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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第5部 海外編・焼かれた菓子屋

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第65話 私は魔女じゃない



 閉じられた資料は、何も語らない。


 古い紙の束は、ただ机の上にあるだけだった。革表紙は擦れ、角は黒ずみ、頁の端には時間に噛まれたような欠けがある。資料館の閲覧室には、白い光が薄く差し込んでいた。高い窓の向こうでは、旧い街の屋根が重なり、遠くに教会塔が見える。


 クラウディオ・ルジェリウスは、その資料を閉じたまま見下ろしていた。


 悪しき血を持つ少年に甘きものを与えし罪。


 その一文は、もう紙の上には見えていない。頁は閉じられている。けれど、文字は消えなかった。閉じた革表紙の下で、まだ焦げたまま残っているようだった。


 ルスト・ヴァルレインは、隣で何も言わなかった。


 問いは、いくらでもあった。


 ロウェナ・ミルとは誰だったのか。

 あの少年はお前なのか。

 彼女はなぜ燃やされたのか。

 お前は、何を見たのか。


 けれど、ルストは言わない。


 閲覧室の時計が、乾いた音を立てた。


 クラウディオは閉じた資料の上に置いた指を、ほんの少しだけ動かした。爪の先が革表紙を掠める。音はしなかった。それなのに、どこか遠くで、焼けた砂糖が弾けるような小さな音がした気がした。


 古い紙の匂い。

 革の匂い。

 埃の匂い。


 その奥に、蜂蜜と小麦粉の匂いが混じる。


 薄く。

 甘く。

 そして、少しだけ焦げて。


 資料館の白い光が揺れた。


 過去は、優しい顔をして近づいてくることがある。

 だから余計に性質が悪い。


     *


 ロウェナ・ミルの店は、市場通りの南端にあった。


 王城へ続く広い坂道からは少し外れ、荷馬車が曲がる時に車輪を軋ませる細い道の角に、その店は腰を据えていた。石造りの壁は古く、窓枠は何度も塗り直されている。看板には小麦の穂と小さな菓子の絵が描かれていたが、雨風で色は薄くなっていた。


 朝になると、店の奥の石窯に火が入る。


 小麦粉を練る音。

 木の台に生地を置く音。

 蜂蜜の瓶を開ける時の、粘った甘い匂い。

 香草を刻む刃の小さな音。

 焼け始めた生地から立ち上る、柔らかな湯気。


 ロウェナは、夜明け前から働いていた。


 三十を少し越えた頃だった。若い娘と呼ぶには落ち着いていて、老いた女と呼ぶにはまだ目が強かった。髪は布でまとめ、前掛けにはいつも粉がついていた。手は少し荒れていて、指先には火傷の跡があった。彼女はそれを気にしていないように見えた。菓子職人の手など、きれいなままでは役に立たない。


 よく笑った。


 けれど、底抜けに明るい女ではなかった。


 焦げた菓子を見れば舌打ちをする。

 代金を踏み倒されたら、相手の背中へ遠慮なく文句を投げる。

 子どもが棚の菓子へ勝手に手を伸ばせば、手の甲を軽く叩く。

 店の前で喧嘩をする男たちには、粉まみれの手で戸を開けて「よそでやりなさい。菓子がまずくなる」と言う。


 聖女ではない。

 優しいだけの女でもない。

 ただ、自分の店を持ち、朝から晩まで働き、焦げた菓子に腹を立て、空腹の子どもを見ると結局紙に包んで渡してしまう女だった。


 町の人々は、最初、ロウェナの店を好いていた。


 朝、店先には丸い蜂蜜菓子が並ぶ。表面は薄く照り、焼き色は濃すぎず、指で割ると中から湯気が出た。粉砂糖のかかった硬い菓子は、日持ちがするので旅人がよく買った。香草を少し混ぜた薄い焼き菓子は、腹持ちがよく、市場の老人たちが好んだ。


「ミルの菓子は、腹に残るからいい」


 荷下ろしを終えた老人が、店先の腰掛けに座りながら笑う。


「腹に残るなら、もう一つ買っていきなさい」


 ロウェナはそう返す。


「商売上手だな」


「商売をしているのよ。神のお告げで小麦粉は届かないもの」


 老人は笑いながら小銭を出す。


 子どもたちは、小さな硬貨を握って店へ来た。銅貨一枚で買える切れ端の菓子。昨日の売れ残りを焼き直したもの。形の崩れたもの。ロウェナは、そういう菓子を紙に包んで渡した。


 病人の家へは、香草を煮出した温かい飲み物を持っていくことがあった。教会の施療とは違う。ただ、熱で喉を痛めた者に、蜂蜜を少し落とした飲み物を渡す。寒さで食べられない老人に、柔らかく焼いた麦粉菓子を持っていく。


 孤児たちは、正面からは来なかった。


 裏口に回る。

 戸の近くに立って、何も言わずに待つ。


 ロウェナは、最初から気づいている。


「いるなら入る。いらないなら戸を塞がない」


 そう言うと、痩せた子どもが一人、そろそろと顔を出す。


「金、ない」


「見れば分かるわ」


「じゃあ」


「昨日の焼きすぎ。売り物にはできない。食べるなら椅子に座りなさい」


 子どもは、警戒しながらも店の裏に入る。


 ロウェナは、そんなことを何度もしていた。


 町の人々は、それを知っていた。

 知っていて、特に責めなかった。


 便利だったからだ。


 病人がいる時、ロウェナの飲み物はありがたかった。

 教会へ行くほどではないが、寒気がするとき、彼女の香草茶はよく効いた。

 子どもが腹を空かせて泣く時、店の焼き損じは役に立った。

 旅人が夜に町へ入ってきた時、ロウェナの店に灯りがあると安心した。


 ありがたいものは、ありがたい間だけ許される。


 町の空気とは、なんとも便利な生き物だった。

 恩を食べて太り、不安になると、恩をくれた相手の手を噛む。人間社会、犬よりしつけが難しい。犬に失礼か。


 その頃、王城では別の空気があった。


 冷たい石の廊下。

 高い天井。

 磨かれた銀器。

 重い扉。

 遠くから見る使用人たちの目。


 幼いクラウディオは、王城の中でいつも少し浮いていた。


 王族の血を引く。

 だが、正しい席には座らされない。

 吸血鬼の血を持つ。

 だが、堂々と認められるわけではない。

 母の身分は、彼を王城に置く理由にもなり、蔑む理由にもなった。


 食卓に、彼の皿が用意されない日があった。


 それを、誰も間違いとは言わなかった。


 使用人は目を逸らし、貴族の子どもたちは遠くで笑った。


 妾の子。

 血が汚れている。

 夜の血。

 正しい王族ではない。

 けれど捨てるには惜しい血。


 そういう言葉を、幼いクラウディオは覚えていた。


 腹が減っていることも、覚えていた。


 ただ、それを口にすることには慣れていなかった。


 ある日、彼は町へ出た。


 どうやって城の目を抜けたのか、彼自身にもはっきりとは分からない。怒られると分かっていた。見つかれば、また冷たい目と長い説教が待っている。だが、空腹は説教よりも強かった。人間は腹が減ると思想が雑になる。吸血鬼の血を持っていても、そのへんは大差ないらしい。


 市場の端で、焼き菓子の匂いがした。


 蜂蜜。

 小麦粉。

 焦げかけた砂糖。

 火の温度。


 クラウディオは、ロウェナの店の正面には立たなかった。


 裏口へ回った。


 買う金はない。

 店に入っていい身分だとも思わない。

 それでも足は止まった。


 裏口は少し開いていた。中から、木の台を拭く音がする。窯の奥で火が小さく弾けた。焼きたての菓子が並ぶ匂いは、王城の豪華な料理よりも近かった。銀の皿に乗った冷たい食事よりも、生きている匂いがした。


 クラウディオは、扉の影に立っていた。


 しばらくして、ロウェナが振り返った。


 彼女は、最初に彼の服を見た。

 次に、顔を見た。

 赤い瞳を見た。

 小さな牙も見た。


 町人なら、そこで一歩下がったかもしれない。

 十字を切ったかもしれない。

 教会へ走ったかもしれない。


 ロウェナは、そうしなかった。


 彼女は焼き台の上から、小さな菓子をひとつ取った。焼きすぎた端が少し濃い色になっている。それを紙で包み、クラウディオへ差し出す。


「熱いから少し冷ましてから食べなさい」


 クラウディオは、紙包みを見た。


 受け取らなかった。


「金はない」


「そう」


 ロウェナは、紙包みを引っ込めない。


 クラウディオは眉を寄せる。


「施しならいらない」


「施しなら、もっとありがたそうな顔で渡すわ」


「俺が何か分かっているのか」


「お腹を空かせている子ども」


 ロウェナは言った。


「それ以外に、今必要な情報がある?」


 クラウディオは唇を結んだ。


 赤い瞳で彼女を見る。


「怖くないのか」


 ロウェナは、少しだけ目を瞬いた。それから、呆れたように菓子の包みを揺らした。


「怖がったら、菓子が冷めるの?」


 クラウディオは答えられなかった。


「牙があっても、熱いものは熱いでしょう」


 彼女は紙包みをさらに差し出す。


「食べるなら座りなさい。立ったまま食べると、粉をこぼすわ」


「命令するな」


「あら。なら、粉をこぼして床を汚したら自分で拭きなさい」


 ロウェナは平然と言った。


 クラウディオは紙包みを受け取った。


 熱かった。


 思ったよりもずっと熱く、指先が反射的に強張る。だが、それを悟られるのが嫌で、彼は何も言わなかった。


 ロウェナは木の椅子を足で引き寄せる。


「座りなさい」


「だから命令するな」


「なら、お願い。座って食べなさい。見ているこっちが落ち着かないの」


 彼は睨んだ。

 彼女は怯えなかった。


 クラウディオは椅子に座った。


 菓子は、蜂蜜の匂いがした。

 小麦粉の甘さがあり、表面は少し焦げていた。口に入れると、熱が舌に触れた。彼は顔をしかめかけて、こらえた。


 ロウェナはそれを見逃さなかった。


「だから言ったでしょう。熱いって」


「熱くない」


「嘘をつくなら、もう少し上手くなってからにしなさい」


 皿を拭きながら、彼女は笑った。


 クラウディオは黙って食べた。


 甘かった。


 少し焦げていた。


 それでも、王城のどんな菓子よりも、味がした。


 それから、彼は時折ロウェナの店へ来るようになった。


 いつも裏口だった。

 いつも金はなかった。

 いつも「いらない」と言った。

 そして、だいたい受け取った。


 ロウェナは彼を特別扱いしなかった。


 王族として敬わない。

 吸血鬼の血を恐れない。

 哀れみすぎない。

 ただ、空腹なら食べさせる。

 粉をこぼせば叱る。

 熱い菓子を急いで食べれば呆れる。

 皿を運ばせることもある。

 店先を掃かせることもある。


「俺にやらせる気か」


「食べた分くらい働きなさい」


「王城の者にそんなことを言うのか」


「ここは王城じゃないもの」


 それだけだった。


 それだけが、クラウディオには奇妙だった。


 ここでは、母の身分も、王族の血も、吸血鬼の赤い瞳も、まず最初には来なかった。


 先に来るのは、空腹かどうか。

 菓子が熱いかどうか。

 粉をこぼしたかどうか。

 椅子に座っているかどうか。


 それは、王城の豪華な部屋よりもずっと現実だった。


 だが、町の空気は少しずつ変わっていった。


 最初は、夜の失踪だった。


 市場通りの北で、若い男が帰ってこなかった。酒場から出たあと姿が見えなくなり、翌朝、川沿いで外套だけが見つかった。体は見つからなかった。


 次に、家畜が死んだ。


 首に小さな傷があり、血が抜けていたという噂が立った。誰が見たのかは曖昧だった。見た者は「確かに血がなかった」と言い、別の者は「いや、ただ痩せていただけだ」と言った。


 それから、子どもが熱を出した。


 冬に近い季節だった。熱を出す子どもなど珍しくない。けれど、町はすでに何かを恐れ始めていた。


 吸血鬼が近くにいるらしい。

 夜の者が城の外へ出たらしい。

 血術を使う者が町へ入り込んだらしい。

 教会の鐘がよく鳴るようになった。

 夜になると、窓が早く閉められるようになった。


 そして誰かが言った。


 夜に灯りを消さない店がある。


 ロウェナの店だった。


 彼女は、夜遅くまで窯の残り火を見ていた。旅人が来れば、温かい飲み物を出した。熱を出した子どもの家族が裏口へ来れば、香草を煮出したものを渡した。孤児が空腹で来れば、売れ残りを包んだ。


 以前は、ありがたがられていたことだった。


 だが、不安が町に溜まると、同じ行為に別の名前がつく。


 親切。

 それは、隠し事。


 灯り。

 それは、合図。


 香草茶。

 それは、異端の薬。


 焼き菓子。

 それは、魔女の甘い手口。


 町の人々は、最初からロウェナを憎んでいたわけではない。


 むしろ、彼女に助けられていた。

 だからこそ、疑い始めた時に退けなくなった。


 助けられた相手を疑うには、理由が必要だ。

 自分の弱さを恥じないためには、相手を悪にするしかない。

 愚かだが、まあ人間の保身は大抵この程度の設計で動く。高性能な怪異よりずっと雑で、しかもよく増える。


 ロウェナは、変わる空気に気づいていた。


 市場で声をかけられる回数が減った。

 老人たちは、店先で長く座らなくなった。

 子どもたちは、親に手を引かれて足早に通り過ぎた。

 裏口へ来ていた孤児は、遠くで彼女を見て逃げた。


 それでも、彼女は店を閉めなかった。


 ある夕方、窓に小石が当たった。


 小さな音だった。

 菓子棚の上で、粉砂糖が少し揺れた。


 ロウェナは表へ出た。

 誰もいなかった。


 次の日、扉に黒い印が刻まれていた。

 異端者を示す印だと、誰かが囁いた。


 彼女は濡れた布でその印を拭いた。

 消えなかった。


 さらに次の夜、窓に石が投げ込まれた。


 硝子が割れ、焼き菓子の棚に細かな破片が散った。朝に並べるはずだった菓子は、売り物にならなくなった。


 ロウェナは、しばらく黙っていた。


 それから、床に落ちた菓子を拾い上げ、割れた窓を見た。


「焼き直せないわね」


 彼女はそう言った。


 声は震えていた。


 それでも、翌朝、店は開いた。


 市場の女が遠くから言った。


「閉めた方がいいわ、ミルさん」


 同情なのか、警告なのか、保身なのか、区別がつかない声だった。


 ロウェナは、焦げかけた菓子を窯から出しながら返した。


「閉めたら、あの子たちはどこで食べるの」


「今は、そういうことを言っている場合じゃ」


「病人は噂で腹が満たされるの?」


 市場の女は黙った。


 ロウェナは怖かった。


 怖くないはずがない。


 夜に窓の外で足音が止まるたび、手が止まった。

 教会の鐘が鳴るたび、肩が強張った。

 店先の紙に「魔女」と書かれていた朝、彼女はそれを剥がすのに時間がかかった。

 指が震えて、紙の端をうまくつかめなかったからだ。


 それでも、店を閉められなかった。


 強いからではない。

 英雄だったからでもない。

 聖女だったからでもない。


 ただ、閉めたら、腹を空かせた子どもが来る場所がひとつ減る。

 それを知っていた。


 彼女が選ばれたのは、悪だったからではない。

 悪にしやすかったからだ。


 夫はいなかった。

 有力な親族もいなかった。

 店は小さく、金も権力もなかった。

 病人、孤児、身分の低い者、血筋を疑われる者と関わっていた。

 教会を通さず、勝手に助けていた。

 薬草の知識があった。

 夜遅くまで灯りをつけていた。

 そして、赤い瞳の少年に菓子を渡していた。


 疑いを集めるには、十分すぎるほどだった。


 ある日、クラウディオが裏口に立った。


 ロウェナは彼を見て、いつもより早く戸を閉めた。

 追い返すためではない。

 外から見えないようにするためだった。


 彼女は小さな焼き菓子を紙で包む。


 クラウディオは受け取らなかった。


「俺に渡さなければいい」


 ロウェナの手が止まる。


「何?」


「俺が来るからだろう」


 彼は赤い瞳で彼女を見る。


「俺を追い返せ」


 その声は、子どものものだった。

 けれど、王城の廊下で覚えた冷たさをもうまとっていた。


 ロウェナは、しばらく彼を見た。


 それから、紙包みを彼の胸に押しつける。


「子どもを追い返す店は、菓子屋じゃないわ」


「俺は子どもじゃない」


「なら、余計にちゃんと食べなさい。大きくならないと、その生意気な口だけが育つわよ」


 クラウディオは睨んだ。


「俺のせいだ」


「あなたのせいにしたい人がいるだけよ。あなたのせいじゃない」


「信じると思うか」


「信じなくても、菓子は食べられるわ」


 ロウェナは、少しだけ笑った。


 その笑いは、以前より疲れていた。


 クラウディオは紙包みを受け取った。


 温かかった。


 だが、その温かさが、以前より痛かった。


 夜の町は、さらに静かになった。


 誰もが窓を閉める。

 誰もが隣の家の灯りを気にする。

 誰もが、誰かが悪いと言い出すのを待っている。


 町には、見えない火刑台が少しずつ組まれていた。


 木材は恐怖。

 縄は噂。

 油は保身。

 火をつけるのは、誰かが言い出すひと言。


 あの女は魔女ではないのか。


 最初は、囁きだった。


 井戸端。

 市場の端。

 教会の前。

 施療院の戸口。

 子どもを抱いた母親の後ろ姿。

 酒場の片隅。


 あの女の菓子を食べた子が熱を出した。

 あの店の灯りは夜の者への合図だ。

 あの女は薬草を使う。

 教会へ届け出ず、病人へ何かを飲ませる。

 孤児があの店に出入りしている。

 血を抜かれた死体が出た夜、甘い匂いがした。

 裏口に赤い目の子どもがいた。


 言葉は、毎日少しずつ増えた。

 事実のように重なった。

 証拠のように語られた。


 誰も、最初の一つを確かめなかった。


 確かめるより、信じる方が楽だったからだ。


 やがて、ロウェナの店の前に人が立たなくなった。


 子どもたちの声が消えた。

 老人の腰掛けも空いた。

 旅人は目を逸らして通り過ぎた。

 孤児は裏口の角まで来て、逃げた。


 ロウェナは、窓の割れた店で菓子を焼いた。


 粉をこねる手は、時々止まった。

 それでも、また動いた。

 石窯に火を入れ、蜂蜜を溶かし、焼きすぎた菓子を見て舌打ちをした。


「少し焦げたわね」


 誰に言うでもなく、彼女は呟いた。


 その声が、店の中で小さく消えた。


 そして、その日が来た。


 教会の鐘が鳴った。


 朝ではなかった。

 礼拝の時刻でもなかった。

 町の人々が、一斉に手を止めるような鳴り方だった。


 市場通りに、男たちが現れた。


 教会の者。

 町の役人。

 顔を隠すように外套を着た男たち。

 遠巻きに見ている町人たち。


 ロウェナの店の前に、人が集まる。


 ロウェナは店の中にいた。


 前掛けには粉がついていた。

 手にも小麦粉がついていた。

 作業台の上には、まだ焼く前の生地が置かれている。

 棚には、朝焼いた菓子が並んでいた。

 割れた窓には応急の板が打たれ、扉には消えない異端の印が黒く残っていた。


 男が扉を叩いた。


 ロウェナは、少しだけ目を閉じた。


 それから開けた。


 扉の外には、かつて彼女の菓子を買った老人がいた。

 熱を出した子どもの母親がいた。

 裏口から菓子をもらっていた孤児が、物陰に隠れていた。

 病人の家族がいた。

 旅人に飲み物を出した夜に礼を言った男もいた。


 誰も、彼女を見なかった。


 教会の男が言う。


「ロウェナ・ミル。魔女の嫌疑により、教会へ同行せよ」


 ロウェナは、はっきりと言った。


「私は魔女じゃない」


 声は震えていなかった。


 町人たちは目を伏せる。


「異端の薬を用い、夜の者と通じ、信徒を惑わせた」


「私は魔女じゃない」


 今度は、少しだけ声が揺れた。


「孤児へ甘き供物を与え、病人へ教会の許しなき治療を施した」


「病人に飲み物を出しただけよ」


「悪しき血を持つ者を店に入れた」


 ロウェナの目が、一瞬だけ裏口の方へ向いた。


 そこに、幼いクラウディオがいた。


 遠く。

 壁の影。

 人々の足の間。

 動けないまま。


 彼は、ロウェナの手を見た。


 小麦粉のついた手。

 焼き菓子を包んだ手。

 熱いから少し冷ましてから食べなさい、と紙包みを渡した手。


 その手を、男たちが取る。


 クラウディオは動けなかった。


 王城で覚えた冷たさより、もっと重いものが体を縫い止めていた。

 怒りではない。

 恐怖でもない。

 罪悪感でもない。

 その全部になる前の、名前のないもの。


 ロウェナは、もう一度言った。


「私は魔女じゃない」


 今度は、掠れていた。


 彼女の足元で、焼き菓子がひとつ落ちた。

 紙に包まれていない、小さな丸い菓子だった。

 床に当たり、端が欠ける。


 誰も拾わなかった。


 孤児が、物陰で泣きそうな顔をした。

 けれど、出てこなかった。


 病人の家族は、家の戸を閉めた。

 市場の老人は、杖を握ったまま目を逸らした。

 かつて菓子を買った子どもの母親は、その子の目を手で覆った。


 ロウェナは連れて行かれる。


「私は魔女じゃない」


 その声は、鐘の音に混じった。


 クラウディオは、まだ動けない。


 ロウェナは何度も「私は魔女じゃない」と言った。


 けれどその日、町の誰一人として、彼女の目を見なかった。



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