表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第4部 血を吐く聖女像

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/125

第56話 祈りの後始末


 夜見坂教会の礼拝堂は、息をしていた。


 そう見えた。


 白い壁も、古い長椅子も、祭壇へ続く赤い絨毯も、天井近くの細い窓も、本来なら動くはずがない。礼拝堂はただ人を迎え、祈りを受け止め、沈黙を保つための箱であるはずだった。


 だが、その夜、礼拝堂の空気は重く脈打っていた。


 聖女像の口は、わずかに開いたまま閉じなかった。


 白く滑らかなはずの唇の端から、赤黒い筋が細く流れている。血は勢いよく噴き出しているわけではない。滴るというより、染み出していた。長い時間、石の奥に押し込められていたものが、やっと隙間を見つけて外へ出てきたようだった。


 像の頬にも、赤黒い線が浮かんでいる。


 祈る形に組まれた両手は胸の前にある。だが、その手は今、祈っているようには見えなかった。自分の口を塞ごうとして、間に合わなかった手に見えた。


 伏せられた目は開いていない。


 それでも、見られている感覚があった。


 少女は膝を抱えるようにして床へ座り込んでいた。唇が震え、喉の奥から声にならない息が漏れている。神父は祭壇脇に立ち尽くしていた。いつも清潔に整えられていた白い手袋は外され、彼の指は何かを隠す場所を失ったように硬く曲がっている。


 榊は信徒たちを下がらせ、礼拝堂の扉に向かって鋭く指示を出した。


「外へ。全員、廊下まで下がってください。押さないで。そこ、止まらない。白石さん、録音は」


「回しています」


 澪奈の声は、いつもより薄かった。


 彼女は録音機と解析端末を持ち、聖女像から一定の距離を取って立っていた。端末の画面には乱れた波形がいくつも重なっている。人の声なら一つの線になるはずの波が、幾重にも折れ、絡み、ほどけない糸の束のように震えていた。


「少女の声があります。神父の声も……信徒の声も混じっています。けれど、それだけじゃない。もっと古い層があります。声の高さも、録音の劣化も違う。血の反応が強まっています」


 榊が振り返る。


「現場封鎖を広げる。声が外に漏れたらまずい」


 その言葉を聞いた瞬間、聖女像の口から低い音が漏れた。


 音というより、息の束だった。


 女の声。少女の声。老人の声。神父の声。信徒の泣き声。知らない誰かの掠れた声。いくつもの声が重なって、言葉の形を失いながら礼拝堂を満たしていく。


 ――赦して。


 ――言わないで。


 ――あの人が。


 ――私は祈っただけ。


 ――祈らされた。


 ――見ないで。


 ――まだ。


 ――まだ、赦していない。


 その最後の声が落ちた時、礼拝堂の長椅子に残っていた信徒の一人が、小さく悲鳴を上げた。自分の胸元を押さえ、何かを吐き出しそうに体を折る。別の女が泣き出した。誰かが「すみません」と呟いた。何に対しての謝罪なのか、自分でも分かっていないような声だった。


 聖女像の声は、誰かを名指ししているわけではなかった。


 だが、礼拝堂にいる者たちの中から、それぞれの罪や隠し事を引きずり出そうとしていた。


 告発は祈りではない。


 火種だ。


 クラウディオ・ルジェリウスは、祭壇から少し離れた場所に立っていた。長い睫毛の下の瞳は、聖女像を見ている。だが、その目は信仰の対象を見る者の目ではなかった。敵を見る目でもない。標本を見る目でも、怪異を面白がる目でもない。


 ただ、見ていた。


 祈らずに。


 手を組まずに。


 目を伏せずに。


 逃げもしない。


 白い聖女像の口元から流れる赤黒い血を見て、彼の表情は冷えていた。けれど、その冷たさの底には、焼け焦げた匂いを嗅いだ時と同じ沈黙が沈んでいた。


 ルスト・ヴァルレインは、その横顔を一度だけ見た。


 クラウディオの視線は、像に向いている。だが、ほんの一瞬だけ、別の赤い光を見ているようにも見えた。石畳に揺れる火。群衆の声。誰かが「魔女」と叫ぶ声。焼けた砂糖のような甘い匂い。小さな菓子屋の窓。白い手袋の指。火の中で名前が崩れていく感覚。


 ルストは問わなかった。


 問いは、ここでは刃になる。


 聖女像の声が膨らんだ。


 ――白い手で。


 ――血を隠した。


 ――祈りを。


 ――台本を。


 ――言わせた。


 神父が膝をついた。


「聖女様、お鎮まりください……どうか、どうかお鎮まりください。私は、私は教会を守ろうと――」


 クラウディオが神父を見る。


 その目だけで、神父の言葉は止まった。


「利用した怪異に、今さら祈るな」


 声は低かった。


 静かな声だった。


 だからこそ、神父の肩が震えた。


「私は……私は、ただ、信徒を救うために」


「救う?」


 クラウディオは口角だけを薄く上げた。


「寄付金を集めるための祈願文を作り、少女に聖女役を演じさせ、告発を望む者の声を像へ流し込み、怪異の口で人を裁かせた。それを救いと呼ぶなら、ずいぶん安い救いだな」


 神父は言葉を失った。


 少女が震える声で言った。


「私の声じゃない……」


 その声は、聖女像の声にかき消されそうなほど小さかった。


「私、こんなこと言ってない。私、祈っただけなのに。祈って、って言われて……そうすれば、みんなが私を見てくれるって……でも、聞こえる。私じゃない声が、まだ」


 クラウディオは少女を見ない。


 見れば彼女はまた、見られたことを盾にするかもしれない。あるいは、本当に崩れるかもしれない。どちらにせよ、今はそこではなかった。


 聖女像の口がさらに開いた。


 石が軋む音がした。像の台座の下から、紙がめくられるような乾いた音がいくつも立ち上がる。古い告解記録が、誰も触れていないのに頁を繰るような音。礼拝堂の隅に置かれた燭台の影が、炎もないのに揺れた。


 榊が神父の前に立つ。


「人間の方は逃がさない。怪異は頼む。こっちは神父を見ている」


 ルストは頷かなかった。


 ただ、聖女像へ向かって歩き出した。


 彼の足音は礼拝堂に深く響いた。長椅子の間を進み、赤い絨毯を踏み、祭壇の前へ出る。聖女像から流れる古い血の匂いは、彼に近づくほど濃くなった。


 新しい血。


 古い血。


 人間のものと、人間ではもう測れないもの。


 少女の声。信徒の声。神父の声。告発したい者の声。赦されたい者の声。赦さない者の声。


 混ざりすぎている。


 ルストは聖女像の前で立ち止まった。


「黙らせるんじゃない。混ざった声を分ける」


 その言葉に、クラウディオの視線がわずかに動いた。


 聖女像の口から、低い声がまた漏れる。


 ――裁いて。


 ――言わせて。


 ――私ではない。


 ――あの人が。


 ――赦さない。


 ルストは目を閉じなかった。


 吸血鬼の血は、祈りよりも古いところで世界を読む。彼は石の像を見ているのではなかった。血の中に残る時間を見ていた。祈りの形に押し込められた怒り。告解の箱に置き去りにされた恐怖。神父が選び、少女に読ませ、人々に望ませた告発の言葉。それらが一つの口へ押し込められ、聖女像という器を裂き始めている。


 ルストは片手を上げた。


 血に触れたわけではない。像へ何かを刻んだわけでもない。特定の祈句を唱えたわけでもない。ただ、そこに立ち、自分の血の格で、礼拝堂の空気へ静かな圧をかけた。


 見えない重みが、声の層へ降りる。


 澪奈の端末がかすかに震えた。


「波形が……分かれていきます」


 彼女は画面を見つめたまま呟いた。


「混ざっていた線が、別々に出ています。少女の声。神父の声。信徒の声。それから……古い声。こんなの、説明できません。でも、記録されています」


 ルストは低く言った。


「お前の口ではない」


 聖女像の声が揺らいだ。


 ――私の。


 ――私の祈り。


 ――私の告発。


「違う」


 ルストの声は荒くなかった。だが、礼拝堂のどの声よりも深く通った。


「誰かに祈らされ、誰かに告発させられ、誰かの血を吐かされている。お前の口ではない」


 聖女像の赤黒い筋が、像の胸元へ広がった。


 少女が両耳を押さえる。


「やめて……やめて、聞こえる。私が言った声じゃない。私が言わされた声が、また……」


 クラウディオが静かに言った。


「聖女じゃない。溜め込まされた口だ」


 ルストは聖女像へ向かい、さらに一歩踏み込んだ。


「黙れとは言わない。だが、誰かの口を借りるな」


 その瞬間、聖女像の口から漏れていた声が、いくつにも割れた。


 少女の泣き声が左へ滑る。神父の震えた祈りが右へ落ちる。信徒たちの告発欲が低く沈む。古い血に混じっていた知らない女の声が、像の奥へ残る。


 礼拝堂の空気が一度、ぐっと重くなった。


 クラウディオは動かなかった。


 誰かが、震える声で言った。


「祈ってください……お願いです、祈って……」


 信徒の一人だった。何に向けて言っているのかも分からない。聖女像へか。神へか。ルストへか。クラウディオへか。とにかく、祈りの形にすがろうとしている声だった。


 クラウディオは、その信徒へ顔を向けた。


「祈らない」


 短い声だった。


 信徒が息を止める。


 クラウディオは続けた。


「祈って救われるなら、火刑台は燃えなかった」


 礼拝堂が、ほんの一瞬だけ、完全に沈黙した。


 榊も、澪奈も、少女も、神父も、誰もすぐには言葉を返せなかった。


 クラウディオは聖女像を見ていた。


 その目は、像を見ている。だが、もっと古い何かを見てもいた。祈りながら火を囲んだ群衆。清い言葉で汚い断罪を包んだ人間たち。魔女と呼ばれた瞬間に、名前を奪われた女。菓子の甘い匂いが、焦げた砂糖の匂いへ変わる瞬間。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


 祈りはしない。


 だが、見捨てもしない。


 ルストは、聖女像へ背を向けたまま言った。


「見ていろ」


「命令するな」


「祈れとは言っていない」


 クラウディオの呼吸が、ほんの少しだけ戻った。


 彼は不機嫌そうに眉を寄せる。


「なら言い方を考えろ」


「今は無理だ」


「雑だな」


「知っている」


 短いやり取りだった。


 だが、それだけで十分だった。


 ルストは聖女像へ向き直る。


「裁くな。眠れ」


 声の層が、さらに分かれていく。


 澪奈が端末を握り直した。


「古い声だけが残っています。現代の声は薄れている。血の反応も下がっています。でも、完全には消えていません」


「消さなくていい」


 ルストが言う。


「聞いた。眠れ」


 聖女像の唇が震えた。


 石でできた唇が震えたように見えたのか、本当に動いたのか、誰にも分からなかった。


 ――まだ。


 古い声が一度だけ漏れる。


 ――まだ、赦していない。


 クラウディオは、その声を聞いて目を細めた。


「赦す必要はない」


 誰に向けた言葉か、本人にも分かっていないような声だった。


「だが、他人の口で叫ぶな」


 ルストが静かに続ける。


「血に戻れ」


 礼拝堂の空気が、沈んだ。


 重い何かが水底へ落ちていくように、声の波が静まっていく。聖女像の口元から流れていた血は、細くなり、やがて止まった。唇はゆっくり閉じていく。完全に元通りではない。赤黒い跡は薄く残ったままだ。だが、礼拝堂全体を押し潰していた告発の圧は消えた。


 信徒たちのすすり泣きが戻ってきた。


 人間の声だけが、礼拝堂に残った。


 榊は大きく息を吐き、すぐに神父へ向き直った。


「神父。あなたには署で話を聞く。逃げようとは思わないことだ」


 神父は座り込むように膝を落とした。


「私は、教会を……」


「その話も聞く。だが、人間の方は人間の責任として聞く」


 榊の声は硬かった。


 少女は床に座り込んだまま、聖女像を見上げていた。


「私の声じゃなかった……でも、私の声もあった」


 誰もすぐには答えなかった。


 それは彼女が利用された証でもあり、利用した証でもある。少女がただの被害者へ戻れるわけではない。だが、全ての罪を一人で背負わせることも違う。


 クラウディオは少女を一瞥した。


「利用されたことと、利用したことは別だ。混ぜるな」


 少女は泣かなかった。


 泣く余力も残っていないようだった。ただ、唇を噛んで俯いた。


 澪奈は録音機を止めずに画面を確認していた。指先が震えている。


「最後の声だけ、まだ残っています。古い声。波形が消えません」


 クラウディオが彼女の端末を見る。


「消えないだろうな」


「どうしてですか」


「終わっていないからだ」


 榊がこちらを見た。


「神父だけではない、ということか」


 クラウディオは聖女像を見上げた。


 白い像はもう喋らない。口も閉じている。血も止まっている。だが、唇の端の赤黒い跡は、完全には消えていなかった。


「神父だけなら、ここまで混ぜられない」


 クラウディオの声は低かった。


「祈らせ方を教えた奴がいる。寄付金、告解、少女の台本、血、告発欲、古い声。全部を一つの口へ押し込むには、もう一段上から眺めていた奴がいる」


 榊が苦い顔をする。


「久遠院か」


「まだ名前を貼るな」


 即座に返したクラウディオの声は冷たい。


「ただ、解説席の匂いがする」


 ルストがクラウディオの横へ戻ってきた。


 彼の顔色は変わっていない。だが、血を分け、声を沈めた負荷は体の奥に残っているのだろう。ほんのわずかに呼吸が深い。


 クラウディオはそれを見たが、何も言わなかった。


 ルストも何も言わない。


 礼拝堂の中で、人間たちはようやく動き始めた。榊が現場を封鎖し直し、澪奈が機材の記録を保存し、警官たちが信徒を一人ずつ外へ誘導する。少女は女性警官に支えられ、神父は榊の部下に見張られながら立ち上がった。


 聖女像だけが、祭壇の上に残っている。


 静かになった白い像。


 だが、もう聖なるものには見えなかった。


 血を吐かされ、祈りを詰め込まれ、告発の口にされた石の器だった。


 クラウディオは、その前に立った。


 手は組まない。


 目も伏せない。


 祈らない。


 ルストが隣に立つ。


「祈らなかったな」


 クラウディオは聖女像を見たまま答えた。


「祈って救われるなら、火刑台は燃えなかった」


 ルストは、それ以上聞かなかった。


 聞けば、クラウディオは閉じる。


 そのことを、もう知っている。


 しばらくして、クラウディオは低く言った。


「祈ったわけじゃない」


 ルストは短く返す。


「知っている」


 クラウディオは不快そうに目を細めた。


「何でも分かった顔をするな」


「分かっていない」


「なら黙っていろ」


「黙っている」


「今喋っただろうが」


 ルストは黙った。


 クラウディオは鼻で息を吐く。


 そして、聖女像をもう一度見た。


 赤黒い跡の残る唇。祈る形をした、口を塞げなかった手。伏せたままの目。


 クラウディオは小さく言った。


「だが、見届けるくらいはしてやる」


 それは祈りではなかった。


 弔いと呼ぶにも冷たすぎた。


 けれど、目を逸らさずに立ち続けるという彼なりの限界だった。


 その時、澪奈の録音機から、小さな音が漏れた。


 誰も触れていない。


 画面には、古い波形が一つだけ残っていた。


 ざらついたノイズの奥で、声がした。


 ――……まだ。


 そこで途切れた。


 聖女像は鎮まった。


 だが、まだ赦されていないものが残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ