第60話 聖女像は沈黙する
夜見坂教会の扉には、朝の光が薄く張りついていた。
古びた木扉の中央に、警察の封鎖紙が貼られている。白い紙はまだ新しく、乾いた糊の跡も生々しい。けれど扉そのものは、何十年も人の手で開け閉めされてきた重さを持っていて、紙一枚で沈黙させられるものには見えなかった。
門の外には、信徒たちがまばらに立っていた。誰も大声を出してはいない。だが、小さな声は絶えず揺れている。ひそひそと交わされる言葉。押し殺したすすり泣き。怒りを噛み殺す息遣い。納得できない者の靴音。携帯端末の画面を見ながら、眉を寄せる者。
教会は閉じられようとしていた。
鐘は鳴らない。
礼拝堂の中は、外よりも冷えていた。朝だというのに、石床には夜の湿度が残っている。磨かれた長椅子は一列ずつ確認され、燭台はすでに片づけられていた。祈願文を納める木箱は押収され、聖具庫の扉には封印が貼られている。祭壇の脇には、資料を入れた段ボール箱が積まれ、寄付金記録、孤児保護記録、祈りの台本、神父の白い手袋、少女の証言調書が、順に運び出されていた。
祈りの場所というより、解体される舞台のようだった。
白石澪奈は手袋を替えながら、聖女像の足元を見上げていた。彼女の足元には、立入禁止のテープが張られている。聖女像そのものは、まだ布をかけられていない。まもなく覆われる予定だったが、その前に最後の記録を取る必要があった。
像は沈黙していた。
夜ごと口を開き、誰かの罪を告発していた唇は閉じている。白い頬は冷えた石のようで、目は伏せられたまま。口元から流れ続けていた血も止まっていた。礼拝堂を満たしていた無数の声も、今はない。
それでも、唇の端には薄く赤黒い跡が残っている。
拭き取っても、布で押さえても、光の角度を変えても、その跡だけは白い石の内側に沈み込んだように消えなかった。
澪奈は記録端末に数値を入力した。
「表面反応は弱まっています。ただ、唇周辺の残留物は完全には消えていません」
榊悠真は、聖女像の前から少し離れた場所に立っていた。手には封筒と押収リスト。顔には疲労があったが、視線だけはまだ鈍っていない。
「血液反応は」
「古い血の成分が微量に残っています。現代の誰とも一致しない血の問題は、まだ説明できていません」
榊の眉間に皺が寄る。
「聖女像は沈黙した。それでも記録上は残る、か」
「はい。記録上は、残ります」
その言葉を聞いて、クラウディオ・ルジェリウスが聖女像を見上げた。
彼は祈らなかった。
手を組まない。目も伏せない。祭壇へ頭を垂れもしない。ただ、白い像の口元に残った赤黒い跡を見ていた。喪服のように整った黒の外套の襟元は、いつもより少し高く閉じられている。そこから覗く横顔は、冷ややかで、美しく、そしてひどく疲れて見えた。
それを本人に言えば、間違いなく不機嫌になる。人間は疲れていると言われると怒るが、吸血鬼も怒る。面倒な生き物が長命化すると、面倒も長持ちする。迷惑な耐久性だった。
ルスト・ヴァルレインは、クラウディオの少し後ろに立っていた。近すぎず、離れすぎず。警護に見える距離でありながら、目を凝らせば、ただの警護ではないことが分かる距離だった。
クラウディオは、聖女像から目を離さないまま言った。
「沈黙しただけだ。赦されたわけじゃない」
その声は、礼拝堂の冷えた空気に低く落ちた。
榊は息を止めた。澪奈も記録端末を持つ手を止める。
ルストだけが、静かに聖女像を見た。
「眠っている」
「そうだな」
クラウディオは薄く笑った。楽しい笑みではない。
「目覚まし時計は人間の口だ。誰かがまた都合のいい祈りを詰めれば、起きる」
「消えたわけじゃない」
「消えるなら、最初から血など吐かない」
ルストは、像の口元を見る。
「また口を借りる者がいれば、起きる」
クラウディオは肩をすくめた。
「人間が黙らない限り、口はいくらでも見つかる」
礼拝堂の外から、信徒たちの声がわずかに聞こえた。封鎖線の向こうで、誰かが泣いている。誰かが「神父様は悪くない」と呟く。別の誰かが「でも、あの子はどうなるの」と声を震わせる。さらに別の誰かが、「隠していることがあるんだろう」と低く言った。
聖女像は黙った。
けれど、人間の口は止まらない。
榊は扉の方を見た。
「教会は今日から一時閉鎖だ。神父は引き続き聴取。関係資料は全部押収。少女は午後には別の施設へ移される」
クラウディオは軽く目を動かした。
「ようやく祈りの台本から離れるわけか」
「まだ分からない。あの子が自分の言葉を取り戻すには時間がかかる」
「時間くらいは与えてやれ。祈りよりはましだ」
その言い方は冷たい。けれど、切り捨てる冷たさではなかった。
礼拝堂の脇の扉が開き、保護担当の職員に付き添われた少女が出てきた。
小柄な体に、少し大きめの上着を羽織っている。顔色は悪い。教会で見せていた聖女役の薄い微笑は、もうない。目の下には寝不足の影があり、唇は何度も何かを言いかけて閉じたように乾いていた。
少女は、聖女像を見た。
以前なら、そこで手を組んだのかもしれない。教えられた通りに、祈りの言葉を口にしたのかもしれない。誰かが望む顔をして、誰かが信じたがる聖女になったのかもしれない。
だが、少女は手を組まなかった。
指先が胸元へ上がりかけて、途中で止まる。
彼女は、小さく言った。
「もう、祈らなくていいの?」
その声は、誰に向けたものでもなかった。職員にも、榊にも、聖女像にも、神にも、たぶん向けられていなかった。ただ、自分の中に空いた穴へ問いかけるような声だった。
ルストは言葉を失った。
榊もすぐには答えなかった。
澪奈は唇を引き結ぶ。
クラウディオが、少女を見る。
優しさはなかった。
慰めもなかった。
しかし、彼の声は断罪でもなかった。
「祈るかどうかくらい、自分で決めろ」
少女は目を瞬かせた。
「自分で……」
「そうだ。お前は作られた聖女だった。だが、これから何を口にするかまで、他人に渡すな」
少女は聖女像を見た。
白い像は沈黙している。
少女は、何かを言いかけた。いつもの祈りの一節が、反射のように舌へ乗りかけたのだろう。だが、それを飲み込んだ。唇が震える。目に涙が浮かぶ。けれど、祈りの言葉は出なかった。
彼女は、職員に促されて礼拝堂を出ていく。
扉の前で一度だけ振り返ったが、手は組まなかった。
その小さな背中が消えるまで、クラウディオは目を逸らさなかった。
ルストが低く言う。
「祈らないのに、最後まで見るんだな」
クラウディオは横目で見た。
「祈るよりましだ」
「そうか」
「見ないで済ませた奴らが、こうした」
ルストは何も返さなかった。
その沈黙は、同意に似ていた。
榊は、押収リストを閉じた。
「信じるな。確認しろ、か」
クラウディオは薄く視線を向ける。
「覚えがいいな」
「腹が立つな」
「腹が立つうちは、まだ拝んでいない」
「それを言うな」
「言われたくないなら、忘れろ」
「無理だな」
「なら、確認し続けろ」
榊は苦い顔をした。
澪奈が端末を見ながら言う。
「聖女像は沈黙しました。でも、記録上は残っています。古い血も、古い声も、まだ完全には説明できません」
クラウディオは、像の唇に残った赤黒い跡を見た。
「残るものは残る。消えたふりをするな」
澪奈は静かに頷いた。
「はい」
礼拝堂の外へ出ると、空は薄い灰色だった。
朝と夕方の間のような光だった。実際には午前のはずなのに、閉ざされた教会の周囲だけ、時間がどこかで引っかかっているように見える。
門の前には報道関係者と信徒と野次馬が混ざっていた。警察官が間に立ち、封鎖線を維持している。誰も中へは入れない。けれど、視線だけが教会の壁へ突き刺さっている。
「神父様が本当にそんなことを?」
「でも、あの像は本当に喋ったんでしょう?」
「少女は被害者なの? それとも共犯?」
「教会を閉めるなんて、何か隠してるんじゃないの」
「告発された人たちの罪はどうなるの」
「聖女像は奇跡だったんだ」
「利用されただけなら、あの子は許されるの?」
「許すって、誰が?」
声は小さい。
だが、止まらない。
榊の端末には報道見出しが次々に流れていた。
聖女像事件、神父関与か。
少女は被害者か、それとも共犯か。
告発された人々の罪は本物だったのか。
教会閉鎖は隠蔽では。
聖女像は本当に奇跡だったのか。
神父だけで終わらせるな。
少女を許すな。
少女は利用されただけだ。
次に暴かれるのは誰か。
言葉は、指先ひとつで増殖していく。
祈願文の箱は押収された。
聖女像は沈黙した。
神父は連行された。
少女は教会を出た。
それでも、告発を欲しがる空気だけは残っていた。
クラウディオは、榊の端末画面を一瞥した。
「像は黙った。人間の口はまだうるさい」
ルストが言う。
「止まらないな」
「聖女像より人間の方がよく喋る」
「像の方がましだったか」
「少なくとも、台本が必要だった」
ルストは少しだけ目を細めた。
「人間にも台本はある」
「あるな。正義、信仰、被害者、共犯、奇跡、隠蔽。便利な台詞が揃っている」
クラウディオの声は冷えていた。
「人間は、誰かを断罪したい時だけ語彙が増える」
榊は端末を伏せた。
「世論対応は続く。押収資料もまだ整理しきれていない。神父だけで終わらせるつもりはない」
「なら、確認しろ」
「分かっている」
「本当にか」
「腹は立つが、分かっている」
「それでいい」
クラウディオは教会の門へ視線を戻した。
古い扉に封鎖紙が重ねられていく。警察官が脚立に上り、入口上部の紋章にも覆いをかけた。礼拝堂の中では、聖女像に白い布がかけられている頃だろう。白い布に隠されても、唇の端の赤黒い跡だけは消えない気がした。
門の外で、誰かが祈るように手を組んだ。
別の誰かが、それを見て眉をひそめた。
誰かが「祈るな」と言い、誰かが「祈るしかない」と返した。
クラウディオはそれを聞いて、少しだけ目を伏せかけた。だが、すぐに戻した。
祈らない。
手を組まない。
目を伏せない。
ただ、見る。
ルストは、その横に立った。
「近い」
クラウディオが言った。
ルストは視線を動かさない。
「離れるか」
クラウディオは答えなかった。
ルストも離れなかった。
しばらくして、クラウディオは小さく息を吐いた。
「祈る場所が壊れたんじゃない。祈りを売った奴が壊した」
榊が、その言葉を聞いた。
門の外で泣いている信徒も、怒っている信徒も、信じたい者も、疑いたい者も、まとめて悪と呼ぶには粗すぎる。夜見坂教会には、本当に救われた者もいたのだろう。あの礼拝堂で涙を流し、立ち上がれた者もいたかもしれない。少女を本当に心配した者もいた。聖女像に手を合わせることで、ようやく夜を越えられた者もいたはずだ。
だが、その弱さを台本にした者がいた。
祈りを箱に集め、告発へ変え、寄付へ繋げ、権力にした者がいた。
壊したのは、祈りそのものではない。
祈りを売った人間だった。
やがて、教会の扉が完全に閉じられた。
重い音がした。
鐘は鳴らなかった。
少女を乗せた車が、静かに門を離れていく。少女は窓の外を見ていた。教会へ手を振ることも、祈ることもなかった。ただ、自分の膝の上で指を握りしめている。
澪奈と数名の警察官が、押収資料を車両へ運び込む。
榊は最後にもう一度、封鎖された扉を見た。
クラウディオは、その横を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
門の外のざわめきの向こうに、まだ誰かの声が聞こえる。
聖女像は沈黙した。
それでも、告発の欲望は消えていない。
人間は、像がなくても口を探す。
遠く、都心の高層ビルの一室で、久遠院怜司は夜見坂教会閉鎖の報道を見ていた。
窓の外には、薄い雲の下で街が光っている。室内は静かだった。机の上には、警察庁へ提出された共有報告書の写しが置かれている。
聖女像の血。
少女の祈り。
神父の手袋。
寄付金記録。
告発された人々。
世論の反応。
教会閉鎖。
聖女像沈黙。
久遠院は、その項目を一つずつ目で追った。
赤線は引かない。
書き込みもしない。
報告書を汚す必要はない、というように、彼の指は紙の端を静かに揃えただけだった。
画面の中では、封鎖された夜見坂教会の前で、信徒と報道陣がまだ何かを言い合っている。警察官が制止し、車両が動き、古い扉が閉ざされる。
久遠院は、穏やかに微笑んだ。
「聖女像は沈黙しましたか」
誰に聞かせるでもない声だった。
机の上に置かれた端末には、世論の反応が流れている。神父への怒り。少女への同情。少女への断罪。教会への不信。奇跡を信じたい者。隠蔽を疑う者。次の告発を待つ者。
久遠院はそれらを眺める。
「けれど、告発への欲望は残る」
彼は報告書を閉じた。
紙が重なる音は、礼拝堂の扉が閉じる音よりもずっと軽かった。
それでも、その軽い音の中に、次の何かが始まる気配があった。
「像がなくても、人は口を探します」
久遠院は窓の外へ視線を向けた。
街はまだ喋っている。
誰かを責める声。
誰かを守る声。
誰かを疑う声。
誰かを燃やす準備をしている声。
久遠院は静かに微笑んだまま、最後に言った。
「聖女像は沈黙した。では、次は誰が喋るのでしょう」




