第70話 手首の噛み跡
ルストは、クラウディオの手首を取っていた。
細い骨の形。冷えた皮膚。乱れた脈。
指先の下で、血が荒れている。吸血鬼の血は、本来もっと静かだ。流れているというより、支配されている。王血に近い者ほど、血脈は持ち主の意思に従う。飢えも、怒りも、衝動も、彼らは己の血に命じて黙らせる。
だが今のクラウディオの血は、命令を聞いていなかった。
皮膚の下で、細かく震えている。
火に煽られた煙のように。
遠くの鐘に乱された水面のように。
過去から伸びた手に、まだ足首を掴まれているように。
クラウディオはルストの腕の中にいた。
けれど、まだ戻りきっていない。
目は開いている。赤い瞳はルストの胸元あたりに向いている。だが焦点は揺れたままだ。現実のホテルの部屋を見ているようで、まだその奥にある火刑台を見ている。
白いシーツ。
重いカーテン。
濃い色の絨毯。
机に散らばった旧欧州の異端審問記録。
窓の外に沈む古い教会塔。
それらは確かにそこにある。
だがクラウディオには、まだ白いシーツが灰に見えているのだろう。教会塔は火刑台の柱に見えているのだろう。部屋の静けさは、群衆の沈黙に聞こえているのだろう。
ルストの服を掴んだまま、クラウディオは掠れた息を吐いた。
「……俺ではない」
前よりも弱い声だった。
弁明の形をしている。
しかし誰に向けているのか分からない。
ロウェナ・ミルか。
群衆か。
記録か。
それとも、火刑台の下で動けなかった幼い自分か。
ルストはその手首を掴む指に、少しだけ力を込めた。
「クラウディオ」
反応はない。
いや、ないわけではなかった。
クラウディオの眉間がわずかに歪む。名前は届いている。だが届いた場所が浅い。火刑台の下まで、まだ落ちていかない。
ルストは低く言う。
「戻れ」
クラウディオの唇が動いた。
「……戻っている」
嘘だった。
声の奥に、煙が残っている。
ルストはそれを聞いて、目を細めた。
「嘘だ」
クラウディオが笑おうとした。
笑えなかった。
喉がかすかに鳴る。息を吸おうとして、途中で引っかかる。彼の手が、ルストの服をさらに強く掴んだ。本人は押し返しているつもりなのかもしれない。だが、布を掴む指は逃げるためではなく、落ちないために見えた。
クラウディオ本人が聞けば即座に否定するだろう。
間違いなく、ひどく不機嫌な声で。
ルストは言わなかった。
言えば、この男は残った力を全部使ってでも離れようとする。
窓の外に、鐘は鳴っていない。
それでも、クラウディオの瞳がまた揺れた。
血の気配が、さらに乱れる。
ルストには、声が聞こえた気がした。
現実の音ではない。
クラウディオの血脈に残った記憶が、薄く漏れ出している。
お前のせいだ。
お前がいたから燃えた。
お前に菓子を渡したからだ。
ルストの腕の中で、クラウディオの身体が硬くなる。
次に聞こえた声は、先ほどまでとは違った。
この子を責めないで。
その言葉に、クラウディオの呼吸が途切れた。
ルストは判断した。
声では足りない。
抱き寄せるだけでは足りない。
手首を取るだけでは、まだ火刑台の下から剥がせない。
現実の身体感覚を、もっと強く刻む必要がある。
クラウディオの意識は、いま過去の火に呑まれている。ならば、過去の火ではない痛みを与える。今ここにある身体へ、今ここにいるルストの牙を刻む。
それは吸血というより、現実へ引き戻すための痛みだった。
ルストはクラウディオの手首を引いた。
クラウディオの視線が、ほんの一瞬だけ動く。
遅い。
夢の底から遅れて浮上してくる反応だった。
「……何を」
掠れた声。
ルストは答えなかった。
手首の内側、脈が乱れている場所へ顔を寄せる。クラウディオの血の匂いが、薄く立つ。焦げた砂糖の匂いに混じって、王血特有の冷たい甘さがあった。
吸わない。
飲むためではない。
戻すためだ。
ルストは短く言った。
「戻れ」
そのまま、牙を立てた。
牙が皮膚を破り、クラウディオの血がわずかに滲む。
深くはない。
長くもない。
血を奪うための噛み方ではなかった。
痛みだけを、正確に残す。
クラウディオの身体が一瞬、硬直した。
喉が大きく動く。
息を吸う音が、ようやくはっきりと部屋に響いた。
その瞬間、夢の火刑台の音が遠のいた。
群衆の声が途切れる。
ロウェナの声が煙の向こうへ下がる。
足元へ迫っていた火の熱が、白いシーツの冷たさへ戻る。
火刑台の柱は、窓の外の教会塔へ戻る。
灰は、乱れたシーツの皺へ戻る。
鐘の音は、夜半のホテルの沈黙へ沈む。
クラウディオはそこでようやく息を吸い、目の焦点が戻る。
赤い瞳が、初めてルストを見た。
今度は通り過ぎなかった。
ルストの顔を見た。
ルストの腕を見た。
自分の手首に牙を立てた男を見た。
そして、低く、ひどく不機嫌に言った。
「痛い」
戻った。
ルストは牙を離した。
クラウディオの手首に、小さな噛み跡が残る。血は多くない。薄く滲んだだけだ。けれど、その赤は白い肌の上でひどく鮮明だった。
ルストは手首を離さず、短く告げる。
「戻ったな」
クラウディオの瞳が細くなる。
いつもの圧が、少しだけ戻っていた。
怒りの形をして。
非常に分かりやすく。
「貴様、噛んだな」
「噛んだ」
「謝罪もなしか」
「必要だった」
クラウディオの口元が引きつる。
「手首を噛む必要がどこにある」
「焦点が戻った」
「実験結果のように言うな」
「事実だ」
「殺されたいのか」
低い声だった。
しかし、ルストはその声を聞いて、むしろ息を吐いた。
戻っている。
完全ではない。火刑台の煙はまだ喉の奥に残っている。目元の赤も消えきっていない。身体もまだわずかに震えている。それでも、クラウディオは怒っている。怒れる場所まで戻ってきた。
火刑台の下にいた子どもではなく、ルストに噛まれたことへ腹を立てる男に戻っている。
進歩というにはあまりにも面倒な帰還だった。吸血鬼王の情緒は、開けにくい金庫どころか鍵穴の場所からして隠してくる。防犯性能が無駄に高い。
クラウディオは手首を引こうとした。
ルストはすぐには放さない。
クラウディオの眉が跳ねた。
「放せ」
「血がまだ乱れている」
「吸うな」
「吸っていない」
「なら見るな」
「見ている」
「貴様は本当に不愉快だな」
「知っている」
「開き直るな」
クラウディオの声は冷えていた。
だが先ほどのような掠れた防御ではない。相手を刺すための言葉に戻っている。
ルストは、そこでようやく手を緩めた。
手首から指を離す。
クラウディオはすぐに腕を引いた。
だが、袖で隠さなかった。
噛み跡はそのまま見えている。袖口は少し落ちていたが、傷を覆うほどではない。クラウディオはそれに気づいている。気づいていながら、直さない。
ルストはそれを見た。
何も言わない。
指摘すれば、この男は即座に袖を引き下ろすだろう。あるいは噛み跡ごとルストの存在を罵倒で埋めようとする。だから言わない。
クラウディオは手首を見下ろした。
そこには、ルストの牙の痕があった。
火刑台の記憶ではない。
群衆の声でもない。
ロウェナの最後の訴えでもない。
現実へ戻された証だった。
痛みは、過去から来たものではない。
今ここにいるルストがつけたものだった。
腹立たしい。
許しがたい。
雑だ。
強引だ。
気に入らない。
それでも、その痛みは現在の輪郭を持っていた。
クラウディオは袖を直さなかった。
噛み跡は、火刑の記憶ではなく、現実へ戻された証になる。
本人は、絶対に認めないだろう。
ルストも、認めさせようとはしなかった。
部屋にはまだ、焦げた砂糖の匂いが残っているような気がした。
それが本当に廊下から漂っているのか、クラウディオの夢の残りなのか、血の匂いに混ざった錯覚なのか、分からない。窓の外の教会塔は黙っている。夜の街は静かだ。遠くに車輪の音がかすかに転がり、すぐに消える。
クラウディオは乱れたシーツを見た。
自分の手が握り潰した皺。
現実の痕跡。
夢の灰ではない。
彼は低く言った。
「悪夢など見ていない」
ルストは即座に返した。
「言っていない」
クラウディオの眉間に皺が寄る。
「なら見るな」
「見ている」
「やめろ」
「無理だ」
「無理という言葉で許されると思うな」
「思っていない」
「なお悪い」
言いながら、クラウディオは手首を下ろしたままだった。
隠さない。
ルストは視線をそこへ戻さないようにした。
見れば、クラウディオは気づく。気づけば、怒る。怒れば、袖を引く。非常に面倒な連鎖だ。扱いづらい骨董品か。いや、骨董品なら黙っているだけまだましだ。
クラウディオはベッドの端へ腰をずらし、乱れた呼吸を整えようとした。肩がわずかに上下する。顎を引き、目を伏せる。火刑台の夢を切り離そうとしているのが分かった。
ルストは距離を詰めすぎなかった。
だが離れもしなかった。
クラウディオがそれに気づき、目だけで睨む。
「近い」
「離れるか」
「命令するな」
「質問だ」
「質問の形をした居座りだ」
「なら居座る」
「最悪だな」
「慣れろ」
クラウディオが舌打ちした。
その音も、現実のものだった。
ルストは窓際の椅子へ戻らなかった。ベッドのそばに立ったまま、机の上の資料へ目を向ける。ロウェナ・ミルの記録。旧欧州の告発文。夜見坂教会事件との類似点。久遠院の助言記録。
紙はまだ机にある。
火刑台はもうない。
それでも、紙の上には燃やした側の言葉が残っている。
クラウディオはそれを見ない。
見ないふりをしている。
やがて、低く言った。
「火刑台は終わっていない」
ルストが視線を戻す。
クラウディオは窓の外を見ていなかった。机の資料も見ていない。自分の手首の噛み跡を、ただ見下ろしている。
声は冷たい。
だが夢の中にいた時の掠れではない。
「終わったように記録されただけだ。処刑済み。財産没収。罪状確定。魔女として処刑。便利だな。紙に閉じれば、煙も声も片づく」
ルストは黙って聞いた。
「だが残る。匂いも、鐘も、言葉も。くだらん。灰は、どこにでも入り込む」
クラウディオは手首を下ろした。
噛み跡がまだ見えている。
「なら、今はここだ」
ルストが言った。
クラウディオは冷たい目でルストを見る。
「またその手の現実確認か」
「必要なら何度でも言う」
「耳障りだ」
「聞け」
「命令するな」
「ここはホテルだ」
「知っている」
「火刑台ではない」
「知っている」
「俺がいる」
クラウディオは黙った。
それだけが、ほかの言葉と違った。
ルストは続けない。
言いすぎれば、クラウディオは逃げる。余計なものまで刺そうとする。だから、ここで止める。
クラウディオはしばらく沈黙していた。
それから、噛まれた手首をわずかに動かす。
「次に勝手に噛んだら殺す」
ルストは短く返した。
「覚えておく」
二人とも、それが本気の拒絶ではないことを分かっている。
クラウディオは本気で腹を立てている。手首の痛みにも、噛まれた事実にも、戻されたことにも、ルストが謝らないことにも、全部腹を立てている。
だが、「二度と触るな」とは言わなかった。
噛み跡も隠さない。
ルストも、それを分かっていた。
分かっていて、何も言わなかった。
クラウディオは枕元の水差しへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。噛まれた手首を使ったからだろう。痛みが走ったのか、口元がわずかに歪む。
ルストが水を取ろうとすると、クラウディオは即座に言った。
「いらん」
「まだ何もしていない」
「しようとした」
「水だ」
「分かっている」
「なら」
「いらん」
ルストは水差しに触れなかった。
クラウディオは自分でグラスを取る。噛み跡のある手首を、あえて隠さずに伸ばす。少し震えたが、こぼさなかった。グラスの縁に口をつける。水を飲む。喉が動く。
その一連の動作を、ルストは見ていた。
今度は何も言われなかった。
クラウディオも、見るなとは言わなかった。
水を置いた後、彼はようやく窓の外へ目を向けた。
古い教会塔が夜の中に立っている。
黒い影のようだった。鐘は鳴っていない。だが、鳴り終えたあとの静けさだけがそこにある。石造りの塔は、火刑台ではない。資料館の記録でもない。ロウェナの声でもない。
ただの古い塔だ。
クラウディオはそれを見続けた。
もう完全には夢の中ではない。
だが夢は完全には消えていない。
焦げた砂糖の匂いは、まだどこかにある。
喉の奥の苦味も、完全には消えていない。
ロウェナの「この子を責めないで」という声も、煙の向こうに残っている。
クラウディオは、噛まれた手首に親指で触れた。
軽くなぞる。
痛みがある。
小さく、鋭く、確かな痛み。
彼はそれを確かめるように、もう一度だけ親指で噛み跡をなぞった。
ルストは何も言わない。
窓の外で教会塔は黙っていた。
クラウディオはその影を見たまま、手首の噛み跡を親指でなぞった。
そこだけが、まだ確かに痛かった。




