


 ひどい言い方だった。


 だが、完全な皮肉ではなかった。


 記録の中の名前は、ただの加害者一覧ではない。

 町そのものの断面だった。

 恐怖、飢え、信仰、保身、利益、嫉妬、沈黙、善意の反転。


 夜見坂教会事件と似ている。


 神父だけでは足りなかった。

 少女だけでも足りなかった。

 聖女像だけでも足りなかった。

 祈る者、寄付する者、告発を待つ者、世論、記録、助言、そして沈黙が必要だった。


 久遠院が見ていたものは、これだ。


 火をつける手順ではない。

 火がつく社会の形。


 ルストは低く言った。


「久遠院は、これを見ていたのか」


 クラウディオは目を上げない。


「見ていただけなら随分お行儀がいいな」


「使った」


「証拠はない」


「匂いは」


「濃い」


 それだけ言って、クラウディオはページをめくった。


 そこに、さらに別の紙が挟まっていた。


 薄い。端が傷み、ほかの記録より少し後に足されたものに見える。職員が息を呑み、慎重にページの下へ支えを入れた。


「これは……追記ですね。処刑後の聴取ではなく、告発者名簿の再整理かもしれません」


 クラウディオは目を細めた。


 ルストがわずかに身を寄せる。


 紙には、ロウェナ・ミルを告発した人物たちの名が、改めてまとめられていた。


 ただの一覧ではない。


 その横に、小さな注記がある。


 何を受け取っていたか。

 何を恐れていたか。

 何を得たか。

 誰の証言に乗ったか。

 誰が最初に「魔女」と書いたか。


 クラウディオは手首の噛み跡を隠さないまま、その名簿を見た。


 牙の跡。

 告発者の名。


 どちらも、隠されていない傷だった。


 ルストは何も言わない。


 資料館職員も、現地警察協力者も、声を出さない。


 紙の上には、ロウェナを燃やした者たちの名がある。

 正確には、火をつけた者だけではない。

 火がつくことを可能にした者たちの名だ。


 クラウディオは低く笑った。


「人間は恩を忘れるんじゃない。都合よく裏返す」


 その声に、怒りはあった。

 けれど、怒りだけではなかった。


 彼の手首の噛み跡が、朝の光の中で小さく疼くように見えた。


 職員が震える指で、記録の端を押さえる。


 ルストは名簿を見下ろした。


 ロウェナ・ミルを燃やした者たちの名は、灰ではなく、黒いインクで残っていた。




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