第62話 同じ部屋
灰冠地方の空は、夜でも灰色だった。
長い移動のあとに辿り着いた旧欧州の地方都市は、空港からさらに鉄道と車を乗り継いだ先にあった。観光案内の写真だけを見れば、美しい街と言えただろう。古い石畳。雨に濡れた狭い通り。鉄の街灯。窓辺に置かれた鉢植え。暗い屋根の連なり。遠くに影のように立つ教会塔。
だが、クラウディオ・ルジェリウスには、そのどれもが美しさより先に別のものを連れてきた。
濡れた石の匂い。
古い祈りの澱。
煙を吸った木材。
火が消えたあとも、なかなか消えない甘く焦げた匂い。
車の窓越しに街を眺めながら、クラウディオは片肘をつき、外の景色へ冷たい目を向けていた。夜の雨は細く、窓硝子を撫でるように流れている。石畳に映った街灯は、車が揺れるたびに歪んだ。
ルスト・ヴァルレインは隣に座っていた。
長い脚を持て余すようにしながらも、表情はいつもと変わらない。灰銀の髪が車内の暗い窓にぼんやり映っている。その視線は、外の街並みではなく、時折クラウディオの横顔へ向けられた。
クラウディオは、視線だけを横へ滑らせる。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ」
「見えただけだ」
「それを世間では見ていると言う。語彙の修復も必要か、灰銀」
ルストは返さなかった。
いつもなら、それだけでクラウディオは皮肉を重ねた。だが、今夜はそれ以上言わなかった。言葉を増やせば、外の街が近づく。石畳の向こうにあるものが、声を持つ。鐘、祈り、火、群衆、魔女という名札。そういうものが、薄い壁の向こうで目を覚ます。
この街は懐かしくなかった。
懐かしいという言葉は、戻りたい場所に使うものだ。
ここは違う。
ここは灰の匂いがする。
夜の車は、古い橋を渡った。欄干には雨粒が溜まり、その下を黒い川が流れている。川沿いには、閉じた店の窓が並んでいた。小さな看板、古い飾り文字、手入れされた花鉢。どれも静かで、整っていて、死んだもののように大人しい。
運転手が何かを説明した。土地の歴史だろう。古い修道院、資料館、観光地区、鐘楼。日本語ではない言葉が、車内の空気を滑っていく。
クラウディオは聞き流していた。
しかし、「教会塔」にあたる単語だけは、耳に残った。
遠くに見える塔の影が、雨に滲んだ窓の奥に立っている。
クラウディオの指先が、膝の上でわずかに曲がった。
ルストは気づいた。
何も言わなかった。
車は古いホテルの前に停まった。
石造りの建物だった。三階建てで、外壁は暗い灰色。入口には古い木製の扉があり、その上に真鍮の小さな灯りが落ちている。雨に濡れた石段は鈍く光り、扉の脇には季節外れの花が鉢に植えられていた。
観光客向けの温かさはある。だが、どこか沈んでいた。古い建物特有の、長く息をひそめてきた匂いがする。
ロビーへ入ると、暖房の低い音がした。
濃い色の絨毯。真鍮の照明。革張りの椅子。壁には、誰かも分からない古い肖像画。磨かれた受付台。蝋、木、雨に濡れた石、わずかな香水。
受付係は丁寧に頭を下げた。中年の男性で、クラウディオとルストを見た瞬間、ほんのわずかに背筋を伸ばした。警察経由の手配だと知っているのだろう。あるいは、ルストの背丈とクラウディオの顔面の圧力に負けたのかもしれない。人間の反応としては正常である。
受付係は流暢な英語で、宿泊手続きと警備上の説明を始めた。
クラウディオは黙って聞いていた。正確には、聞いているふりをしていた。途中までは。
そして、部屋の説明に差しかかった瞬間、その眉がわずかに上がる。
「同室?」
受付係は気まずそうに微笑んだ。
警備上の理由。
現地警察との協議。
周辺警戒。
予約変更。
当初手配された部屋の一部が使えなくなったこと。
ホテル側の都合。
代わりに最上階の広い部屋を用意したこと。
人類は、都合の悪いことを説明する時ほど言葉数が増える。煙幕としてはたいへん原始的だが、まだ使われている。驚きの耐久性である。
クラウディオは最後まで聞いた。
聞いたうえで、にこりともせず言った。
「よりによって貴様と同室か。人類の宿泊制度はここまで退化したのか」
受付係は意味を完全には理解しなかったらしいが、声音だけで何かを察した顔になった。
ルストは動じなかった。
「警備上は正しい」
「便利な言葉だな。檻に布を掛ければ客室になるのか」
「逃げられると面倒だ」
クラウディオが振り向く。
「俺が逃げるのではない。貴様が勝手についてくるだけだ」
「なら、勝手についていく」
「旧欧州まで来て最初に浴びる言葉がそれか。最悪だな」
「慣れろ」
「その言葉を旅行先のホテルで聞く羽目になるとはな。人類の宿泊業に同情する日が来るとは思わなかった」
受付係は鍵を差し出す手をわずかに止めていた。
ルストがそれを受け取る。
「部屋は広い」
「広さの問題ではない」
「俺は困らない」
「貴様が困らないことが問題なんだ」
クラウディオは舌打ちに似た息を吐いた。だが、別室を要求しなかった。できる状況なら、彼はとっくに受付台を皮肉で磨き上げ、ホテルの管理体制を歴史ごと罵倒していたはずだった。
それをしない。
ルストは、それも見ていた。
エレベーターは古かった。鏡面仕上げの壁に二人の姿が映る。クラウディオは外套の襟を直し、ルストは黙って立っている。金属の箱がゆっくり上がるたび、古い機械の軋みが床から伝わった。
クラウディオは鏡に映る自分を見なかった。
代わりに、階数表示の数字を見ていた。
ルストは言った。
「明日は資料館だ」
「言われなくても分かっている」
「休め」
「命令するな」
「倒れられると面倒だ」
「俺を荷物扱いするな」
「荷物の方が逃げない」
「その発想が出るあたり、貴様は本当に管理という言葉を便利に使う」
エレベーターが止まった。
廊下には、厚い絨毯が敷かれていた。足音が吸われる。壁の燭台風照明が、黄色い光を落としている。窓の外では雨が細く降り続いていた。どこか遠くで、車のタイヤが濡れた石畳を走る音がする。
部屋は廊下の突き当たりにあった。
ルストが鍵を開ける。扉を押し開けると、古い木と洗いたてのリネンの匂いが流れてきた。
中は広かった。
小さな玄関スペースの先に、ソファと低いテーブル。奥に寝室。白いリネンの大きなベッドが二台並び、間には細いサイドテーブルが置かれている。距離はある。だが、遠いとは言えない。壁際には古い木製の机。燭台を模した照明。濃い色の絨毯。重いカーテン。ミニバーの小さなガラス瓶。机の上には、ホテル側が用意した街の地図と、資料館の案内冊子が置かれていた。
それから、窓。
部屋の大きな窓の向こうに、古い教会の塔が見えた。
雨に濡れた黒い屋根の群れの奥に、塔は静かに立っていた。尖塔の輪郭は夜空に溶けかけ、時計盤だけが薄く光っている。街灯の光が届かない高さで、塔は白でも黒でもない灰色をしていた。
クラウディオは、一瞬だけ足を止めた。
すぐに歩き出す。
外套を脱ぎ、椅子の背に掛ける。手袋を外す。荷物を置く。何も見ていないような顔で、机へ向かった。
ルストは窓の外を見た。
「塔が見える」
「見れば分かる」
「嫌なら部屋を替える」
「嫌だと言った覚えはない」
「言っていないな」
「なら余計なことを言うな」
クラウディオは机の上に資料を広げ始めた。
旧欧州異端審問記録の写し。
灰冠修道院資料館の入館許可。
閲覧予約票。
夜見坂教会の寄贈記録。
久遠院怜司の助言記録。
旧地名と現在地名の対照表。
吸血鬼、血術、夜の者に関する非公開欄の一覧。
紙の束は、旅先の机に似合わなかった。ホテルの便箋や観光地図の上に、告発と火刑と血術が乗っている。旅情も何もあったものではない。観光案内所が泣く。
クラウディオは資料を並べた。
問題の地名がある頁だけを、わざと避けるように。
だが、避けたところで紙は消えない。
灰冠地方。
古い教区名。
王城の外れ。
市場通り。
菓子職人組合。
異端告発記録。
その文字列が、頁の端から覗いていた。
クラウディオは資料を閉じる。
「明日にしろ」
ルストは、即座に詰めなかった。
「そうする」
クラウディオは、ほんの少しだけ目を上げた。
意外だったのだろう。
ルストは続けない。理由も聞かない。地名を知っているのかとも、そこに何があるのかとも、菓子屋の女と関係があるのかとも聞かない。
ただ、資料をまとめて机の端へ寄せた。
クラウディオはその手元を見ていた。
「珍しく物分かりがいいな」
「今詰めても閉じる」
「俺を箱か何かだと思っているのか」
「似ている」
「殺されたいのか」
「今は困る」
「あとならいいみたいに言うな」
ルストは答えず、窓へ歩いた。
重いカーテンに手をかける。
クラウディオの視線が細くなる。
「勝手に閉めるな」
「開けるか」
クラウディオは答えなかった。
ルストは半分だけカーテンを閉めた。
教会塔は、完全には消えなかった。布の隙間から時計盤の光だけが見える。それでも、窓いっぱいに塔が居座るよりはましだった。
クラウディオは礼を言わない。
文句も言わない。
カーテンを開け直さなかった。
ルストはそれを見て、何も言わなかった。
古い暖房の低い音が、部屋の隅で続いている。雨が窓を叩く。遠くで車が走る。ミニバーの小さな冷蔵庫が、忘れたころにかすかな唸りを上げる。
クラウディオはソファへ腰を下ろした。
ルストは窓際に立ったままだった。教会塔を遮る位置ではない。だが、クラウディオが視線を上げれば、塔より先にルストの背が見える位置だった。
それに気づき、クラウディオは顔をしかめた。
「そこに立つな。監視塔か、貴様は」
「逃げられると面倒だ」
「便利な台詞だな。旅行用の会話帳にでも載せておけ」
「使える」
「使うな」
その時、遠くで鐘が鳴った。
低く、重い音だった。
街全体へ落ちていくような鐘の音。雨に濡れた屋根を伝い、古い石壁へ沈み、ホテルの窓硝子まで震わせるような音。
クラウディオの指先が強張った。
ソファの肘掛けに置かれた手。その指が、革張りの端をわずかに掴む。ほんの一瞬。顔は動かない。視線も変わらない。呼吸も、乱れてはいない。
だが、指先だけが反応した。
ルストは見た。
触れなかった。
鐘はもう一度鳴った。
クラウディオは指をほどいた。
「鐘ごときに怯えると思うか」
ルストは低く返す。
「怯えているとは言っていない」
クラウディオは黙った。
自分が言われていない言葉に反応したことを理解したのだろう。苛立ちが目元に浮かぶ。だが、すぐに消した。
「旧い街は、無駄に音が多い」
「無視しろ」
「命令するな」
「なら、聞くな」
「鐘が勝手に鳴っているんだ。俺に言うな」
鐘が、三度目を鳴らした。
クラウディオは目を閉じなかった。
塔を見てもいない。
それでも、音は届く。
雨上がりの石畳。
店先の灯り。
紙で包まれた焼き菓子。
白い手袋。
焦げた砂糖の匂い。
祈る人々。
魔女と呼ぶ声。
赤い光。
火刑台の影。
記憶は映像ではなかった。
匂いと音の断片だった。
火の色より先に、甘い匂いが来る。
群衆の顔より先に、鐘が鳴る。
誰かの名前より先に、魔女という言葉が落ちる。
そして、幼い自分は動けない。
クラウディオは、目を開けたままそれを押し返していた。
ルストは動かない。
問わない。
その代わり、ただそこにいた。
鐘が止んだあと、部屋には暖房の低い音だけが戻った。
クラウディオは立ち上がり、机の上の資料を一枚引き寄せた。読み始めるでもなく、ただ視線を落とす。地名を避けていたはずなのに、今度はその頁を開いていた。
ルストが言う。
「読むのか」
「確認するだけだ」
「明日にしろと言った」
「俺が言ったから何だ」
「疲れている」
「勝手に診断するな」
「見れば分かる」
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ」
その反復は、いつもより少しだけ柔らかかった。柔らかいと言うには棘が多すぎるが、完全に切り捨てる温度ではない。人類なら会話を諦めるところだが、吸血鬼同士では成立しているらしい。厄介な言語体系である。
ルストは窓際から離れ、机へ近づいた。
資料を覗き込む距離ではない。だが、手を伸ばせば頁を押さえられる距離。
クラウディオは資料から目を離さず言った。
「近い」
「離れるか」
クラウディオは答えない。
ルストは離れなかった。
頁には、旧い裁定記録の索引が載っていた。告発者名。処分日。寄付記録。教区名。備考欄。そこに、「夜の者と接触」「血の施療を受けた疑い」「異端者を匿う」「魔女として処分」という文字が並んでいる。
クラウディオは薄く笑った。
「人間は本当に几帳面だな。燃やす前に書き、燃やした後にも書く」
「忘れないためか」
「違う」
クラウディオは頁の端を指で押さえた。
「正しかったことにするためだ」
ルストは黙った。
クラウディオは続けなかった。
しばらく、雨の音だけがあった。
やがてルストが言った。
「休め」
「貴様はそればかりだな」
「必要だ」
「俺は壊れ物ではない」
「知っている」
「なら言うな」
「壊れ物ではないが、乱れる」
クラウディオの目が冷える。
「第57話の蒸し返しか」
「名前をつけるな」
「貴様が言うな。手首を取るか取らないかで迷っていたくせに」
ルストは、ほんの少しだけ沈黙した。
「気づいていたか」
「当然だ」
「必要なら触る」
「今は必要ない」
「そうか」
「……素直に引くな。気味が悪い」
「引かなければ文句を言う」
「引いても文句は言う」
「知っている」
クラウディオは資料を閉じた。
机の上で、現地地図が半分だけ開いている。ホテルから灰冠修道院資料館までの道筋。途中にある広場。古い教会塔。市場通り。観光案内には、焼き菓子で有名な小さな店がいくつか印をつけられていた。
クラウディオはその地図を見ない。
見ないはずだった。
だが、地図の端に描かれた小さな菓子店の印が、嫌でも目に入った。
彼の喉が、一瞬だけ動く。
ルストは気づいた。
それでも何も言わない。
クラウディオは資料をまとめ、椅子から立ち上がった。
「寝る」
「そうしろ」
「命令に聞こえる」
「提案だ」
「貴様の提案はだいたい命令の顔をしている」
「お前の拒絶はだいたい承諾の前置きだ」
クラウディオが振り返った。
「言うようになったな」
「お前が覚えさせた」
「俺のせいにするな」
ルストはわずかに肩をすくめたように見えた。
クラウディオはベッドの方へ向かいかけ、途中で止まった。
部屋の扉の下。
廊下側の隙間から、空気が流れ込んできた。
最初は、ホテルの厨房の匂いかと思った。
バター。
砂糖。
焼き菓子。
少しの香辛料。
夜遅くまで開いている近くの店か、ホテルが用意している菓子か、明日の朝食の仕込みかもしれない。
普通なら、甘い匂いだった。
ルストには、そう届いた。
だが、クラウディオは違った。
その匂いが部屋へ入った瞬間、彼の動きが止まった。
鐘の時よりも深く。
指先だけではなかった。肩も、喉も、呼吸も、ほんの一瞬だけ全部が止まった。
クラウディオは扉を見た。
見ているのは木製の扉だ。何の変哲もないホテルの扉。外には絨毯敷きの廊下があり、燭台風の照明があり、夜勤の従業員が遠くを歩くかもしれない。
それだけのはずだった。
クラウディオは低く呟いた。
「……焦げ臭い」
ルストが部屋の空気を嗅いだ。
「甘い匂いだ」
クラウディオは扉から目を逸らさない。
「同じだ」
それ以上、何も言わなかった。
ルストはクラウディオを見る。
まだ触れない。
問い詰めない。
ただ、低く呼んだ。
「クラウディオ」
クラウディオは答えない。
廊下の向こうから、甘い匂いだけがゆっくり濃くなる。
鐘よりも静かに、焦げた砂糖の匂いが夜を満たしていった。




