第54話 聖具庫の抱擁
礼拝堂には、まだ少女の泣き声の名残があった。
水瀬莉乃は別室へ移されていた。榊が付き添いの警官に指示を出し、澪奈は録音機と端末を抱えたまま、聖女像の前に立ち尽くしている。シスターたちは顔を伏せ、神父は表向きの穏やかさを保とうとしていたが、白く整った顔の端には、ほんのわずかな強張りが見えた。
聖女像の唇には、血が残っている。
石でできた口から落ちた血は、床に小さな跡を作っていた。乾ききらない赤。拭いきれない赤。信仰の場所に置かれているには、あまりに生々しい色だった。
録音機の中には、少女の泣き声と、別の古い声が残っている。
祈らされた。
それは、少女自身の声にも聞こえた。聖女像の奥に沈んでいた古い誰かの声にも聞こえた。夜見坂教会という建物の石壁に吸い込まれた、名も残らない子どもの声にも聞こえた。
クラウディオ・ルジェリウスは、その音声を一度聞いただけで、二度目を拒んだ。
「止めろ」
その声は低く、短かった。
澪奈はすぐ録音を止めた。端末の波形はまだ揺れている。少女の声と、別の声。二つの口。重なった音。科学の線で追える部分と、追えない部分が絡み合っていた。
榊は資料を閉じ、神父へ視線を向ける。
「聖具庫を確認します。少女が使っていた祈り札、祈願文の管理記録、聖女像の清掃布、白い手袋の予備。すべてです」
神父はゆっくり頷いた。
「必要であれば、ご案内します」
その穏やかな声に、クラウディオの口元がわずかに歪んだ。
「案内されるまでもない」
「クラウディオ」
ルストが低く呼ぶ。
クラウディオは振り向かない。
「道具のしまい場所くらい、祈りの匂いを辿れば分かる」
その言い方は、いつもの皮肉に似ていた。
だが、違った。
皮肉の形をしているのに、熱がなかった。切先だけが白く冷えている。怒っているのに、怒鳴らない。苛立っているのに、笑わない。言葉だけが鋭くなり、目はどこか遠い火の跡を見ている。
ルストはそれを見た。
第27話で、壊された少女人形を前にした時と似ていた。壊し方を読み、怒りを声にせず、相手の癖を探していた時の静けさ。
けれど今回は、それだけではない。
教会。祈り。聖女。告発。白い手。少女の口。石像の口。祈らされた、という古い声。
それらは、クラウディオの中にあるもっと古い場所を、指で乱暴に掻いている。
火刑台。
群衆。
魔女という名札。
焼けた砂糖の匂い。
小さな菓子屋の窓。
彼が何も言わなくても、ルストには分かった。
全部ではない。クラウディオが何を見て、誰を失い、何を閉じ込めているのか、その全貌はまだ見えない。けれど、今のクラウディオが礼拝堂に立っているのではなく、別の火の前へ半分引きずられていることだけは分かった。
神父が聖具庫へ続く廊下の扉を開けた。
湿った石の匂いが流れてくる。
その奥に、蝋と香油の甘さ、古い紙、革表紙、乾いた白布、そしてごく薄い血の匂いが混じっていた。
クラウディオは一歩踏み出した。
ルストは何も言わず、その後に続いた。
聖具庫は狭かった。
礼拝堂の広さとは違う。天井は低く、石壁は冷たい。小さな高窓から入る光はほとんどなく、棚の上の古い電灯が弱く点いているだけだった。木の棚が壁一面に並び、白布をかけられた聖具、磨かれた燭台、香油の瓶、祭具の箱、古い祈祷用の冊子、寄付者名簿の束、祈願文をまとめた紐、告解記録の古い革表紙が押し込められている。
棚の一角には、白い手袋の箱が整然と並んでいた。
同じ形。同じ白。同じ清潔さ。
その下に、使い終えた清掃布が分けて置かれている。聖女像の口元を拭いたもの、祭壇を拭いたもの、燭台を磨くもの。白布には小さな札がついていた。管理番号。使用日。担当者名。
祈りの道具は、きちんと分類されていた。
だが、分類されているから清いとは限らない。
人間は汚れたものを箱に入れ、札を貼り、棚へ戻せば、片づいたと思えるらしい。脳の整理整頓能力は便利だが、倫理まで一緒に収納するのはやめてほしい。
クラウディオは棚を見渡した。
「祈りの道具は、隠し事を包むのに便利らしい」
榊が後ろで息を吐く。
「まずは記録を確認する。白石、清掃布と手袋の箱を」
「はい」
澪奈が手袋をはめ直し、証拠袋を準備する。
クラウディオは、榊たちが動くより早く、祈願文の束へ手を伸ばした。
「クラウディオ、触る前に待て」
榊の声が飛ぶ。
クラウディオは一瞬だけ手を止めた。
だが、それは榊に従ったというより、何か別の声を聞いたような止まり方だった。
聖具庫の奥で、かすかな囁きが重なった。
罪を。
照らして。
守るため。
祈りなさい。
言いなさい。
その子は。
魔女。
聖女。
祈らされた。
声は壁から聞こえるようでもあり、棚に挟まれた古い紙から漏れているようでもあった。はっきりした発音ではない。意味の切れ端だけが、香油と蝋の匂いの中を漂っている。
ルストがわずかに眉を寄せた。
澪奈も顔を上げる。
「今、何か」
「録音機は切っています」
榊が答える。
クラウディオは、何も言わない。
祈願文の束を手に取り、乱暴ではないが、いつもより速い手つきでめくる。白い紙。信徒の名。匿名の願い。赦し。清め。罪を明らかに。あの人を裁いて。真実を見せて。聖女様、あの人の嘘を暴いて。
祈りの形をしている。
だが、その内側にあるのは救いだけではなかった。
恨み。嫉妬。恐れ。怒り。復讐心。自分では言えない告発を、聖なる口に代弁してほしいという願望。
クラウディオの指が紙の端を弾いた。
「祈れ、祈れ、祈れ。どいつもこいつもそればかりだな」
声が低くなる。
榊が警戒するように見る。
「クラウディオ」
「祈らせた口で、守った顔をする。聖女も魔女も、着せる側はいつも綺麗な手をしている」
白い手袋の箱を開ける音がした。
箱の蓋が、乾いた木の音を立てる。
中には、綺麗に畳まれた手袋が並んでいた。新品のように白いもの。使用済みと札のついたもの。洗浄済みのもの。予備。
クラウディオは一枚を摘み上げた。
その指先は落ち着いている。
落ち着きすぎていた。
「子どもに祈らせて、大人が寄付を数える。吐き気がする」
彼は手袋を戻す。
箱の蓋を閉める音が、少し強かった。
ルストの目が細くなる。
告発怪異の残響が、また囁いた。
よくできました。
祈りなさい。
声を震わせて。
聖女様の前で。
守るため。
罪を。
罪を。
罪を。
クラウディオの肩がわずかに強張る。
彼は白布を払った。
棚の奥が見える。小さな鍵付き箱。古い鐘の紐。香油瓶。祈り札の束。少女が首にかけていたものと同じ、小さな紙札。
クラウディオは、それを一つ取った。
札には短い祈りの文句が書かれていた。
整っている。
整いすぎている。
少女の年齢の言葉ではない。神父だけの古い祈りでもない。寄付者向けの柔らかい宣伝文でもない。どこか分析的で、どこか人の感情をどの順番で揺らせばいいか知っている言葉だった。
久遠院怜司のコメント文に似た、嫌な滑らかさがある。
クラウディオは札を見下ろす。
「告発を祈りと呼ぶな」
その瞬間、聖具庫の空気が重くなった。
棚の奥で、何かが低く軋む。
澪奈が端末を見る。
「温度が下がっています。聖具庫内だけ」
「扉を閉めろ」
榊が指示する。
警官が扉を閉めようとした時、クラウディオが次の棚へ手を伸ばした。
その動きが荒かった。
紙を破るほどではない。聖具を壊すほどでもない。けれど、手つきがもう調査のそれではなかった。削り取るように、暴くように、押し込められたものを引きずり出そうとしている。
ルストが動いた。
クラウディオの手が、祈願文の束へ届く直前。
背後から、ルストの腕が回った。
強く、だが乱暴ではなく。
片腕がクラウディオの胸元の前を塞ぎ、もう一方の手が肩を押さえた。狭い聖具庫の中で、逃げ道を塞ぐように。棚とルストの身体の間に、クラウディオを留めるように。
クラウディオの肩が跳ねた。
「離せ」
「戻れ」
ルストの声は低い。
「邪魔だ」
「止めている」
クラウディオが振り払おうとする。だが、ルストの腕は動かない。力だけで押さえつけているのではない。呼吸の位置を合わせ、逃げる方向を先に塞ぎ、クラウディオが本気で拒絶する一線だけは見極めている。
クラウディオは歯を食いしばった。
「祈るな、触るな」
ルストは即座に返す。
「祈っていない。止めている」
聖具庫の空気が、さらに冷えた。
白い手袋の箱。香油瓶。祈願文。燭台。祈り札。古い紙と蝋の匂い。
その中に、ルストの体温と血の匂いが混じる。
クラウディオの指先が、祈願文の束から少しずつ離れた。
けれど彼はまだ言う。
「触るなと言っている」
ルストは背後から、短く答えた。
「離れろとは言っていない」
クラウディオが黙った。
否定しない。
否定できないのではない。本気で拒めば、ルストは止まる。それをクラウディオは知っている。だから、これは拘束ではない。逃げ道を潰されているように見えるが、最後の扉は開いている。
そして、彼はその扉を使わなかった。
馬鹿みたいに面倒くさい。会話で済むなら世界はもう少し平和だったのに、吸血鬼どもは体温と沈黙で交渉する。人類も大概だが、こいつらも相当ひどい。
クラウディオの呼吸は浅かった。
耳元ではなく、背中のすぐ後ろからルストの声が落ちる。
「それ以上、声を聞くな」
「聞いていない」
「聞いている」
「黙れ」
「クラウディオ」
その名を呼ばれて、クラウディオの肩が少しだけ震えた。
聖具庫の囁きは遠のかない。
祈りなさい。
守るため。
火を。
魔女。
聖女。
よくできました。
祈らされた。
祈らされた。
祈らされた。
クラウディオの目の奥で、赤い光が揺れたように見えた。
現実の灯りではない。
石畳に揺れる赤。祈りながら人を燃やす群衆。魔女と叫ぶ口。小さな菓子屋の窓。焦げた砂糖の匂い。沈黙。何もできなかった少年の手。
彼は、そのすべてを言葉にしない。
代わりに、喉の奥で低く吐いた。
「祈った奴らが悪いんじゃない」
ルストは何も言わない。
「祈らせた奴が悪い」
声が震えてはいない。
だが、刃物の先が石に触れたような音がした。
「祈りを鎖にするな」
ルストの腕の力が、ほんのわずかに変わった。
緩めるのではなく、支えるように。
クラウディオはそれに気づいて、苛立ったように息を吐く。
「支えるな」
「倒れる前に言え」
「倒れない」
「静かすぎる」
クラウディオは返さない。
その沈黙が答えだった。
ルストは聖具庫の奥を見た。白布の陰。祈り札。手袋の箱。少女のために用意された小さな札。
彼の目が冷える。
「誰が祈らせた」
その声は、神父に向けたものではない。
少女に向けたものでもない。
この聖具庫という場所そのものに向けた問いのようだった。
クラウディオは、ルストの腕の中で少しだけ視線を上げた。
「探せ」
短い声。
ルストが答える。
「探す」
そこで、クラウディオの指が動いた。
今度は乱暴ではない。
彼はルストの腕から完全には離れないまま、棚の中へ手を伸ばした。白布の下、祈願文の束のさらに奥。小さな木箱があった。鍵はかかっていない。ただ、紐で雑に括られている。
クラウディオは紐を解く。
中には、紙が入っていた。
小さな紙片ではない。何枚も束ねられた原稿。
少女が唱えていた祈りの文句。
澪奈が近づく。
「それは」
クラウディオは一枚を取り出し、机へ置いた。
赤い線が引かれている。
ここで息を吸う。
ここで声を震わせる。
ここで聖女様、と呼ぶ。
ここで罪、という言葉を入れる。
ここで泣く。
ここで顔を上げる。
祈りの文句ではなかった。
祈りの姿をした、読み上げ原稿だった。
クラウディオは低く言った。
「祈りじゃない。台本だ」
榊が近づき、原稿を見る。
彼の顔色が変わった。
「子どもにこれを読ませたのか」
クラウディオは紙から目を離さない。
「読ませただけじゃない。祈らせたんだろうな」
澪奈は端末を取り出し、録音波形と文面を照合し始める。
「少女が唱えた文句と一致します。ほぼ全文。赤い線の位置で、声の抑揚が変わっています」
「聖女像の告発音声と重なるか」
榊が問う。
澪奈は画面を見つめる。
「一部、重なります。特に『罪を照らしてください』の箇所。赤い線の位置と、聖女像の声が始まるタイミングが近い」
榊の手が握られる。
「祈りを合図にしたのか」
「合図だけじゃない」
クラウディオが言った。
ルストはまだ彼を離していない。
だが、クラウディオも離れろとは言わない。
「祈りの形にしておけば、誰も疑わない。声を震わせれば同情される。泣けば信じられる。聖女様の前なら、子どもが誰かの名前を呟いても祈願に見える」
クラウディオの声は冷たい。
「便利な口だな」
その言葉は少女を責めるだけのものではなかった。
むしろ、少女の口を便利にした大人たちへ向けられていた。
澪奈が紙の端を見つめる。
「筆跡が混ざっています」
榊が顔を上げる。
「混ざっている?」
「本文はおそらく神父の筆跡に近いです。教会記録と照合が必要です。でも、赤い指示の一部だけ違います。特に最後の追記」
澪奈は紙を持ち上げた。
最後の行に、細い字がある。
泣くこと。聖女様の前では、声を震わせること。間違えないこと。
聖具庫が、冷たく沈んだ。
榊が低く問う。
「誰の字だ」
クラウディオは紙を見下ろしていた。
ルストの腕の中で、彼の呼吸はもう戻っている。
けれど、目の奥だけは冷えていた。
「祈らせた奴の字だ」
その瞬間だった。
聖具庫の奥で、白い手袋の入った箱が落ちた。
誰も触れていない。
箱は棚から滑り落ち、床にぶつかって蓋が開いた。白い手袋が何枚も散らばる。乾いた布の音が、石床に薄く広がった。
その中に、一枚だけ。
手首から指先へ向かって、赤い線が走っている手袋があった。
血のように見える。
祈りの赤い指示線にも見える。
クラウディオは、それを見て静かに目を細めた。
ルストの腕は、まだ離れない。
クラウディオも、まだ離れない。




