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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第66話 火刑台の下で



 資料館の閲覧室は、息を潜めていた。


 高い窓から差し込む光は、冬の水のように薄い。古い革表紙、乾いた紙、磨かれた木机、白い手袋をした職員の足音。すべてが静かで、礼儀正しく、整えられていた。


 整えられた場所は、ときどき墓より冷たい。


 クラウディオ・ルジェリウスは、閉じた資料の上に指を置いていた。


 先ほどまで開かれていた頁には、ロウェナ・ミルの名があった。


 菓子職人。

 異端者。

 魔女。

 処刑。


 そして、末尾にあった一文。


 悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。


 その文字は、もう目に見えない。資料は閉じられている。けれど、閉じた程度で消えるものなら、こんなところまで海を越えて来る必要はなかった。


 ルスト・ヴァルレインは、向かい側で黙っていた。


 問いは山ほどあるはずだった。だが、彼は何も聞かない。無神経に踏み込む代わりに、ただ沈黙で隣にいる。人間ならこれを優しさと呼ぶのかもしれない。吸血鬼同士では、せいぜい「余計なことをしない理性」と呼ぶ程度だろう。まあ、理性があるだけましだ。世界は理性の在庫不足でだいぶ荒れている。


 クラウディオは、資料の革表紙を見下ろしたまま、わずかに目を細めた。


 古い紙の匂いがした。


 その奥に、煤の匂いが混じる。


 違う。ここは資料館だ。煙などない。焼けた木も、濡れた石畳も、油を含んだ薪もない。


 けれど、記憶は現実の許可など取らない。


 頁の隙間から、焦げた砂糖の匂いが滲み出す。


 そして、鐘が鳴った。


     *


 広場には、人が集まっていた。


 旧い町の中央にある石畳の広場だった。普段なら、市が立ち、果物の木箱が並び、布屋根の下で女たちが値切り、子どもが走り、犬がパン屑を拾う場所だった。


 その日、広場の中央には木の台が組まれていた。


 薪が積まれている。


 夜の雨を吸った石畳は、朝になっても冷たい光を返していた。教会の塔は広場を見下ろし、鐘は何度も鳴っていた。規則正しく、重く、容赦なく。


 幼いクラウディオは、広場の端にいた。


 市場の柱の影。

 古い石壁と馬車の陰のあいだ。

 群衆に紛れるには幼すぎ、前へ出るには目立ちすぎる場所。


 赤い瞳を伏せるようにして、彼は人々の足の隙間から火刑台を見ていた。


 彼は、後のクラウディオ・ルジェリウスではなかった。


 王城で命じれば臣下が膝を折る暴君ではない。誰かの罪を裁き、誰かの命を夜の秩序で断じる王でもない。人を見下ろし、冷笑し、火刑台を組む側を嗤う力など、まだ持っていなかった。


 ただの妾の子だった。


 王族の血はある。

 吸血鬼の血もある。


 だが、命令する権利はない。


 王城では、彼の名は都合よく使われた。血は価値がある。だが席はない。恐れられる。だが守られない。忌まれる。だが捨てられない。


 そんな半端な立場の子どもに、教会を止める力などあるはずがなかった。


 群衆の中で、誰かが囁いた。


「魔女だ」


 別の誰かが、小さく祈りの言葉を口にした。


 祈りは低く広がっていく。誰かが唱えれば、隣の者が続く。意味を噛みしめている者など、どれほどいただろう。声を合わせること自体が、罪悪感を薄める作業になっていた。


 共同作業というものは便利だ。パンを焼くにも、家を建てるにも、人を燃やすにも使える。まったく、文明の器用さは嫌になる。


 クラウディオは、石壁に背をつけていた。


 指先が冷たい。

 爪が掌に食い込んでいる。

 牙を噛みしめすぎて、顎が痛い。


 それでも、動けない。


 自分が出ていけばどうなるか、幼い彼にも分かっていた。


 あそこにいる女は、自分に菓子を渡したから罪にされた。


 悪しき血を持つ少年。


 その少年がここにいると知られれば、ロウェナ・ミルの罪状は完成してしまう。彼女は本当に「夜の者」と通じていたことにされる。菓子屋の裏口で渡された温かな紙包みは、吸血鬼への供物になる。


 彼が庇えば、彼女はもっと燃やされる。


 それが分かる年齢だった。


 それが分かってしまう子どもだった。


 広場の向こうで、ざわめきが変わった。


 人々が道を開ける。


 ロウェナ・ミルが連れて来られた。


 前掛けはなかった。店で見た時の粉まみれの布ではなく、粗い布の服を着せられていた。それでも、袖口のあたりには白い粉が残っていた。小麦粉だった。どれほど洗われても、職人の手からは仕事の跡が消えない。


 彼女の髪は乱れていた。

 顔色は悪い。

 唇は乾いている。

 けれど、目はまだ折れていなかった。


 クラウディオは、その目を見た。


 ロウェナは群衆の誰かに視線を向けた。

 かつて菓子を買いに来た女。

 薬草茶を受け取った老人の家族。

 裏口から菓子をもらっていた孤児を匿った者。

 旅人に温かい飲み物を出した夜を知っている者。


 誰も、目を合わせなかった。


 町人たちは恐れていた。


 失踪があった。

 血を抜かれた死体があった。

 家畜が死んだ。

 子どもが熱を出した。

 夜の者が町にいるという噂があった。

 吸血鬼の血が災いを呼ぶという声があった。

 血術を使う者が町へ入り込んだという噂があった。


 恐怖は、居場所を欲しがる。


 町は、それをロウェナへ置いた。


 彼女が強大な悪だったからではない。強い魔術師だったからでもない。町を支配する力を持っていたからでもない。


 守る者が少なかった。

 反論を通す力がなかった。

 教会を通さず、病人に飲み物を出した。

 孤児に食べ物を渡した。

 身分の低い者を店に入れた。

 血を疑われる子どもを追い返さなかった。


 優しさは、力がなければ罪に加工される。


 くだらない。

 本当にくだらない。


 けれど、くだらないものほどよく人を殺す。


 教会の者が紙を読み上げ始めた。


 罪状。


 そう呼ばれていた。


 ロウェナ・ミル。

 魔女の嫌疑。

 教会の許しなき治療。

 異端者への施し。

 夜の者を招く灯。

 悪しき血への供物。


 言葉は整っていた。


 整いすぎていた。


 ロウェナは顔を上げた。


「私は魔女じゃない」


 声は広場へ落ちた。


 誰も拾わない。


 教会の者は、次の文を読み上げた。


 薬草を煮出し、病人へ与えた。

 孤児へ甘きものを配り、信徒の心を惑わせた。

 教会を通さず、救いの真似事をした。

 夜の者と通じた。


 ロウェナは首を振った。


「子どもに食べ物を渡しただけ」


 その声は、広場のざわめきにぶつかって弱くなった。


「病人に、温かいものを飲ませただけよ」


 誰かが小さく泣いた。


 誰かがその口を塞いだ。


 ロウェナは群衆を見る。必死に、目を合わせる相手を探すように。


「私は魔女じゃない」


 今度の声は、少し震えていた。


 市場の老人は杖を握りしめていた。いつも「ミルの菓子は腹に残る」と笑っていた男だ。彼は俯いたまま、石畳を見ている。


 熱を出した子どもに薬草茶をもらった母親は、子どもの目を手で覆っていた。


 孤児は、人垣の後ろにいた。泣きそうな顔で、しかし前へ出ない。出られない。子どもにそんな勇気を求めるのは酷だろう。けれど、その酷さまで含めて、世界はその場にあった。


 ロウェナは、誰にも届かない声で言った。


「私は魔女じゃない」


 鐘が鳴る。


 木の台へ連れて行かれる。


 クラウディオは、足元の石を見た。視界が白く揺れる。煙はまだ出ていない。火もまだついていない。それなのに、喉が苦かった。


 ロウェナが台の上に立たされる。


 薪の匂い。

 油の匂い。

 濡れた木が乾いていく匂い。


 菓子屋の石窯とは違う。

 けれど、火の匂いはどこかで繋がってしまう。


 蜂蜜。

 小麦粉。

 砂糖の焦げる端。

 紙包みの温かさ。

 熱いから少し冷ましてから食べなさい。


 それらが、薪と油の匂いに押し潰されていく。


 ロウェナは、最後まで顔を上げていた。


「私は魔女じゃない」


 教会の者は、祈りの言葉を唱える。


 ロウェナはそれに重ねるように言った。


「子どもに食べ物を渡しただけ」


 誰も答えない。


 彼女の視線が、広場の端を掠めた。


 クラウディオのいる影の方へ。


 見えたのか。

 見えていなかったのか。


 分からない。


 けれど、彼女は言った。


「誰か、あの子を責めないで」


 クラウディオの喉が凍った。


 あの子。


 名前ではない。

 呼びかけではない。

 特定されないように選ばれた言葉。


 それでも、彼には分かった。


 ロウェナは、自分のことを言っている。


 今、この場で。

 火刑台の上で。

 町の誰も彼女の目を見ない中で。

 自分が魔女ではないと訴えながら。

 それでも、彼女はまだ、クラウディオへ罪が向かわないようにしている。


 誰か、あの子を責めないで。


 彼は動けなかった。


 声も出なかった。

 怒りも出なかった。

 叫びも出なかった。


 ただ、喉の奥が冷たくなった。


 自分が出て行けば、彼女の罪が完成する。

 出て行かなければ、彼女は燃やされる。


 どちらを選んでも救えない。


 こんな選択を子どもに持たせる世界は、だいぶ終わっている。だが世界は、終わっているくせに平然と翌朝を迎える。そこが一番たちが悪い。


 誰かが火を近づけた。


 火が薪へ移る音がした。


 小さく、乾いた音。


 広場が静かになる。


 祈りだけが続く。

 規則正しく。

 何も見ないための幕のように。


 煙が上がった。


 直接見てはいけないものを、人々は祈りで覆っていた。祈りの言葉は、救いではなかった。目を逸らすための布だった。


 ロウェナの声が煙に混じる。


「私は……魔女じゃ……」


 鐘が鳴る。


 煙が風に流れる。


 焦げた砂糖の匂いがした。


 クラウディオは、自分の手を見た。


 いつか彼女から受け取った紙包みの温かさを、まだ指が覚えている気がした。蜂蜜で少し湿った紙。熱い菓子。焦げた端。粉のついた彼女の手。


 その記憶が、煙の中で汚されていく。


 彼は叫ばなかった。


 泣きもしなかった。


 泣けるほど、子どもでいられなかった。


 ただ、見ていた。


 見てしまった。


 その日、クラウディオは善良さが人を救わないことを知った。


 同時に、裁かれる側にいる限り、誰も手を伸ばしてはくれないことも知った。


 誰かが名を貼れば、町は目を逸らしながら人を殺せる。

 祈りは人を救わないことがある。

 証言は真実でなくても火になる。

 善意は、弱ければ罪に変えられる。

 そして、弱い者は燃やされる。


 幼い彼が、その場で言葉にしたわけではない。


 ならば裁く側へ立つしかない。

 命令される側ではなく、命令する側へ。

 火刑台の下で震えるくらいなら、火を命じる側へ。


 そんな考えを、子どもの彼がはっきり抱いたわけではない。


 けれど、その種は落ちた。


 煙と鐘と焦げた砂糖の匂いの中で、確かに。


 火刑台の下に。


     *


 閲覧室の空気は冷たかった。


 クラウディオは資料を閉じたままだった。


 窓の外には、古い教会塔が見える。遠くで鐘が鳴っていた。現代の鐘だ。観光客が写真を撮り、資料館の職員が時間を知らせるために聞く鐘。誰も火刑台へ向かうための鐘ではない。


 それでも、音は同じ場所を叩いた。


 クラウディオは、閉じた資料から手を離した。


 ルストは向かい側にいた。


 何も問わない。

 何も決めつけない。


 ただ、見ている。


 クラウディオは口元だけで笑った。


 笑いと呼ぶには、あまりにも冷たかった。嘲笑ではない。怒りでもない。いつもの皮肉でもない。古い傷口が、閉じきれないまま空気に触れて、かすかに音を漏らしたような笑いだった。


「善良な女だった。だから死んだ」


 ルストの瞳がわずかに細くなる。


 その言葉が、事実の説明ではなく、傷の形をした結論だと分かった。


 善良だったから救われた、ではない。

 善良だったから利用された。

 善良だったから疑われた。

 善良だったから孤立した。

 善良だったから、最後まで誰かを庇った。

 そして死んだ。


 ルストは何も言わなかった。


 ロウェナを知っていたのか。

 あの子はお前か。

 助けられなかったのか。


 そのどれも聞かなかった。


 ただ、低く言う。


「見るか」


 クラウディオは資料を見ない。


「もう見た」


 短い言葉だった。


 それ以上はない。


 ルストは頷きもしなかった。ただ、その返事を受け取った。


 閲覧室の時計が動く。


 古い紙の匂い。

 革表紙の匂い。

 窓の外の鐘。


 資料は閉じられていた。


 それでも、焦げた砂糖の匂いだけは、まだ頁の隙間から消えなかった。



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