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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第4部 血を吐く聖女像

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第60話 聖女像は沈黙する



 夜見坂教会の扉には、朝の光が薄く張りついていた。


 古びた木扉の中央に、警察の封鎖紙が貼られている。白い紙はまだ新しく、乾いた糊の跡も生々しい。けれど扉そのものは、何十年も人の手で開け閉めされてきた重さを持っていて、紙一枚で沈黙させられるものには見えなかった。


 門の外には、信徒たちがまばらに立っていた。誰も大声を出してはいない。だが、小さな声は絶えず揺れている。ひそひそと交わされる言葉。押し殺したすすり泣き。怒りを噛み殺す息遣い。納得できない者の靴音。携帯端末の画面を見ながら、眉を寄せる者。


 教会は閉じられようとしていた。


 鐘は鳴らない。


 礼拝堂の中は、外よりも冷えていた。朝だというのに、石床には夜の湿度が残っている。磨かれた長椅子は一列ずつ確認され、燭台はすでに片づけられていた。祈願文を納める木箱は押収され、聖具庫の扉には封印が貼られている。祭壇の脇には、資料を入れた段ボール箱が積まれ、寄付金記録、孤児保護記録、祈りの台本、神父の白い手袋、少女の証言調書が、順に運び出されていた。


 祈りの場所というより、解体される舞台のようだった。


 白石澪奈は手袋を替えながら、聖女像の足元を見上げていた。彼女の足元には、立入禁止のテープが張られている。聖女像そのものは、まだ布をかけられていない。まもなく覆われる予定だったが、その前に最後の記録を取る必要があった。


 像は沈黙していた。


 夜ごと口を開き、誰かの罪を告発していた唇は閉じている。白い頬は冷えた石のようで、目は伏せられたまま。口元から流れ続けていた血も止まっていた。礼拝堂を満たしていた無数の声も、今はない。


 それでも、唇の端には薄く赤黒い跡が残っている。


 拭き取っても、布で押さえても、光の角度を変えても、その跡だけは白い石の内側に沈み込んだように消えなかった。


 澪奈は記録端末に数値を入力した。


「表面反応は弱まっています。ただ、唇周辺の残留物は完全には消えていません」


 榊悠真は、聖女像の前から少し離れた場所に立っていた。手には封筒と押収リスト。顔には疲労があったが、視線だけはまだ鈍っていない。


「血液反応は」


「古い血の成分が微量に残っています。現代の誰とも一致しない血の問題は、まだ説明できていません」


 榊の眉間に皺が寄る。


「聖女像は沈黙した。それでも記録上は残る、か」


「はい。記録上は、残ります」


 その言葉を聞いて、クラウディオ・ルジェリウスが聖女像を見上げた。


 彼は祈らなかった。


 手を組まない。目も伏せない。祭壇へ頭を垂れもしない。ただ、白い像の口元に残った赤黒い跡を見ていた。喪服のように整った黒の外套の襟元は、いつもより少し高く閉じられている。そこから覗く横顔は、冷ややかで、美しく、そしてひどく疲れて見えた。


 それを本人に言えば、間違いなく不機嫌になる。人間は疲れていると言われると怒るが、吸血鬼も怒る。面倒な生き物が長命化すると、面倒も長持ちする。迷惑な耐久性だった。


 ルスト・ヴァルレインは、クラウディオの少し後ろに立っていた。近すぎず、離れすぎず。警護に見える距離でありながら、目を凝らせば、ただの警護ではないことが分かる距離だった。


 クラウディオは、聖女像から目を離さないまま言った。


「沈黙しただけだ。赦されたわけじゃない」


 その声は、礼拝堂の冷えた空気に低く落ちた。


 榊は息を止めた。澪奈も記録端末を持つ手を止める。


 ルストだけが、静かに聖女像を見た。


「眠っている」


「そうだな」


 クラウディオは薄く笑った。楽しい笑みではない。


「目覚まし時計は人間の口だ。誰かがまた都合のいい祈りを詰めれば、起きる」


「消えたわけじゃない」


「消えるなら、最初から血など吐かない」


 ルストは、像の口元を見る。


「また口を借りる者がいれば、起きる」


 クラウディオは肩をすくめた。


「人間が黙らない限り、口はいくらでも見つかる」


 礼拝堂の外から、信徒たちの声がわずかに聞こえた。封鎖線の向こうで、誰かが泣いている。誰かが「神父様は悪くない」と呟く。別の誰かが「でも、あの子はどうなるの」と声を震わせる。さらに別の誰かが、「隠していることがあるんだろう」と低く言った。


 聖女像は黙った。


 けれど、人間の口は止まらない。


 榊は扉の方を見た。


「教会は今日から一時閉鎖だ。神父は引き続き聴取。関係資料は全部押収。少女は午後には別の施設へ移される」


 クラウディオは軽く目を動かした。


「ようやく祈りの台本から離れるわけか」


「まだ分からない。あの子が自分の言葉を取り戻すには時間がかかる」


「時間くらいは与えてやれ。祈りよりはましだ」


 その言い方は冷たい。けれど、切り捨てる冷たさではなかった。


 礼拝堂の脇の扉が開き、保護担当の職員に付き添われた少女が出てきた。


 小柄な体に、少し大きめの上着を羽織っている。顔色は悪い。教会で見せていた聖女役の薄い微笑は、もうない。目の下には寝不足の影があり、唇は何度も何かを言いかけて閉じたように乾いていた。


 少女は、聖女像を見た。


 以前なら、そこで手を組んだのかもしれない。教えられた通りに、祈りの言葉を口にしたのかもしれない。誰かが望む顔をして、誰かが信じたがる聖女になったのかもしれない。


 だが、少女は手を組まなかった。


 指先が胸元へ上がりかけて、途中で止まる。


 彼女は、小さく言った。


「もう、祈らなくていいの?」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。職員にも、榊にも、聖女像にも、神にも、たぶん向けられていなかった。ただ、自分の中に空いた穴へ問いかけるような声だった。


 ルストは言葉を失った。


 榊もすぐには答えなかった。


 澪奈は唇を引き結ぶ。


 クラウディオが、少女を見る。


 優しさはなかった。


 慰めもなかった。


 しかし、彼の声は断罪でもなかった。


「祈るかどうかくらい、自分で決めろ」


 少女は目を瞬かせた。


「自分で……」


「そうだ。お前は作られた聖女だった。だが、これから何を口にするかまで、他人に渡すな」


 少女は聖女像を見た。


 白い像は沈黙している。


 少女は、何かを言いかけた。いつもの祈りの一節が、反射のように舌へ乗りかけたのだろう。だが、それを飲み込んだ。唇が震える。目に涙が浮かぶ。けれど、祈りの言葉は出なかった。


 彼女は、職員に促されて礼拝堂を出ていく。


 扉の前で一度だけ振り返ったが、手は組まなかった。


 その小さな背中が消えるまで、クラウディオは目を逸らさなかった。


 ルストが低く言う。


「祈らないのに、最後まで見るんだな」


 クラウディオは横目で見た。


「祈るよりましだ」


「そうか」


「見ないで済ませた奴らが、こうした」


 ルストは何も返さなかった。


 その沈黙は、同意に似ていた。


 榊は、押収リストを閉じた。


「信じるな。確認しろ、か」


 クラウディオは薄く視線を向ける。


「覚えがいいな」


「腹が立つな」


「腹が立つうちは、まだ拝んでいない」


「それを言うな」


「言われたくないなら、忘れろ」


「無理だな」


「なら、確認し続けろ」


 榊は苦い顔をした。


 澪奈が端末を見ながら言う。


「聖女像は沈黙しました。でも、記録上は残っています。古い血も、古い声も、まだ完全には説明できません」


 クラウディオは、像の唇に残った赤黒い跡を見た。


「残るものは残る。消えたふりをするな」


 澪奈は静かに頷いた。


「はい」


 礼拝堂の外へ出ると、空は薄い灰色だった。


 朝と夕方の間のような光だった。実際には午前のはずなのに、閉ざされた教会の周囲だけ、時間がどこかで引っかかっているように見える。


 門の前には報道関係者と信徒と野次馬が混ざっていた。警察官が間に立ち、封鎖線を維持している。誰も中へは入れない。けれど、視線だけが教会の壁へ突き刺さっている。


「神父様が本当にそんなことを?」


「でも、あの像は本当に喋ったんでしょう?」


「少女は被害者なの? それとも共犯?」


「教会を閉めるなんて、何か隠してるんじゃないの」


「告発された人たちの罪はどうなるの」


「聖女像は奇跡だったんだ」


「利用されただけなら、あの子は許されるの?」


「許すって、誰が?」


 声は小さい。


 だが、止まらない。


 榊の端末には報道見出しが次々に流れていた。


 聖女像事件、神父関与か。

 少女は被害者か、それとも共犯か。

 告発された人々の罪は本物だったのか。

 教会閉鎖は隠蔽では。

 聖女像は本当に奇跡だったのか。

 神父だけで終わらせるな。

 少女を許すな。

 少女は利用されただけだ。

 次に暴かれるのは誰か。


 言葉は、指先ひとつで増殖していく。


 祈願文の箱は押収された。


 聖女像は沈黙した。


 神父は連行された。


 少女は教会を出た。


 それでも、告発を欲しがる空気だけは残っていた。


 クラウディオは、榊の端末画面を一瞥した。


「像は黙った。人間の口はまだうるさい」


 ルストが言う。


「止まらないな」


「聖女像より人間の方がよく喋る」


「像の方がましだったか」


「少なくとも、台本が必要だった」


 ルストは少しだけ目を細めた。


「人間にも台本はある」


「あるな。正義、信仰、被害者、共犯、奇跡、隠蔽。便利な台詞が揃っている」


 クラウディオの声は冷えていた。


「人間は、誰かを断罪したい時だけ語彙が増える」


 榊は端末を伏せた。


「世論対応は続く。押収資料もまだ整理しきれていない。神父だけで終わらせるつもりはない」


「なら、確認しろ」


「分かっている」


「本当にか」


「腹は立つが、分かっている」


「それでいい」


 クラウディオは教会の門へ視線を戻した。


 古い扉に封鎖紙が重ねられていく。警察官が脚立に上り、入口上部の紋章にも覆いをかけた。礼拝堂の中では、聖女像に白い布がかけられている頃だろう。白い布に隠されても、唇の端の赤黒い跡だけは消えない気がした。


 門の外で、誰かが祈るように手を組んだ。


 別の誰かが、それを見て眉をひそめた。


 誰かが「祈るな」と言い、誰かが「祈るしかない」と返した。


 クラウディオはそれを聞いて、少しだけ目を伏せかけた。だが、すぐに戻した。


 祈らない。


 手を組まない。


 目を伏せない。


 ただ、見る。


 ルストは、その横に立った。


「近い」


 クラウディオが言った。


 ルストは視線を動かさない。


「離れるか」


 クラウディオは答えなかった。


 ルストも離れなかった。


 しばらくして、クラウディオは小さく息を吐いた。


「祈る場所が壊れたんじゃない。祈りを売った奴が壊した」


 榊が、その言葉を聞いた。


 門の外で泣いている信徒も、怒っている信徒も、信じたい者も、疑いたい者も、まとめて悪と呼ぶには粗すぎる。夜見坂教会には、本当に救われた者もいたのだろう。あの礼拝堂で涙を流し、立ち上がれた者もいたかもしれない。少女を本当に心配した者もいた。聖女像に手を合わせることで、ようやく夜を越えられた者もいたはずだ。


 だが、その弱さを台本にした者がいた。


 祈りを箱に集め、告発へ変え、寄付へ繋げ、権力にした者がいた。


 壊したのは、祈りそのものではない。


 祈りを売った人間だった。


 やがて、教会の扉が完全に閉じられた。


 重い音がした。


 鐘は鳴らなかった。


 少女を乗せた車が、静かに門を離れていく。少女は窓の外を見ていた。教会へ手を振ることも、祈ることもなかった。ただ、自分の膝の上で指を握りしめている。


 澪奈と数名の警察官が、押収資料を車両へ運び込む。


 榊は最後にもう一度、封鎖された扉を見た。


 クラウディオは、その横を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。


 門の外のざわめきの向こうに、まだ誰かの声が聞こえる。


 聖女像は沈黙した。


 それでも、告発の欲望は消えていない。


 人間は、像がなくても口を探す。


 遠く、都心の高層ビルの一室で、久遠院怜司は夜見坂教会閉鎖の報道を見ていた。


 窓の外には、薄い雲の下で街が光っている。室内は静かだった。机の上には、警察庁へ提出された共有報告書の写しが置かれている。


 聖女像の血。

 少女の祈り。

 神父の手袋。

 寄付金記録。

 告発された人々。

 世論の反応。

 教会閉鎖。

 聖女像沈黙。


 久遠院は、その項目を一つずつ目で追った。


 赤線は引かない。


 書き込みもしない。


 報告書を汚す必要はない、というように、彼の指は紙の端を静かに揃えただけだった。


 画面の中では、封鎖された夜見坂教会の前で、信徒と報道陣がまだ何かを言い合っている。警察官が制止し、車両が動き、古い扉が閉ざされる。


 久遠院は、穏やかに微笑んだ。


「聖女像は沈黙しましたか」


 誰に聞かせるでもない声だった。


 机の上に置かれた端末には、世論の反応が流れている。神父への怒り。少女への同情。少女への断罪。教会への不信。奇跡を信じたい者。隠蔽を疑う者。次の告発を待つ者。


 久遠院はそれらを眺める。


「けれど、告発への欲望は残る」


 彼は報告書を閉じた。


 紙が重なる音は、礼拝堂の扉が閉じる音よりもずっと軽かった。


 それでも、その軽い音の中に、次の何かが始まる気配があった。


「像がなくても、人は口を探します」


 久遠院は窓の外へ視線を向けた。


 街はまだ喋っている。


 誰かを責める声。


 誰かを守る声。


 誰かを疑う声。


 誰かを燃やす準備をしている声。


 久遠院は静かに微笑んだまま、最後に言った。


「聖女像は沈黙した。では、次は誰が喋るのでしょう」




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