表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/125

第68話 火刑の夢


 ホテルの夜は、古い紙の匂いがした。


 窓の外には、旧い教会塔が見えている。昼間は石造りの街並みに溶け込んでいたその塔も、夜になると輪郭だけが黒く浮かび、雲の低い空を鋭く刺していた。鐘は鳴っていない。けれど、鳴る前からすでに、部屋の空気には鐘の余韻めいた重さがあった。


 部屋は広かった。


 重いカーテンは半分だけ閉じられ、残りの隙間から、街灯に濡れた石畳の光が細く入り込んでいる。古い木製の机には、資料館でもらった閲覧許可証、異端審問記録の写し、旧地名と現地名の対照表、夜見坂教会事件の整理資料、久遠院怜司の助言記録の写しが広げられていた。机の上の小さな照明が、紙の端を黄色く照らしている。


 白いシーツは清潔だった。濃い色の絨毯は厚く、足音を吸い込む。暖房は低く唸り、壁の燭台風の照明は揺れもしない光を落としていた。


 快適な部屋だった。


 だから余計に落ち着かない。


 人間という生き物は妙なところに気が回る。客室には白いシーツを置き、温かい湯を用意し、窓から教会塔を見せる。たぶん宿泊業としては上等なのだろう。過去を火刑台ごと窓の外に配置するな、という苦情欄は予約サイトに存在しない。文明の限界である。


 ルスト・ヴァルレインは、窓際の椅子に座って資料を読んでいた。


 手元の紙には、ロウェナ・ミルの処刑記録に関する索引と、夜見坂教会事件の告発構造を照合したメモが重ねられている。告発者。祈り。寄付。血。罪を貼る言葉。処刑台。聖女像。魔女。


 時代も場所も違う。だが、罪の集め方は同じだった。


 ルストは紙を一枚めくる。


 その手が、途中で止まった。


 ベッドの方から、浅い呼吸が聞こえた。


 クラウディオ・ルジェリウスは、白いシーツの上に横たわっていた。寝返りを打つでもなく、目を閉じ、顔を窓とは反対側へ向けている。襟元はきっちり閉じられ、手袋は外されているが、片手はシーツの上に置かれたままだった。


 眠っているように見える。


 だが、眠ってはいない。


 ルストには分かった。


 呼吸が浅い。まぶたが時折、細かく震える。顎に力が入っている。指先が、シーツの布をわずかに掴んでいる。眠りに沈む身体ではなく、沈むのを拒みながら、それでも何かに引かれていく身体だった。


 クラウディオは眠ったふりをしていた。


 ルストに起きていると気づかれたくないのだろう。資料館でロウェナ・ミルの名を見たこと。処刑記録の末尾に「悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪」と記されていたこと。火刑台跡の広場で、鐘の音に視界を揺らしたこと。どれも認めたくない。


 起きていれば、話さなければならない。


 あるいは、話さないためにまた皮肉で切りつける必要がある。


 眠っていれば、何も言わずに済む。


 そう判断したのだろう。実に合理的で、実に愚かな逃げ方だった。眠りは口を閉じるには便利だが、夢の扉まで閉じてくれるとは限らない。人間も吸血鬼も、そこをよく見落とす。寝れば全部終わると思うな。脳はブラック企業より働く。


 ルストは資料へ視線を戻した。


 しかし、意識の一部はずっとベッドに残っている。


 紙をめくる音が、部屋に小さく響いた。古い紙の匂い。革表紙の匂い。窓の外から、雨上がりの石畳の匂いが薄く入ってくる。さらにその奥に、夜のホテルの厨房から漂ってくるのか、微かな焼き菓子の匂いが混じっていた。


 クラウディオの指が、少し強くシーツを掴んだ。


 ルストは顔を上げた。


 クラウディオの呼吸が、さらに浅くなっている。


 まぶたの下で、眼球がかすかに動いた。喉がわずかに鳴る。血の気配が乱れ始めていた。眠りではない。これは、引かれている。


 夢へ。


 火刑台へ。


 ルストはまだ動かなかった。


 無理に起こせば、クラウディオは反射的に拒む。触れれば逃げるかもしれない。夢から引き戻すには、タイミングを誤れない。


 だから、まだ見ている。


 ただ見ている。


 クラウディオの呼吸を聞きながら、ルストは資料を閉じた。


     ◇


 最初は、ホテルの部屋だった。


 白いシーツがあった。重いカーテンがあった。窓の外には教会塔が立っていた。机の上には資料があり、窓際にはルストの影があった。


 クラウディオは、自分が眠っていないことを知っていた。


 目を閉じているだけだ。そう思っていた。


 なのに、白いシーツの感触が変わっていく。


 さらりとした布が、指先の下で崩れた。


 乾いた粉のように。


 灰だった。


 ホテルの白いシーツは灰になり、窓の外の教会塔は火刑台へ変わる。


 カーテンの影が伸びる。影は壁から剥がれ、立ち上がり、人の形を取った。ひとり、ふたり、十人、数えきれないほど。絨毯の濃い色が石畳へ変わる。机の上の資料が風もないのにめくれ、紙の文字が黒く滲む。


 ロウェナ・ミル。


 魔女として処刑。


 悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。


 文字が燃えたわけではない。


 だが、読めなくなる前に、もう読めていた。


 ホテルの静けさは、広場の沈黙へ変わった。


 クラウディオは立っていた。


 いや、立っているつもりだった。


 足元の灰が重い。足首に絡みついている。手が小さい。視線が低い。自分の手袋も、襟元も、今の服もない。指は細く、掌はまだ子どもの形をしていた。


 クラウディオは夢の中で幼い姿に戻り、声が出ない。


 喉が動かない。


 息だけが浅く入って、煙の味になって戻る。


 目の前に火刑台があった。


 ロウェナが立っている。いや、立たされている。粉のついた手。乱れた髪。店の前掛けではない、粗末な服。けれど、その指先にはまだ小麦粉の白さが残っているように見えた。


 彼女は周囲へ訴えていた。


「私は魔女じゃない」


 声は、広場に落ちた。


 誰も拾わない。


「子どもに食べ物を渡しただけ」


 誰かが目を逸らした。


「この子を責めないで」


 クラウディオの心臓が、いや、夢の中の幼い胸が、凍るように止まった。


 この子。


 あの子。


 自分だ。


 ロウェナは名前を呼ばない。呼べば見つかるから。呼べば、罪がさらに彼へ伸びるから。最後まで、彼女は自分を隠そうとしている。


 なのに、群衆の顔が動いた。


 ひとつずつ。


 ロウェナを見ていたはずの目が、ゆっくりと、こちらを向く。


 夢の中の群衆は、今度はロウェナではなくクラウディオを見る。


 視線が集まる。


 町人の顔。教会の顔。市場の老人。菓子を買いに来ていた子どもの母親。薬草茶を受け取った病人の家族。孤児に背を向けた者。記録の行間に名前を残さなかった者。全員の目が、幼いクラウディオへ向いていた。


「お前のせいだ」


 声は一人ではなかった。


 群衆の声。教会の声。記録の声。現代の自分自身の声。


「お前に菓子を渡したからだ」


 クラウディオは口を開けようとした。


 違う。


 そう言おうとした。


 だが、喉が動かない。


「お前が悪しき血だったからだ」


 赤い瞳。


 小さな牙。


 悪しき血。


 自分を示す言葉が、広場の空気に浮かぶ。誰かが紙片を持っている。そこには、黒い文字で罪状が書かれている。魔女。供物。異端者の治療。悪しき血。


 クラウディオは首を振ろうとした。


 動かない。


 足も動かない。


 灰が絡みついている。白いシーツだったはずの灰が、足首へまとわりついている。まるで、ベッドの中から火刑台へ縫いつけられているようだった。


 鐘が鳴る。


 一度。


 広場に落ちる。


 ロウェナの声が煙に削られる。


「私は、魔女じゃ……」


 最後までは聞こえない。


 聞きたくない。


 聞かなければならない。


 どちらも同時に喉を塞ぐ。


 クラウディオは夢の中で、幼いまま、声を出そうとする。


 俺ではない。


 俺が火をつけたわけではない。


 俺は何もできなかっただけだ。


 何も。


 何もできなかった。


 その言葉は、弁明ではなく、罪の別名になって戻ってくる。


 群衆が囁く。


「お前が来なければ」


「お前が食べなければ」


「お前が子どもでなければ」


 足元の灰が赤くなった。


 火はロウェナを包むのではなく、自分の足元へ迫ってくる。


 それは炎というより、灰の下で息をしていた赤いものだった。じわじわと滲み、石畳の隙間から上がり、灰を内側から染めていく。煙が低く這う。焦げた砂糖の匂いが濃くなる。


 ロウェナの店の匂い。


 蜂蜜。


 小麦粉。


 紙包み。


 少し焦げた砂糖の端。


 熱いから少し冷ましてから食べなさい。


 その声が、煙の奥から響いた。


 次の瞬間、同じ匂いが火刑台の匂いになった。


 喉に苦味が張りつく。


 クラウディオは息を吸えない。


 群衆の目がさらに近づく。顔はぼやけているのに、視線だけが鮮明だった。目。目。目。誰もロウェナを見ていない。誰も火を見ていない。全員が、幼いクラウディオを見ている。


「お前のせいだ」


「お前に菓子を渡したからだ」


「お前が悪しき血だったからだ」


 違う。


 違う。


 違う。


 違うと言いたい。


 だが声が出ない。


 ロウェナの声が重なる。


「この子を責めないで」


 その言葉がいちばん苦しい。


 責められるより、庇われる方が苦しい。


 お前は悪くない、と言われるたび、自分が何もできなかったことを思い出す。助けられなかった。名を呼べなかった。走り出せなかった。彼女の前に立てなかった。


 ただ見ていた。


 火刑台の下で。


 灰の中で。


 群衆の中で。


 誰よりも自分を責めているのは、群衆ではなかった。


 自分だった。


 その自分の声が、群衆の口を借りている。


 お前のせいだ。


     ◇


 現実の部屋で、クラウディオの手がシーツを握り潰し、呼吸が荒くなっている。


 白い布に、指の跡が深く沈んでいた。額に薄く汗が浮かぶ。喉が小さく鳴る。歯を噛みしめ、まぶたは閉じたまま、眉間だけがわずかに歪んでいた。


 部屋の空気が重くなる。


 血の気配が乱れている。


 ルストは椅子から立ち上がった。


 資料は机に伏せた。紙が一枚、わずかにずれて音を立てる。その音にもクラウディオは反応しない。


 ルストは低く呼んだ。


「クラウディオ」


 反応はない。


 窓の外の教会塔が、黒い影を落としている。夜の石畳に街灯の光が滲む。遠くで、鐘ではない何かの金属音がした。ホテルの配管か、廊下の扉か。ただの生活音だ。


 しかし、今のクラウディオには違う音に聞こえているのだろう。


 ルストはもう一度呼ぶ。


「クラウディオ」


 クラウディオは反応しない。


 ルストはベッドへ近づいた。足音は絨毯に吸われる。すぐに触れない。夢の奥で何に掴まれているか分からない相手を、乱暴に引き剥がせば壊す。あまりにも面倒な繊細さだ。まったく、壊れ物のくせに本人だけは自分を鉄製だと思っている。迷惑な骨董品である。


 ルストはベッドの脇に立つ。


 クラウディオの指が、さらに強くシーツを掴んだ。


 呼吸が乱れる。


 喉が何かを言いかけて、言えない。


 ルストは判断する。


 ただの悪夢ではない。


 火刑台の記憶だ。


 資料館で見た記録。広場の鐘。焼き菓子の匂い。ロウェナ・ミル。罪状。悪しき血を持つ少年。


 それらが、クラウディオを夢の奥へ引きずっている。


 噛むか。


 一瞬、その選択が浮かぶ。


 血を通して引き戻すのが早い。乱れた血脈を押さえるなら、噛む方が確実だ。これまで幾度もそうしてきた。だが、今日は違う。


 第五十七話で、ルストは噛まなかった。


 今日は噛まない、と言った。


 この夢から引き戻すために、すぐ血へ手を伸ばせば、また同じ場所へ戻るだけだ。クラウディオにとって、噛まれることは分かりやすい支配であり、分かりやすい制御でもある。逃げる理由にもなる。


 今必要なのは、噛むことではない。


 名前を届かせることだ。


 ルストは低く言った。


「戻れ」


 クラウディオのまぶたが震える。


 だが、目は開かない。


「ここだ」


 反応はない。


「火刑台ではない」


 クラウディオの喉が、微かに動いた。


 まだ戻らない。


「クラウディオ、聞け」


 夢の方が強い。


     ◇


 夢の中で、ルストの声は遠かった。


 灰の向こうで誰かが呼んでいる。


 クラウディオ。


 その名は、夢の中の幼い自分にはまだ遠い。王城で呼ばれる名は、たいてい命令か侮蔑か確認だった。名前は、自分を守るものではない。むしろ見つけ出すための札だ。


 呼ぶな。


 そう思う。


 呼ばれれば、群衆がこちらを見る。


 すでに見ている。


 もっと見る。


 火が足元へ迫っている。灰が赤い。煙が膝の高さまで上がる。白いシーツだったものが、灰になり、火種になり、足首にまとわりついている。


 クラウディオは足を動かそうとする。


 動かない。


 声を出そうとする。


 出ない。


 ロウェナが遠くで言う。


「私は魔女じゃない」


 群衆が言う。


「お前のせいだ」


 ロウェナが言う。


「この子を責めないで」


 群衆が言う。


「お前に菓子を渡したからだ」


 鐘が鳴る。


「お前が悪しき血だったからだ」


 夢の中の幼いクラウディオは、両手を握りしめる。小さな爪が掌へ食い込む。牙が痛むほど噛みしめる。目を伏せれば赤い瞳は隠せる。隠したところで、もう遅い。


 違う。


 違う。


 違う。


 自分は火をつけていない。


 自分は告発していない。


 自分は彼女を魔女と呼んでいない。


 自分は、ただ。


 ただ、何もできなかった。


 その「ただ」が、いちばん重い。


 群衆の声が近づく。


「お前が来なければ」


「お前が食べなければ」


「お前が子どもでなければ」


 子どもでなければ。


 子どもでなければ、何かできたのか。


 力があれば。

 命令権があれば。

 王であれば。

 群衆を黙らせる立場があれば。

 火を命じる側に立っていれば。


 火刑台の下で震えるくらいなら、火を命じる側になった方がましだ。


 その考えは、幼いクラウディオのものではなかった。


 けれど、種はそこに落ちていた。


 煙の匂いの中で。


 焦げた砂糖の匂いの中で。


 誰も目を合わせなかった広場の中で。


 ロウェナの声がまた聞こえる。


「この子を責めないで」


 やめろ。


 庇うな。


 庇うくらいなら、逃げろ。


 俺に菓子など渡すな。


 俺を見つけるな。


 俺を、ただの子どもにするな。


 そう言いたい。


 だが、声が出ない。


 火が足元へ届く。


 熱はない。


 あるのは、罪悪感の形をした赤い光だった。


 その赤が、足元から胸へ上がってくる。


 喉を塞ぐ。


 クラウディオはようやく、口を開いた。


     ◇


 現実の部屋で、クラウディオの唇がわずかに開いた。


 ルストは息を止める。


「クラウディオ」


 もう一度、呼ぶ。


 クラウディオは目を開けない。


 手はシーツを握り潰している。呼吸は荒い。喉が何かを探すように震えている。


 ルストは手を伸ばした。


 手首へ。


 肩ではない。喉でもない。噛まない。血を飲まない。ただ、夢の奥に落ちていく身体を、こちらへ繋ぎ止めるために。


 指先がクラウディオの手首へ触れかけた、その時。


 クラウディオの喉が、ようやく動いた。


 掠れた声が、白いシーツの上に落ちる。


「俺ではない」


 強い断言ではなかった。


 誰かを突き放す声でもない。


 夢の群衆への弁明のようで、自分自身への言い聞かせのようで、ロウェナへ届くはずのない謝罪のようでもあった。


 ルストはその声を聞いた。


 ホテルの窓の外では、教会塔が黙っている。


 鐘は鳴っていない。


 それでも、部屋の中にはまだ、焦げた砂糖の匂いが残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ