第63話 焦げた砂糖
朝の灰冠地方は、夜よりも少しだけ冷たかった。
雨は上がっていた。けれど石畳にはまだ水が残っていて、低い屋根の軒先からは、ときおり細い雫が落ちた。古い街灯は消えているのに、空は晴れきらない。雲の薄い灰色が、建物の壁や窓枠、道を行く人々の外套にまで染み込んでいるようだった。
ホテルの扉を出た瞬間、クラウディオ・ルジェリウスは一度だけ空を見上げた。
青い空ではない。
白くもない。
灰の上に薄く水を張ったような空だった。
「景気の悪い空だな」
彼はそう言った。
ルスト・ヴァルレインは隣で外套の襟を直す。
「雨は止んでいる」
「天候報告を求めた覚えはない」
「濡れずに済む」
「貴様と歩かされる時点で十分不快だ」
ルストは反応しなかった。
ホテルの前の通りは狭く、車一台がようやく通れる程度だった。両側には古い石造りの建物が並び、窓辺の鉢植えには小さな赤い花が咲いている。石畳は何度も踏まれ、削れ、磨かれ、雨で濡れて黒く光っていた。
遠くで鐘が鳴った。
昨夜、部屋の窓から見えた古い教会塔の鐘だった。朝の市場が始まる時刻を告げているのだろう。地元の老人が一人、鐘の音に合わせるように十字を切り、すぐに杖をついて歩き出した。
クラウディオの目が、その老人の手元を一瞬だけ見る。
祈りではない。
習慣だ。
それでも、指の動きは火の匂いと同じ道を通ってしまう。
クラウディオはすぐに視線を外した。
「資料館はこっちか」
ルストが地図を確認する。
「市場を抜ける。そこから旧修道院通りに出る」
「最短経路か」
「そうだ」
「人類は何故、重要資料の保管場所へ行く道の途中に食料品と観光客を敷き詰める」
「市場だからだ」
「説明になっていない」
クラウディオは苛立たしげに歩き出した。昨夜、ホテルの廊下から漂ってきた焼き菓子に似た匂いのことは、一言も口にしなかった。焦げ臭い、と言ったきりだった。ルストが「甘い匂いだ」と返すと、クラウディオは「同じだ」とだけ言った。
それ以上は、何も。
朝になっても、その言葉の影は残っていた。
ホテルから数分歩くと、市場の入り口が見えてきた。
古い広場に布屋根が張られ、木箱や簡易台が並んでいる。果物を山のように積んだ店、乾いた香草を吊るした店、布地を広げる店、古道具を並べた店。朝の湿った空気の中で、果物の酸味、香辛料、濃い珈琲、焼けた木、濡れた石の匂いが混ざっていた。
人々の声が重なる。
地元の老人たちの低い会話。
観光客の明るい声。
店主が値段を告げる声。
紙袋が擦れる音。
木箱を下ろす音。
遠くで鳴る鐘。
クラウディオは、いかにも興味がなさそうに歩いていた。
実際、彼の視線は市場の品物をほとんど拾っていない。果物にも、布にも、香辛料にも、古い銀製品にも、焼き物にも、何の感慨も示さなかった。
「旧欧州の市場を見ても何も思わないのか」
ルストが問う。
「野菜が積まれている。布が売られている。人間が喋っている。以上だ」
「まとめ方が雑だ」
「個別に感想が欲しいなら観光案内を雇え」
クラウディオは、布屋根の下を抜ける。
その時だった。
広場の奥、石壁の角に小さな菓子屋があった。
屋台ではない。古い建物の一階部分を店にしたものだ。壁は淡い灰色の石。窓枠は濃い木材。入口の上には、蔦のような飾り罫に囲まれた小さな看板がかかっている。文字は古い字体で、観光客向けの派手さはない。窓辺には焼き菓子が並んでいた。
蜂蜜を塗った丸い菓子。
粉砂糖のかかった小さな焼き菓子。
薄く重なった焦げ目のあるパイ。
紙に包まれた焼きたての菓子。
小さな瓶に入った琥珀色の蜜。
店の奥には石窯が見えた。
その窯から、甘い匂いが流れてきた。
蜂蜜。
小麦粉。
バター。
砂糖。
ほんの少しだけ、焦げた甘さ。
クラウディオの足が止まった。
ほんの一瞬だった。
彼は自分でも止まったことに気づいていないようだった。肩も顔も動かない。ただ、歩き続けるはずだった身体が、見えない糸に引かれたように止まった。
視線は、菓子屋の窓に向いていた。
ルストは横で止まった。
クラウディオは、窓辺に並ぶ菓子を見ていた。
それは、この街の現在の店だった。
過去の店ではない。
あの店ではない。
あの女がいた場所でもない。
それなのに、石窯と木の棚と蜂蜜と小麦粉の匂いが、閉じていたはずの扉へ手をかけた。
「買うか」
ルストが言った。
クラウディオは瞬きをした。
「誰が」
「見ていた」
「目に入っただけだ」
「長く入っていた」
「貴様の観察眼は、本当に不快な場所ばかりよく見るな」
クラウディオは歩き出そうとした。
けれど、香りが追ってくる。
蜂蜜と焦げた砂糖。
石窯の熱。
紙袋の乾いた音。
白い粉のついた手。
記憶は、現実より先に息をした。
王城の廊下は冷たかった。
磨かれた石床には窓の光が落ちている。壁には血統を誇る肖像画が並んでいた。誰かの王冠。誰かの剣。誰かの勝利。誰かの正統性。
その廊下の端を、幼いクラウディオは歩いていた。
服は上等だった。上等であることだけは、彼が城の中の何かに属している証だった。だが、服だけでは席は与えられない。血が王に近くても、母の名が正式な扉を持たないなら、食卓の椅子はひとつ減る。
用意されない皿。
視線だけで交わされる使用人たちの会話。
貴族の子どもたちの笑い声。
廊下の角で、わざと聞こえるように落とされた言葉。
妾の子。
血が汚れている。
夜の血が混じっている。
あれに近づくな。
クラウディオは、それらに慣れていた。
慣れているということは、傷つかないという意味ではない。ただ、傷ついた顔をしてやるほど親切ではなくなったというだけだ。
空腹にも慣れていた。
食卓へ呼ばれない日があった。
皿が下げられたあとで廊下を通されたこともあった。
余ったパンが渡された日には、それが善意なのか侮辱なのかを考えるより先に、胃が痛んだ。
けれど、彼は飢えている顔をしなかった。
王城では、弱さも身分の一部にされる。
ある日の午後、彼は城下へ降りた。
勝手に降りたのか、誰かの目を盗んだのか、今となっては曖昧だった。ただ、城の空気から逃げたかった。冷たい石と、遠巻きの視線と、食卓に用意されない皿から離れたかった。
市場の端に、小さな菓子屋があった。
窓辺には焼き菓子が並び、奥の石窯から熱が漏れていた。蜂蜜と小麦粉と砂糖の匂いが、狭い通りに薄く広がっている。店の中では、年上の女が前掛けをつけ、粉のついた手で菓子を紙に包んでいた。
クラウディオは、店先で立ち止まった。
買うつもりはなかった。
金もなかった。
ただ、匂いを嗅いだだけだった。
店の女が顔を上げた。
彼女はクラウディオを見た。
王城の者たちのようには見なかった。
怯えたわけでもない。
珍しい獣を見るようでもない。
血筋を値踏みするようでもない。
哀れむようでもない。
ただ、そこに立っている子どもを見た。
「お腹が空いているの?」
クラウディオはすぐに顔をしかめた。
「空いていない」
腹は鳴らなかった。鳴らないように、息を止めていたからだ。
女は笑った。
「嘘が下手ね」
その言い方は、からかっているのに、刺すものではなかった。
クラウディオは背筋を伸ばす。
「金はない」
「でしょうね」
「施しならいらない」
「施しに見える?」
女は窓辺から、少し焦げ目のついた小さな焼き菓子を取った。蜂蜜を薄く塗った丸い菓子だった。端が少しだけ焼きすぎている。
「これは少し焼きすぎたわね。売り物にはしにくいわ」
「なら捨てればいい」
「食べ物をすぐ捨てる子は嫌いよ」
「俺に食わせる理由にはならない」
「お腹が空いているから」
クラウディオは黙った。
彼女は紙を取り、菓子を包む。手袋ではない。粉のついた手だった。爪の間に小麦粉が入り、指先は熱に慣れて少し赤い。
クラウディオはそれを見ながら言った。
「俺が誰か知っているのか」
女は彼を見た。
少しだけ目を細める。
知っている目だった。
王城の妾の子。
吸血鬼の血を持つ子。
夜に近い血筋。
王族でも、そうでないものでもある、面倒な子ども。
彼女は、たぶん知っていた。
それでも、紙に包んだ菓子を差し出した。
「知っていても、焼き菓子の味は変わらないわ」
クラウディオは受け取らなかった。
女はさらに言う。
「熱いうちに食べなさい」
「要らない」
「強情ね」
「知らない女から物は受け取らない」
「賢いわ」
「なら引っ込めろ」
「でも今は受け取りなさい」
「何故」
女は少しだけ首を傾げた。
当たり前のことを、当たり前に告げる声で言った。
「お腹が空いている子に、名前はいらないわ」
クラウディオは、言葉を返せなかった。
名前。
王家の名。
母の名。
血筋。
妾の子。
夜の血。
汚れた血。
怪物の子。
それらより先に、彼女は空腹を見た。
空腹の子どもを、空腹の子どもとして扱った。
クラウディオは、ようやく菓子を受け取った。
紙越しでも、熱かった。
彼は、店の横にある石段へ腰を下ろした。女は店に戻り、窓を少しだけ開けたままにした。監視ではない。追い払わないための距離だった。
紙を開く。
焼き菓子は、まだ温かい。端は少し焦げていた。蜂蜜の匂いが立つ。小麦粉とバターと砂糖。ごくわずかな焦げ。
クラウディオは一口かじった。
熱かった。
舌が少し痛んだ。
甘かった。
少し焦げていた。
腹の奥が、痛いほどに緩んだ。
彼は、その味を憎んだ。
憎むくらいには、深く覚えた。
女の声が店の中から飛んできた。
「熱かったでしょう」
「熱くない」
「嘘が下手ね」
「黙れ」
彼女は笑った。
その笑いは、王城の笑い声と違った。
見下すためでも、遠ざけるためでも、血筋を測るためでもない。ただ、熱い菓子を熱くないと言い張る子どもが可笑しかっただけの笑い。
クラウディオは、二口目を食べた。
甘い匂いがした。
蜂蜜と、小麦粉と、少し焦げた砂糖。
その匂いは、しばらく彼の中で優しさの匂いだった。
優しさは、後に別の匂いと混ざった。
同じ砂糖が焦げる匂い。
けれど、火の色はまだ来ない。
群衆の声もまだ来ない。
魔女という言葉も、まだ落ちてこない。
ただ、甘さの奥に、黒い影だけが一瞬差した。
市場のざわめきが戻ってきた。
クラウディオは、菓子屋の前に立っていた。
窓辺には、蜂蜜を塗った丸い菓子が並んでいる。石窯からは熱が流れ、店主らしい若い女が紙袋を折っている。過去の店ではない。あの女ではない。今の街の、今の店だ。
それでも、匂いは似ていた。
似ているだけで、十分だった。
ルストが低く言う。
「買わないのか」
クラウディオは、ようやく視線を外した。
「甘いものに興味はない」
「嘘が下手だ」
クラウディオの目が鋭くなる。
「貴様が言うな」
「見ていた」
「目に入っただけだと言ったはずだ」
「足も止まった」
「道が悪い」
「市場のせいにするのか」
「貴様に説明する義務はない」
クラウディオは、菓子屋に背を向けた。
「くだらん」
吐き捨てるような声だった。
そのまま歩き出す。
歩調は整っている。
背筋も伸びている。
顔にも何も出ていない。
だが、右手が微かに震えていた。
ほんの少し。
手袋の端が、指先でかすかに揺れる程度。
ルストはそれを見た。
触れなかった。
問い詰めなかった。
ただ、クラウディオの隣を歩いた。
市場の布屋根を抜けると、道は少し上り坂になった。石畳は狭く、両側の建物の窓からは白いカーテンが見える。遠くの教会塔が角度を変えて見え、朝の鐘が最後の余韻を落としていた。
クラウディオは無言だった。
ルストも無言だった。
沈黙の中に、菓子屋の匂いだけが残っていた。
資料館は、旧修道院を改装した建物だった。
高い石壁。
尖った窓。
重い木製の扉。
入口の上には、古い紋章が彫られている。宗教施設だった名残はあるが、今は資料館として使われているらしく、扉の脇には現代的な案内板と警備用の端末が設置されていた。
観光客用の入口とは別に、研究者用の小さな扉があった。
ルストが予約票を出す。
受付の職員は、銀縁の眼鏡をかけた痩せた男だった。予約名を確認する。
「クラウディオ・ルジェリウス様。ルスト・ヴァルレイン様」
その名前が、古い石壁の中で読み上げられる。
クラウディオはわずかに眉を寄せた。
飛行機の予約票に並んでいた名前。
ホテルの受付で並んだ名前。
今度は、異端審問資料の閲覧室の前で並ぶ名前。
逃げ場のない紙仕事だ。
人類の事務処理能力は、こういう時だけ無駄に精密である。
職員は書類を確認し、閲覧規則を説明した。
手袋の着用。
撮影制限。
鉛筆のみ使用可。
資料の一部は職員立ち会い。
非公開欄については閲覧理由の再確認。
血術および夜の者に関する記述は、劣化状態のため一度に閲覧できる頁数が限られる。
クラウディオは聞き終えて、薄く笑う。
「燃やした記録の保管にはずいぶん丁寧だな」
職員は意味を取りかねた顔をした。
ルストが言う。
「規則は守る」
「貴様が俺の保護者みたいな顔をするな」
「暴れるな」
「暴れる価値もない紙切れならな」
職員はますます困惑したが、何も言わず、二人を閲覧室へ案内した。
閲覧室は静かだった。
高い窓から白い光が差し込み、長い机の上に薄く落ちている。壁際には古い書棚。空気には紙、革、乾いた糊、わずかな黴の匂いがあった。外の市場のざわめきは届かない。鐘の音も遠い。
机に、最初の目録が置かれた。
灰冠地方異端審問関連目録。
クラウディオは座らないまま、それを見下ろした。
職員が慎重に頁を開く。
裁判記録。
告発者名。
証言者。
没収財産。
処刑者。
処分日。
地名。
罪状。
古い文字が整然と並んでいる。
人が燃やされた記録は、驚くほどきれいに整理されていた。
クラウディオは椅子に座った。
ルストは斜め後ろに立つ。距離は近いが、邪魔ではない。手は出さない。頁には触れない。ただ、クラウディオの視線の変化を見ている。
クラウディオは目録をめくった。
吸血鬼を匿った者。
夜の血を受けた者。
血術の施療を受けた疑い。
異端者へ食料を与えた者。
祈りを拒んだ者。
教会への寄付を拒んだ者。
疫病の原因とされた者。
子を失った母。
薬草を扱った女。
市場で菓子を売っていた女。
クラウディオの指が止まった。
頁の中ほど。
飾り気のない記録だった。
古い字体で、名前の一部が擦れている。完全には読めない。姓か、店名か、屋号か。菓子屋を示す注記。市場通り。蜂蜜菓子。証言者三名。罪状、夜の者へ食物を与えた疑い。血を汚した者を匿った疑い。教会への虚偽申告。
そして、備考欄。
魔女として処刑。
クラウディオの視線が、そこに止まった。
市場の菓子屋で止まった時よりも、さらに深く。
呼吸は乱れない。
表情も崩れない。
だが、紙を押さえる指先だけが白くなった。
ルストは、それを見た。
何も聞かなかった。
クラウディオは何も言わない。
古い窓から差し込む白い光が、紙の上を照らしていた。市場で嗅いだ焼き菓子の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。蜂蜜と小麦粉と、少し焦げた砂糖。
けれど、今はもう甘くなかった。
ルストは低く呼ぶ。
「クラウディオ」
クラウディオは答えない。
紙の上で、その名前だけが、古い灰のように残っていた。




