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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第4部 血を吐く聖女像

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第55話 解説してやる、聖女は血を吐かない



 礼拝堂へ戻った時、聖女像の前にはまだ赤い線が残っていた。


 石の唇から落ちた血は、床の白い敷石の上で細く乾きかけている。新しい血の赤さではない。古い血が、いまになって無理やり口を与えられたような色だった。礼拝堂の燭台は明るい。香油の匂いも、蝋の匂いも、磨かれた木の長椅子の匂いもある。だが、そのどれもが血の匂いを消せなかった。


 神父は祭壇脇に立っていた。


 白い襟。整った姿勢。祈る者の顔。人々の不安を受け止めるために作られた、柔らかな声。けれど、その手は組まれていない。指先は袖の中に隠され、白い手袋はもうはめられていなかった。


 水瀬莉乃は別室で保護されている。泣き疲れた喉を押さえ、何度も「私は祈っただけ」と繰り返していた。だが、その声の奥に重なった古い声は、はっきりと別の言葉を残した。


 祈らされた。


 聖具庫で見つかった紙束は、いま榊の手元にある。少女が一度も間違えなかった祈りの文句。息を吸う位置。声を震わせる場所。泣くこと。聖女様の前では間違えないこと。祈りの皮を被った台本だ。人類、とうとう祈りにもカンペを作り始めた。もはや神も採点係である。気の毒に。


 澪奈は録音機と端末を並べ、礼拝堂の長机の上に証拠を置いた。聖女像の血液分析。神父の手袋。寄付金記録。少女の証言。聖具庫で見つかった祈りの台本。聖女像が告発した夜の教会内記録。祈願文の束。孤児保護名目の帳簿。


 榊は神父を見た。


「説明していただきます」


 神父は静かに息を吸った。


「私は、すでに何度もお話ししました。私は聖女様の奇跡を守ろうとしただけです」


 クラウディオは、聖女像の前に立っていた。


 先ほど聖具庫でルストに抱き止められてから、彼の声は少しだけ戻っていた。けれど、平静とは違う。皮肉もある。冷たさもある。だが、その奥に沈んでいる怒りは、まだ火を持っていた。


 ルストは少し後ろに立つ。近すぎない。だが、離れすぎてもいない。クラウディオが過去の火へ引きずられそうになったら、すぐ届く距離だった。


 クラウディオは、神父ではなく、聖女像を見上げた。


「解説してやる」


 礼拝堂の空気が変わった。


 榊が顎を引く。澪奈は端末の録音を入れた。神父の表情は動かない。だが、そのまぶたが一度だけ、浅く閉じた。


 クラウディオは続けた。


「聖女は血を吐かない」


 石像の口元から、乾きかけた赤が一滴だけ、ゆっくりと下へ伸びた。


「吐かせた奴がいる」


 神父は静かに首を振った。


「そのような言い方は、聖女様への冒瀆です」


「便利な言葉だな。冒瀆。自分に都合の悪い話を、神の後ろへ隠せる」


 クラウディオは長机へ歩いた。そこに置かれた分析資料へ指を伸ばす。


「まず血だ」


 澪奈が資料を開く。


「聖女像の口元から採取された血は、複数人分でした。現代の登録情報と照合可能なもの、照合できないもの、劣化の進み方が明らかに違うものがあります。一部は非常に古い反応です」


「つまり、奇跡ではない。混ざり物だ」


 クラウディオは資料を軽く叩いた。


「血は奇跡じゃない。証拠だ。意味を着せる前に、誰の血かを見ろ」


 神父は眉を寄せた。


「ですが、科学では説明できない血もあったのでしょう」


「だから怪異に逃げるなと言った」


 クラウディオの目が細くなる。


「科学で追える血と、科学だけでは拭えない血がある。だが、そのどちらも『聖女様の血』と呼べば清くなるわけじゃない。聖女の血だと呼べば、都合の悪い混ざり物まで清く見える。お前たちはその呼び名を利用した」


 礼拝堂の隅で、シスターの一人が小さく息を呑んだ。


 クラウディオは続ける。


「この像は血を持っていたんじゃない。血を集められていた。古い血の法則までは、お前にも制御できなかったんだろう。だが、夜、祈り、少女の声、信徒の不安、告発の文句。それらを組み合わせれば、反応する流れは作れた」


 神父は言った。


「私は、ただ祈りを捧げる場を整えただけです」


「場を整えた、か」


 クラウディオは笑わなかった。


「随分と整った火種だな」


 榊が手袋の証拠袋を机に置いた。


「次はこれです」


 透明な袋の中、白い手袋が一組収められている。一見すると清潔だった。だが、指の内側と縫い目の奥に、薄く赤い痕が残っていた。外側を拭っても取りきれなかったものだ。


 澪奈が説明する。


「この手袋は、聖女像の口元を拭いたものではありません。像の古い血とは状態が違います。新しい血です。しかも外側ではなく、指の内側と縫い目に残っています。像を拭いたなら、この汚れ方にはなりません」


 神父の唇がかすかに動いた。


「聖具を守る中で、傷ついた信徒に触れることもあります」


「便利な手だな。聖具も信徒も血も、何でも触れる」


 クラウディオは手袋を見た。


「手袋は祈らない。だから嘘が下手だ」


 澪奈がさらに資料を出す。


「この新しい血は、聖女像の血とは別です。現時点で完全な照合はできていませんが、教会内で採取された他の血痕と一部反応が近い箇所があります。聖具庫の白布、少女の部屋に運ばれていた小さな布、それから懺悔室の床板の隙間です」


 榊の目が鋭くなった。


「神父、あなたは『聖女像の口元を拭いた』と説明しました。しかし手袋の血は像の血ではない。では、何に触れたんですか」


 神父は答えなかった。


 答えない沈黙は、祈りより雄弁だった。人間、黙る時ほどよく喋る。口を閉じれば全部消えると思っているあたり、相変わらず脳内の事務処理が甘い。


 クラウディオは寄付金記録へ手を伸ばした。


「次は金だ」


 神父がわずかに顔を上げた。


「教会の寄付金は、孤児保護や聖具の修復、信徒への支援に使っています」


「全部とは言っていない」


 クラウディオは帳簿を開いた。


「聖女像が血を吐き始める少し前から、匿名寄付が増えている。少女が祈る夜と、寄付の集中日が重なる。聖女像が誰かを告発した夜の後には、さらに増える。名目は『罪を明らかにする祈り』『聖女様への清め』『真実のための献金』。美しい名目だな。吐き気がするほど」


 榊が低く言う。


「偶然と言うには、きれいすぎる」


「祈りが金に変わる仕組みだ。綺麗なわけがない」


 クラウディオは神父を見た。


「聖女は血を吐き、信徒は金を吐く。よくできた教会だな」


 神父の顔に初めて不快感が浮かんだ。


「言葉が過ぎます」


「事実が過ぎているんだろう」


 クラウディオは帳簿を閉じた。


「だが、金だけなら、ここまで面倒な舞台は組まない」


 礼拝堂の空気が、少し硬くなる。


「欲しかったのは寄付金だけじゃない。告発する権利だ」


 ルストが神父を見た。


 神父の目は、初めてクラウディオから逸れた。


「聖女像の口を通じて、誰を疑わせるか。誰を告発するか。誰の罪を見せ、誰の罪を隠すか。その流れを握れば、人間は簡単に動く。信徒は祈り、金を出し、告発された者を恐れ、告発されなかった者は安心する。お前はその中心に立てる」


 クラウディオは祭壇の方へ視線を向けた。


「神を騙ったんじゃない。神の口を借りたんだ」


 聖女像の口元から、また血が一滴落ちた。


 澪奈が録音機の波形を見る。


「ノイズが入っています」


 録音機から、かすかな音が漏れた。


 祈りなさい。


 守るため。


 罪を。


 告発を。


 祈らされた。


 神父は目を閉じた。


「私は、教会を守りたかったのです」


 その声は、初めて整いきらなかった。


「夜見坂教会は、長く人々から忘れられていました。祈る場所を失った人がいた。助けを求める子どもがいた。信徒たちは、罪を抱えて苦しんでいた。聖女様は、彼らに必要だった」


「聖女様、か」


 クラウディオが呟く。


「私は利用したのではありません。導いたのです」


「導く、ね。首輪をつける言葉としては上品だな」


 神父の頬がわずかに引き攣った。


「あなたには分からない。祈りに縋る人々の弱さが」


「分かるさ」


 クラウディオの声が冷える。


「弱い者の祈りが何かくらいはな」


 ルストがクラウディオを見る。


 そこには、いつもの皮肉だけではないものがあった。火刑台。菓子屋。祈る群衆。誰かが魔女と呼ばれる声。救いではなく、燃料になった祈り。


 クラウディオは神父から目を逸らさない。


「祈った奴が悪いんじゃない。祈らせた奴が悪い」


 礼拝堂の奥で、シスターが手を口元に当てた。


 神父は言う。


「私は少女を守っていました」


「守った?」


 クラウディオは聖具庫から持ち出された紙束を持ち上げた。


「祈る場所に立たせ続けておいて?」


 紙が開かれる。


 祈りの文句。赤い線。息を吸う位置。泣くこと。声を震わせること。間違えないこと。


 澪奈が静かに言った。


「祈りの台本に、神父の筆跡と一致する箇所があります。すべてではありません。ただし、本文の大部分は教会の公式文書と非常に近い字です」


 榊が続ける。


「少女が唱えた祈りの録音とも一致しています。抑揚の位置まで」


 ルストは神父を見据えた。


「子どもを盾にしたのか」


「違います」


 神父の声がわずかに荒くなる。


「私は、あの子に役割を与えたのです。あの子は居場所を失っていた。教会で祈ることで、信徒たちに受け入れられた」


「守る者は、台本を読ませない」


 ルストの声は低かった。


 神父は言葉を失った。


 クラウディオが少女の証言記録を取り上げる。


「少女は作られた。だが、人形じゃない。祈らされた子どもが、祈りで他人を動かすことを覚えた。利用されたことと、利用したことは別だ。これは変わらない」


 それから、神父を見る。


「だが、最初に祈らせたのは、お前だ」


 神父の瞳が揺れた。


 聖女像の口が、わずかに開く。


 録音機が軋んだ。


 祈らされた。


 その声は、少女のものだけではなかった。


 神父が反射的に口を開いた。


「聖女様は――」


 声が途切れた。


 聖女像の口も、同時に閉じる。


 クラウディオはゆっくりと神父を見た。


「また口を塞いだな」


 礼拝堂の空気が冷える。


 榊は神父へ一歩近づいた。


「あなたは、聖女像の異変を知っていながら止めなかった。少女に祈りの文句を読ませた。寄付金の流れも把握していた。手袋の新しい血についても説明できていない」


 神父は額に汗を浮かべた。


「私は、罪を明らかにしようとしただけです。誰かが罪を暴かなければならなかった。あの像は、それを示した」


「告発が神の意志なら、なぜお前に都合の悪い罪だけ口を閉じる」


 クラウディオの声が落ちた。


 神父は答えない。


「聖女像を裁判官にしたかったわけだ。随分と便利な法廷だな。証人は石像。判決は祈り。控訴は寄付金か?」


 澪奈の端末に、新しい照合結果が出る。


「祈りの台本の一部、神父の筆跡ではない可能性があります。語順が……神父の過去の文書より、警察庁に送られてきた分析コメントに近いです」


 榊が顔を上げる。


「久遠院顧問の文書か」


 クラウディオは即座に言った。


「まだだ。名前を貼るには、紙が足りない」


 それでも、彼の目には嫌悪があった。


「神父ひとりの頭で、この気持ち悪い整い方は出ない。この台本には、解説席の匂いが混じっている」


 神父は視線を落とす。


 その沈黙は、久遠院の名を認めたものではない。だが、外から与えられた言葉を読んだ者の沈黙だった。


 録音機に、またノイズが入る。


 祈りなさい。


 声を震わせて。


 罪を。


 隠された真実を。


 よくできました。


 少女の声が重なる。


 私は、祈っただけ。


 古い声が重なる。


 祈らされた。


 聖女像の口元から、血が一滴落ちる。


 神父はそれを見て、初めて本当に顔色を変えた。


 石の唇が、わずかに開く。


 そこから漏れた声は、少女のものではなかった。古い声でも、神父の声でもない。もっと深い場所から押し出されたような、乾いた声。


「まだ、赦していない」


 礼拝堂にいた全員が止まった。


 誰を赦していないのか。


 少女か。


 神父か。


 教会か。


 もっと古い誰かなのか。


 ルストは聖女像を見た。


「この声は、少女じゃない」


 クラウディオは、聖女像を見上げた。


 その顔には、勝利の色はなかった。神父の罪を暴いた者の顔ではなく、まだ奥に残った血の気配を読んだ者の顔だった。


「だから言っただろう。聖女は血を吐かない」


 彼は低く続ける。


「吐かされていたものが、まだ残っている」


 聖女像の唇は、閉じなかった。


 赤い一滴が、床へ落ちた。



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