第59話 しがない人形師の忠告
霧杜中央署の資料室には、教会の匂いがまだ残っていた。
もちろん、本当に聖堂の香の匂いが染みついているわけではない。ここにあるのは、鉄製の棚と、灰色の床と、蛍光灯の白い光と、古いファイルの紙臭さだけだった。けれど、押収された段ボール箱の蓋を開けるたび、どこか遠くから湿った木の匂い、古い布の匂い、血を拭ききれなかった石の匂いが立ち上がるような気がした。
夜見坂教会は、一時閉鎖の手続きに入っていた。
神父は事情聴取中だった。祈りの台本、白い手袋、寄付金記録、聖女像の血、少女の証言、裏帳簿。すべてが揃いすぎているほど揃っていた。それでも、事件は「神父一人の仕業」として閉じるには、あまりに綺麗に組まれすぎていた。
綺麗すぎるものは、たいてい誰かが手を入れている。
榊悠真は、資料箱の前に立ったまま、しばらく黙っていた。
箱の中には、押収物が番号順に並べられている。聖女像の口元から採取された古い血の分析資料。神父の手袋。少女に読ませていた祈りの台本。匿名寄付の裏帳簿。外部助言者との面談記録。久遠院怜司の名前に繋がる、しかし本人の犯罪指示とは言えない書面。
科学で扱えるものと、科学だけでは扱いきれないものが、同じ箱に入っている。
それが、榊の苛立ちを深くしていた。
白石澪奈は、別の机で録音波形を見比べていた。聖女像が最後に漏らした古い声。少女の声。神父の声。信徒の祈願文を読み上げた時に混ざった声。それらの波形を分離し、重なりを調べる作業は、夜通し続けても終わらない。
ルスト・ヴァルレインは資料室の入口近くに立っていた。長身の影が、白い床に重く落ちている。彼は棚にも椅子にも寄りかからず、ただそこにいる。警察署という場所の中で、彼だけが少し時代からずれて見えた。
クラウディオ・ルジェリウスは、窓際の机に腰かけていた。
腰かけるな、と榊が最初に言った。
クラウディオは、当然のように無視した。
机の上には、教会から押収された書類が積まれている。その隣で、クラウディオは退屈そうに足を組んでいた。人形師という肩書きには似合わないほど、彼の視線は資料を冷たく解体している。
榊は、裏帳簿のコピーを手に取った。
「久遠院の助言記録は、直接証拠にはならない」
それは、誰に言ったのか自分でも分からない声だった。
澪奈が顔を上げる。
「はい。助言内容そのものは、危機管理や共同体心理に関する一般論として処理される可能性が高いです」
「一般論、か」
榊は、紙を机へ置いた。
「寄付金の流れも、祈願文の受付日も、聖女像が口を開いた夜も、少女の台本も、神父の手袋も、全部繋がっている。だが、久遠院が命じた証拠はない」
「そうです」
「奴は助言しただけだ」
澪奈は少しだけ言葉を選んだ。
「記録上は、そうなります」
榊は、苛立ちを隠せずに舌打ちした。
「気に入らないな」
「気に入る必要はない」
窓際から、クラウディオの声がした。
榊は振り返る。
クラウディオは、薄い指で資料の端を弾いた。紙が一枚、乾いた音を立てる。
「気に入らないなら、まだまともだ。気に入ったら終わりだろ」
「お前にまともと言われると、逆に不安になるな」
「安心しろ。褒めていない」
榊は、深く息を吐いた。
「俺たちは証拠で動く。気に入らない、気味が悪い、匂いが同じだ、だけでは動けない」
「だから証拠を集めている」
「お前は時々、証拠より先に結論へ行く」
「お前は時々、証拠を拝んで動けなくなる」
空気が少し冷えた。
澪奈が手を止める。
ルストも、入口でわずかに視線を動かした。
榊はクラウディオを正面から見た。
「今、何と言った」
クラウディオは、退屈そうに首を傾けた。
「聞こえなかったのか。警察の耳も疲労で鈍るらしい」
「クラウディオ」
ルストが低く名を呼んだ。
制止ではない。確認だった。
クラウディオはルストを見ず、榊を見ていた。
榊は、ゆっくり言った。
「科学を信じずに捜査ができるか」
「科学を捨てろとは言っていない」
「証拠を疑い始めたら、何も残らない」
「だから、信じすぎるなと言っている」
クラウディオの声は、珍しく強くなかった。
皮肉はある。冷たさもある。けれど、ただ榊を嘲っている声ではなかった。
それが、かえって榊を苛立たせた。
「信仰と科学を同列にするな」
「同列にしているんじゃない。人間の扱い方が同じになると言っている」
「俺たちは祈りで人を捕まえてるわけじゃない」
「分かっている。だからこそ忠告している」
クラウディオは机から降りた。
靴音が、資料室の床に小さく響く。
彼は押収箱の前へ近づき、聖女像の血液分析資料を一枚取った。勝手に触るな、と榊が言いかけたが、クラウディオの指は資料の端だけを持っていた。折り目も付けず、汚しもせず、まるで古い人形の薄い指を持ち上げるような手つきだった。
「信仰も科学も、信じすぎれば同じだ」
資料室の中が、妙に静かになった。
蛍光灯の細い唸りだけが聞こえる。
榊は眉を寄せた。
「同じなわけがない」
「そう思っているうちは、まだいい」
「どういう意味だ」
「信仰を疑わない連中が聖女像を作った。科学を疑わない連中は、別の像を作る」
クラウディオは資料を戻した。
「証拠は見るものだ。拝むものじゃない」
榊の顔が硬くなった。
反発はあった。
当然だ、と自分の中で声がした。
警察は証拠を見る。記録を見る。数字を見る。血液反応、指紋、映像、音声、時系列。それを積み上げて、人を疑い、人を捕まえ、人を裁きへ渡す。
証拠を信じなければ、何もできない。
しかし、火刑事件ではどうだった。
証言は嘘ではなかった。少なくとも、告発者は自分が聞いたものを語っていた。だが、その証言は汚染されていた。問いの形をした火種が、人の不安の中へ投げ込まれていた。
科学的な記録も、間違ってはいなかった。防犯カメラも、通話記録も、血痕も、燃え方の異常も、それぞれ正しかった。ただ、見せられた条件が歪んでいた。
教会事件では、聖女像の血は分析できた。複数人の血が混ざっていることも分かった。神父の手袋の新しい血も、少女の台本も、裏帳簿も、科学と記録が拾った。
だが、聖女像が口を開いた時。
ルストが混ざった声を分けなければ、礼拝堂は告発の場として外へ広がっていたかもしれない。
科学だけでは足りなかった。
怪異だけでも足りなかった。
どちらかに逃げれば、別の何かを見落とす。
榊は、無意識に押収箱を見下ろしていた。
「科学を否定するな」
それでも、そう言った。
警察官としての、最後の踏ん張りのような声だった。
クラウディオは、少しだけ目を細める。
「否定していない。道具に祈るなと言っている」
澪奈が、苦く笑った。
「科学も拝まれると困りますね」
「困るだろうな」
クラウディオは彼女を見た。
「道具に祈るな。使え」
澪奈は一瞬だけ目を伏せた。
「肝に銘じます」
「銘じるな。確認しろ」
「……はい」
榊は腕を組んだ。
「だが、証拠を信じなければ、裁判には出せない」
「信じるなとは言っていない。信じ込むなと言っている」
「その違いを現場でどう扱えと?」
「疑い続けろ」
クラウディオの声が少し低くなった。
「祈りを疑わない者は、祈りの台本に気づかない。科学を疑わない者は、条件を整えた奴に気づかない。証拠は正しい。だが、証拠が置かれた場所まで正しいとは限らない」
榊は黙った。
言い返す言葉はあるはずだった。
だが、どれも教会の礼拝堂の中で焼け残った紙片のように、端が黒くなって崩れていく。
ルストが、静かに口を開いた。
「随分親切だな」
クラウディオは横目で見た。
「馬鹿がまた火刑台を組むと面倒だからな」
「榊のことか」
「広く人類の話だ」
「広すぎる」
「狭める価値がない」
榊は、腹立たしいと思った。
だが、怒りだけで片づけられる言葉ではなかった。
「俺を馬鹿扱いして忠告か」
「ありがたく受け取れ」
「受け取り拒否したいね」
「なら、次に告発状でも受け取れ。そちらの方が好みならな」
榊はクラウディオを睨んだ。
クラウディオは涼しい顔だった。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
だが、分かる部分はある。
それが一番腹立たしかった。
「腹が立つが、分かる部分はある」
榊が言うと、クラウディオは微かに笑った。
「腹が立つくらいでいい。信じ込むよりましだ」
資料室の外を、誰かが通り過ぎる足音がした。
事件後の警察署は、夜明け前でも眠らない。人間が怪異より厄介なのは、眠らずに書類を増やすところだ。神父の事情聴取は続き、少女の保護手続きも進み、夜見坂教会の閉鎖準備も始まっている。
だが、事件はまだ完全には閉じていない。
久遠院怜司の助言記録。
祈りの台本の最後にあった別の筆跡。
裏帳簿に挟まれていた短いメモ。
人は、自分で祈ったと思っている時が一番よく動く。
榊は、その一文を思い出した。
「久遠院は、何を信じていると思う」
問いは、自然に口をついて出た。
クラウディオはすぐには答えなかった。
しばらく、押収箱の中の資料を見ている。
血。
台本。
帳簿。
助言記録。
祈願文。
科学で読めるものと、科学だけでは読めないもの。
その全部を、誰かが盤面に並べた。
「久遠院は、信仰も科学も信じていない。使っている」
榊は眉を寄せる。
「だから危険だと?」
クラウディオは静かに答えた。
「信じている奴より、使い分ける奴の方が器用に燃やす」
資料室の空気が、さらに重くなる。
ルストの目がわずかに冷えた。
彼は久遠院を見た時の感覚を思い出していた。穏やかで、礼儀正しく、正しいことを言う男。火刑台について語る声は、まるで火傷をしたことがない者のようだった。いや、違う。火傷を知っていて、それを観察資料として分類している者の声だった。
澪奈が小さく言う。
「信じていないから、利用できる……」
「そうだ」
クラウディオは頷かない。ただ、言葉だけを置いた。
「信じている者は、信じているものに縛られる。祈る者は神に縛られる。科学を信じる者は手順に縛られる。そこにはまだ、面倒な誠実さがある」
「久遠院には、それがないと?」
「あるように見せるのが上手い」
榊は黙って聞いていた。
「証拠の顔をした誘導。助言の顔をした設計。祈りの顔をした告発。あいつは、名前を変えるのが上手い」
ルストが言う。
「だから、名前を貼るなと言うのか」
クラウディオは、ルストを見た。
「貼れば、向こうの土俵だ。魔女、聖女、犯人、被害者、外部顧問。人間は名前を貼ると安心する。安心した瞬間、見るのをやめる」
榊の喉が、小さく動いた。
それは、警察にも刺さる言葉だった。
容疑者。
被害者。
参考人。
証人。
分類は必要だ。分類しなければ記録できない。記録しなければ捜査は進まない。
だが、分類した瞬間に、見えなくなるものもある。
神父は加害者だった。
少女は被害者だった。
だが、それだけではなかった。
少女は利用された。けれど、途中から利用する側にも回った。
神父は怪異を恐れていた。けれど、同時に怪異を利用した。
被害者女性は聖女ではなかった。だが、焼かれていい人間ではなかった。
祈りは救いだったかもしれない。だが、台本にもなった。
榊は、押収資料の箱を見つめた。
科学で扱える証拠と、怪異でしか説明できない残響が、同じ箱の中で静かに眠っている。
「なら、何を信じればいい」
自分でも、弱い問いだと思った。
クラウディオは、すぐに答えた。
「信じるな。確認しろ」
短い言葉だった。
説教ではない。
慰めでもない。
それどころか、かなり不親切な答えだった。
だが、榊は何も言えなくなった。
信じるな。
確認しろ。
警察官として、あまりに当然のことだった。だが、当然のことは、時に一番忘れやすい。証拠を見つける。記録を読む。数字を追う。そうしているうちに、証拠そのものを疑わなくなる。
証拠は嘘をつかないかもしれない。
だが、証拠を置く人間は嘘をつく。
クラウディオは、資料箱から離れた。
「久遠院を疑うなとは言わない。むしろ疑え。だが、嫌いだから犯人にするな。気持ち悪いから黒幕にするな。正しいことを言うから安全だと思うな。全部、確認しろ」
榊は無言だった。
クラウディオは続ける。
「信仰も科学も、人間が使う。なら、最後に腐るのはいつも人間だ」
澪奈が小さく息を吸った。
「それでも、使うしかありません」
「当然だ。使え。拝むな。捨てるな。逃げるな」
クラウディオは扉へ向かった。
ルストが、その後ろにつく。
榊は、二人の背中を見た。
クラウディオが振り返らずに言う。
「榊」
「何だ」
「科学を疑え。怪異も疑え。人間はもっと疑え」
「お前は何なら信じるんだ」
クラウディオは足を止めなかった。
「人形は嘘をつかない」
榊は呆れた。
「それも信仰じゃないのか」
クラウディオはようやく少しだけ振り向いた。
唇の端に、薄い笑みが浮かぶ。
「だから、壊して確かめる」
それだけ言って、クラウディオは資料室を出ていった。
ルストは一度だけ榊を見た。
その目は、忠告を受け取るか捨てるかはお前次第だ、と言っているようだった。口には出さない。灰銀のハンターは、必要以上には喋らない。人類の会議文化とは相性が悪い。正直、少し羨ましい。
扉が閉まる。
資料室には、榊と澪奈と、押収された箱だけが残った。
澪奈は端末の画面へ視線を戻したが、すぐに手を止めた。
「榊さん」
「何だ」
「腹が立ちますね」
「何が」
「正しいところです」
榊は短く笑った。
笑ったというより、息が漏れただけだった。
「本当にな」
彼は、押収資料の箱を見下ろした。
聖女像の血。
神父の手袋。
祈りの台本。
裏帳簿。
久遠院の助言記録。
科学で測れるものと、祈りの形をしていたものと、怪異の残滓と、人間の悪意。
すべてが、一つの箱に入っている。
榊は、その箱に手を伸ばした。
拝むためではない。
閉じるためでもない。
もう一度、確認するために。
「……厄介な忠告だな」
その呟きは、資料室の白い蛍光灯の下で、誰に拾われることもなく落ちた。




