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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第1部 しがない人形師は現場に立つ

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第5話 壁際の問い



 病室の中に残った泣き声は、扉を閉めても消えなかった。


 白い廊下へ出ると、消毒液の匂いがいっそう濃くなる。深夜の病院には、昼間とは違う静けさがある。人の気配はあるのに、声だけが遠い。ナースステーションの方から小さな足音が響き、車輪のついた台が床を滑る音がかすかに続いた。天井の蛍光灯は白く冷え、そのうち一本だけが、時折、息切れしたように明滅している。


 窓の外は雨上がりの夜だった。


 雨は降っていない。だが、曇った空の奥に湿気が沈み、病院の窓ガラスには街灯の淡い光がにじんでいる。遠くの道路を車が通るたび、濡れたアスファルトが鈍く光った。霧杜市の夜は、屋敷を離れても湿っていた。洋館の人形部屋に残っていた冷気と、古い薔薇香水の匂いと、乾かない水滴。その気配が、病院の白い壁の中にまで入り込んでいる。


 クラウディオ・ルジェリウスは、廊下に出た直後、ルスト・ヴァルレインに手首を取られた。


 乱暴ではない。


 だが、拒ませる気もない力だった。


 ルストの手は大きい。クラウディオの細い手首など、片手で容易く囲める。骨の位置を確かめるような、逃げ道を塞ぐような、古い感覚を呼び起こす握り方だった。クラウディオは抵抗しなかった。抵抗しないことで、抵抗以上に相手を苛立たせられることもある。


 ルストは人気のない廊下の奥へ進んだ。


 榊と澪奈は、病室の中で少女への対応と記録の確認を続けている。看護師が入ったため、聞き取りは一時的に止まった。少女は泣き疲れたように目を閉じていたが、眠ってはいなかった。クラウディオには分かっている。まぶたの下で動く目、掛け布団を握る指、廊下へ出る人間の気配を追う喉の小さな動き。あれは、怖がっている者の眠り方ではない。


 ルストは廊下の角を曲がり、白い壁の前で足を止めた。


 蛍光灯が一度、薄く瞬いた。


 次の瞬間、クラウディオの背中が壁に押し止められる。


 痛いほどではない。だが、逃がさない距離だった。ルストの影が、クラウディオの上から落ちる。二百二十センチに近い巨躯は、病院の白い廊下の中で異様だった。人間のために作られた空間に、人間でない重さだけが立っている。


 クラウディオは顔を上げた。


 怯えはなかった。


 あれば楽だったのかもしれない。恐怖というものは、状況を単純にしてくれる。怖い。逃げたい。触れられたくない。それだけで済む。しかし、クラウディオの身体が覚えているのは、もっと厄介なものだった。


 手首を掴む力。


 見下ろしてくる鋼色の目。


 近すぎる息。


 首筋へ落ちかける視線。


 そこにある古い噛み跡の気配。


 今の病院の廊下と、別の時代の暗がりが、ほんの一瞬だけ重なりかける。石の冷たさ。鉄の匂い。喉の奥で止めた声。古い楔の感覚。それ以上は、思い出さない。思い出せば、今ここにいる自分の輪郭が崩れる。


 クラウディオは薄く笑った。


「病院の廊下で壁際とは、趣味が悪いな」


 ルストは笑わない。


「何を知っている」


 低い声だった。


 その問いは、病室の少女へ向けられたものではない。事件そのものへ向けられたものでもない。ルストはクラウディオを見ていた。彼だけを見ていた。死体も、証拠も、泣く少女も、警察の手続きも、その一瞬だけ後ろへ退く。


 クラウディオは答えなかった。


 蛍光灯がまた微かに揺れる。白い光がルストの髪を冷たく照らし、灰銀の束に青みを差した。彼の手は、クラウディオの手首を放さない。掴んだ場所には、病室でクラウディオがルストを止めた時の感触がまだ残っているはずだった。互いの手首に、互いの指の記憶だけが残る。実に馬鹿げている。言葉より先に皮膚が覚える関係など、ろくなものではない。


「何を知っている、か。相変わらず質問が雑だな」


「答えろ、クラウディオ」


「質問が雑なら答えも雑になる」


「少女を疑う根拠を言え」


「お前も見ただろう」


「俺が聞いているのは、お前が何を見たかだ」


「なら自分の目を使え」


 ルストの指に力が入った。


 クラウディオは顔色を変えなかった。


 痛みはある。痛みはあるが、彼にとって痛みはいつも問題の中心ではなかった。問題なのは、痛みの種類だ。誰が、どんな感情で、どこを掴んでいるか。ルストの指は怒っていた。疑っていた。だが、壊さない力加減をしていた。そこが腹立たしい。


「逃げるな」


 ルストが言った。


「今は逃げていない」


「答えから逃げている」


「答えを渡す相手を選んでいるだけだ」


「俺には渡せないのか」


 クラウディオは、そこで初めてほんのわずかに目を細めた。


 その問いは、ずるい。


 事件のことを聞いている顔で、別のものを混ぜている。本人に自覚があるかは知らない。たぶん、ある。ルストは無口だが、鈍くはない。鈍いふりをして、必要なところだけ爪を立てる。


「お前は俺を疑っている」


「疑っている」


「なら、答えを欲しがるな」


「疑っているから聞いている」


「都合がいいな。疑う。庇う。問い詰める。手を緩める。お前は昔から、半端な優しさを捨てられない」


 ルストの目が暗くなる。


「お前の言い方は悪い」


「何度も聞いた」


「泣いている相手に向ける言葉じゃない」


「泣いていることと、怯えていることは違う」


「それも聞いた」


「聞いただけか。便利な耳だな」


 クラウディオは壁に背を預けたまま、廊下の先へ目をやった。


 病室の方から、少女の嗚咽がかすかに漏れてくる。細く、弱く、守られるべきものの形をした声。だが、その声には妙な間がある。泣き続けているのに、疲労の崩れ方がない。喉が詰まるタイミングと、呼吸が戻るタイミングが綺麗すぎる。


 クラウディオは低く言った。


「泣き方が上手い」


 ルストの表情が硬くなる。


「言い方を選べ」


「事実だ。あれは泣いている。涙も出ている。声も震えている。だが、呼吸は乱れていない。肩を震わせているわりに、指先の力は抜けていない。怖がっている人間の身体は、あんなに都合よく整わない」


「演技だと?」


「全部が演技とは言っていない」


 ルストは黙った。


 その沈黙に、クラウディオは気づく。


 ルストも違和感を拾っている。完全に少女を信じているわけではない。あの涙に保護欲を引かれたのは事実だが、同時に、少女の声の奥にある硬いものを聞いた。だからこうして問い詰めている。


 そのくせ、泣く者を疑うことに抵抗している。


 面倒な男だ。


 クラウディオは内心で吐き捨てた。


 だが、その面倒さを知っている自分もまた、相当に救いがない。


「少女は、『部屋が真っ暗だった』と言った」


 クラウディオは静かに言った。


「その直後に、『男が人形を抱いていた』とも言った」


 ルストの目が動く。


「暗かったなら、なぜ見えたのか」


「さあな。月明かりでも差していたのかもしれない。人形だけが発光していたのかもしれない。実に便利な暗闇だ」


「茶化すな」


「茶化していない。矛盾を並べている」


 病室の方で、看護師の声が小さく聞こえた。少女の嗚咽が一度止まり、また始まる。泣き声は途切れ方まで整っていた。泣き疲れた子どもの声なら、もっと乱れる。もっと汚くなる。もっと自分でも止められない形になる。


 クラウディオは続けた。


「俺を見て悲鳴を上げる前、彼女は周囲を見た。榊、鑑識官、お前。自分の悲鳴がどこへ刺さるか確認した」


 ルストの手が緩みかける。


 だが、完全には離さない。


「見間違いではないのか」


「そう思いたいなら思え」


「クラウディオ」


「お前はあの子を守りたい。なら、守ればいい。俺を見るな」


 ルストが息を止めた。


 ほんの短い間だった。


 クラウディオはその沈黙だけで、十分だった。ルストが何に反応したか分かる。自分でも気づきたくないところを突かれると、この男はいつも短く黙る。大きな身体のくせに、沈黙だけが妙に小さい。昔からそうだった。


「お前は、俺が少女を守ったことに怒っているのか」


 ルストが低く問う。


 クラウディオは笑った。


「守った? あれを?」


「言葉を選べ」


「選んでいる。だからこの程度で済んでいる」


「なら答えろ」


「何に」


「お前は、あの少女に何を見ている」


 クラウディオは一拍置いた。


 廊下の窓に、小さな水滴が生まれた。


 雨は降っていない。


 外側ではない。内側のガラス面に、透明な粒がひとつ現れ、ゆっくりと下へ滑った。クラウディオとルストは同時にそれを見た。水滴は細い線を残し、途中で止まる。まるで見えない指が、硝子を撫でたようだった。


 空気が冷える。


 病室の方ではなく、廊下のこの一角だけが、すっと温度を落とした。


 ルストが窓を見たまま言った。


「反応している」


「嘘にか、罪悪感にか、恐怖のふりにか」


「断定するには薄い」


「お前は本当に慎重になったな」


「お前が雑に刺すからだ」


「刺されるところに立つ方が悪い」


 水滴は、もう一筋増えた。


 硝子の内側を、細い線が下っていく。白い廊下、明滅する蛍光灯、消毒液の匂い。そこへ、洋館の人形部屋と同じ湿った気配が混じる。古い人形、死者の血、隠したい罪、泣き声。怪異は名を持たないまま、誰かの嘘の周囲に水分だけを残していく。


 クラウディオは小さく息を吐いた。


「彼女の周囲に、薔薇の匂いがある」


「気づいている」


「使っていないと言った」


「ついているだけかもしれない」


「そうだ。ついているだけかもしれない。人形部屋でついた。犯人につけられた。人形に触れた。あるいは、消えた人形の近くにいた」


 ルストはクラウディオを見た。


「消えた人形」


「依頼書と対応する人形だ。右腕欠損、左目交換、胸部機構修復。あの人形が現場にない。少女は『男が人形を抱いていた』と言った。暗かったはずなのに」


「その人形を見た可能性がある」


「あるいは、見たことにしたかった」


 ルストの目が細くなる。


「少女が持ち出したと?」


「そうは言っていない」


「また逃げる」


「お前はすぐ結論を欲しがる。昔より悪い癖だ」


「昔の話をするな」


「お前が昔の距離で詰めるからだ」


 その言葉で、二人の間の空気が変わった。


 近い。


 近すぎる。


 ルストの手はまだクラウディオの手首を掴んでいる。クラウディオの背中は壁に触れている。ルストが少し身を屈めれば、声は耳元へ届く。クラウディオが少し顔を上げれば、喉元が晒される。


 ルストの視線が、ほんの一瞬、クラウディオの襟元へ落ちた。


 黒い布の奥。


 古い噛み跡の気配。


 クラウディオはそれに気づいた。


 見せない。


 だが、完全には隠しきれない。


 その痕は、事件の証拠ではない。だが、二人の間では証言より重い。言葉より古く、沈黙より正確な記録だった。誰がつけたか、いつついたか、どんな感情で残されたか。警察の報告書には載らないものばかりが、首筋の薄い皮膚の下に残っている。


 ルストの喉が小さく動いた。


 噛みつきそうになっている。


 クラウディオには分かった。


 ルスト自身より早く分かったかもしれない。視線の落ち方、息の止まり方、指先の力。大きな獣が、喉元へ牙を寄せる直前の、あの一瞬の静けさ。昔から、彼は言葉より先にそうなる。怒り、心配、所有、確認。全部が噛むという動作に落ちる。


 ここは病院の廊下だ。


 人間がいる。


 捜査中だ。


 だからルストは止まる。


 止まれるのなら最初から近づかなければいいものを、そうできないからこの男は厄介だった。


 クラウディオは、わざと顔を近づけた。


 ルストの耳元へ、唇が届くほどではない。だが、周囲から見れば十分に近い。声を落とせば、ルストにしか聞こえない距離。


 クラウディオは囁いた。


「自分で考えろ、灰銀」


 ルストの指に力がこもった。


 クラウディオは痛がらない。


 代わりに、ほんのわずか笑う。


 その一瞬だけ、時間が戻りかけた。


 白い病院の廊下が薄く遠のき、別の冷たさが足元へ触れる。石の壁。湿った暗がり。鉄と血の匂い。喉を押さえる息。掴まれた手首。見下ろす灰銀。噛み跡。楔。その輪郭だけが、短い閃きのように身体を通り過ぎる。


 クラウディオはすぐにそれを切った。


 過去は語らない。


 語れば、そこに意味ができる。意味ができれば、誰かが裁こうとする。人間は何にでも名前をつけ、順番をつけ、罪と救いの箱へ分けたがる。くだらない。そんな箱に収まるほど、この男との関係は綺麗ではない。


 ルストも、噛みつかなかった。


 ただ、息だけが一度、深く落ちた。


「……今のは、昔の声だ」


 クラウディオの目が細くなる。


「幻聴だろう。病院へ来たついでに診てもらえ」


「黙れ」


「都合が悪くなるとそれだ」


「お前が逃げるからだ」


「逃げていない。選んでいる」


「何を」


「誰に、どこまで考えさせるかを」


 ルストは、ようやく手を緩めた。


 完全には離さない。だが、逃げようと思えば逃げられる力になった。その中途半端さがまた腹立たしい。クラウディオは逃げなかった。逃げると、ルストの言葉を認めることになるからだ。


 廊下の向こうで、足音が近づいてきた。


 榊だった。


 彼は角を曲がり、二人を見て、一瞬だけ言葉を失った。


 無理もない。


 白い病院の廊下で、巨躯の灰銀の男が黒髪の人形師を壁際に追い詰めている。手首は掴まれている。距離は近すぎる。しかも二人の顔には、単なる口論では説明できない古い空気がある。事件現場でなければ、榊は一歩下がって見なかったことにしたかもしれない。職務とは残酷だ。見たくないものも見せてくる。


 榊はすぐに事件の顔へ戻った。


「二人とも、病院で何をしている」


「説教を受けていた」


 クラウディオが答えた。


「していない」


 ルストが短く返す。


「壁に押しつけておいて、それは無理があるだろう」


 榊は深く息を吸い、今はそこへ踏み込まないという賢明な判断をした。人間、たまには賢い。


「少女が、もう一度話したいと言っている」


 ルストの手が、クラウディオから離れた。


 離れた後も、クラウディオの手首には指の感覚が残っていた。皮膚の上に熱だけが残る。クラウディオはそれを見ないふりをし、襟元を直した。


 その一瞬、黒い布の奥から、首筋の古い痕がほんの少しだけ見えた。


 ルストの視線が落ちる。


 クラウディオはすぐに隠した。


 榊は見たかもしれない。


 見なかったことにしたかもしれない。


 クラウディオは壁から離れた。何事もなかったように、外套の裾を整え、廊下の白い光の下へ出る。


「もう一度?」


 クラウディオが言った。


 榊は頷く。


「さっきは怖くて、順番が分からなくなったと言っている。今度は落ち着いて、最初から話したいそうだ」


「順番、か」


 クラウディオは冷たく笑った。


 ルストが彼を見る。


「何がおかしい」


「何も。とても親切な証人だと思っただけだ。泣いて、指し示して、今度は順番まで直してくれる」


「クラウディオ」


「分かっている。余計な刺激はしない」


 榊は疑わしそうに見る。


「信用していいのか」


「お前たちが欲しがっているのは信用ではなく証言だろう。行け」


 病室の扉の向こうから、少女の声が聞こえた。


 先ほどより少し落ち着いている。泣き声はまだ混じっているが、言葉の輪郭がはっきりしていた。


「さっきは、怖くて、順番が分からなくなって……でも、今度はちゃんと話します」


 クラウディオは足を止めた。


 廊下の窓に、また水滴が落ちる。


 今度は一筋ではなかった。


 透明な線が、内側の硝子をいくつも走る。まるで、泣いている誰かが硝子の向こう側から指でなぞったように、細く、冷たく、無言の跡を残していく。


 雨は降っていない。


 少女の泣き声だけが、扉の向こうで少しだけ強くなった。




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