第53話 作られた聖女
礼拝堂の空気は、夜が明けても乾かなかった。
石床には昨日の冷えが残っている。古い木椅子の列は、誰も座っていないのに人の気配を抱えていた。祈るための場所に、祈った者たちの影だけが置き去りにされているようだった。
聖女像は正面に立っていた。
白い石の顔。伏せられた目。胸元で合わせられた両手。慈悲の形を真似た沈黙。
その口元には、まだ血が残っている。
白い石にこびりついた赤は、乾ききらないまま細い筋を作っていた。古い血と新しい血。科学で採取できる血と、現代の誰にも一致しない血。祈りの場所が吐き出したには、あまりに現実的で、あまりに逃げ道のない赤だった。
録音機は祭壇脇に置かれている。
昨夜、少女が祈りを唱えたあと、そこには少女の声ではない声が混じった。
よくできました。
誰の声かは、まだ確定していない。
神父にも似ていた。
久遠院怜司の穏やかに整った声にも似ていた。
あるいは、教会という建物そのものが、よく訓練された子どもを褒めたようにも聞こえた。
人類、子どもを褒める声まで凶器にできる。器用さの使い道が終わっている。
クラウディオ・ルジェリウスは、礼拝堂の入口で足を止めた。
黒いコートの袖口から、白い手袋ではなく素手がわずかに覗いている。彼は聖女像を見上げていたが、その視線に祈りはなかった。祈りの場所に立っているのに、彼だけが最後まで膝を折らない。
ルスト・ヴァルレインは、その半歩後ろにいた。
灰銀の髪。鋼色の瞳。大きすぎる体。礼拝堂の古い椅子と柱の間で、彼の存在だけが異物のように重い。
だが、今日、もっと異物なのは彼ではなかった。
聖女像の前に、少女が立っている。
水瀬莉乃。
細い身体。青白い顔。淡い色のカーディガン。胸元で強く組まれた指。昨夜より少しだけ整えられた髪。泣き腫らした目元。
守られた被害者。
教会関係者は、彼女をそう扱っていた。
神父は彼女の背後に立っている。今日は白い手袋をしていない。けれど、両手を前で重ねる癖は消えていなかった。清潔な顔。穏やかな目。疲れた者に寄り添う声をすぐ出せる喉。
便利な男だ。
シスターたちは少し離れて立っていた。少女を見る目は心配に見える。けれど、その心配の奥には、何かを失うことへの怯えが混じっていた。
少女を失うことか。
少女の役割を失うことか。
その二つは、たぶん彼女たちの中でも綺麗に分かれていない。
榊悠真は祭壇脇に立ち、資料を手にしていた。白石澪奈は端末と録音記録を照合している。昨夜の録音。祈りの波形。聖女像の告発音声。寄付金記録。孤児保護記録。神父の手袋。聖具室の鍵。匿名祈願文。
紙と音と血は、人間よりも正直だ。
まあ、人間が嘘つきすぎるだけとも言う。進化の枝が腐っている。
榊が言った。
「水瀬莉乃さん。昨日の祈りについて、もう一度確認します」
少女は怯えたように肩を揺らした。
神父がすぐ口を開く。
「刑事さん。この子には休息が必要です。昨夜から眠れていません。聖女様の前に立つだけでも負担が」
クラウディオが低く遮った。
「祈らせたのは誰だ」
礼拝堂が静まった。
神父は、一瞬だけ返答に詰まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬は、祈りの文句を一字も間違えなかった少女の滑らかさより、ずっと雄弁だった。
「祈りは、彼女自身の心を落ち着かせるためのものです」
「質問に答えろ」
クラウディオの声は冷えていた。
神父は穏やかな顔を保つ。
「私が、勧めました。けれど強制ではありません」
少女の指が、胸元でぎゅっと固まった。
澪奈がその指を見る。
ルストも見ていた。
クラウディオは少女を見る。
「水瀬莉乃」
少女が息を呑む。
「お前は昨日、祈りを一度も間違えなかった」
少女の唇が震えた。
「それは……毎日、祈っていたから」
「会話では何度も詰まった。神父の名を出された時は息を止めた。手袋の話になると黙った。聖女像の血については泣いた。だが祈りだけは崩れない」
少女は俯く。
クラウディオは続けた。
「祈りは、お前の言葉じゃない。覚え込まされた台詞だ」
「違います」
か細い声だった。
だが、そこには反射的な否定があった。
自分を守るための否定。
神父が静かに言う。
「彼女を傷つけるような言い方はやめてください」
クラウディオは神父を見た。
「傷つけたのは俺か?」
神父は答えない。
「聖女像の前で泣けば大人が寄ってくる。祈れば寄付が増える。震えれば“かわいそうな子”として守られる。お前たちは、それを見ていた」
「私たちは彼女を保護していました」
「保護か。便利な言葉だな」
クラウディオは礼拝堂を見渡した。
古い木椅子。白い壁。聖女像。献金箱。祈願文を入れる箱。孤児保護活動の案内。信徒の善意を集めるための柔らかい言葉。
「檻に花を飾れば、保護に見える」
少女が小さく震えた。
ルストが一歩前に出る。
「クラウディオ」
咎める声ではなかった。
止める声でもない。
ただ、踏み込みすぎるな、という低い警告。
クラウディオはルストを見ない。
「分かっている」
「子どもだ」
ルストの声が少し低くなる。
クラウディオはようやく彼を見た。
「だから何だ」
ルストは沈黙した。
少女はそのやり取りを見ている。泣きそうな顔で、けれど目だけは逃げ場を探している。誰が自分の味方なのか。誰が自分を守るのか。誰の後ろに隠れれば、次の質問を避けられるのか。
それは無意識に見えた。
だからこそ厄介だった。
生き延びるための癖は、時々本人の意思より先に動く。
ルストは少女を見る。
「利用された」
クラウディオは言った。
「そして、利用した」
少女の顔色が変わった。
ルストの目がわずかに細くなる。
「まだ決めるな」
「決めていない。分けている」
クラウディオは少女へ視線を戻した。
「利用されたことと、利用したことは別だ。混ぜるな」
少女の唇が開いた。
けれど、声は出なかった。
榊が資料をめくる。
「記録を確認します。水瀬莉乃さんが夜見坂教会に保護されたのは、聖女像の異変が最初に記録される十日前です」
澪奈が続ける。
「その三日後から、匿名寄付が増えています。名目は『清き祈り』『聖女の子』『罪を明らかにする祈願』などです」
シスターの一人が俯いた。
榊は神父を見る。
「少女の医療費、生活費、保護費の一部は、その寄付金から出ていますね」
神父は答える。
「教会は寄付によって成り立っています。困っている子を助けるために、信徒の善意を」
クラウディオが鼻で笑った。
「善意は集まると会計項目になる。人類、本当に夢がある」
榊が眉をひそめるが、今は突っ込まない。偉い。人類にしては判断が早い。
澪奈は端末を見ながら言う。
「少女が聖女像の前で祈った夜と、聖女像の血の増加、または告発音声の出現が重なる日が複数あります。ただし、彼女一人で成立する仕組みではありません」
「分かっている」
クラウディオは短く答えた。
「この子だけで聖女像を動かせるなら、教会ごと要らない」
神父の目がわずかに揺れた。
榊が静かに言う。
「水瀬さん。あなたが祈るようになったのは、誰に言われたからですか」
少女は俯いた。
「……神父様が」
神父が口を開く。
「莉乃」
その一言で、少女の肩が跳ねた。
ルストの視線が神父へ向く。
冷たい。
神父は続けない。
少女は唇を震わせた。
「神父様が……祈れば、守られるって。聖女様は、怖いものを見つけてくださるって。私が祈ると、みんな安心するって」
「みんな?」
榊が問う。
少女は小さく頷く。
「シスターも。信徒の人も。おばあさんたちも。みんな、私が祈ると泣いて……ありがとうって」
声が少しだけ変わった。
震えは残っている。
だが、そこに何か甘いものが混じった。
見てもらえた記憶。
必要とされた記憶。
かわいそうな子、ではなく、聖女様に選ばれた子として置かれた記憶。
クラウディオはそれを聞き逃さなかった。
「祈れば、大人が優しくなった」
少女は何も言わない。
「祈れば、寄付が増えた」
少女の指が動く。
「祈れば、嫌な人間が聖女様に告発された」
少女の顔が白くなった。
ルストが言う。
「自分で選んだ夜はあったか」
少女はルストを見る。
その問いは、クラウディオの言葉より優しかった。
だからこそ、逃げ道がなかった。
「誰かに言われた夜だけか。自分で、あの人が怖い、いなくなればいいと思った夜はあったか」
少女の涙が、また落ちる。
「私は……」
神父が言う。
「その子は何も知りません」
クラウディオが即座に返す。
「何も知りません、は大人が子どもに着せる毛布だ。よく燃える」
神父の顔が固まる。
少女は泣きながら言った。
「私は、悪いことをしたかったわけじゃない」
クラウディオは答えない。
「本当に、怖かったの。聖女様の声が聞こえて……夜になると、血が出て……神父様は祈れば守られるって言って……だから、私は」
少女の声が崩れる。
「でも」
その「でも」は、今までで一番、彼女自身の声だった。
「聖女様が言ったことなら、誰も私を責めなかった」
礼拝堂の空気が止まった。
榊の手が止まる。
澪奈が端末から顔を上げる。
ルストは少女を見る。
クラウディオは、ほんの少しだけ目を細めた。
少女は自分の言葉に怯えたように、口元を押さえた。
「違う……そういう意味じゃ」
「そういう意味だ」
クラウディオの声は静かだった。
少女は首を振る。
「だって、私が怖いって言っただけだと、みんな困った顔をするんです。でも、聖女様が怖がってるって言うと、みんなちゃんと聞いてくれて……私が、あの人が怖いって言うより、聖女様が見てるって言った方が、みんな」
そこで止まった。
続ければ、もう戻れないと分かったのだろう。
クラウディオが言った。
「動いた」
少女は泣く。
「私は、祈っただけ」
「祈っただけ、ね」
その言葉に、聖女像の口元の血が、ほんのわずかに濃く見えた。
澪奈が端末を見る。
「録音波形が跳ねました」
榊が低く言う。
「今の発言に反応した?」
「断定はできません。でも、反応はあります」
クラウディオは聖女像を見上げた。
「聖女像は、お前の口でもある。だが、お前だけの口じゃない」
少女が顔を上げる。
「私の……口?」
「お前の恐怖を拾う。怒りも拾う。誰かを遠ざけたい願いも拾う。だが、それだけじゃない。信徒の祈願文、寄付者の願望、神父の言葉、教会の罪、古い血。全部を混ぜて吐く」
クラウディオは少女を見る。
「だから、お前は無力な人形じゃない。だが主犯でもない。作られた口の一つだ」
少女は震えている。
ルストが静かに問う。
「誰の名前を言えと言われた」
少女は首を振る。
「言われてない」
「祈願文を読まされたか」
「……読んだだけ」
「誰が選んだ」
「知らない」
クラウディオが言う。
「お前は知っている」
「知らない!」
「全部は知らない。だが、何が起きるかは知っていた」
少女は泣きながら後ずさる。
神父が前に出た。
「もう十分でしょう。この子は傷ついています」
クラウディオの声が冷たくなる。
「傷ついた子どもを聖女役にしたのは誰だ」
神父は黙る。
「祈らせたのは誰だ」
神父は答えない。
「“ただ祈っていた”で済むなら、随分便利な聖女だな」
シスターが小さく泣きそうな顔になる。
だが、その涙が少女へのものか、教会が崩れていくことへのものかは分からない。
榊が神父を見る。
「神父。少女が読む祈願文を選別していたのは誰ですか」
神父は穏やかな声を保とうとしている。
「信徒の祈りは、聖女様へ捧げられるものです。私どもはそれを管理していただけで」
「誰が、彼女に読ませた」
「彼女自身が望んで」
クラウディオが笑った。
冷たい笑いだった。
「子どもに聖女の衣装を着せるな」
神父の顔から、穏やかさが消えかける。
クラウディオは続けた。
「守るふりをして、火刑台の上に立たせた。聖女役は軽くない。着せた奴が一番悪い」
少女の涙が止まらない。
「でも」
クラウディオは少女を見た。
「だが、衣装を着たまま誰かを燃やしたなら、お前も無傷ではいられない」
少女は、息を呑んだ。
ルストはクラウディオを見る。
その目に、わずかな痛みがある。
子どもだ。
そう言いたいのだろう。
だが、もう言わない。
彼も見てしまったからだ。
守られる側の弱さと、守られる立場が持つ力を。
少女は、最初から聖女ではなかった。
聖女役にされた。
だが、途中から、その衣装で人を動かすことを覚えた。
それは罪か。
それは被害か。
どちらでもあり、どちらかだけではない。
人間、二色で塗れないものにすぐ火をつけたがる。灰になれば分類が楽だからだろう。最低の整理整頓である。
澪奈の端末に通知が入る。
彼女は画面を見て、眉を寄せた。
「警察庁共有資料に、久遠院顧問のコメントが追加されています」
クラウディオはうんざりしたように目を伏せた。
「読み上げるな」
澪奈は少し迷ったが、読んだ。
「『幼い被害者が象徴へ変えられる時、共同体はその子の人格ではなく、役割を見始めます』」
クラウディオの口元が歪む。
「また見ていたように言う」
澪奈は続ける。
「『聖女とは、本人の清らかさではなく、周囲が清らかであってほしいと願う器である場合があります』」
クラウディオは聖女像を見た。
「聖女の作り方を解説するな」
ルストが低く言う。
「久遠院か」
「まだだ」
クラウディオは即座に返す。
「名前を貼るな。奴がいちばん喜ぶ」
神父がそこに口を挟む。
「外部顧問の方の分析は、我々にも役立っています。この子の心理状態を理解するためにも」
クラウディオは神父を見る。
「作り方まで共有されたか」
「何を言っているのです」
「お前たちが作ったのは聖女じゃない。役だ」
神父の唇が震えた。
「我々は、この子を守ろうと」
「その子を守るために、何人を告発させた」
「それは聖女様が」
「聖女像に押しつけるな」
礼拝堂の灯りが、かすかに揺れた。
聖女像の口元が、ほんの少し開く。
少女がびくりと震える。
神父が少女の前に立とうとする。
ルストがその進路に半歩入った。
何も言わない。
ただ、神父を止める位置に立つ。
神父は足を止めた。
クラウディオは少女へ向く。
「水瀬莉乃」
少女は泣き続けている。
「お前は作られた聖女だ」
その言葉は、断罪ではなかった。
甘い慰めでもなかった。
白い服を一枚ずつ剥がすように、ただ事実を置いた声だった。
「作られた……」
「教会が役を着せた。信徒が見たいものを見た。神父が祈りを覚えさせた。寄付者が願望を載せた。聖女像が血で口を開いた」
クラウディオは、少女の目を見る。
「そして、お前はその役の使い方を覚えた」
少女が小さく泣き崩れる。
「だって、他にどうしたらよかったの」
声が、初めて怒りを含んだ。
「ここにいないと、どこにも行けなかった。祈らないと、みんな困る。泣くと、みんな優しくしてくれる。聖女様の子って言われると、誰も私を追い出さない。神父様が、祈れば守られるって言ったから」
榊は黙って聞いていた。
澪奈は記録を続けている。
ルストは少女を見ている。
クラウディオは言った。
「怖かった人がいなくなると、安心した夜はあったか」
少女の口が止まる。
答えは、沈黙の中に落ちた。
ルストが静かに目を伏せた。
少女は泣きながら言う。
「私は……悪いことをしたかったわけじゃない」
「そうだろうな」
クラウディオは否定しない。
少女が驚いたように顔を上げる。
「お前は、悪になりたかったわけじゃない。聖女でいたかったんだろう」
その言葉で、少女の顔が歪んだ。
「みんなが、そう言ったから」
「だからと言って、聖女像の口から出た名前が壊れた人間は戻らない」
少女は泣き続ける。
「私は祈っただけ」
その瞬間、聖女像の口がわずかに開いた。
血が一滴、石の唇から落ちる。
録音機の赤いランプが、無機質に点滅する。
少女の泣き声に、別の古い声が重なった。
「祈らされた」
誰の声か、分からなかった。
少女自身の奥から漏れた声かもしれない。
聖女像に封じられた古い声かもしれない。
教会の過去にいた、別の子どもの声かもしれない。
神父の表情が凍った。
シスターの一人が口元を押さえる。
榊が息を止める。
澪奈の指が端末の上で止まった。
ルストは聖女像を見た。
クラウディオは神父ではなく、少女を見ていた。
少女は、自分の口から出た声ではないはずの言葉に、茫然としている。
祈っただけ。
祈らされた。
二つの言葉が、礼拝堂の中で重なっていた。
クラウディオが低く言う。
「ようやく、口が二つになったな」
ルストが問う。
「二つ?」
クラウディオは答えなかった。
ただ、聖女像と少女を交互に見た。
白い石の口。
泣いている少女の口。
どちらも、誰かに言葉を入れられていた。
どちらも、誰かの罪を吐かされていた。
そして、そのどちらも、まだ本当のことを全部は言っていない。




