第56話 祈りの後始末
夜見坂教会の礼拝堂は、息をしていた。
そう見えた。
白い壁も、古い長椅子も、祭壇へ続く赤い絨毯も、天井近くの細い窓も、本来なら動くはずがない。礼拝堂はただ人を迎え、祈りを受け止め、沈黙を保つための箱であるはずだった。
だが、その夜、礼拝堂の空気は重く脈打っていた。
聖女像の口は、わずかに開いたまま閉じなかった。
白く滑らかなはずの唇の端から、赤黒い筋が細く流れている。血は勢いよく噴き出しているわけではない。滴るというより、染み出していた。長い時間、石の奥に押し込められていたものが、やっと隙間を見つけて外へ出てきたようだった。
像の頬にも、赤黒い線が浮かんでいる。
祈る形に組まれた両手は胸の前にある。だが、その手は今、祈っているようには見えなかった。自分の口を塞ごうとして、間に合わなかった手に見えた。
伏せられた目は開いていない。
それでも、見られている感覚があった。
少女は膝を抱えるようにして床へ座り込んでいた。唇が震え、喉の奥から声にならない息が漏れている。神父は祭壇脇に立ち尽くしていた。いつも清潔に整えられていた白い手袋は外され、彼の指は何かを隠す場所を失ったように硬く曲がっている。
榊は信徒たちを下がらせ、礼拝堂の扉に向かって鋭く指示を出した。
「外へ。全員、廊下まで下がってください。押さないで。そこ、止まらない。白石さん、録音は」
「回しています」
澪奈の声は、いつもより薄かった。
彼女は録音機と解析端末を持ち、聖女像から一定の距離を取って立っていた。端末の画面には乱れた波形がいくつも重なっている。人の声なら一つの線になるはずの波が、幾重にも折れ、絡み、ほどけない糸の束のように震えていた。
「少女の声があります。神父の声も……信徒の声も混じっています。けれど、それだけじゃない。もっと古い層があります。声の高さも、録音の劣化も違う。血の反応が強まっています」
榊が振り返る。
「現場封鎖を広げる。声が外に漏れたらまずい」
その言葉を聞いた瞬間、聖女像の口から低い音が漏れた。
音というより、息の束だった。
女の声。少女の声。老人の声。神父の声。信徒の泣き声。知らない誰かの掠れた声。いくつもの声が重なって、言葉の形を失いながら礼拝堂を満たしていく。
――赦して。
――言わないで。
――あの人が。
――私は祈っただけ。
――祈らされた。
――見ないで。
――まだ。
――まだ、赦していない。
その最後の声が落ちた時、礼拝堂の長椅子に残っていた信徒の一人が、小さく悲鳴を上げた。自分の胸元を押さえ、何かを吐き出しそうに体を折る。別の女が泣き出した。誰かが「すみません」と呟いた。何に対しての謝罪なのか、自分でも分かっていないような声だった。
聖女像の声は、誰かを名指ししているわけではなかった。
だが、礼拝堂にいる者たちの中から、それぞれの罪や隠し事を引きずり出そうとしていた。
告発は祈りではない。
火種だ。
クラウディオ・ルジェリウスは、祭壇から少し離れた場所に立っていた。長い睫毛の下の瞳は、聖女像を見ている。だが、その目は信仰の対象を見る者の目ではなかった。敵を見る目でもない。標本を見る目でも、怪異を面白がる目でもない。
ただ、見ていた。
祈らずに。
手を組まずに。
目を伏せずに。
逃げもしない。
白い聖女像の口元から流れる赤黒い血を見て、彼の表情は冷えていた。けれど、その冷たさの底には、焼け焦げた匂いを嗅いだ時と同じ沈黙が沈んでいた。
ルスト・ヴァルレインは、その横顔を一度だけ見た。
クラウディオの視線は、像に向いている。だが、ほんの一瞬だけ、別の赤い光を見ているようにも見えた。石畳に揺れる火。群衆の声。誰かが「魔女」と叫ぶ声。焼けた砂糖のような甘い匂い。小さな菓子屋の窓。白い手袋の指。火の中で名前が崩れていく感覚。
ルストは問わなかった。
問いは、ここでは刃になる。
聖女像の声が膨らんだ。
――白い手で。
――血を隠した。
――祈りを。
――台本を。
――言わせた。
神父が膝をついた。
「聖女様、お鎮まりください……どうか、どうかお鎮まりください。私は、私は教会を守ろうと――」
クラウディオが神父を見る。
その目だけで、神父の言葉は止まった。
「利用した怪異に、今さら祈るな」
声は低かった。
静かな声だった。
だからこそ、神父の肩が震えた。
「私は……私は、ただ、信徒を救うために」
「救う?」
クラウディオは口角だけを薄く上げた。
「寄付金を集めるための祈願文を作り、少女に聖女役を演じさせ、告発を望む者の声を像へ流し込み、怪異の口で人を裁かせた。それを救いと呼ぶなら、ずいぶん安い救いだな」
神父は言葉を失った。
少女が震える声で言った。
「私の声じゃない……」
その声は、聖女像の声にかき消されそうなほど小さかった。
「私、こんなこと言ってない。私、祈っただけなのに。祈って、って言われて……そうすれば、みんなが私を見てくれるって……でも、聞こえる。私じゃない声が、まだ」
クラウディオは少女を見ない。
見れば彼女はまた、見られたことを盾にするかもしれない。あるいは、本当に崩れるかもしれない。どちらにせよ、今はそこではなかった。
聖女像の口がさらに開いた。
石が軋む音がした。像の台座の下から、紙がめくられるような乾いた音がいくつも立ち上がる。古い告解記録が、誰も触れていないのに頁を繰るような音。礼拝堂の隅に置かれた燭台の影が、炎もないのに揺れた。
榊が神父の前に立つ。
「人間の方は逃がさない。怪異は頼む。こっちは神父を見ている」
ルストは頷かなかった。
ただ、聖女像へ向かって歩き出した。
彼の足音は礼拝堂に深く響いた。長椅子の間を進み、赤い絨毯を踏み、祭壇の前へ出る。聖女像から流れる古い血の匂いは、彼に近づくほど濃くなった。
新しい血。
古い血。
人間のものと、人間ではもう測れないもの。
少女の声。信徒の声。神父の声。告発したい者の声。赦されたい者の声。赦さない者の声。
混ざりすぎている。
ルストは聖女像の前で立ち止まった。
「黙らせるんじゃない。混ざった声を分ける」
その言葉に、クラウディオの視線がわずかに動いた。
聖女像の口から、低い声がまた漏れる。
――裁いて。
――言わせて。
――私ではない。
――あの人が。
――赦さない。
ルストは目を閉じなかった。
吸血鬼の血は、祈りよりも古いところで世界を読む。彼は石の像を見ているのではなかった。血の中に残る時間を見ていた。祈りの形に押し込められた怒り。告解の箱に置き去りにされた恐怖。神父が選び、少女に読ませ、人々に望ませた告発の言葉。それらが一つの口へ押し込められ、聖女像という器を裂き始めている。
ルストは片手を上げた。
血に触れたわけではない。像へ何かを刻んだわけでもない。特定の祈句を唱えたわけでもない。ただ、そこに立ち、自分の血の格で、礼拝堂の空気へ静かな圧をかけた。
見えない重みが、声の層へ降りる。
澪奈の端末がかすかに震えた。
「波形が……分かれていきます」
彼女は画面を見つめたまま呟いた。
「混ざっていた線が、別々に出ています。少女の声。神父の声。信徒の声。それから……古い声。こんなの、説明できません。でも、記録されています」
ルストは低く言った。
「お前の口ではない」
聖女像の声が揺らいだ。
――私の。
――私の祈り。
――私の告発。
「違う」
ルストの声は荒くなかった。だが、礼拝堂のどの声よりも深く通った。
「誰かに祈らされ、誰かに告発させられ、誰かの血を吐かされている。お前の口ではない」
聖女像の赤黒い筋が、像の胸元へ広がった。
少女が両耳を押さえる。
「やめて……やめて、聞こえる。私が言った声じゃない。私が言わされた声が、また……」
クラウディオが静かに言った。
「聖女じゃない。溜め込まされた口だ」
ルストは聖女像へ向かい、さらに一歩踏み込んだ。
「黙れとは言わない。だが、誰かの口を借りるな」
その瞬間、聖女像の口から漏れていた声が、いくつにも割れた。
少女の泣き声が左へ滑る。神父の震えた祈りが右へ落ちる。信徒たちの告発欲が低く沈む。古い血に混じっていた知らない女の声が、像の奥へ残る。
礼拝堂の空気が一度、ぐっと重くなった。
クラウディオは動かなかった。
誰かが、震える声で言った。
「祈ってください……お願いです、祈って……」
信徒の一人だった。何に向けて言っているのかも分からない。聖女像へか。神へか。ルストへか。クラウディオへか。とにかく、祈りの形にすがろうとしている声だった。
クラウディオは、その信徒へ顔を向けた。
「祈らない」
短い声だった。
信徒が息を止める。
クラウディオは続けた。
「祈って救われるなら、火刑台は燃えなかった」
礼拝堂が、ほんの一瞬だけ、完全に沈黙した。
榊も、澪奈も、少女も、神父も、誰もすぐには言葉を返せなかった。
クラウディオは聖女像を見ていた。
その目は、像を見ている。だが、もっと古い何かを見てもいた。祈りながら火を囲んだ群衆。清い言葉で汚い断罪を包んだ人間たち。魔女と呼ばれた瞬間に、名前を奪われた女。菓子の甘い匂いが、焦げた砂糖の匂いへ変わる瞬間。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
祈りはしない。
だが、見捨てもしない。
ルストは、聖女像へ背を向けたまま言った。
「見ていろ」
「命令するな」
「祈れとは言っていない」
クラウディオの呼吸が、ほんの少しだけ戻った。
彼は不機嫌そうに眉を寄せる。
「なら言い方を考えろ」
「今は無理だ」
「雑だな」
「知っている」
短いやり取りだった。
だが、それだけで十分だった。
ルストは聖女像へ向き直る。
「裁くな。眠れ」
声の層が、さらに分かれていく。
澪奈が端末を握り直した。
「古い声だけが残っています。現代の声は薄れている。血の反応も下がっています。でも、完全には消えていません」
「消さなくていい」
ルストが言う。
「聞いた。眠れ」
聖女像の唇が震えた。
石でできた唇が震えたように見えたのか、本当に動いたのか、誰にも分からなかった。
――まだ。
古い声が一度だけ漏れる。
――まだ、赦していない。
クラウディオは、その声を聞いて目を細めた。
「赦す必要はない」
誰に向けた言葉か、本人にも分かっていないような声だった。
「だが、他人の口で叫ぶな」
ルストが静かに続ける。
「血に戻れ」
礼拝堂の空気が、沈んだ。
重い何かが水底へ落ちていくように、声の波が静まっていく。聖女像の口元から流れていた血は、細くなり、やがて止まった。唇はゆっくり閉じていく。完全に元通りではない。赤黒い跡は薄く残ったままだ。だが、礼拝堂全体を押し潰していた告発の圧は消えた。
信徒たちのすすり泣きが戻ってきた。
人間の声だけが、礼拝堂に残った。
榊は大きく息を吐き、すぐに神父へ向き直った。
「神父。あなたには署で話を聞く。逃げようとは思わないことだ」
神父は座り込むように膝を落とした。
「私は、教会を……」
「その話も聞く。だが、人間の方は人間の責任として聞く」
榊の声は硬かった。
少女は床に座り込んだまま、聖女像を見上げていた。
「私の声じゃなかった……でも、私の声もあった」
誰もすぐには答えなかった。
それは彼女が利用された証でもあり、利用した証でもある。少女がただの被害者へ戻れるわけではない。だが、全ての罪を一人で背負わせることも違う。
クラウディオは少女を一瞥した。
「利用されたことと、利用したことは別だ。混ぜるな」
少女は泣かなかった。
泣く余力も残っていないようだった。ただ、唇を噛んで俯いた。
澪奈は録音機を止めずに画面を確認していた。指先が震えている。
「最後の声だけ、まだ残っています。古い声。波形が消えません」
クラウディオが彼女の端末を見る。
「消えないだろうな」
「どうしてですか」
「終わっていないからだ」
榊がこちらを見た。
「神父だけではない、ということか」
クラウディオは聖女像を見上げた。
白い像はもう喋らない。口も閉じている。血も止まっている。だが、唇の端の赤黒い跡は、完全には消えていなかった。
「神父だけなら、ここまで混ぜられない」
クラウディオの声は低かった。
「祈らせ方を教えた奴がいる。寄付金、告解、少女の台本、血、告発欲、古い声。全部を一つの口へ押し込むには、もう一段上から眺めていた奴がいる」
榊が苦い顔をする。
「久遠院か」
「まだ名前を貼るな」
即座に返したクラウディオの声は冷たい。
「ただ、解説席の匂いがする」
ルストがクラウディオの横へ戻ってきた。
彼の顔色は変わっていない。だが、血を分け、声を沈めた負荷は体の奥に残っているのだろう。ほんのわずかに呼吸が深い。
クラウディオはそれを見たが、何も言わなかった。
ルストも何も言わない。
礼拝堂の中で、人間たちはようやく動き始めた。榊が現場を封鎖し直し、澪奈が機材の記録を保存し、警官たちが信徒を一人ずつ外へ誘導する。少女は女性警官に支えられ、神父は榊の部下に見張られながら立ち上がった。
聖女像だけが、祭壇の上に残っている。
静かになった白い像。
だが、もう聖なるものには見えなかった。
血を吐かされ、祈りを詰め込まれ、告発の口にされた石の器だった。
クラウディオは、その前に立った。
手は組まない。
目も伏せない。
祈らない。
ルストが隣に立つ。
「祈らなかったな」
クラウディオは聖女像を見たまま答えた。
「祈って救われるなら、火刑台は燃えなかった」
ルストは、それ以上聞かなかった。
聞けば、クラウディオは閉じる。
そのことを、もう知っている。
しばらくして、クラウディオは低く言った。
「祈ったわけじゃない」
ルストは短く返す。
「知っている」
クラウディオは不快そうに目を細めた。
「何でも分かった顔をするな」
「分かっていない」
「なら黙っていろ」
「黙っている」
「今喋っただろうが」
ルストは黙った。
クラウディオは鼻で息を吐く。
そして、聖女像をもう一度見た。
赤黒い跡の残る唇。祈る形をした、口を塞げなかった手。伏せたままの目。
クラウディオは小さく言った。
「だが、見届けるくらいはしてやる」
それは祈りではなかった。
弔いと呼ぶにも冷たすぎた。
けれど、目を逸らさずに立ち続けるという彼なりの限界だった。
その時、澪奈の録音機から、小さな音が漏れた。
誰も触れていない。
画面には、古い波形が一つだけ残っていた。
ざらついたノイズの奥で、声がした。
――……まだ。
そこで途切れた。
聖女像は鎮まった。
だが、まだ赦されていないものが残っていた。




