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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第1部 しがない人形師は現場に立つ

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第6話 少女は二度泣く



 聞き取り室の白は、病室の白よりも少し冷たかった。


 窓には薄いカーテンが引かれていた。外は雨ではない。雨ではないのに、夜気だけが湿っている。蛍光灯の光は壁を均一に照らし、影を作らないようにしているはずだったが、机の脚元や椅子の背には、薄く曖昧な暗がりが残っていた。消毒液の匂いと、紙の匂いと、機械の熱の匂いが混ざっている。その奥に、かすかに甘いものがあった。


 古い薔薇香水の匂い。


 クラウディオ・ルジェリウスは、部屋に入った瞬間、それを拾った。


 ルスト・ヴァルレインも、わずかに目を細めた。


 聞き取り室の中央には長机があり、その上に録音機が置かれている。赤いランプが、小さく、規則正しく光っていた。記録されている。声も、沈黙も、息の詰まりも。人間は残すことが好きだ。残したものをどう読むかは、いつも別の話なのに。


 少女は机の向こう側に座っていた。


 病室から移されたばかりの彼女は、病衣の上から薄いカーディガンを羽織っている。目元は赤い。頬には涙の跡があり、唇の色は薄かった。だが、泣き疲れた者にしては姿勢が崩れていない。背中は丸まりすぎず、顎は落ちていない。膝の上に置かれた手は、指先だけが妙に硬く組まれていた。


 怖がっている形をしている。


 だが、怖がっている身体ではない。


 クラウディオは椅子に座らず、壁際に立った。黒い外套の裾が、白い床の上で夜の染みのように見えた。ルストは彼の少し後ろ、扉に近い位置に立っている。灰銀の巨躯は、聞き取り室を狭く見せた。榊悠真は少女の向かいに座り、白石澪奈は録音機の隣で記録を準備している。


 少女は、クラウディオを見ないようにしていた。


 見ないようにしながら、見ていた。


 視線が一瞬だけ黒い外套の裾へ落ちる。そこから机の上の録音機へ移り、榊の顔を確認し、最後にルストの大きな影へ流れる。自分を誰が守るか、自分の言葉を誰が受け止めるかを確かめる視線だった。


 榊が声を落とした。


「無理はしなくていい。話せる範囲で構わない。ただ、さっきの証言をもう一度、最初から確認したい」


 少女は小さく頷いた。


「今度は、ちゃんと話します」


 声は震えていた。


 だが、震え方が少しきれいだった。喉が詰まるのではなく、語尾だけが揺れている。泣き続けた者の声なら、もっと掠れる。もっと途切れる。もっと自分で制御できない濁りが出る。


 クラウディオは何も言わなかった。


 榊が端末を確認する。


「まず、あなたは昨夜、槻島宗一郎さんの屋敷へ行った。理由は、資料整理の手伝いで呼ばれていたから。ここまでは間違いありませんか」


「はい」


「到着した時刻は」


「十時前……だったと思います」


「屋敷には誰かいましたか」


 少女の指が膝の上でわずかに強く絡む。


「最初は、誰も見ませんでした。でも……廊下で、黒髪の男の人を見ました」


 澪奈のペンが止まった。


 録音機の赤いランプが静かに光る。


 榊が目を上げる。


「廊下で?」


 少女は頷いた。


「はい。廊下の奥を、その人が歩いていて……人形部屋に入っていきました」


 沈黙が落ちた。


 一度目の証言では、少女は人形部屋に入った時、被害者が倒れており、そのそばに黒髪の男がいたと語っていた。だが今は、廊下で黒髪の男を見たと言った。男が人形部屋へ入っていったと言った。順番が変わっている。


 榊はすぐには責めなかった。


 警察官として、その判断は正しい。怯えた証人の記憶は揺れる。順番が混ざることもある。だが、揺れた場所は記録しなければならない。


「最初の話では、人形部屋に入った時に男を見たと言っていました」


 澪奈が静かに言った。


 少女の肩が跳ねる。


「あ……そう、です。部屋で見たんです。でも、その前に廊下でも……見た気がして」


 榊が慎重に問う。


「では、廊下で一度見て、その後、人形部屋でも見たということですか」


「はい……たぶん」


「たぶん?」


 少女の目元に涙が膨らんだ。


「怖くて、順番が分からなくなって……」


 クラウディオが、そこで初めて口を開いた。


「怖かったのなら、順番が混ざることもあるだろう」


 声は驚くほど柔らかかった。


 榊が思わずクラウディオを見た。澪奈も同じように顔を上げた。ルストの鋼色の瞳が、わずかに動く。


 クラウディオは少女を見ていた。


 冷たくはない。責めてもいない。むしろ、今までの彼を知る者なら違和感を覚えるほど穏やかな声だった。白い部屋の中で、その声だけが薄い絹のように落ちる。


「無理に思い出さなくていい。見たものだけを話せばいい」


 少女は、少しだけ息を吐いた。


 安心したのだ。


 逃げ道を見つけた者の息だった。


「はい……怖くて、混ざってしまって。でも、男の人はいました。黒髪で、美しくて……人形みたいな男の人でした」


 クラウディオは微笑んだ。


 穏やかに。


 優しく見えるほどに。


「顔はよく見えたんだな」


「はい」


「部屋は明るかった?」


 少女は一瞬だけ迷った。


「いえ……暗かったです」


「真っ暗?」


「はい。ほとんど、何も見えなくて」


 クラウディオは頷いた。


「そうか。暗かったんだな」


 少女の肩が少しだけ下がる。


 クラウディオはさらに柔らかい声で続けた。


「なら、どうして人形を抱いていたと分かった?」


 空気が止まった。


 少女の指が、膝の上で固まる。


 榊が目を細めた。


 澪奈のペン先が紙に触れたまま止まる。


 ルストは無言で少女を見ていた。


 少女の唇が震えた。


「それは……あの、月明かりが」


「窓があった?」


「ありました」


「人形部屋の窓は、どちら側にあった」


 少女は答えられなかった。


 答える前に、視線が榊へ向かう。助けを求める目ではない。どこまで言っていいか確かめる目だった。


 クラウディオは微笑みを崩さない。


「分からないなら、分からないでいい。怖かったんだろう」


「はい……」


「では、人形を見たのは、部屋へ入る前かもしれないな。廊下で男を見た時、もう抱えていた?」


 少女はその逃げ道に乗った。


「はい。そうです。廊下で見た時、抱えていました」


 澪奈のペンが走る。


 榊が低く言う。


「先ほどは、人形部屋で見たと」


「怖くて、順番が……」


 少女の目元から涙が落ちた。


 二度目の涙だった。


 一度目よりも、少し速い。目元は濡れている。だが、呼吸はまだ浅く整っている。胸の上下は小さい。肩は震えるのに、喉は詰まらない。


 クラウディオは机の端へ指を置いた。


「泣いていい。だが、泣きながらでも嘘はつける」


 榊がすぐに顔を上げる。


「クラウディオ」


「責めていない」


「それは責めている言い方だ」


「では、別の言い方にしよう」


 クラウディオは少女へ向き直る。


「安心しろ。俺はお前に正しい答えを求めていない。お前が選んだ答えを聞いている」


 少女は、その意味をすぐには理解しなかった。


 だが、ルストは分かった。


 クラウディオは少女を怒鳴っていない。責めてもいない。逃げ道を塞いでもいない。むしろ、道を増やしている。怖かったから順番が混ざった。暗かったから見間違えた。廊下で見たかもしれない。人形部屋で見たかもしれない。少女が選べる答えを差し出している。


 そして、少女は選ぶたびに、自分の証言を絡ませていく。


 糸を引いているのはクラウディオではない。


 少女自身だった。


 ルストは、それを見ていた。


 見て、認めざるを得なかった。


 クラウディオは冷たい。言い方は悪い。救いようがないほど悪い時もある。だが、見ている。涙の形ではなく、その奥で動くものを見ている。ルストが守ろうとしたものの輪郭を、彼はもっと正確に見ている。


 それが苛立たしかった。


 少女を疑いきれなかった自分にも。


 クラウディオがそれを責めず、慰めもせず、ただ見ないふりをしていることにも。


 榊は記録を確認した。


「では確認します。あなたは、廊下で黒髪の男を見た。その時、男は人形を抱えていた。男は人形部屋へ入り、あなたも後を追った。部屋の中で槻島さんが倒れていた。そういう順番で間違いありませんか」


 少女は涙を拭いながら頷く。


「はい……」


 澪奈が静かに言った。


「最初の証言では、槻島さんが倒れていたのを見た後、男を見たと話していました」


「そう、でしたか」


 少女の声が細くなる。


「怖くて……順番が……」


 録音機の赤いランプが光っている。


 淡々と。


 同情もせず、疑いもせず、ただ残している。


 クラウディオはその赤い光を見た。人間の記録装置は、嘘にも本当にも平等だ。平等だからこそ残酷で、使い方を間違えればただの飾りになる。


 少女は続けた。


「男の人は、人形を抱いていて……その人形が、古くて……白い顔で……目が、こっちを見ていて」


 クラウディオの目がわずかに細くなる。


 まだ誰も、消えた人形の細部を少女へ話していない。依頼書に添付されていた写真の特徴も、警察内部でしか共有されていない。右腕欠損、左目のガラス交換、胸部機構修復。少女が見たと言える範囲は、暗い部屋と廊下の中でどこまでなのか。


 榊が問う。


「人形の右腕は見えましたか」


 少女は反射的に答えかけた。


「右腕は……」


 そこで止まる。


 榊が目を細める。


「右腕がどうかしましたか」


「いえ……分かりません。暗かったので」


 クラウディオは何も言わなかった。


 黙ることで、少女へ余白を残した。


 少女はその余白が怖くなったのか、言葉を増やす。


「でも、男の人が大事そうに抱えていたんです。とても冷たい手で……その、薔薇みたいな匂いがしました」


 薔薇。


 まただ。


 病室の空気に残る古い薔薇香水。


 澪奈が顔を上げる。


「その匂いは、男から?」


「はい」


「あなた自身の衣服からも似た匂いがします」


 少女が目を見開いた。


「私、香水なんて使ってません」


「使っているとは言っていません。匂いが付着している、と言っています」


 少女は口を閉じた。


 不意に、聞き取り室の空気が冷えた。


 窓の内側に、水滴がひとつ生まれる。


 雨は降っていない。


 水滴はゆっくりと下へ伝い、白い窓枠の途中で止まった。少女の目がそちらへ向く。見るべきではなかったものを見たように、唇がわずかに震えた。


 ルストがその反応を見る。


 クラウディオも見ていた。


 少女は窓から目を逸らし、すぐに榊へ向き直る。


「私、本当に、何も知らないんです」


 その言葉は、今までより少しだけ本当の恐怖に近かった。


 クラウディオはそこを拾った。


 全部が演技ではない。


 少女は何かを怖がっている。クラウディオではない。警察でもない。泣き方を間違えたことでもない。別の何か。人形。薔薇の匂い。窓の水滴。あるいは、彼女に言葉を与えた誰か。


 クラウディオは、まだそこへ踏み込まない。


「何も知らないなら、見たものだけでいい」


 声はまた柔らかくなる。


「黒髪の男を見た。人形を抱えていた。手が冷たかった。薔薇の匂いがした。部屋は暗かった。槻島は倒れていた。お前は襲われた。そうだな」


「はい」


「男に触られたのは、どこで?」


「人形部屋です」


「廊下ではない?」


「……廊下でも、腕を掴まれて」


 榊が顔を上げる。


「先ほどは、人形部屋で襲われたと」


「逃げる時に、廊下で……あの、たぶん」


 澪奈が手元のメモと録音時刻を確認する。


「手首の痕は廊下でついた、と?」


「はい」


「部屋では?」


「部屋でも……掴まれて」


 少女は言葉を重ねる。


 重ねれば重ねるほど、証言の輪郭がぼやけていく。最初はクラウディオを指すための鋭い針だった。黒髪の美しい男。人形を抱えていた男。冷たい手。薔薇の匂い。だが今、その針は自分の言葉の布に絡まり始めている。


 榊は少女を責めなかった。


 しかし、顔つきは変わっていた。


「落ち着いてください。場所を確認しましょう。廊下で男を見た。人形部屋へ入った。部屋で槻島さんを見た。男に掴まれた。逃げた。廊下で倒れた。これでいいですか」


 少女は頷こうとして、止まった。


「でも……私、倒れた時、まだ部屋の中だったかもしれません」


 澪奈のペンが止まる。


 録音機の赤いランプだけが、変わらず点滅している。


 ルストが低く言った。


「……順番が違う」


 少女がびくりとする。


 クラウディオはルストを見なかった。


 見なくても分かる。ルストの声には、自分への苛立ちが混じっている。少女を疑いきれなかった自分への苛立ち。クラウディオの観察眼を認めざるを得ない苛立ち。そして、クラウディオが少女へ向ける柔らかい声への、理由をつけにくい苛立ち。


 クラウディオはそれに気づいている。


 気づいていながら、あえて少女へ優しい声を向けた。


「いい。怖かったんだろう。順番が混ざることもある」


 ルストの視線が、クラウディオへ向いた。


 クラウディオは少女だけを見ている。


「ただ、選んでくれ。お前が見たのは、廊下の男か。部屋の男か。倒れていた槻島か。人形を抱いた腕か。それとも、誰かに聞かされた『黒髪の美しい男』か」


 少女の涙が落ちた。


 今度の涙は、先ほどよりも不格好だった。


 少しだけ、本物に近い。


「私は……見たんです」


「何を」


「男の人を」


「どこで」


「廊下で……部屋で……」


「どちらでも見た?」


「はい」


「暗かったのに?」


「でも、分かったんです」


「なぜ」


 少女は唇を噛んだ。


 クラウディオは待った。


 その待ち方が、優しかった。答えを急かさない。逃げ道を閉ざさない。だが、逃げないことも許さない。少女が自分で言葉を選ぶまで、ただ待つ。


 聞き取り室の窓に、水滴がもうひとつ現れる。


 そして、録音機に微かなノイズが走った。


 ざ、と。


 ほんの一瞬だけ、少女の嗚咽とは違う、もっと細い泣き声のような音が混じった。澪奈が録音機を見る。榊も気づいた。ルストの目が鋭くなる。


 少女はその音に反応しなかった。


 いや、反応しなかったふりをした。


 クラウディオはその顔を見ていた。


「怖かったなら、無理に言葉を整えなくていい」


 彼は言った。


「誰かに言われたことと、自分で見たことが混ざることもある」


 少女の顔から、一瞬だけ血の気が引いた。


 榊がその反応を見逃さなかった。


「誰かに言われた?」


 クラウディオは答えない。


 少女も答えない。


 聞き取り室の白い壁が、少しだけ冷えたように感じられた。


 ルストはクラウディオを見た。


「気づいていたのか」


 クラウディオは少女から目を離さずに答えた。


「お前が遅い、灰銀」


 その声に慰めはなかった。


 責めてもいない。


 ただ、当然のことを言っただけだった。


 ルストは黙った。鋼色の瞳がわずかに沈む。彼は少女を完全には疑えなかった。だが今、疑わないことが優しさではないと分かり始めている。泣く者を守ることと、泣く者の言葉をすべて信じることは違う。クラウディオなら、もっと早くそこを切り分ける。


 認めたくないが、認めざるを得ない。


 榊は少女へ向き直った。


「あなたは、誰かに何かを言われましたか」


 少女は首を振った。


「違います……私は、見たんです。本当に見たんです。黒髪の男の人が、人形を抱いていて……槻島さんが倒れていて……私、怖くて……」


 また泣き始める。


 だが、今度の涙には焦りが混じっていた。守られるための涙ではなく、逃げ場を失いかけた者の涙だった。


 クラウディオは静かに言った。


「誰も、お前が何も見ていないとは言っていない」


 少女の嗚咽が止まる。


「お前は何かを見た。だから、余計な言葉を足すと崩れる」


 少女はクラウディオを見た。


 初めて、本当に怖がっているように見えた。


 クラウディオ自身を怖がっているのではない。彼が見ているものを怖がっている。自分の言葉の奥へ手を入れられることを怖がっている。


 それは、泣き方よりもずっと正直だった。


 澪奈が低く言う。


「最初の証言では、人形部屋に入ってから男を見た。今の証言では、廊下で男を見て、その後を追った。さらに、倒れた場所も部屋か廊下か曖昧になっています」


 榊が頷いた。


「証言の順番を、もう一度整理する必要がある」


 少女は首を振った。


「違うんです。私、嘘なんて……」


 窓に水滴が増える。


 外は雨ではない。


 それなのに、透明な線が硝子の内側をゆっくりと下っていく。ひとつ、ふたつ、三つ。涙に似ている。だが、涙ではない。少女の言葉にまとわりつく何かが、水分だけを残している。


 クラウディオは窓を見た。


 そして、少女へ視線を戻す。


「最後にひとつだけ聞く」


 声は穏やかだった。


 少女は震えながら、頷いた。


「その男が抱いていた人形は、どんな顔をしていた」


「白くて……古くて……目が、こっちを見ていて……」


「泣いていたか」


 少女の唇が、反射的に動いた。


「だって、あの人形が泣いていたから」


 聞き取り室が静まり返った。


 録音機の赤いランプだけが、無機質に光っている。


 榊の眉が寄る。


 澪奈のペンが止まる。


 ルストが少女を見る。


 クラウディオだけが、静かに笑った。


 榊が低く問う。


「人形が泣いていたと、誰から聞いた?」


 少女の唇が震えた。


 答えは出なかった。


 その代わり、窓に水滴がひとつ落ちた。


 雨ではない。


 硝子の内側を、涙のようにゆっくり伝う。


 部屋の温度が、ほんの少し下がる。録音機に、また微かなノイズが入った。泣き声のようで、軋む木の音のようでもあった。


 クラウディオは椅子から立ち上がった。


 黒い外套の裾が白い床の上で揺れる。


 彼は少女を責めなかった。


 榊にも、澪奈にも、ルストにも、すぐには目を向けなかった。


 ただ、赤いランプの光を一瞥し、誰にともなく言った。


「解説してやる」



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