第55話 解説してやる、聖女は血を吐かない
礼拝堂へ戻った時、聖女像の前にはまだ赤い線が残っていた。
石の唇から落ちた血は、床の白い敷石の上で細く乾きかけている。新しい血の赤さではない。古い血が、いまになって無理やり口を与えられたような色だった。礼拝堂の燭台は明るい。香油の匂いも、蝋の匂いも、磨かれた木の長椅子の匂いもある。だが、そのどれもが血の匂いを消せなかった。
神父は祭壇脇に立っていた。
白い襟。整った姿勢。祈る者の顔。人々の不安を受け止めるために作られた、柔らかな声。けれど、その手は組まれていない。指先は袖の中に隠され、白い手袋はもうはめられていなかった。
水瀬莉乃は別室で保護されている。泣き疲れた喉を押さえ、何度も「私は祈っただけ」と繰り返していた。だが、その声の奥に重なった古い声は、はっきりと別の言葉を残した。
祈らされた。
聖具庫で見つかった紙束は、いま榊の手元にある。少女が一度も間違えなかった祈りの文句。息を吸う位置。声を震わせる場所。泣くこと。聖女様の前では間違えないこと。祈りの皮を被った台本だ。人類、とうとう祈りにもカンペを作り始めた。もはや神も採点係である。気の毒に。
澪奈は録音機と端末を並べ、礼拝堂の長机の上に証拠を置いた。聖女像の血液分析。神父の手袋。寄付金記録。少女の証言。聖具庫で見つかった祈りの台本。聖女像が告発した夜の教会内記録。祈願文の束。孤児保護名目の帳簿。
榊は神父を見た。
「説明していただきます」
神父は静かに息を吸った。
「私は、すでに何度もお話ししました。私は聖女様の奇跡を守ろうとしただけです」
クラウディオは、聖女像の前に立っていた。
先ほど聖具庫でルストに抱き止められてから、彼の声は少しだけ戻っていた。けれど、平静とは違う。皮肉もある。冷たさもある。だが、その奥に沈んでいる怒りは、まだ火を持っていた。
ルストは少し後ろに立つ。近すぎない。だが、離れすぎてもいない。クラウディオが過去の火へ引きずられそうになったら、すぐ届く距離だった。
クラウディオは、神父ではなく、聖女像を見上げた。
「解説してやる」
礼拝堂の空気が変わった。
榊が顎を引く。澪奈は端末の録音を入れた。神父の表情は動かない。だが、そのまぶたが一度だけ、浅く閉じた。
クラウディオは続けた。
「聖女は血を吐かない」
石像の口元から、乾きかけた赤が一滴だけ、ゆっくりと下へ伸びた。
「吐かせた奴がいる」
神父は静かに首を振った。
「そのような言い方は、聖女様への冒瀆です」
「便利な言葉だな。冒瀆。自分に都合の悪い話を、神の後ろへ隠せる」
クラウディオは長机へ歩いた。そこに置かれた分析資料へ指を伸ばす。
「まず血だ」
澪奈が資料を開く。
「聖女像の口元から採取された血は、複数人分でした。現代の登録情報と照合可能なもの、照合できないもの、劣化の進み方が明らかに違うものがあります。一部は非常に古い反応です」
「つまり、奇跡ではない。混ざり物だ」
クラウディオは資料を軽く叩いた。
「血は奇跡じゃない。証拠だ。意味を着せる前に、誰の血かを見ろ」
神父は眉を寄せた。
「ですが、科学では説明できない血もあったのでしょう」
「だから怪異に逃げるなと言った」
クラウディオの目が細くなる。
「科学で追える血と、科学だけでは拭えない血がある。だが、そのどちらも『聖女様の血』と呼べば清くなるわけじゃない。聖女の血だと呼べば、都合の悪い混ざり物まで清く見える。お前たちはその呼び名を利用した」
礼拝堂の隅で、シスターの一人が小さく息を呑んだ。
クラウディオは続ける。
「この像は血を持っていたんじゃない。血を集められていた。古い血の法則までは、お前にも制御できなかったんだろう。だが、夜、祈り、少女の声、信徒の不安、告発の文句。それらを組み合わせれば、反応する流れは作れた」
神父は言った。
「私は、ただ祈りを捧げる場を整えただけです」
「場を整えた、か」
クラウディオは笑わなかった。
「随分と整った火種だな」
榊が手袋の証拠袋を机に置いた。
「次はこれです」
透明な袋の中、白い手袋が一組収められている。一見すると清潔だった。だが、指の内側と縫い目の奥に、薄く赤い痕が残っていた。外側を拭っても取りきれなかったものだ。
澪奈が説明する。
「この手袋は、聖女像の口元を拭いたものではありません。像の古い血とは状態が違います。新しい血です。しかも外側ではなく、指の内側と縫い目に残っています。像を拭いたなら、この汚れ方にはなりません」
神父の唇がかすかに動いた。
「聖具を守る中で、傷ついた信徒に触れることもあります」
「便利な手だな。聖具も信徒も血も、何でも触れる」
クラウディオは手袋を見た。
「手袋は祈らない。だから嘘が下手だ」
澪奈がさらに資料を出す。
「この新しい血は、聖女像の血とは別です。現時点で完全な照合はできていませんが、教会内で採取された他の血痕と一部反応が近い箇所があります。聖具庫の白布、少女の部屋に運ばれていた小さな布、それから懺悔室の床板の隙間です」
榊の目が鋭くなった。
「神父、あなたは『聖女像の口元を拭いた』と説明しました。しかし手袋の血は像の血ではない。では、何に触れたんですか」
神父は答えなかった。
答えない沈黙は、祈りより雄弁だった。人間、黙る時ほどよく喋る。口を閉じれば全部消えると思っているあたり、相変わらず脳内の事務処理が甘い。
クラウディオは寄付金記録へ手を伸ばした。
「次は金だ」
神父がわずかに顔を上げた。
「教会の寄付金は、孤児保護や聖具の修復、信徒への支援に使っています」
「全部とは言っていない」
クラウディオは帳簿を開いた。
「聖女像が血を吐き始める少し前から、匿名寄付が増えている。少女が祈る夜と、寄付の集中日が重なる。聖女像が誰かを告発した夜の後には、さらに増える。名目は『罪を明らかにする祈り』『聖女様への清め』『真実のための献金』。美しい名目だな。吐き気がするほど」
榊が低く言う。
「偶然と言うには、きれいすぎる」
「祈りが金に変わる仕組みだ。綺麗なわけがない」
クラウディオは神父を見た。
「聖女は血を吐き、信徒は金を吐く。よくできた教会だな」
神父の顔に初めて不快感が浮かんだ。
「言葉が過ぎます」
「事実が過ぎているんだろう」
クラウディオは帳簿を閉じた。
「だが、金だけなら、ここまで面倒な舞台は組まない」
礼拝堂の空気が、少し硬くなる。
「欲しかったのは寄付金だけじゃない。告発する権利だ」
ルストが神父を見た。
神父の目は、初めてクラウディオから逸れた。
「聖女像の口を通じて、誰を疑わせるか。誰を告発するか。誰の罪を見せ、誰の罪を隠すか。その流れを握れば、人間は簡単に動く。信徒は祈り、金を出し、告発された者を恐れ、告発されなかった者は安心する。お前はその中心に立てる」
クラウディオは祭壇の方へ視線を向けた。
「神を騙ったんじゃない。神の口を借りたんだ」
聖女像の口元から、また血が一滴落ちた。
澪奈が録音機の波形を見る。
「ノイズが入っています」
録音機から、かすかな音が漏れた。
祈りなさい。
守るため。
罪を。
告発を。
祈らされた。
神父は目を閉じた。
「私は、教会を守りたかったのです」
その声は、初めて整いきらなかった。
「夜見坂教会は、長く人々から忘れられていました。祈る場所を失った人がいた。助けを求める子どもがいた。信徒たちは、罪を抱えて苦しんでいた。聖女様は、彼らに必要だった」
「聖女様、か」
クラウディオが呟く。
「私は利用したのではありません。導いたのです」
「導く、ね。首輪をつける言葉としては上品だな」
神父の頬がわずかに引き攣った。
「あなたには分からない。祈りに縋る人々の弱さが」
「分かるさ」
クラウディオの声が冷える。
「弱い者の祈りが何かくらいはな」
ルストがクラウディオを見る。
そこには、いつもの皮肉だけではないものがあった。火刑台。菓子屋。祈る群衆。誰かが魔女と呼ばれる声。救いではなく、燃料になった祈り。
クラウディオは神父から目を逸らさない。
「祈った奴が悪いんじゃない。祈らせた奴が悪い」
礼拝堂の奥で、シスターが手を口元に当てた。
神父は言う。
「私は少女を守っていました」
「守った?」
クラウディオは聖具庫から持ち出された紙束を持ち上げた。
「祈る場所に立たせ続けておいて?」
紙が開かれる。
祈りの文句。赤い線。息を吸う位置。泣くこと。声を震わせること。間違えないこと。
澪奈が静かに言った。
「祈りの台本に、神父の筆跡と一致する箇所があります。すべてではありません。ただし、本文の大部分は教会の公式文書と非常に近い字です」
榊が続ける。
「少女が唱えた祈りの録音とも一致しています。抑揚の位置まで」
ルストは神父を見据えた。
「子どもを盾にしたのか」
「違います」
神父の声がわずかに荒くなる。
「私は、あの子に役割を与えたのです。あの子は居場所を失っていた。教会で祈ることで、信徒たちに受け入れられた」
「守る者は、台本を読ませない」
ルストの声は低かった。
神父は言葉を失った。
クラウディオが少女の証言記録を取り上げる。
「少女は作られた。だが、人形じゃない。祈らされた子どもが、祈りで他人を動かすことを覚えた。利用されたことと、利用したことは別だ。これは変わらない」
それから、神父を見る。
「だが、最初に祈らせたのは、お前だ」
神父の瞳が揺れた。
聖女像の口が、わずかに開く。
録音機が軋んだ。
祈らされた。
その声は、少女のものだけではなかった。
神父が反射的に口を開いた。
「聖女様は――」
声が途切れた。
聖女像の口も、同時に閉じる。
クラウディオはゆっくりと神父を見た。
「また口を塞いだな」
礼拝堂の空気が冷える。
榊は神父へ一歩近づいた。
「あなたは、聖女像の異変を知っていながら止めなかった。少女に祈りの文句を読ませた。寄付金の流れも把握していた。手袋の新しい血についても説明できていない」
神父は額に汗を浮かべた。
「私は、罪を明らかにしようとしただけです。誰かが罪を暴かなければならなかった。あの像は、それを示した」
「告発が神の意志なら、なぜお前に都合の悪い罪だけ口を閉じる」
クラウディオの声が落ちた。
神父は答えない。
「聖女像を裁判官にしたかったわけだ。随分と便利な法廷だな。証人は石像。判決は祈り。控訴は寄付金か?」
澪奈の端末に、新しい照合結果が出る。
「祈りの台本の一部、神父の筆跡ではない可能性があります。語順が……神父の過去の文書より、警察庁に送られてきた分析コメントに近いです」
榊が顔を上げる。
「久遠院顧問の文書か」
クラウディオは即座に言った。
「まだだ。名前を貼るには、紙が足りない」
それでも、彼の目には嫌悪があった。
「神父ひとりの頭で、この気持ち悪い整い方は出ない。この台本には、解説席の匂いが混じっている」
神父は視線を落とす。
その沈黙は、久遠院の名を認めたものではない。だが、外から与えられた言葉を読んだ者の沈黙だった。
録音機に、またノイズが入る。
祈りなさい。
声を震わせて。
罪を。
隠された真実を。
よくできました。
少女の声が重なる。
私は、祈っただけ。
古い声が重なる。
祈らされた。
聖女像の口元から、血が一滴落ちる。
神父はそれを見て、初めて本当に顔色を変えた。
石の唇が、わずかに開く。
そこから漏れた声は、少女のものではなかった。古い声でも、神父の声でもない。もっと深い場所から押し出されたような、乾いた声。
「まだ、赦していない」
礼拝堂にいた全員が止まった。
誰を赦していないのか。
少女か。
神父か。
教会か。
もっと古い誰かなのか。
ルストは聖女像を見た。
「この声は、少女じゃない」
クラウディオは、聖女像を見上げた。
その顔には、勝利の色はなかった。神父の罪を暴いた者の顔ではなく、まだ奥に残った血の気配を読んだ者の顔だった。
「だから言っただろう。聖女は血を吐かない」
彼は低く続ける。
「吐かされていたものが、まだ残っている」
聖女像の唇は、閉じなかった。
赤い一滴が、床へ落ちた。




