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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第69話 抱き寄せる腕



 クラウディオの目は開いていた。


 だから、最初の一瞬だけなら、目覚めたようにも見えた。


 白いシーツの上で、彼はうっすらと瞼を上げていた。赤みを帯びた瞳が、窓際の暗がりを見ている。呼吸は乱れ、指はシーツを握り潰している。額には薄く汗が浮かび、喉が何度も動いていた。


 けれど、ルストには分かった。


 目は開いているのに、見ているものが違う。


 クラウディオの視線は、ルストの方へ向いていた。だが焦点は合っていない。そこにいるルストの輪郭をなぞっているようで、実際にはその向こう側を見ている。ホテルの壁も、燭台風の照明も、机の上の資料も、重いカーテンも、彼の中ではもう現実の形を保っていなかった。


 彼は、まだホテルに戻っていない。


 火刑台の下にいる。


 旧欧州の地方都市にある古いホテルの同室。重いカーテン。白いシーツ。窓の外に立つ教会塔。夜の石畳を薄く濡らす街灯。机に積まれた異端審問記録。


 そのすべてが、クラウディオには違うものに見えているのだろう。


 白いシーツは灰に見えている。

 教会塔は火刑台に見えている。

 ルストの声は、まだ群衆の声に呑まれている。


 窓の外の鐘は鳴っていなかった。


 それでも部屋の中には、鐘が鳴った後のような空気が残っている。


 ルストはベッドの脇に立ったまま、低く名前を呼んだ。


「クラウディオ」


 クラウディオの瞳がかすかに動く。


 しかし、それは反応ではなかった。夢の奥に映る何かを追っただけだ。唇が小さく震え、掠れた息が漏れる。


「戻れ」


 ルストは続けた。


 いつものように、命令の形をした確認だった。慰めではない。優しい言葉でもない。現実の位置を、短く、低く、ひとつずつ置いていく。


「ここだ」


 クラウディオは答えない。


 喉が動く。声にならない何かが引っかかっている。


「ここは火刑台ではない」


 その言葉に、クラウディオの肩がわずかに跳ねた。


 届いたのか。

 届いていないのか。


 どちらでもあり、どちらでもなかった。


 彼の目は開いている。けれど、現実を見ていない。瞳の赤みは濃く、奥に火の色のようなものが滲んでいる。呼吸は荒く、吸い込むたびに喉の奥で擦れる音がした。手はシーツを握り、指先が白くなるほど力が入っている。


 ルストは、その手を見た。


 クラウディオは、何かから逃げようとしている。だが身体は逃げられない。火刑台の下で足が動かなかった子どものまま、現実のベッドの上でも動けずにいる。


 面倒な男だ。


 暴君の顔をして、王の声で人を切り捨て、過去など存在しないように振る舞うくせに、こういう時だけ身体が先に真実を吐く。人間も吸血鬼も、なぜこうも体面より身体の方が正直なのか。進化の設計者は性格が悪い。


 ルストは一歩近づいた。


 クラウディオの視線が、ようやくルストの方へ向いた。


 だが、見ていない。


 目は開いているのに、見ているものが違う。


 ルストの顔ではなく、その向こうにいる誰かを見ている。火刑台を囲む群衆か。教会の者か。記録に罪を書き込んだ手か。あるいは、火刑台の下に立っていた幼い自分自身か。


「クラウディオ」


 ルストがもう一度呼ぶと、クラウディオの唇が動いた。


「……俺では、ない」


 前話の最後に漏れたのと同じ言葉だった。


 掠れている。否定というより、弁明だった。誰へ向けているのか分からない。群衆へか。ロウェナへか。自分自身へか。


 ルストは答えない。


 今、「そうだ」と言っても届かない。

 今、「お前ではない」と言っても、火刑台の下にいる子どもは信じない。


 正しい言葉で傷が閉じるなら、誰も苦しまない。


 だから、ルストは言葉を選ばない。

 数を減らす。


「聞け」


 クラウディオの眉間が歪んだ。


 耳には入っている。だが意味が届かない。夢の中の声の方が強い。


 ルストはそれを見て、呼吸を一度だけ深くした。


 次に踏み込めば、クラウディオは拒むだろう。

 それでも踏み込む必要がある。


 放っておけば、彼は火刑台の下へ戻りきる。


 ルストが手を伸ばした瞬間、クラウディオの腕が跳ねた。


 いつもの鋭い動作ではなかった。敵を払うための冷静な動きではない。半覚醒の身体が、本能的に近づくものを弾こうとしただけだ。


 ルストの手首に、クラウディオの指先がぶつかる。


「触るな」


 掠れた声だった。


 その声には、いつもの傲慢な圧がない。幼い頃に戻ったような、怒りと恐怖と屈辱が混ざっている。


 いつものクラウディオなら、その一言は命令になる。相手を退け、距離を切り、触れる権利などないと突きつける刃になる。


 だが今の「触るな」は違った。


 命令ではない。

 防御だった。


 火刑台。群衆。煙。ロウェナを救えなかった自分。責める声。庇われる苦しさ。全部を拒むために、たまたま目の前にいるルストを押し返しているだけだった。


 ルストはその手を避けなかった。


 払われた腕を、ただ受け止める。


 クラウディオの指は冷えていた。だが血は乱れている。皮膚の下で、古い恐怖に煽られた血脈が細かく震えていた。


「触るな、と言えるなら、まだ戻れる」


 ルストが低く言うと、クラウディオは目を細めた。


 見ていない瞳で睨む。


「黙れ」


 その声も弱い。


 弱いからこそ、本人はより鋭くしようとしている。必死に刃の形に整えようとしている。見ていて腹立たしいほど不器用だった。刃物の柄を握る手が震えているのに、まだ切れるふりをしている。


 ルストは正面へ回った。


 クラウディオの視線が追いつかない。

 赤い目が、ルストを通り過ぎて、その背後の見えない広場を見ている。


 どこかで声がした。


 現実には、誰もいない。


 だがクラウディオの喉が震えた瞬間、ルストにも、ほんの薄く空気の歪みが伝わった。


「お前のせいだ」


 誰の声でもない。

 誰の声でもある。


 ホテルの部屋に響いたのではない。けれど、クラウディオの中で鳴っている声が、血の乱れに乗って部屋へ滲み出したようだった。


 ルストの表情が冷える。


 夢の群衆。


「お前がいたから燃えた」


 クラウディオの指がシーツをさらに強く掴んだ。


 ロウェナの声も重なる。


「私は魔女じゃない」


 その次に、もっと近い声が聞こえた。


「この子を責めないで」


 クラウディオの呼吸が詰まる。


 ルストは迷わなかった。


 ルストは彼を正面から抱き寄せる。優しく慰めるというより、逃げる身体を現実へ固定するための抱擁だった。


 クラウディオの肩を片腕で受け止め、背中へもう片方の腕を回す。逃げようとする動きの先を塞ぎ、ベッドの上で崩れないように支える。力は強い。だが乱暴ではない。骨を軋ませるほどではなく、逃げ道だけを塞ぐ重さだった。


 クラウディオは抵抗するが、力が入らない。


 腕が上がりかける。ルストの肩を押し返そうとする。けれど、夢と現実の境で消耗しきった身体は、思うように動かない。手がルストの胸元に当たり、押すつもりだった指が布を掴む。


 ルストはその手を剥がさなかった。


 クラウディオの呼吸が、ルストの胸元にかかる。浅い。速い。火刑台の煙を吸い込んでいるような呼吸だった。


「放せ」


 クラウディオは言った。


 だが、言葉ほど身体は離れようとしていない。


 腹立たしいほど正直な身体だった。本人が見たら全力で否定するだろう。人類と吸血鬼は、こういう時だけ自己認識の精度が壊滅する。困った生物である。


 ルストはクラウディオの後頭部を押さえなかった。

 首筋にも触れない。

 噛まない。

 血を取らない。


 ただ、腕で固定する。


 今ここにある体温と、衣擦れと、腕の重みを、夢の灰より強くする。


「ここにいるのは俺だ。火刑台ではない」


 ルストは低く告げた。


 クラウディオの背が強張る。


 その言葉は、慰めではなかった。

 現実の確認だった。


 ホテルの部屋。

 白いシーツ。

 窓の外の教会塔。

 机の上の資料。

 ルストの腕。

 自分の呼吸。


 火刑台ではない。


「聞け」


 ルストは続ける。


「ここはホテルだ」


 クラウディオの指が、ルストの服を強く掴む。


「鐘は今の鐘だ」


 外では何も鳴っていない。

 けれど、クラウディオの中では鳴っているのだろう。


「火刑台ではない」


 クラウディオの喉が鳴る。


 まだ戻らない。


 赤い瞳の焦点は揺れたままだ。ルストの肩越しに、存在しない群衆を見ている。白いシーツは、彼にはまだ灰だ。重いカーテンは群衆の影だ。窓の外の教会塔は、火刑台の柱だ。


 夢の声がさらに薄く滲む。


「お前のせいだ」


 クラウディオの身体がびくりと震えた。


「お前がいたから燃えた」


「違う」


 ルストが言った。


 短く。

 強くはない。

 だが、確かに。


 クラウディオは聞いていない。聞こえているのに、受け取れていない。


 ロウェナの声がまた重なる。


「この子を責めないで」


 その瞬間、クラウディオが息を詰めた。


 ルストの服を掴む手に、さらに力が入る。布が歪む。指先が震えている。掴むというより、しがみつくに近い。


 本人は絶対に認めないだろう。


 だから、ルストは指摘しない。


 クラウディオはルストの胸元に額を押しつけかけ、すぐに抵抗するように顎を上げた。見えない火刑台を睨む。見えない群衆を睨む。見えない自分自身を睨む。


「俺ではない」


 掠れた声。


 それから、低く、憎むように吐き出した。


「俺が火をつけたわけではない」


「知っている」


 ルストは答えた。


 クラウディオの瞳がわずかに揺れる。


 今の返答は、少しだけ届いた。


 しかし次の瞬間、また夢の声が戻る。


「お前に菓子を渡したからだ」


 クラウディオの肩が震える。


「お前が悪しき血だったからだ」


 ルストの腕の中で、クラウディオが息を呑んだ。


 その反応は、現代のクラウディオのものではなかった。


 火刑台の下で、赤い瞳を隠して俯いていた子どもの反応だった。


「見るな」


 クラウディオが言う。


 誰に向けたのか分からない。


 ルストか。

 群衆か。

 ロウェナか。

 自分自身か。


「見ていない」


 ルストが返す。


 クラウディオは、掠れた笑いのような息を漏らした。


「嘘が……下手だ」


 言葉の形だけは、いつものクラウディオに似ていた。


 だが、声が違う。


 冷笑の刃ではない。刃を持つ手が震えている。


 ルストは腕を緩めなかった。


 クラウディオの胸が、荒く上下する。呼吸を整えようとして、整えられない。夢の煙がまだ喉に残っているのだろう。焦げた砂糖の匂いが、部屋に本当にあるのか、彼の血から漏れているのか、分からなくなっていた。


 ルストは言った。


「息をしろ」


 クラウディオは反発するように唇を歪めた。


「命令……するな」


「命令だ」


「貴様……」


「息をしろ」


 短い言葉を、同じ高さで置く。


 クラウディオは睨む。焦点の合わない目で、それでも確かにルストを睨もうとする。夢の群衆ではなく、少しだけ現実のルストへ視線が戻りかける。


 だが、完全には戻らない。


 クラウディオの手はルストの服を掴んだままだった。指先は震え、布を歪ませている。押し返すためではない。しがみつくためでもない。どちらとも認められない半端な力で、彼はルストを掴んでいた。


 ルストはその手を見下ろした。


 剥がさない。


 それが、今のクラウディオを現実へ繋いでいる。


 外で、風が窓硝子を撫でた。


 ほんの微かな音だった。


 しかしクラウディオの身体がまた強張る。


 鐘に聞こえたのだ。


 鐘。

 広場。

 灰。

 火刑台。

 ロウェナの声。


 クラウディオの目から、また焦点が抜ける。


 ルストは顎を引いた。


 抱擁だけでは足りない。


 クラウディオが、掠れた声で言った。


「……貴様が」


 ルストは黙って聞く。


「貴様が、あの時いたなら」


 その言葉は、ルストに向けられていた。


 だが、ルストだけに向けられていたわけではなかった。


 なぜ、あの時誰も助けなかった。

 なぜ、自分は助けられなかった。

 なぜ、今になって現れる。

 なぜ、今の自分だけを抱き止める。

 あの時の子どもの自分は、誰にも抱き止められなかった。

 今さら遅い。

 それでも、今ここにいるのがルストだから、怒りをぶつけるしかない。


 理不尽だった。


 ルストは過去にいない。

 ロウェナが連れて行かれた広場にも、火刑台の下にも、幼いクラウディオの隣にもいなかった。助けられるはずがない。止められるはずがない。


 そんなことはクラウディオも知っている。


 知っていて、言っている。


 いや、夢の奥にいる今は、知っていることすら上手く掴めていないのかもしれない。


 ルストは怒らなかった。


 正論で返すこともできた。


 その場にいなかった。

 助けられるわけがない。

 責める相手を間違えるな。


 どれも正しい。


 そして、どれも今のクラウディオには届かない。


 正しい言葉で傷が閉じるなら、誰も苦しまない。


 ルストは、ただ腕を緩めずに言った。


「過去にはいない。今ここにいる」


 クラウディオの指が、ルストの服をさらに強く掴んだ。


 受け入れたわけではない。

 納得したわけでもない。


 けれど、離さなかった。


「今さら……」


 クラウディオが掠れた声で言う。


「今さら、何になる」


「今の支えにはなる」


「支えなどいらん」


「なら、離せ」


 クラウディオは離さない。


 沈黙が落ちた。


 ひどく分かりやすい沈黙だった。これでまだ本人は否定するつもりなのだから、吸血鬼の自尊心は面倒な装飾過多である。家具なら廃棄に手間がかかるタイプだ。


 ルストは指摘しなかった。


 指摘すれば逃げる。


 だから、ただ抱く。


 クラウディオの呼吸はまだ荒い。肩は強張っている。瞳は完全には戻っていない。ルストの腕の中にいても、まだ火刑台の下にいる。


 群衆の声が薄く残っている。


「お前のせいだ」


 クラウディオの喉が震える。


「お前がいたから燃えた」


 彼の目が、また赤く揺れる。


 ロウェナの声が、その奥に重なる。


「この子を責めないで」


 クラウディオの身体が、崩れかける。


 ルストは、抱擁だけでは足りないと判断した。


 腕の中に閉じ込めるだけでは、まだ夢の火刑台が彼を掴んでいる。声だけでは足りない。体温だけでも足りない。


 血脈が乱れている。


 現実の身体感覚へ、もっと深く繋ぎ直す必要がある。


 噛まない。

 まだ噛まない。


 ルストは片腕でクラウディオの背を支えたまま、もう片方の手を下ろした。


 クラウディオの手は、まだルストの服を掴んでいる。その手の震えを、ルストは一瞬見た。


 そして、クラウディオの手首を取る。


 指先が脈を捉えた。


 乱れた血が、皮膚の下で暴れている。


 クラウディオの瞳は、まだ戻りきっていない。


 遠くで、鳴っていないはずの鐘が、もう一度だけ鳴ったように思えた。




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