第67話 責任は誰にある
資料館の扉を出ると、空は鈍い灰色をしていた。
雨が降りそうで降らない。旧い石畳は昼の光を吸い込み、湿り気だけを表面に残している。細い通りの両側には、低い屋根の古い建物が並び、窓辺には花鉢が置かれていた。観光客が地図を片手に歩き、老人たちは店先の椅子に腰掛け、遠くから市場の片づけの音が聞こえてくる。
美しい町だった。
白い石壁。黒い鉄柵。古い看板。狭い路地の奥に差す薄い光。教会塔の尖った影。旅人なら、歴史ある地方都市だと喜ぶのだろう。写真を撮り、焼き菓子を買い、石畳が歩きにくいと笑い、夕食の店を探す。
クラウディオ・ルジェリウスにとっては、どれも灰の別名だった。
石畳も、鐘も、市場のざわめきも、蜂蜜と小麦粉の残り香も、すべてが別のものを思い出させる。紙に残された文字。ロウェナ・ミル。魔女として処刑。悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。
資料館の中で閉じたはずの記録は、まだ彼の内側で開いたままだった。閉じれば済むなど、まあ人類の書類仕事よりもさらに雑な願望だ。紙は閉じられても、読んだ者の喉に残った煙までは閉じない。
クラウディオは歩幅を早めた。
資料館の石段を降り、門を抜け、通りへ出る。足音は乱れていない。背筋も伸びている。表情も崩れていない。いつも通りに見える。むしろ、いつもより整っていた。
整いすぎていた。
ルスト・ヴァルレインは、その半歩後ろを歩いていた。長い影が石畳へ落ちる。クラウディオの歩調に合わせるでもなく、追い立てるでもない。ただ、置いて行かれない距離にいる。
問い詰めない沈黙だった。
だが、避ける沈黙でもなかった。
市場へ向かう通りには、昼の名残が残っている。布屋根が畳まれ、果物の木箱が壁際に積まれ、香辛料の袋から乾いた匂いが漂っていた。どこかの店の奥では、まだ焼き菓子を冷ましているらしい。蜂蜜と砂糖の匂いが、細い路地から薄く流れてくる。
クラウディオは、それに反応しなかった。
反応しないようにしていた。
だから、反応しているのと同じだった。
ルストが低く言った。
「彼女を殺したのは、お前ではない」
クラウディオの足は止まらなかった。
石畳を踏む音だけが、一拍だけ硬くなる。
「何の話だ」
「ロウェナ・ミルだ」
「知らんな」
返答は速かった。速すぎた。
ルストはそれを咎めない。咎めれば、クラウディオはさらに遠ざかる。そういう面倒な生き物である。吸血鬼の王ともなると、感情の逃げ足だけはやたら速い。進化の方向がひねくれている。
「知らない女の記録で、資料を閉じたのか」
「古紙の管理が悪かった。埃がひどい」
「お前は埃に怒る男ではない」
「貴様は俺を随分知ったつもりでいるらしいな」
「少しは知っている」
クラウディオは笑った。
薄く、冷たく。
「少し知った程度で責任の所在を語るな。火刑台の下で法律ごっこでも始める気か」
「責任の話なら、なおさら言う」
ルストの声は変わらない。
「彼女を殺したのは、お前ではない」
その言葉は、石畳に落ちる雨粒のようだった。
まだ雨は降っていない。けれど空は重い。湿った空気が、古い建物の壁に沈んでいる。
クラウディオは、そこでようやく足を止めた。
振り返らない。
ただ、横顔だけが少し見える。
「あの女は愚かだった。俺のようなものに菓子など渡すからだ」
声は荒くなかった。
むしろ、氷のように冷えていた。
「人間に善意など向けるから燃える」
ルストは何も言わない。
クラウディオは続けた。
「死にたければ優しくすればいい。人間社会とはそういうものだ」
風が細い路地を抜けた。
どこかで看板が揺れ、古い金具が小さく鳴る。観光客の笑い声が遠くから届いた。軽い声。今この町が、誰かにとってはただの旅先でしかないことを証明する声。
クラウディオはその音を嫌悪するように目を細めた。
「善良な女だった。だから死んだ。そう言っただろう」
「聞いた」
「なら理解しろ。善意は盾にならない。名前を貼られれば終わりだ。魔女、異端者、供物を捧げた者、悪しき血に通じた者。何でもいい。燃やす側が呼び名を決める。呼び名が決まれば、あとは薪を積むだけだ」
「それでも、彼女を殺したのはお前ではない」
「しつこい男だな」
「事実だ」
クラウディオは笑った。
今度は、明確に嘲った。だが、その嘲りはルストへ向けられているようで、どこか空を切っていた。
「事実で人が救われるなら、裁判記録はもっと善良なものになっていただろうな」
ルストは黙った。
正しい言葉で傷が閉じるなら、誰も苦しまない。
それを、ルストは知っていた。
知っているから、畳みかけなかった。正しい言葉は、ときどき刃になる。相手がまだ傷口を押さえて立っている時、真実を押し込むだけでは、出血が増えるだけだ。人類はそのへんをよく間違える。正論を消毒液のつもりで傷口へ瓶ごと流し込む。痛いに決まっている。少しは考えろ、二足歩行の失敗作ども。
ルストは、言葉を選んだ。
「燃やした者がいた」
クラウディオは肩越しに笑った。
「いたな。教会。町。告発者。見物人。目を逸らした連中。便利なことに、多すぎて一人ずつ殺すにも手間がかかる」
「罪を貼った者がいた」
「貼られた紙を剥がす者はいなかった」
「お前が火をつけたわけではない」
クラウディオの指が、わずかに動いた。
手袋の端を押さえるような仕草。
「記録には残っていた」
「記録が正しいとは限らない」
「記録は燃やした側に都合よく残る。だから正しいんだろう、連中にとってはな」
吐き捨てるような声だった。
その奥に、自分でも抑えきれないものがある。
ロウェナが自分に菓子を渡さなければ、罪状の一つにはならなかった。
悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。
その一文は、紙の上のインクではない。クラウディオの中では、火刑台の薪と同じ重さを持っていた。彼女が最後に「あの子を責めないで」と言ったことも同じだった。
庇われた。
庇えなかった。
この二つの事実は、対になって彼の喉を塞ぐ。
だから彼はロウェナを責める。
愚かだった、と。
善意など向けるから燃える、と。
そう言わなければ、火刑台の下で動けなかった子どものままになってしまう。何もできず、声も出せず、ただ煙の匂いを覚えたまま立ち尽くす子どものまま。
クラウディオ・ルジェリウスには、それが許せない。
今の彼が、何百年分の傲慢と血と権力をまとっているとしても、火刑台の下にいた子どもだけは、まだどこかで生きている。だからこそ、彼はその子どもを殺すように言葉を吐く。
愚かだった。
善意が悪い。
人間社会がそういうものだ。
本当は、そのどれも自分へ向いている。
ルストは、それを見ていた。
見て、黙っていた。
クラウディオは不意に顔を上げる。
「慰めるならもっと上手くやれ、灰銀」
「慰めではない」
「なら何だ」
「事実だ」
「つまらん」
「事実は大抵つまらない」
「救いもない」
「救うために言ったわけではない」
クラウディオは目を細めた。
苛立ち。
警戒。
それから、ほんのわずかな困惑。
ルストは続ける。
「彼女の善意は、お前の罪ではない」
クラウディオはすぐに返さなかった。
通りの向こうで、子どもが焼き菓子の包みを抱えて走っていく。母親らしき女が慌てて追いかけ、転ぶなと叱る。包み紙の端から、粉砂糖が少しこぼれた。
クラウディオの視線が、そちらへ行きかけて、すぐ逸れた。
「優しかったから死んだ」
「違う」
「違わない。あの女は店を閉めればよかった。孤児など放っておけばよかった。病人には教会へ行けと言えばよかった。俺のようなものが裏口に立ったら追い返せばよかった。そうすれば、少なくとも罪状の一つは減った」
「一つ減っても、別の罪を貼られた」
クラウディオの目が冷える。
「分かったように言うな」
「分かってはいない」
ルストは静かに言った。
「だが、火刑台が罪を必要としたことは分かる」
クラウディオは黙った。
「ロウェナ・ミルでなくても、誰かが選ばれた。彼女は、選びやすかった。弱く、孤立していて、善意で人と関わっていた。だから罪を集められた」
「……」
「だが、罪を集めたのは彼女ではない」
クラウディオは唇を歪めた。
「また正しいことを言う。貴様も久遠院の真似か」
ルストの瞳がわずかに暗くなる。
「違う」
「どう違う」
「あの男は、構造を見る。俺は、お前を見ている」
一拍。
風が止まる。
クラウディオの表情が、ほんの一瞬だけ空白になる。
すぐに戻った。
戻り方が速すぎたので、逆に見えた。
「気色悪いことを言うな」
「そうか」
「伴侶と言う度胸もなければ、慰める言葉もないかと思えば、今度は観察者気取りか。厄介な男だな」
「お前の方が厄介だ」
「知っている」
「なら少しは楽にしろ」
「命令するな」
そこで会話は切れた。
二人は再び歩き始める。
資料館からホテルへ戻る道は、来た時よりも長く感じられた。市場の店は片づけられ、布屋根が畳まれている。焼き菓子の店の前には、まだ数人の客がいた。蜂蜜の照りが残る菓子が木箱に並び、薄い紙で包まれていく。
クラウディオは見ない。
見ないようにする。
ルストも何も言わない。
その沈黙は、無関心ではない。待つための沈黙だった。
ロウェナをどう思っていたのか。
助けられなかったことをどう抱えているのか。
火刑台の下で何を失ったのか。
聞けば、答えは得られるかもしれない。
だが、答えを引きずり出せば、クラウディオは必ず傷を別の言葉で覆う。愚かだった。善良だったから死んだ。人間社会とはそういうものだ。そうやって、ロウェナの名まで刃にする。
ルストは、それをさせたくなかった。
少なくとも今は。
古い町は、夕暮れへ傾いていく。
窓辺の花が陰り、石壁の色が沈み、観光客の声が少しずつ減っていく。通りの奥に、古い教会塔が見えた。灰色の空を背景に、尖った屋根が黒く切り取られている。
クラウディオは、その塔を見ない。
見るまでもないのだろう。
道はやがて、広場へ出た。
現在では、小さな噴水が中央にある広場だった。周囲には土産物の店やカフェが並び、子どもが石畳の上を走っている。噴水の縁には観光客が腰掛け、写真を撮っていた。ひとりの老人が鳩にパン屑を投げている。
何の変哲もない、歴史地区の一角。
過去を看板に加工し、罪の跡を景観に混ぜ、観光地として磨いた場所。
ルストは、地図と資料の記述を思い出した。
旧広場。
処刑記録に記された地名。
教会塔から見える範囲。
市場に隣接する石畳。
ここだ。
かつて火刑台が置かれていた場所。
クラウディオは足を止めなかった。
分かっているはずだった。
分かっていないはずがない。
それでも、止まらず通り過ぎようとする。視線は前だけを見ている。歩幅は速い。肩はわずかに硬い。自分が今どこを歩いているかを認めないために、身体全体で拒んでいるようだった。
ルストは、半歩後ろからついていく。
触れない。
まだ。
広場を横切る途中、風が変わった。
焼き菓子の甘い匂いが、どこかから流れてくる。
夕方の店じまい前に、最後の菓子を焼いているのかもしれない。蜂蜜、砂糖、小麦粉、薄い香辛料。普通の人間なら、腹が減る匂いだ。
クラウディオには違う。
焦げた砂糖。
喉に張りつく苦味。
彼はそれでも足を止めない。
その時、教会の鐘が鳴った。
一度目。
低い音が、広場全体へ落ちる。
クラウディオの視界が揺らいだ。
現在の石畳が、濡れた古い石畳に変わる。
噴水の水音が消える。
観光客の笑い声が遠のく。
市場のざわめきが、群衆の沈黙に変わる。
白い布屋根が、木の台の影に見える。
焼き菓子の匂いが、焦げた砂糖の匂いへ変わる。
誰かが言う。
魔女。
誰かが祈る。
誰かが目を逸らす。
ロウェナの声が、煙の奥から届く。
誰か、あの子を責めないで。
クラウディオは倒れなかった。
倒れるほど弱くない。
けれど、足が止まった。
石畳の上で、まるで見えない何かに足首を掴まれたように。
ルストはすぐに気づいた。
触れるべきか、触れないべきか。
第六十二話の夜、ホテルの部屋で鐘が鳴った時、彼は触れなかった。クラウディオが自分で均衡を保とうとしていたからだ。
今は違う。
クラウディオの呼吸が、一瞬だけ途切れている。
手袋の指が強張っている。
赤い瞳が、目の前の広場ではなく、別の火刑台を見ている。
ルストは手を伸ばした。
クラウディオの手首へ。
触れる直前、低く呼ぶ。
「クラウディオ」
クラウディオは返事をしない。
鐘が余韻を引いている。
広場の人々は誰も気づかない。観光客は写真を撮り、子どもは噴水の周りを走り、カフェの店員は椅子を片づけている。
世界は、誰かの傷口など知らずに平然と動く。
それが正常という顔をしているのだから、本当に救いようがない。
ルストの指が、クラウディオの手首に触れた。
二度目の鐘が鳴った時、クラウディオの喉の奥に、火刑台の煙が戻ってきた。




