第4話 泣く生存者
病院の白は、夜の白だった。
昼の光を受けた清潔な白ではない。蛍光灯に照らされ、消毒液の匂いに浸され、誰かの痛みと恐怖を吸い込んだ、冷たい白。霧杜総合病院の特別病棟は、深夜に近い時刻になっても静まりきってはいなかった。廊下の奥では看護師の靴音が柔らかく響き、どこかの病室から機械の短い電子音が規則正しく漏れている。窓の外には雨上がりの曇天が広がり、街灯の光を含んだ雲が低く垂れていた。
個室の前には、制服警官が二人立っていた。
扉のすぐ横に、霧杜中央署の榊悠真がいる。手元には記録用の端末。表情は硬い。科学捜査の資料、防犯カメラ映像、足跡、血液反応、繊維片、修復依頼の履歴。そのすべてがクラウディオ・ルジェリウスへ向かっている状況で、唯一の生存者が意識を取り戻した。しかも、彼女はすでに短い言葉を口にしている。
黒髪の美しい男。
たったそれだけで、病院の廊下の空気まで変わった。
白石澪奈は、榊の隣でカルテの写しと聞き取り用紙を確認していた。鑑識官の彼女が病室での証言に立ち会うのは、通常の流れだけなら多くない。だが今回は、少女の衣服と髪から検出された匂い、手首に残る痕、そして洋館の人形部屋と似た冷気の報告があった。科学が拾えるものと、科学だけでは名づけにくいものが、彼女の仕事の境目へ無遠慮に足を踏み入れている。
病室の中から、かすかな泣き声が聞こえた。
細い、途切れ途切れの声だった。呼吸の間に引っかかるような、喉の浅いところで震える声。聞いた者の胸に、反射的な庇護欲を起こさせる種類のものだった。
ルスト・ヴァルレインは、廊下に立ったまま扉を見ていた。
大きな身体が病院の白い壁に影を落としている。灰銀の髪は屋敷で見た時より乾いていたが、鋼色の瞳はまだ雨の夜を含んでいる。彼が黙っていると、廊下そのものが息を潜める。制服警官たちは彼から一歩分だけ距離を取っていた。誰も命じられてはいない。人間は、説明できない圧にはずいぶん素直だ。普段からその素直さをもう少し真実へ向ければよいものを、だいたい手遅れの場面でしか発揮しない。
クラウディオは、少し離れた壁際に立っていた。
黒い外套は病院の白の中であまりにも異物だった。長い黒髪、白い肌、金に近い琥珀の瞳。美しい、という言葉が最も安易で、最も危険な目印になる男。証言の中の「黒髪の美しい男」は、廊下にいる誰もが彼と結びつけずにはいられなかった。
クラウディオ自身は、何も感じていないような顔をしている。
だが、ルストには分かった。
襟元に触れないようにしている。首筋の古い噛み跡を隠すためではない。触れれば、苛立ちを自分で認めることになるからだ。
榊が低く言った。
「入る。彼女はまだ不安定だ。刺激するような言動は控えてくれ」
最後の一言は、ほとんどクラウディオへ向けられていた。
クラウディオは薄く笑った。
「泣いている者の前では、全員で膝をつけという話か」
「言い方に気をつけろ。彼女は被害者だ」
「まだ、そう見えているだけだ」
榊の眉間が動いた。
「ここでその態度を取るなら、外で待ってもらう」
「好きにしろ。だが、証言だけ持ち帰って満足するな。涙は供述調書の署名ではない」
澪奈が目を伏せた。
榊は言い返しかけたが、扉の中からまた細い泣き声がしたため、言葉を飲み込んだ。彼は扉を軽く叩き、中へ入った。
病室は白かった。
窓辺には薄いカーテンが引かれ、外の曇った夜をぼかしている。ベッド脇の点滴スタンド、心拍を示す小さな機械、折り畳みの椅子、警察が持ち込んだ記録用の小型カメラ。消毒液の匂いに混じって、微かに甘い匂いがした。
薔薇だ。
古い薔薇香水。人形部屋に残っていた、甘く腐りかけたような匂い。
クラウディオは入った瞬間に気づいた。
ルストも気づいた。
二人の視線が、同じ一瞬だけ、病室の空気を見た。見えるはずのない匂いを、二人だけが目で追った。
ベッドの上に少女がいた。
年は十五、六ほどに見える。肩のあたりで切りそろえた栗色の髪。白い病衣。顔色は悪く、目元は泣き腫らしたように赤い。手首には薄い包帯が巻かれていたが、その隙間から青紫色の痕が覗いていた。誰かに掴まれた痕に見える。だが、抵抗して振りほどこうとした者の痕にしては、位置が少し低い。手首の外側ではなく、内側寄りに圧が偏っていた。
少女は榊を見て、澪奈を見て、ルストを見た。
ルストの大きな身体を見た時、彼女の肩が跳ねた。自然な反応に見えた。大きすぎる男が病室に入れば、誰でもそうなる。
その後、クラウディオを見た。
少女は悲鳴を上げた。
短く、喉を裂くような声だった。
「いや……っ」
彼女は掛け布団を掴み、身体を後ろへ引こうとした。点滴の管が揺れる。榊がすぐに一歩前へ出る。澪奈が機械に視線を走らせる。ルストの眉がわずかに寄った。
クラウディオだけが、動かなかった。
彼は少女の顔を見ていた。
少女の目はクラウディオを見た。確かに見た。だが、悲鳴の前のほんの一瞬、彼女の視線はクラウディオの顔ではなく、榊と澪奈、そしてルストの反応へ流れた。
効くかどうかを確かめる目だった。
クラウディオの口元から、笑みが消えた。
榊が少女へ近づき、声を落とした。
「大丈夫です。落ち着いて。ここは病院です。警察がいます」
「来ないで……来ないでください……」
少女は泣いた。
涙は頬を伝っていた。確かに流れている。だが、呼吸は浅く整いすぎていた。肩は震えているのに、指先には力が残っている。掛け布団を握る手は、怯えて力が抜けた手ではない。自分を小さく見せるために作られた震えだった。
ルストが一歩、少女へ近づいた。
その動きは慎重だった。大きな身体を少しだけ屈め、視線を低くする。怯えた者に圧を与えないための動き。彼はこういう時、驚くほど静かになる。傷ついた小動物へ近づくように、存在の重さを抑える。
クラウディオはそれを見ていた。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
ルストは昔から、泣くものに弱い。
弱い者、傷ついた者、助けを求める者。そういうものを完全に疑いきれない。愚かではない。むしろ、過去を知りすぎた者の弱さだった。守れるものを守りたがる。手遅れになったものの代わりを、目の前の涙の中に見つけてしまう。
だからこそ、クラウディオは苛立った。
ルストが少女へ手を伸ばしかけた。
その手首を、クラウディオが掴んだ。
病室の空気が止まる。
ルストの手首は大きく、骨も太い。クラウディオの指は細い。それでも、その指には明確な力があった。止めるための力。命令に近い力。
クラウディオは低く言った。
「触るな。そいつは怯えていない」
病室が凍った。
少女の泣き声が途切れた。
榊の顔色が変わる。
「クラウディオ・ルジェリウス。今の発言の意味を説明しろ」
ルストも、クラウディオを見た。
その目には怒りがあった。短く、強い怒り。泣いている少女へ向けた言葉として、クラウディオの声はあまりにも冷たかった。
「手を離せ、クラウディオ」
「離したら触るだろう」
「相手は怯えている」
「泣いていることと、怖がっていることは同じじゃない」
少女がまた泣き始めた。
今度は少し遅れて、声が出た。
「私……私、怖くて……本当に、あの人が……」
「言い方に気をつけろ」
榊が一歩詰める。
「彼女は事件現場から搬送された重要証人だ。責めるつもりなら、ここから出てもらう」
「責めていない。見ている」
「その言い方が問題だと言っている」
「では、聞き方を変えろ。なぜ彼女は俺を見て悲鳴を上げる前に、お前たちを見た」
榊が一瞬、黙った。
澪奈の視線が少女へ戻る。
少女は涙を浮かべたまま、唇を震わせた。だが、視線はまた一瞬だけ揺れた。自分へ向けられた疑念の位置を探るように。
クラウディオはルストの手首を掴んだまま、少女を見ていた。
「なぜ、泣いているのに呼吸が乱れない。なぜ、肩は震えるのに指先の力は抜けない。なぜ、俺を見る前に、俺を見た者たちの反応を確認した」
「やめろ」
ルストの声が低くなる。
「何を見た」
「そのままだ」
「嘘だと言う根拠は」
「嘘とまでは言っていない」
クラウディオは、ようやくルストの手首を離した。
離された痕が、ルストの皮膚にわずかに残った。強すぎる力ではなかった。それでも、存在を主張する痕だった。ルストはその感触を意識してしまい、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
クラウディオはその視線にも気づいた。
「泣くものを守りたいなら守れ。だが、目くらい開けておけ」
ルストは答えない。
少女はベッドの上で震えながら、榊に促されるまま証言を始めた。
「……私、槻島さんのお屋敷には、ときどき行っていました。資料の整理を、少しだけ手伝っていて……あの日も、呼ばれて」
声は細い。
だが、言葉は整っていた。
「何時頃ですか」
榊が問う。
「十時前……だったと思います」
「屋敷に着いた時、槻島さんは」
「まだ……生きていました。たぶん。私、廊下にいて……それで、声がして」
「どんな声ですか」
「男の人の声です。低くて……冷たい声」
少女の視線が、またクラウディオへ向いた。
今度はすぐに逸らした。
「それから?」
「人形部屋に入ったら、部屋が真っ暗で……でも、槻島さんが倒れていて……そのそばに、男の人がいました」
「男の特徴は」
榊の声が少し硬くなる。
少女は涙を拭った。
「黒髪の、美しい男の人でした」
その言葉は、病室の白い壁にきれいに貼りついた。
きれいすぎた。
クラウディオは表情を動かさない。
澪奈がペンを止める。
「顔を見たんですか」
「はい……怖くて、でも、顔だけは覚えています。とても綺麗で……人形みたいで……」
榊が短く息を吸った。
証言としては強い。あまりにも強い。黒髪、美しい、人形のような男。クラウディオへ結びつけるには十分すぎる表現だった。
クラウディオは静かに言った。
「便利な涙だな」
「クラウディオ」
ルストの声が鋭くなる。
クラウディオは少女から目を逸らさない。
「続けろ。暗かった部屋で、人形のような顔がよく見えたらしい」
少女の肩が震えた。
澪奈が小さく顔を上げる。
暗かった。
だが、顔は見た。
人形を抱えていたとも、彼女は言うつもりだったのだろう。喉の奥まで出かけた言葉を、少しだけ飲み込んだように見えた。
榊が問う。
「その男は何をしていましたか」
「人形を……抱いていました」
病室の窓に、水滴が走った。
誰もが一瞬、窓を見た。
外では雨は降っていない。曇った夜の光が、薄いカーテン越しにぼんやりと見えるだけだ。それなのに、窓ガラスの内側を、小さな水滴がひとつ伝った。
少女の喉がひくりと動く。
ルストの目が細くなる。
クラウディオは窓を見ずに少女を見ていた。
「人形、か」
その声に、少女の指が掛け布団をさらに強く握った。
手首の包帯がずれる。青紫の痕がもう少し見えた。掴まれた痕に似ている。だが、抵抗のために捩じった痕ではない。内側に向けて、指の形が残っている。誰かが正面から手首を取ったというより、自分で押さえたか、近い距離で合図のように掴まれたか。少なくとも、暗い部屋で突然襲われた者の痕としては少しだけおとなしい。
澪奈が静かに言った。
「手首の痕、後で確認させてください」
少女はびくりとした。
「え……」
「痛みますか」
「い、痛いです。あの男に掴まれて……」
クラウディオが目を細める。
「どちらの手で」
少女が止まった。
ほんの一拍。
榊も、澪奈も、その間に気づいた。
少女は視線を落とし、右手を見た。それから左手を見た。
「……右、だったと思います」
「お前の右か、男の右か」
「クラウディオ、尋問は俺がする」
榊が遮った。
クラウディオは薄く笑う。
「では、聞け。彼女は真っ暗な部屋で男の顔を見て、人形を抱いていたことを見て、手が冷たかったと覚えている。だが、どちらの手で掴まれたかは今決めた」
少女の涙がまた増えた。
ルストの拳がわずかに握られる。
「お前の言い方は悪い」
「事実は言い方で変わらない」
「泣いている相手に向ける言葉じゃない」
「泣いていれば、言葉を選んでもらえる。便利だな」
「クラウディオ」
ルストの声が低く沈む。
病室の空気が重くなった。
少女は小さく嗚咽した。
「私、何も知りません……本当に、怖くて……あの部屋にはもう戻りたくない……人形が、見ていて……その男の手が冷たくて、薔薇みたいな匂いがして……」
薔薇。
クラウディオとルストの視線が、一瞬だけ交わった。
病室の消毒液の中に残る古い薔薇香水。少女はその匂いを言葉にした。だが、自分の髪と病衣にその匂いがまとわりついていることには気づいていない。普通なら、不快になるほどではなくとも、病院の匂いの中で異物として感じるはずだった。
ルストが低く問う。
「その匂いは、男からしたのか」
「はい……」
「お前自身からではなく」
少女の目が揺れた。
「私、そんな香水、使ってません」
それは本当かもしれなかった。
使っていない。だが、ついている。
その二つは同じではない。
澪奈が静かにメモした。
「衣服と髪の匂い、採取します」
少女は怯えたように肩を縮めた。
ルストはまだ少女を見ていた。守りたいという衝動は消えていない。泣いている。傷がある。事件現場から搬送された。小さく、弱く、助けを求めているように見える。
だが、クラウディオの言葉も消えなかった。
怯えていない。
言い方は悪い。救いようがないほど悪い。だが、クラウディオは見誤っていないかもしれない。涙の流れ方。呼吸の浅さ。視線の逃げ方。言葉の整いすぎた輪郭。少女の証言には、本当の恐怖と、誰かに置かれた言葉が混ざっている。
ルストは、クラウディオを完全には否定できなかった。
それがまた、彼を苛立たせた。
聞き取りは一度中断された。
少女の心拍が少し上がり、看護師が入ってきたためだった。榊は無理をしない判断をした。証言は重要だが、少女を追い詰めすぎれば後で問題になる。警察は証言を欲しがるが、手順もまた必要とする。そこは無能ではない。証拠と同じで、正しく扱わなければ使えない。
少女は泣き疲れたように目を閉じた。
だが、クラウディオには、そのまぶたの下で目が動いたのが見えた。
眠ってはいない。
聞いている。
自分がどう扱われるかを。
榊が病室の外へ出るよう合図した。澪奈も続く。ルストは最後まで少女を一度見てから、クラウディオの腕を取った。
クラウディオは抵抗しなかった。
病室の扉が閉まる。
廊下は白く、長かった。
蛍光灯がひとつ、かすかに明滅している。夜の病院特有の静けさが、壁の中に薄く張りついていた。遠くで台車の車輪が鳴る。誰かの咳。消毒液の匂い。雨のない窓に残る湿気。
ルストはクラウディオを人気のない廊下の壁際へ連れていった。
手首を掴む力は、病室でクラウディオに掴まれた時より強い。だが、乱暴ではなかった。逃がさないための力であり、壊さないための加減でもあった。その加減をクラウディオは知っている。知っている自分に腹が立つ。
背中が壁に触れた。
ルストの大きな影が、クラウディオを覆う。
「何を知っている」
低い声だった。
クラウディオはルストを見上げた。
近い。
近すぎる。
警察官たちの前では抑えていた距離が、誰もいない廊下で簡単に戻る。数十年空いていたはずの時間が、手首ひとつで不愉快なほど短くなる。
「質問が雑だ」
「答えろ」
「泣くものに弱いくせに、俺には強く出るんだな」
「話を逸らすな」
「逸らしているのはお前だ。あの少女の涙を信じたいなら信じろ。俺を見るな」
ルストの指に力がこもった。
痛みはあった。
だが、クラウディオは痛がらなかった。痛みそのものよりも、手首を掴む指の温度の方が厄介だった。覚えている。身体が勝手に覚えている。忌々しいことに。
ルストは低く言う。
「彼女は何かを隠している」
「ようやくか」
「だが、完全に嘘とは限らない」
「そうだな」
「なら、なぜあそこまで言う」
クラウディオは笑った。
冷たく、薄く。
「泣いている者に優しくする役は、お前がやるだろう」
「クラウディオ」
「俺まで同じものを見る必要はない」
「お前は、何を見た」
クラウディオは答えなかった。
答えれば、ルストが少女の涙に揺れたことを、自分が思った以上に不快だったと認めることになる。捜査上の苛立ち。観察眼を鈍らせる保護欲への嫌悪。そう言えば済む。だが、本当はそれだけではない。
ルストが自分を疑うのは、まだいい。
いや、よくはない。よくはないが、理解はできる。
だが、ルストが少女の涙へ手を伸ばしかけた時、クラウディオの中で古い何かが軋んだ。
それを言葉にする気はなかった。
人間も吸血鬼も、言葉にすれば何かが救われると考えがちだ。救われる言葉など、たいてい遅れて来る。遅れて来たものは、傷口に触れるだけで治しはしない。
クラウディオはルストの顔を見上げた。
「自分で考えろ、灰銀」
ルストの指が、さらに強くなった。
クラウディオは眉ひとつ動かさない。
代わりに、空いた手で襟元をわずかに引き上げた。古い噛み跡を隠すように。ルストの視線がそこへ落ちる前に、布で塞ぐ。
ルストはそれを見た。
見て、何も言わなかった。
病室の中から、少女の泣き声がまた聞こえた。
細く、弱く、途切れ途切れに。
けれどそれは、泣き声というより、誰かが泣き方を思い出しているような声だった。




