第68話 火刑の夢
ホテルの夜は、古い紙の匂いがした。
窓の外には、旧い教会塔が見えている。昼間は石造りの街並みに溶け込んでいたその塔も、夜になると輪郭だけが黒く浮かび、雲の低い空を鋭く刺していた。鐘は鳴っていない。けれど、鳴る前からすでに、部屋の空気には鐘の余韻めいた重さがあった。
部屋は広かった。
重いカーテンは半分だけ閉じられ、残りの隙間から、街灯に濡れた石畳の光が細く入り込んでいる。古い木製の机には、資料館でもらった閲覧許可証、異端審問記録の写し、旧地名と現地名の対照表、夜見坂教会事件の整理資料、久遠院怜司の助言記録の写しが広げられていた。机の上の小さな照明が、紙の端を黄色く照らしている。
白いシーツは清潔だった。濃い色の絨毯は厚く、足音を吸い込む。暖房は低く唸り、壁の燭台風の照明は揺れもしない光を落としていた。
快適な部屋だった。
だから余計に落ち着かない。
人間という生き物は妙なところに気が回る。客室には白いシーツを置き、温かい湯を用意し、窓から教会塔を見せる。たぶん宿泊業としては上等なのだろう。過去を火刑台ごと窓の外に配置するな、という苦情欄は予約サイトに存在しない。文明の限界である。
ルスト・ヴァルレインは、窓際の椅子に座って資料を読んでいた。
手元の紙には、ロウェナ・ミルの処刑記録に関する索引と、夜見坂教会事件の告発構造を照合したメモが重ねられている。告発者。祈り。寄付。血。罪を貼る言葉。処刑台。聖女像。魔女。
時代も場所も違う。だが、罪の集め方は同じだった。
ルストは紙を一枚めくる。
その手が、途中で止まった。
ベッドの方から、浅い呼吸が聞こえた。
クラウディオ・ルジェリウスは、白いシーツの上に横たわっていた。寝返りを打つでもなく、目を閉じ、顔を窓とは反対側へ向けている。襟元はきっちり閉じられ、手袋は外されているが、片手はシーツの上に置かれたままだった。
眠っているように見える。
だが、眠ってはいない。
ルストには分かった。
呼吸が浅い。まぶたが時折、細かく震える。顎に力が入っている。指先が、シーツの布をわずかに掴んでいる。眠りに沈む身体ではなく、沈むのを拒みながら、それでも何かに引かれていく身体だった。
クラウディオは眠ったふりをしていた。
ルストに起きていると気づかれたくないのだろう。資料館でロウェナ・ミルの名を見たこと。処刑記録の末尾に「悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪」と記されていたこと。火刑台跡の広場で、鐘の音に視界を揺らしたこと。どれも認めたくない。
起きていれば、話さなければならない。
あるいは、話さないためにまた皮肉で切りつける必要がある。
眠っていれば、何も言わずに済む。
そう判断したのだろう。実に合理的で、実に愚かな逃げ方だった。眠りは口を閉じるには便利だが、夢の扉まで閉じてくれるとは限らない。人間も吸血鬼も、そこをよく見落とす。寝れば全部終わると思うな。脳はブラック企業より働く。
ルストは資料へ視線を戻した。
しかし、意識の一部はずっとベッドに残っている。
紙をめくる音が、部屋に小さく響いた。古い紙の匂い。革表紙の匂い。窓の外から、雨上がりの石畳の匂いが薄く入ってくる。さらにその奥に、夜のホテルの厨房から漂ってくるのか、微かな焼き菓子の匂いが混じっていた。
クラウディオの指が、少し強くシーツを掴んだ。
ルストは顔を上げた。
クラウディオの呼吸が、さらに浅くなっている。
まぶたの下で、眼球がかすかに動いた。喉がわずかに鳴る。血の気配が乱れ始めていた。眠りではない。これは、引かれている。
夢へ。
火刑台へ。
ルストはまだ動かなかった。
無理に起こせば、クラウディオは反射的に拒む。触れれば逃げるかもしれない。夢から引き戻すには、タイミングを誤れない。
だから、まだ見ている。
ただ見ている。
クラウディオの呼吸を聞きながら、ルストは資料を閉じた。
◇
最初は、ホテルの部屋だった。
白いシーツがあった。重いカーテンがあった。窓の外には教会塔が立っていた。机の上には資料があり、窓際にはルストの影があった。
クラウディオは、自分が眠っていないことを知っていた。
目を閉じているだけだ。そう思っていた。
なのに、白いシーツの感触が変わっていく。
さらりとした布が、指先の下で崩れた。
乾いた粉のように。
灰だった。
ホテルの白いシーツは灰になり、窓の外の教会塔は火刑台へ変わる。
カーテンの影が伸びる。影は壁から剥がれ、立ち上がり、人の形を取った。ひとり、ふたり、十人、数えきれないほど。絨毯の濃い色が石畳へ変わる。机の上の資料が風もないのにめくれ、紙の文字が黒く滲む。
ロウェナ・ミル。
魔女として処刑。
悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。
文字が燃えたわけではない。
だが、読めなくなる前に、もう読めていた。
ホテルの静けさは、広場の沈黙へ変わった。
クラウディオは立っていた。
いや、立っているつもりだった。
足元の灰が重い。足首に絡みついている。手が小さい。視線が低い。自分の手袋も、襟元も、今の服もない。指は細く、掌はまだ子どもの形をしていた。
クラウディオは夢の中で幼い姿に戻り、声が出ない。
喉が動かない。
息だけが浅く入って、煙の味になって戻る。
目の前に火刑台があった。
ロウェナが立っている。いや、立たされている。粉のついた手。乱れた髪。店の前掛けではない、粗末な服。けれど、その指先にはまだ小麦粉の白さが残っているように見えた。
彼女は周囲へ訴えていた。
「私は魔女じゃない」
声は、広場に落ちた。
誰も拾わない。
「子どもに食べ物を渡しただけ」
誰かが目を逸らした。
「この子を責めないで」
クラウディオの心臓が、いや、夢の中の幼い胸が、凍るように止まった。
この子。
あの子。
自分だ。
ロウェナは名前を呼ばない。呼べば見つかるから。呼べば、罪がさらに彼へ伸びるから。最後まで、彼女は自分を隠そうとしている。
なのに、群衆の顔が動いた。
ひとつずつ。
ロウェナを見ていたはずの目が、ゆっくりと、こちらを向く。
夢の中の群衆は、今度はロウェナではなくクラウディオを見る。
視線が集まる。
町人の顔。教会の顔。市場の老人。菓子を買いに来ていた子どもの母親。薬草茶を受け取った病人の家族。孤児に背を向けた者。記録の行間に名前を残さなかった者。全員の目が、幼いクラウディオへ向いていた。
「お前のせいだ」
声は一人ではなかった。
群衆の声。教会の声。記録の声。現代の自分自身の声。
「お前に菓子を渡したからだ」
クラウディオは口を開けようとした。
違う。
そう言おうとした。
だが、喉が動かない。
「お前が悪しき血だったからだ」
赤い瞳。
小さな牙。
悪しき血。
自分を示す言葉が、広場の空気に浮かぶ。誰かが紙片を持っている。そこには、黒い文字で罪状が書かれている。魔女。供物。異端者の治療。悪しき血。
クラウディオは首を振ろうとした。
動かない。
足も動かない。
灰が絡みついている。白いシーツだったはずの灰が、足首へまとわりついている。まるで、ベッドの中から火刑台へ縫いつけられているようだった。
鐘が鳴る。
一度。
広場に落ちる。
ロウェナの声が煙に削られる。
「私は、魔女じゃ……」
最後までは聞こえない。
聞きたくない。
聞かなければならない。
どちらも同時に喉を塞ぐ。
クラウディオは夢の中で、幼いまま、声を出そうとする。
俺ではない。
俺が火をつけたわけではない。
俺は何もできなかっただけだ。
何も。
何もできなかった。
その言葉は、弁明ではなく、罪の別名になって戻ってくる。
群衆が囁く。
「お前が来なければ」
「お前が食べなければ」
「お前が子どもでなければ」
足元の灰が赤くなった。
火はロウェナを包むのではなく、自分の足元へ迫ってくる。
それは炎というより、灰の下で息をしていた赤いものだった。じわじわと滲み、石畳の隙間から上がり、灰を内側から染めていく。煙が低く這う。焦げた砂糖の匂いが濃くなる。
ロウェナの店の匂い。
蜂蜜。
小麦粉。
紙包み。
少し焦げた砂糖の端。
熱いから少し冷ましてから食べなさい。
その声が、煙の奥から響いた。
次の瞬間、同じ匂いが火刑台の匂いになった。
喉に苦味が張りつく。
クラウディオは息を吸えない。
群衆の目がさらに近づく。顔はぼやけているのに、視線だけが鮮明だった。目。目。目。誰もロウェナを見ていない。誰も火を見ていない。全員が、幼いクラウディオを見ている。
「お前のせいだ」
「お前に菓子を渡したからだ」
「お前が悪しき血だったからだ」
違う。
違う。
違う。
違うと言いたい。
だが声が出ない。
ロウェナの声が重なる。
「この子を責めないで」
その言葉がいちばん苦しい。
責められるより、庇われる方が苦しい。
お前は悪くない、と言われるたび、自分が何もできなかったことを思い出す。助けられなかった。名を呼べなかった。走り出せなかった。彼女の前に立てなかった。
ただ見ていた。
火刑台の下で。
灰の中で。
群衆の中で。
誰よりも自分を責めているのは、群衆ではなかった。
自分だった。
その自分の声が、群衆の口を借りている。
お前のせいだ。
◇
現実の部屋で、クラウディオの手がシーツを握り潰し、呼吸が荒くなっている。
白い布に、指の跡が深く沈んでいた。額に薄く汗が浮かぶ。喉が小さく鳴る。歯を噛みしめ、まぶたは閉じたまま、眉間だけがわずかに歪んでいた。
部屋の空気が重くなる。
血の気配が乱れている。
ルストは椅子から立ち上がった。
資料は机に伏せた。紙が一枚、わずかにずれて音を立てる。その音にもクラウディオは反応しない。
ルストは低く呼んだ。
「クラウディオ」
反応はない。
窓の外の教会塔が、黒い影を落としている。夜の石畳に街灯の光が滲む。遠くで、鐘ではない何かの金属音がした。ホテルの配管か、廊下の扉か。ただの生活音だ。
しかし、今のクラウディオには違う音に聞こえているのだろう。
ルストはもう一度呼ぶ。
「クラウディオ」
クラウディオは反応しない。
ルストはベッドへ近づいた。足音は絨毯に吸われる。すぐに触れない。夢の奥で何に掴まれているか分からない相手を、乱暴に引き剥がせば壊す。あまりにも面倒な繊細さだ。まったく、壊れ物のくせに本人だけは自分を鉄製だと思っている。迷惑な骨董品である。
ルストはベッドの脇に立つ。
クラウディオの指が、さらに強くシーツを掴んだ。
呼吸が乱れる。
喉が何かを言いかけて、言えない。
ルストは判断する。
ただの悪夢ではない。
火刑台の記憶だ。
資料館で見た記録。広場の鐘。焼き菓子の匂い。ロウェナ・ミル。罪状。悪しき血を持つ少年。
それらが、クラウディオを夢の奥へ引きずっている。
噛むか。
一瞬、その選択が浮かぶ。
血を通して引き戻すのが早い。乱れた血脈を押さえるなら、噛む方が確実だ。これまで幾度もそうしてきた。だが、今日は違う。
第五十七話で、ルストは噛まなかった。
今日は噛まない、と言った。
この夢から引き戻すために、すぐ血へ手を伸ばせば、また同じ場所へ戻るだけだ。クラウディオにとって、噛まれることは分かりやすい支配であり、分かりやすい制御でもある。逃げる理由にもなる。
今必要なのは、噛むことではない。
名前を届かせることだ。
ルストは低く言った。
「戻れ」
クラウディオのまぶたが震える。
だが、目は開かない。
「ここだ」
反応はない。
「火刑台ではない」
クラウディオの喉が、微かに動いた。
まだ戻らない。
「クラウディオ、聞け」
夢の方が強い。
◇
夢の中で、ルストの声は遠かった。
灰の向こうで誰かが呼んでいる。
クラウディオ。
その名は、夢の中の幼い自分にはまだ遠い。王城で呼ばれる名は、たいてい命令か侮蔑か確認だった。名前は、自分を守るものではない。むしろ見つけ出すための札だ。
呼ぶな。
そう思う。
呼ばれれば、群衆がこちらを見る。
すでに見ている。
もっと見る。
火が足元へ迫っている。灰が赤い。煙が膝の高さまで上がる。白いシーツだったものが、灰になり、火種になり、足首にまとわりついている。
クラウディオは足を動かそうとする。
動かない。
声を出そうとする。
出ない。
ロウェナが遠くで言う。
「私は魔女じゃない」
群衆が言う。
「お前のせいだ」
ロウェナが言う。
「この子を責めないで」
群衆が言う。
「お前に菓子を渡したからだ」
鐘が鳴る。
「お前が悪しき血だったからだ」
夢の中の幼いクラウディオは、両手を握りしめる。小さな爪が掌へ食い込む。牙が痛むほど噛みしめる。目を伏せれば赤い瞳は隠せる。隠したところで、もう遅い。
違う。
違う。
違う。
自分は火をつけていない。
自分は告発していない。
自分は彼女を魔女と呼んでいない。
自分は、ただ。
ただ、何もできなかった。
その「ただ」が、いちばん重い。
群衆の声が近づく。
「お前が来なければ」
「お前が食べなければ」
「お前が子どもでなければ」
子どもでなければ。
子どもでなければ、何かできたのか。
力があれば。
命令権があれば。
王であれば。
群衆を黙らせる立場があれば。
火を命じる側に立っていれば。
火刑台の下で震えるくらいなら、火を命じる側になった方がましだ。
その考えは、幼いクラウディオのものではなかった。
けれど、種はそこに落ちていた。
煙の匂いの中で。
焦げた砂糖の匂いの中で。
誰も目を合わせなかった広場の中で。
ロウェナの声がまた聞こえる。
「この子を責めないで」
やめろ。
庇うな。
庇うくらいなら、逃げろ。
俺に菓子など渡すな。
俺を見つけるな。
俺を、ただの子どもにするな。
そう言いたい。
だが、声が出ない。
火が足元へ届く。
熱はない。
あるのは、罪悪感の形をした赤い光だった。
その赤が、足元から胸へ上がってくる。
喉を塞ぐ。
クラウディオはようやく、口を開いた。
◇
現実の部屋で、クラウディオの唇がわずかに開いた。
ルストは息を止める。
「クラウディオ」
もう一度、呼ぶ。
クラウディオは目を開けない。
手はシーツを握り潰している。呼吸は荒い。喉が何かを探すように震えている。
ルストは手を伸ばした。
手首へ。
肩ではない。喉でもない。噛まない。血を飲まない。ただ、夢の奥に落ちていく身体を、こちらへ繋ぎ止めるために。
指先がクラウディオの手首へ触れかけた、その時。
クラウディオの喉が、ようやく動いた。
掠れた声が、白いシーツの上に落ちる。
「俺ではない」
強い断言ではなかった。
誰かを突き放す声でもない。
夢の群衆への弁明のようで、自分自身への言い聞かせのようで、ロウェナへ届くはずのない謝罪のようでもあった。
ルストはその声を聞いた。
ホテルの窓の外では、教会塔が黙っている。
鐘は鳴っていない。
それでも、部屋の中にはまだ、焦げた砂糖の匂いが残っていた。




