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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第70話 手首の噛み跡



 ルストは、クラウディオの手首を取っていた。


 細い骨の形。冷えた皮膚。乱れた脈。


 指先の下で、血が荒れている。吸血鬼の血は、本来もっと静かだ。流れているというより、支配されている。王血に近い者ほど、血脈は持ち主の意思に従う。飢えも、怒りも、衝動も、彼らは己の血に命じて黙らせる。


 だが今のクラウディオの血は、命令を聞いていなかった。


 皮膚の下で、細かく震えている。

 火に煽られた煙のように。

 遠くの鐘に乱された水面のように。

 過去から伸びた手に、まだ足首を掴まれているように。


 クラウディオはルストの腕の中にいた。


 けれど、まだ戻りきっていない。


 目は開いている。赤い瞳はルストの胸元あたりに向いている。だが焦点は揺れたままだ。現実のホテルの部屋を見ているようで、まだその奥にある火刑台を見ている。


 白いシーツ。

 重いカーテン。

 濃い色の絨毯。

 机に散らばった旧欧州の異端審問記録。

 窓の外に沈む古い教会塔。


 それらは確かにそこにある。


 だがクラウディオには、まだ白いシーツが灰に見えているのだろう。教会塔は火刑台の柱に見えているのだろう。部屋の静けさは、群衆の沈黙に聞こえているのだろう。


 ルストの服を掴んだまま、クラウディオは掠れた息を吐いた。


「……俺ではない」


 前よりも弱い声だった。


 弁明の形をしている。

 しかし誰に向けているのか分からない。


 ロウェナ・ミルか。

 群衆か。

 記録か。

 それとも、火刑台の下で動けなかった幼い自分か。


 ルストはその手首を掴む指に、少しだけ力を込めた。


「クラウディオ」


 反応はない。


 いや、ないわけではなかった。


 クラウディオの眉間がわずかに歪む。名前は届いている。だが届いた場所が浅い。火刑台の下まで、まだ落ちていかない。


 ルストは低く言う。


「戻れ」


 クラウディオの唇が動いた。


「……戻っている」


 嘘だった。


 声の奥に、煙が残っている。


 ルストはそれを聞いて、目を細めた。


「嘘だ」


 クラウディオが笑おうとした。


 笑えなかった。


 喉がかすかに鳴る。息を吸おうとして、途中で引っかかる。彼の手が、ルストの服をさらに強く掴んだ。本人は押し返しているつもりなのかもしれない。だが、布を掴む指は逃げるためではなく、落ちないために見えた。


 クラウディオ本人が聞けば即座に否定するだろう。

 間違いなく、ひどく不機嫌な声で。


 ルストは言わなかった。


 言えば、この男は残った力を全部使ってでも離れようとする。


 窓の外に、鐘は鳴っていない。


 それでも、クラウディオの瞳がまた揺れた。


 血の気配が、さらに乱れる。


 ルストには、声が聞こえた気がした。


 現実の音ではない。

 クラウディオの血脈に残った記憶が、薄く漏れ出している。


 お前のせいだ。


 お前がいたから燃えた。


 お前に菓子を渡したからだ。


 ルストの腕の中で、クラウディオの身体が硬くなる。


 次に聞こえた声は、先ほどまでとは違った。


 この子を責めないで。


 その言葉に、クラウディオの呼吸が途切れた。


 ルストは判断した。


 声では足りない。

 抱き寄せるだけでは足りない。

 手首を取るだけでは、まだ火刑台の下から剥がせない。


 現実の身体感覚を、もっと強く刻む必要がある。


 クラウディオの意識は、いま過去の火に呑まれている。ならば、過去の火ではない痛みを与える。今ここにある身体へ、今ここにいるルストの牙を刻む。


 それは吸血というより、現実へ引き戻すための痛みだった。


 ルストはクラウディオの手首を引いた。


 クラウディオの視線が、ほんの一瞬だけ動く。


 遅い。

 夢の底から遅れて浮上してくる反応だった。


「……何を」


 掠れた声。


 ルストは答えなかった。


 手首の内側、脈が乱れている場所へ顔を寄せる。クラウディオの血の匂いが、薄く立つ。焦げた砂糖の匂いに混じって、王血特有の冷たい甘さがあった。


 吸わない。


 飲むためではない。


 戻すためだ。


 ルストは短く言った。


「戻れ」


 そのまま、牙を立てた。


 牙が皮膚を破り、クラウディオの血がわずかに滲む。


 深くはない。

 長くもない。

 血を奪うための噛み方ではなかった。


 痛みだけを、正確に残す。


 クラウディオの身体が一瞬、硬直した。


 喉が大きく動く。


 息を吸う音が、ようやくはっきりと部屋に響いた。


 その瞬間、夢の火刑台の音が遠のいた。


 群衆の声が途切れる。

 ロウェナの声が煙の向こうへ下がる。

 足元へ迫っていた火の熱が、白いシーツの冷たさへ戻る。

 火刑台の柱は、窓の外の教会塔へ戻る。

 灰は、乱れたシーツの皺へ戻る。

 鐘の音は、夜半のホテルの沈黙へ沈む。


 クラウディオはそこでようやく息を吸い、目の焦点が戻る。


 赤い瞳が、初めてルストを見た。


 今度は通り過ぎなかった。


 ルストの顔を見た。

 ルストの腕を見た。

 自分の手首に牙を立てた男を見た。


 そして、低く、ひどく不機嫌に言った。


「痛い」


 戻った。


 ルストは牙を離した。


 クラウディオの手首に、小さな噛み跡が残る。血は多くない。薄く滲んだだけだ。けれど、その赤は白い肌の上でひどく鮮明だった。


 ルストは手首を離さず、短く告げる。


「戻ったな」


 クラウディオの瞳が細くなる。


 いつもの圧が、少しだけ戻っていた。

 怒りの形をして。

 非常に分かりやすく。


「貴様、噛んだな」


「噛んだ」


「謝罪もなしか」


「必要だった」


 クラウディオの口元が引きつる。


「手首を噛む必要がどこにある」


「焦点が戻った」


「実験結果のように言うな」


「事実だ」


「殺されたいのか」


 低い声だった。


 しかし、ルストはその声を聞いて、むしろ息を吐いた。


 戻っている。


 完全ではない。火刑台の煙はまだ喉の奥に残っている。目元の赤も消えきっていない。身体もまだわずかに震えている。それでも、クラウディオは怒っている。怒れる場所まで戻ってきた。


 火刑台の下にいた子どもではなく、ルストに噛まれたことへ腹を立てる男に戻っている。


 進歩というにはあまりにも面倒な帰還だった。吸血鬼王の情緒は、開けにくい金庫どころか鍵穴の場所からして隠してくる。防犯性能が無駄に高い。


 クラウディオは手首を引こうとした。


 ルストはすぐには放さない。


 クラウディオの眉が跳ねた。


「放せ」


「血がまだ乱れている」


「吸うな」


「吸っていない」


「なら見るな」


「見ている」


「貴様は本当に不愉快だな」


「知っている」


「開き直るな」


 クラウディオの声は冷えていた。

 だが先ほどのような掠れた防御ではない。相手を刺すための言葉に戻っている。


 ルストは、そこでようやく手を緩めた。


 手首から指を離す。


 クラウディオはすぐに腕を引いた。


 だが、袖で隠さなかった。


 噛み跡はそのまま見えている。袖口は少し落ちていたが、傷を覆うほどではない。クラウディオはそれに気づいている。気づいていながら、直さない。


 ルストはそれを見た。


 何も言わない。


 指摘すれば、この男は即座に袖を引き下ろすだろう。あるいは噛み跡ごとルストの存在を罵倒で埋めようとする。だから言わない。


 クラウディオは手首を見下ろした。


 そこには、ルストの牙の痕があった。


 火刑台の記憶ではない。

 群衆の声でもない。

 ロウェナの最後の訴えでもない。

 現実へ戻された証だった。


 痛みは、過去から来たものではない。

 今ここにいるルストがつけたものだった。


 腹立たしい。

 許しがたい。

 雑だ。

 強引だ。

 気に入らない。


 それでも、その痛みは現在の輪郭を持っていた。


 クラウディオは袖を直さなかった。


 噛み跡は、火刑の記憶ではなく、現実へ戻された証になる。


 本人は、絶対に認めないだろう。


 ルストも、認めさせようとはしなかった。


 部屋にはまだ、焦げた砂糖の匂いが残っているような気がした。


 それが本当に廊下から漂っているのか、クラウディオの夢の残りなのか、血の匂いに混ざった錯覚なのか、分からない。窓の外の教会塔は黙っている。夜の街は静かだ。遠くに車輪の音がかすかに転がり、すぐに消える。


 クラウディオは乱れたシーツを見た。


 自分の手が握り潰した皺。

 現実の痕跡。

 夢の灰ではない。


 彼は低く言った。


「悪夢など見ていない」


 ルストは即座に返した。


「言っていない」


 クラウディオの眉間に皺が寄る。


「なら見るな」


「見ている」


「やめろ」


「無理だ」


「無理という言葉で許されると思うな」


「思っていない」


「なお悪い」


 言いながら、クラウディオは手首を下ろしたままだった。


 隠さない。


 ルストは視線をそこへ戻さないようにした。


 見れば、クラウディオは気づく。気づけば、怒る。怒れば、袖を引く。非常に面倒な連鎖だ。扱いづらい骨董品か。いや、骨董品なら黙っているだけまだましだ。


 クラウディオはベッドの端へ腰をずらし、乱れた呼吸を整えようとした。肩がわずかに上下する。顎を引き、目を伏せる。火刑台の夢を切り離そうとしているのが分かった。


 ルストは距離を詰めすぎなかった。


 だが離れもしなかった。


 クラウディオがそれに気づき、目だけで睨む。


「近い」


「離れるか」


「命令するな」


「質問だ」


「質問の形をした居座りだ」


「なら居座る」


「最悪だな」


「慣れろ」


 クラウディオが舌打ちした。


 その音も、現実のものだった。


 ルストは窓際の椅子へ戻らなかった。ベッドのそばに立ったまま、机の上の資料へ目を向ける。ロウェナ・ミルの記録。旧欧州の告発文。夜見坂教会事件との類似点。久遠院の助言記録。


 紙はまだ机にある。


 火刑台はもうない。

 それでも、紙の上には燃やした側の言葉が残っている。


 クラウディオはそれを見ない。


 見ないふりをしている。


 やがて、低く言った。


「火刑台は終わっていない」


 ルストが視線を戻す。


 クラウディオは窓の外を見ていなかった。机の資料も見ていない。自分の手首の噛み跡を、ただ見下ろしている。


 声は冷たい。

 だが夢の中にいた時の掠れではない。


「終わったように記録されただけだ。処刑済み。財産没収。罪状確定。魔女として処刑。便利だな。紙に閉じれば、煙も声も片づく」


 ルストは黙って聞いた。


「だが残る。匂いも、鐘も、言葉も。くだらん。灰は、どこにでも入り込む」


 クラウディオは手首を下ろした。


 噛み跡がまだ見えている。


「なら、今はここだ」


 ルストが言った。


 クラウディオは冷たい目でルストを見る。


「またその手の現実確認か」


「必要なら何度でも言う」


「耳障りだ」


「聞け」


「命令するな」


「ここはホテルだ」


「知っている」


「火刑台ではない」


「知っている」


「俺がいる」


 クラウディオは黙った。


 それだけが、ほかの言葉と違った。


 ルストは続けない。


 言いすぎれば、クラウディオは逃げる。余計なものまで刺そうとする。だから、ここで止める。


 クラウディオはしばらく沈黙していた。


 それから、噛まれた手首をわずかに動かす。


「次に勝手に噛んだら殺す」


 ルストは短く返した。


「覚えておく」


 二人とも、それが本気の拒絶ではないことを分かっている。


 クラウディオは本気で腹を立てている。手首の痛みにも、噛まれた事実にも、戻されたことにも、ルストが謝らないことにも、全部腹を立てている。


 だが、「二度と触るな」とは言わなかった。


 噛み跡も隠さない。


 ルストも、それを分かっていた。


 分かっていて、何も言わなかった。


 クラウディオは枕元の水差しへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。噛まれた手首を使ったからだろう。痛みが走ったのか、口元がわずかに歪む。


 ルストが水を取ろうとすると、クラウディオは即座に言った。


「いらん」


「まだ何もしていない」


「しようとした」


「水だ」


「分かっている」


「なら」


「いらん」


 ルストは水差しに触れなかった。


 クラウディオは自分でグラスを取る。噛み跡のある手首を、あえて隠さずに伸ばす。少し震えたが、こぼさなかった。グラスの縁に口をつける。水を飲む。喉が動く。


 その一連の動作を、ルストは見ていた。


 今度は何も言われなかった。


 クラウディオも、見るなとは言わなかった。


 水を置いた後、彼はようやく窓の外へ目を向けた。


 古い教会塔が夜の中に立っている。


 黒い影のようだった。鐘は鳴っていない。だが、鳴り終えたあとの静けさだけがそこにある。石造りの塔は、火刑台ではない。資料館の記録でもない。ロウェナの声でもない。


 ただの古い塔だ。


 クラウディオはそれを見続けた。


 もう完全には夢の中ではない。

 だが夢は完全には消えていない。


 焦げた砂糖の匂いは、まだどこかにある。

 喉の奥の苦味も、完全には消えていない。

 ロウェナの「この子を責めないで」という声も、煙の向こうに残っている。


 クラウディオは、噛まれた手首に親指で触れた。


 軽くなぞる。


 痛みがある。


 小さく、鋭く、確かな痛み。


 彼はそれを確かめるように、もう一度だけ親指で噛み跡をなぞった。


 ルストは何も言わない。


 窓の外で教会塔は黙っていた。

 クラウディオはその影を見たまま、手首の噛み跡を親指でなぞった。

 そこだけが、まだ確かに痛かった。



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