第61話 灰の国へ
霧杜中央署の資料室には、閉鎖された教会の匂いが残っていた。
実際に夜見坂教会から運び込まれたのは、紙の束と箱と記録媒体ばかりだった。祈願文の箱。寄付金記録。孤児保護記録。神父の私物。聖具庫の二重底から出てきた祈りの台本。血を吐いた聖女像の分析資料。告発の声を記録した録音機。神父の白い手袋。
それでも、資料室の空気は妙に冷えている。
封筒を開けるたびに、古い木の匂いと、乾いた紙の匂いと、どこかで祈り損ねた声のようなものが立ち上がる気がした。もちろん、気がしただけだ。普通の警察資料室で紙束から祈りの残骸が湧くなら、役所という建物はとっくに怪異総本山である。人類の事務処理は、なぜこうも怪異に近いのか。
榊悠真は、長机に広げられた資料の山を前に、深く息を吐いた。
「神父の関与、少女の聖女役化、寄付記録、祈りの台本。そこまでは繋がった」
彼の声は疲れていた。だが、投げ出す気配はない。
白石澪奈は、古い台帳の頁を丁寧にめくっていた。手袋越しの指先は慎重で、紙の端を折らないよう、息まで浅くしている。
「でも、久遠院氏の助言記録だけは、まだ扱いが難しいですね」
資料室の蛍光灯が、彼女の眼鏡に白く映る。
「直接指示ではありません。『祈願者の不安を受け止める構造』『象徴化された少女の役割』『告発と共同体心理』……言葉だけ見れば、犯罪とは言えません」
「その犯罪じゃない言葉で事件が整いすぎている」
榊は苦々しく言った。
机の端に凭れるように立っていたクラウディオ・ルジェリウスが、薄く笑った。
「正しい言葉は便利だな。刺しても血が出ない」
黒い外套の裾が、椅子の脚に触れてわずかに揺れる。彼は資料に触れようとしない。ただ見ている。ひどく嫌そうに。けれど目は逸らさない。
ルスト・ヴァルレインは、その隣に立っていた。警察署の資料室にいるには、あまりに場違いな長身だった。灰銀の髪は蛍光灯の下でも鈍く光り、鋼色の目は資料よりも、クラウディオの横顔へ時折向けられている。
クラウディオはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
澪奈が一冊の古い台帳を引き寄せる。
「夜見坂教会の寄贈記録です。古い写本、宗教資料、民間信仰関連の文献がいくつか寄贈されています。問題は、その中に何度も出てくる資料名です」
彼女は頁の端を押さえ、榊に見せた。
榊が覗き込む。
「旧欧州異端審問記録……灰冠地方、修道院保管写本?」
クラウディオの指が止まった。
それは、ごく短い変化だった。机の縁に添えていた指先が一瞬だけ動きを失い、革手袋の皺が浅く固まる。表情は変わらない。唇の形も、目元の冷たさも、そのままだ。
けれど、ルストは見た。
クラウディオの呼吸が、一拍だけ遅れたことを。
澪奈は台帳を見ながら続けた。
「灰冠地方は架空名で整理されていますが、旧欧州辺境部にあった小規模な教区群をまとめた呼称のようです。資料の内容は、異端審問、魔女告発、血術への恐怖、夜に生きる者への迫害記録」
「夜に生きる者」
榊がルストを見る。
ルストは静かに返した。
「吸血鬼、あるいは吸血鬼と関わった人間のことだろう」
「単なる宗教裁判じゃないのか」
「人間は名前をつけるのが好きだ。魔女、異端、怪物、汚れた血。呼び方を増やせば、燃やす相手も増える」
クラウディオが、そこでようやく口を開いた。
「人間の歴史はだいたい胸糞が悪い。分類する手間が省けていい」
いつもの皮肉だった。
だが、遅かった。
いつものクラウディオなら、もっと早く言っていた。誰かが「旧欧州」だの「異端審問」だの言った瞬間に、舌先で切り捨てていたはずだった。
ルストは問い詰めなかった。
澪奈は別の資料を取り出す。押収された裏帳簿の複写と、警察庁から取り寄せた外部助言記録。そこに、夜見坂教会へ残された写本リストと、久遠院怜司の過去の資料コメントが並べられていた。
「久遠院氏の助言記録には、この異端審問記録に直接触れた文言はありません。ただ、似た概念が何度も出ています。告発を共同体の不安処理として扱うこと。象徴化された少女の役割。祈願文を集めることで、個人の願いを集団の声へ変換すること」
澪奈は唇を引き結んだ。
「夜見坂教会の構造と似ています」
榊は資料をめくる手を止めた。
「胸糞が悪いな」
「今さらだ」
クラウディオは、淡々と返した。
「火刑台を聖女像に変え、薪を祈願文に変え、群衆を寄付者に変えただけだ。人間は形を変えれば進歩した気になる。中身は灰の再利用だ」
榊は眉間を押さえた。
「旧欧州の記録が、今回の告発構造の参考になっていた可能性がある。だが、久遠院がそれを使わせた証拠はない」
「また証拠じゃない。だが、同じ灰の匂いがする」
クラウディオの声が落ちた。
資料室の空気が、一段冷える。
澪奈が顔を上げる。
「灰、ですか」
「火刑台の残り香だ。燃えた本人より、燃やした側の方が熱心に残したがる」
クラウディオは台帳へ視線を落とした。
「記録に残しておけば、罪が整理できるとでも思ったのか。火刑台は、灰まで几帳面に保管するらしい」
その言い方はいつものように皮肉だった。けれど、喉の奥がかすかに硬い。
ルストは、クラウディオの横顔を見る。
クラウディオは気づいた。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ、灰銀」
「見えただけだ」
「同じだ」
軽いやり取りの形をしていたが、いつものようにはならなかった。クラウディオはすぐに台帳へ視線を戻す。
澪奈は慎重に言葉を選んだ。
「記録の中には、吸血鬼に助けられた者、夜の者を匿った者、血術に触れた者が『魔女』として告発された事例があるようです。実際に何をしたかより、何と関わったかが重要視されています」
「便利だろうな」
クラウディオは低く言った。
「罪を調べる必要がない。関係を見つければいい。あの者は夜の者と話した。あの女は血の病を癒した。あの子は吸血鬼に殺されなかった。なら魔女だ。燃やせる。楽な仕事だ」
榊は顔をしかめた。
「人間の恐怖を誰か一人へ押しつけて燃やす記録か」
「それ以外に、火刑台が何をする」
クラウディオの指先が、台帳の端に触れた。
澪奈は、その動きを見ていた。触れるというより、確かめるような手つきだった。古い紙の手触りではなく、その奥にある土地の温度を探るような。
「この灰冠地方の資料、原本は現地の資料館にあるようです。夜見坂教会にあったのは写しの一部。しかも、公開されているデジタルデータとは差分があります」
榊が顔を上げる。
「差分?」
「はい。公開資料では削られている注釈があります。吸血鬼、血術、夜の者との接触に関する記述です。教会の写しには、その注釈が残っている」
ルストの目が細くなる。
「意図的に削ったな」
「断定はできません。でも、写本の系統が違う可能性があります。夜見坂教会へ送られた写しと、現地原本を照合する必要があります」
榊は唸るように息を吐いた。
「資料館に問い合わせる。必要なら現地確認だ」
クラウディオが乾いた笑いを漏らした。
「警察は古紙収集まで仕事にしたのか」
「事件に関係するなら仕事だ」
「ご苦労なことだ」
澪奈が資料をまとめながら言う。
「聖女像の血のうち、現代の誰とも一致しない部分があります。血術や異端審問資料に、似た記述があるかもしれません。科学で説明できない部分を、歴史資料で照合する必要があります」
「科学が歴史に泣きつく日が来るとはな」
「泣きついているわけではありません。確認です」
その言葉に、クラウディオは少しだけ黙った。
榊も、澪奈も気づいた。
第五十九の夜に、クラウディオが榊へ言った言葉。
信じるな。確認しろ。
それを、澪奈がそのまま返したのだ。
クラウディオは目を細める。
「覚えが悪いよりはましか」
「ありがとうございます、と受け取っておきます」
「好きにしろ」
澪奈は小さく息を吐き、画面を操作した。
「現地資料館の正式名称は、灰冠修道院資料館。現在は州立の文書館として管理されています。未デジタル化資料が多く、閲覧には事前申請が必要です」
榊が言う。
「照会をかける。警察庁経由で資料閲覧の協力依頼を出す」
「同行者はどうしますか」
「俺は国内側の聴取を続ける必要がある。澪奈も分析が残っている」
榊の視線が、自然とクラウディオとルストへ向いた。
クラウディオは眉をひそめた。
「今、非常に不快な視線を感じた」
榊は平然と言った。
「クラウディオ、あんたは資料を読める」
「俺は古文書係じゃない」
「吸血鬼と血術に関わる記述は、俺たちより読める」
「人間は都合が悪い時だけ化け物を専門家扱いする。反吐が出るな」
「反吐を出すだけ出して、読んでくれ」
「礼儀という概念を警察学校で落としてきたのか」
ルストが短く言った。
「行く」
クラウディオが横を見た。
「誰が」
「俺たちが」
「勝手に複数形にするな」
「必要だ」
「古い紙切れを見に行くために海を越えるなど、酔狂にも程がある」
ルストは、ほとんど間を置かず返した。
「なら、酔狂でいい」
クラウディオの目が冷えた。
「お前は時々、会話を壁に投げているのか」
「お前が扉を閉めるからだ」
「開けろと言っていない」
「知っている」
「なら来るな」
「行く」
榊が低く咳払いをした。
「夫婦喧嘩なら後でやってくれ」
クラウディオの視線が榊へ向いた。温度が三度ほど下がった。
「次にその種の雑な分類をしたら、お前の机に硝子の眼球を並べるぞ」
「すまん。言い方を間違えた」
「存在が間違っている」
澪奈は笑わないように口元を押さえた。職場で笑うには場が悪すぎる。だが、悪すぎる場ほど人間は変なところで笑いたくなる。精神の防衛反応というより、脳の雑なバグである。
ルストは何も言わなかった。
ただ、クラウディオの手元を見ていた。
クラウディオは資料の頁を押さえている。指先はいつも通りに見える。だが、白い紙に触れる力だけが、ごくわずかに強い。
地名。
灰冠地方。
旧欧州辺境。
それは、クラウディオにとって地図上の一点ではなかった。
古い灰の匂いがする場所だった。
火が消えたあとも、名前だけが焦げたまま残る土地だった。
菓子屋の窓に並んでいた焼き菓子。白い手袋をした女の指。紙で包まれた小さな菓子。甘い匂い。焦げた匂い。群衆の声。魔女という言葉。祈っても救われなかった火。
それらは、記憶というより灰だった。
触れれば舞う。吸い込めば喉に残る。水をかけても、石畳の隙間から匂いだけが戻ってくる。
クラウディオは資料を閉じようとした。
だが、閉じきれなかった。
ルストはそれを見た。
聞かなかった。
ただ、言った。
「お前が読めるものがある」
クラウディオは冷たく返す。
「知っているとは言っていない」
「言っていないな」
「なら決めつけるな」
「決めつけていない。必要だと言っている」
「同じだ」
「違う」
クラウディオは、じっとルストを見た。
ルストは逸らさない。
榊は、二人の間にある沈黙を見て、何かを言いかけたが、やめた。警察官としての勘が告げたのだろう。ここに靴を突っ込むと足首ごと持っていかれる。人間、たまには学習する。奇跡に近い。
澪奈が静かに言った。
「現地原本を確認しないと、夜見坂教会へ渡った写しが改変されていたのか、あるいは逆に公開データから削除されたのか、分かりません。久遠院氏の助言記録との照合にも、原本が必要です」
榊は頷いた。
「渡航手配を進める。正式には捜査協力者としてだ。クラウディオ、ルスト、二人に依頼する形になる」
「断る」
クラウディオは即答した。
ルストが短く言う。
「行く」
「お前に決定権はない」
「俺にはある」
「どこに」
「お前を一人で行かせない権利だ」
クラウディオの眉がわずかに動く。
「俺が一人で行くとも言っていない」
「だから、俺が行く」
「会話が壊れている」
「お前よりはましだ」
「よく吠えるようになったな、灰銀」
ルストは答えない。
その代わり、クラウディオの手首へ視線を落とした。触れようとしたのかもしれない。第57話の夜、噛まずに手首を取った時のように。血脈の乱れを、噛み痕ではなく掌の圧で鎮めた時のように。
だが、ルストは触れなかった。
クラウディオはその微かな動きを見逃さない。
「今日は噛まないどころか、触りもしないのか」
ルストは目を上げた。
「必要なら触る」
「厄介だな」
「お前が言った」
「言った覚えはある。許可した覚えはない」
「必要なら、許可を取る」
「取れると思うな」
「なら、待つ」
クラウディオは不機嫌そうに顔を背けた。
榊は、これも会話なのか、ただの睨み合いなのか判別できない顔をしていた。判別できなくて正しい。人間語に似ているだけで、たぶん半分は吸血鬼の何かである。役所の分類表に載せるには迷惑すぎる。
資料室の端末が小さく鳴った。
澪奈が画面を確認する。
「資料館から一次返信です。未デジタル化資料の閲覧には現地申請が必要。灰冠修道院旧蔵の異端審問記録、処刑簿、告発者名簿、寄付記録、教会裁定書が対象。吸血鬼および血術関連注釈は、閲覧制限あり」
榊が言う。
「閲覧制限の解除は」
「警察庁経由の照会が必要です。ただ……」
「ただ?」
澪奈は少し眉を寄せた。
「過去に同じ資料群を閲覧申請した日本側関係者がいます。記録上、個人名は伏せられていますが、所属機関と照合すると、久遠院氏の研究協力案件と時期が重なります」
資料室が静かになった。
クラウディオは笑わなかった。
榊が低く言う。
「本人が読んだ証拠ではない」
「はい。代理人や共同研究者の可能性もあります」
「だが、近い」
「近いです」
クラウディオが口を開く。
「久遠院は、自分で火刑台を作らない。古い火刑台の設計図を見せるだけだ」
ルストの目が冷える。
「助言で済ませる男だな」
「済ませるための助言だ」
「なら、次は済ませない」
「まだ噛みつくな」
ルストはクラウディオを見る。
「今日は噛まないんじゃなかったか」
「減らず口まで覚えたか。最悪だな」
「慣れろ」
「その台詞はまだ早い」
「後で言う」
「言うな」
澪奈が端末へ視線を戻した。
「渡航可能日程が出ました。最短で五日後。現地資料館の閲覧予約、警察庁経由の申請、宿泊先、通訳手配が必要です」
榊は頷いた。
「進めてくれ。クラウディオとルストの予定も確認する」
「俺の予定は確認しなくていい。行かないからだ」
クラウディオは言った。
榊は真顔で返す。
「確認するだけだ。信じるな、確認しろ、だったな」
クラウディオは一瞬黙った。
澪奈が横を向いて肩を震わせた。
ルストは、少しだけ口元を動かしたように見えた。笑ったのかもしれない。分かりにくい。長く生きた吸血鬼の感情表現は、省エネにも程がある。
クラウディオは榊を睨んだ。
「人の言葉を便利に使うな」
「使える忠告だった」
「返せ」
「無理だ」
「全員、学習能力だけは無駄にある」
榊は押収資料をまとめた。
「灰冠地方の資料館へは正式照会を出す。久遠院の閲覧履歴、夜見坂教会への写本流入経路、神父の閲覧記録、助言記録との時系列。全部確認する」
「確認、確認。警察は呪文でも覚えたのか」
「祈りよりはましだろ」
クラウディオは、少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
その声は、思ったより低かった。
榊はそれ以上、何も言わなかった。
数時間後、渡航手配の仮書類が届いた。
資料室の窓の外は、すでに夜だった。霧杜の街は、窓ガラス越しに青白く滲んでいる。遠くのビルの赤い航空灯が、規則正しく瞬いていた。日本の夜は静かで、湿っていて、火刑台の灰とは無縁の顔をしている。
だが、机の上には灰冠修道院資料館の閲覧申請書がある。
渡航予定者欄には、二つの名前が並んでいた。
クラウディオ・ルジェリウス。
ルスト・ヴァルレイン。
ただ名前が並んでいるだけだった。
それなのに、逃げ場がないように見えた。
クラウディオは書類を見下ろし、低く言った。
「最悪だな」
ルストは隣で短く返した。
「慣れろ」
クラウディオは嫌そうに目を細める。
「慣れる必要がある前提で話すな」
「ある」
「ない」
「ある」
「会話の質が落ちているぞ、灰銀」
「お前が逃げるからだ」
「逃げていない。合理的に回避している」
「同じだ」
クラウディオは書類を持ち上げた。
破らない。
資料も閉じない。
ただ、紙面に並んだ地名を見ていた。
灰冠地方。
その名は、彼の中で国名ではなかった。
灰の国だった。
かつて菓子の匂いがして、のちに焦げた匂いだけが残った場所。魔女と呼ばれた誰かの名前が、火の中で崩れた場所。祈りが届かず、人間の声だけがよく燃えた場所。
ルストは、その横顔を見た。
今度も問わなかった。
ただ、同じ書類に目を落とした。
海の向こうで、まだ消えていない灰が待っていた。




