第52話 守られた被害者
夜見坂教会の奥には、礼拝堂の白さとは違う白があった。
それは、清さの白ではない。
小さな寝室の壁紙。洗い晒されたシーツ。病院から譲られたらしい鉄製のベッド。薄いカーテン。棚に置かれた薬瓶。白いカーディガン。祈願用紙の束。聖女像を印刷した小さなカード。
保護という言葉は、時々ひどく柔らかい檻になる。
その部屋は、外から見れば守られた場所だった。
教会の奥。
男たちの目から遠い場所。
夜の礼拝堂から少し離れた場所。
シスターたちが出入りし、食事を運び、薬を確認し、神父が祈りの言葉を置いていく場所。
だが、守られている者が必ず自由とは限らない。
人類、鍵のかかった場所に「保護」と名札を貼るのが本当に好きだ。名札があれば罪悪感が減るとでも思っているのだろう。実に人間らしい。最悪寄りの意味で。
クラウディオ・ルジェリウスは、部屋の入口で足を止めた。
中には、少女がいた。
年は十四、五ほどに見えた。細い身体。青白い顔。肩まで伸びた黒に近い茶色の髪。白いワンピースの上に淡い灰色のカーディガンを羽織っている。膝の上に置いた手は、骨ばっていて、指先が小刻みに震えていた。
その姿だけ見れば、守られるべき子どもだった。
怯えている。
弱っている。
声を出せば壊れそうに見える。
ルスト・ヴァルレインは、その少女を見た瞬間、わずかに目を細めた。
疑いではない。
警戒でもない。
庇うために、相手の傷の位置を探す目だった。
クラウディオは、それを横目で見た。
「また拾うのか」
ルストは視線を少女から外さずに答えた。
「助けを求めている」
「それと正しいことは別だ」
ルストは返さなかった。
少女は、部屋の入口に立つ二人を見て、怯えたように肩を縮めた。榊悠真が一歩前に出る。白石澪奈は記録用の端末を手にして、部屋の隅に立っている。シスターの一人が少女の後ろに控えていた。神父はまだ入っていない。榊がそうした。さすがに今の段階で、神父を同席させるほど雑な聞き取りはしない。警察にもまだ救いはある。たぶん。少しは。
少女はルストを見た。
クラウディオではなく。
榊でも、澪奈でもなく。
巨躯の灰銀の男を、まるでそこだけが出口であるかのように見た。
そして、小さく言った。
「助けてください」
声は震えていた。
喉の奥で潰れ、息と一緒に漏れるような声だった。作った震えではない。少なくとも、そこには本物の怯えが混じっていた。
ルストが一歩近づく。
シスターが身じろぎした。
少女は、膝の上の手を握りしめる。
「私、何もしていません。何も……していないんです」
ルストは膝を折らなかった。彼の体格でそれをやると、かえって少女を怯えさせるからだろう。少し距離を取ったまま、声だけを低くした。
「落ち着け」
少女の肩が震える。
「ここでは言える」
ルストの声は短い。だが、柔らかかった。
クラウディオは、その横顔を見た。
何か言いかけたが、言わなかった。
榊が静かに尋ねる。
「名前を確認してもいいかな」
少女は一瞬、シスターの方を見た。
シスターは微笑んだ。
大丈夫よ、と言うような顔だった。だが、その微笑は少女を安心させるためだけではない。言うべき範囲を思い出させる顔でもあった。
クラウディオはそこを見ていた。
少女は小さく答えた。
「水瀬……莉乃です」
「教会に保護されたのは、いつから?」
「……三週間くらい、前です」
「誰に連れて来られた?」
「覚えて、ません。神父様が……ここにいていいって」
榊がメモを取る。
澪奈が端末に入力する。
クラウディオは何も言わない。
少女の視線は落ち着かなかった。床。シスター。ルスト。榊。扉。もう一度ルスト。クラウディオだけは、できるだけ見ないようにしているように見えた。
それは怯えにも見える。
あるいは、見てはいけないと教えられている目にも。
ルストが問う。
「誰に何をされた」
少女の唇が震えた。
「わ、分かりません」
「神父に言われたのか」
その瞬間、少女は明らかに息を止めた。
シスターの指が、背中の後ろで小さく組み直される。
澪奈がその動きを見た。
少女は首を振る。
「神父様は……守ってくださいます」
クラウディオが、そこで初めて声を出した。
「守っているのか、口を塞いでいるのか」
シスターが顔を上げる。
「クラウディオさん、その言い方は」
「質問だ」
「この子は怯えています」
「見れば分かる」
「なら」
「怯えていることと、正しいことは別だ」
ルストがクラウディオを見る。
クラウディオは少女を見ていた。
冷たい目ではない。
責める目でもない。
ただ、動作と呼吸と言葉の位置を測っている目だった。
少女は唇を噛んだ。
「聖女様が、怖いんです」
榊がすぐに反応する。
「聖女像のこと?」
少女は頷いた。
「夜になると……声がして」
「どんな声?」
「分かりません。いっぱい、重なって……怒ってるみたいで……でも、祈らないといけないんです」
クラウディオの目が、ほんのわずかに動いた。
榊が静かに聞き返す。
「祈らないといけない?」
少女は、自分が言った言葉に怯えたように、口元を押さえた。
ルストが低く言う。
「誰に言われた」
少女は答えない。
視線だけが、シスターの方へ逃げた。
シスターは優しく首を振る。
「莉乃ちゃんは混乱しています。昨夜から眠れていませんし、聖女様のことも怖がっていて」
榊が言う。
「今は本人に聞いています」
シスターは唇を閉じた。
少女は震えながら続けた。
「神父様は、祈れば守られるって。聖女様が、悪い人を教えてくださるって。だから、私は……言われた通りにしただけです」
ルストの目が険しくなる。
「何を言われた」
少女は、そこで言葉を失った。
息だけが漏れる。
何度か口を開いた。けれど、言葉にならない。指先が震え、膝の上でカーディガンの裾を握る。
怯えは本物だ。
少なくとも、神父の名を出すときの反応は作り物には見えなかった。
だからこそ、ルストは動いた。
少女に近づこうとした。
クラウディオは止めなかった。
ただ、横から低く言った。
「守れ。だが、信じるな」
ルストの足が止まる。
「子どもだ」
「だから何だ」
「守るべきだ」
「守れ。だが、信じるな」
クラウディオは同じ言葉を、今度は少し冷たく言った。
「助けを求める声と、正しい声は別だ」
少女の目に涙が浮かんだ。
ルストはクラウディオを見る。
その目には、わずかに怒りがあった。
クラウディオは受け流さなかった。
「お前が腹を立てるのは勝手だ。だが、聖女像は腹を立てた人間の声で動いている。今度は、お前の保護欲まで餌にされるぞ」
ルストの表情が止まった。
クラウディオは少女を見る。
「水瀬莉乃」
少女がびくりとする。
「祈りを言え」
榊が顔を上げる。
「クラウディオ」
「言えるだろう」
少女は怯えた顔で首を振る。
「今は……」
「祈らないといけないんだろう」
その声は、残酷なほど静かだった。
ルストが低く言う。
「追い詰めるな」
「追い詰めていない。確かめている」
クラウディオは少女から目を逸らさない。
「言え」
少女は、しばらく黙っていた。
涙が一粒、頬を伝う。
呼吸は乱れている。肩は震えている。唇も震えている。
だが、次に出た声は、今までよりずっと滑らかだった。
「聖女様、罪を照らしてください」
事務室ではない。
孤児保護室の白い壁の中で、その声だけが少し整った。
「隠された声を、血の中からお示しください」
澪奈が顔を上げた。
榊のペンが止まる。
「迷える者に赦しを、偽る者に告げ口を」
クラウディオの目が冷える。
「私たちを守るため、悪しき名を明らかにしてください」
少女は、最後まで噛まなかった。
一字も。
息の乱れも、涙も、震える指も、その祈りの文句だけは崩せなかった。
いや。
崩れなかったのではない。
崩れないように作られていた。
クラウディオが低く言う。
「怯えているわりに、祈りだけは滑らかだな」
少女の顔が白くなる。
ルストも、ようやくその違和感に気づいた。
少女は会話では何度も詰まった。
神父の名前では息を止めた。
聖女像の血では震えた。
だが、祈りの文句だけは一度も間違えなかった。
ルストの目が細くなる。
「覚えさせられたのか」
少女は小さく首を振った。
「違います。私の祈りです。私が……聖女様に」
クラウディオが言う。
「赦しより、告発の言葉が多い」
少女は固まった。
「誰を守る祈りだ。それは」
返事はない。
クラウディオは続けた。
「祈りじゃない。告発の前口上だ」
シスターが震える声で言った。
「この子を責めないでください」
「責めていない」
「でも」
「誰に覚えさせられたかを聞いている」
少女の涙が増えた。
ルストは手を伸ばしかけた。
しかし、今度は止まった。
クラウディオの言葉が残っていたからだ。
守れ。だが、信じるな。
守るために、疑う。
人間社会ではたいそう面倒な操作だが、事件では必須だ。面倒だからと省くと、だいたい誰かが燃える。文字通りに。
榊がシスターへ向く。
「彼女は、いつからこの祈りを?」
シスターは迷った。
ほんの一瞬。
その一瞬が長かった。
「……毎晩です」
「誰の指示で」
「神父様が。けれど、悪い意味ではありません。莉乃ちゃんは悪夢を見るので、祈ることで落ち着くと」
クラウディオが言う。
「落ち着かせる祈りにしては、告発欲が強いな」
シスターは黙る。
榊が続ける。
「記録を確認する」
澪奈はすでに端末を操作していた。
「孤児保護記録と寄付金記録、祈願文の回収記録を照合しています」
数秒後、澪奈の表情が変わる。
「少女が保護された後、匿名寄付が増えています」
榊が問う。
「どの程度」
「かなりはっきりと。特に『聖女の子』『清き祈り』『罪を明らかにする祈願』という名目が出始めています」
シスターが小さく息を呑んだ。
クラウディオは表情を変えない。
澪奈は続ける。
「彼女が聖女像の前で祈った夜と、聖女像の異変が重なる日があります。完全一致ではありません。でも、重なりすぎています」
榊が低く言う。
「保護しているのか、利用しているのか」
クラウディオは短く返した。
「両方だろうな」
少女が、泣きながら首を振った。
「違います。神父様は、私を守ってくれて……シスターも……みんな、優しくて」
クラウディオは言った。
「優しい檻もある」
その言葉に、少女がまた息を止めた。
ルストは少女を見ている。
怒りは消えていなかった。
だが、向ける先が少し変わっていた。
少女ではない。
少女の背後にいる者へ。
教会の奥。神父。祈願文。寄付金。祈りを集める箱。信徒の願望。聖女像の口。
守られた被害者。
その肩に、共同体の欲望を背負わせた者。
榊が言う。
「彼女の祈りの音声を録る。聖女像の告発音声と照合する」
少女は怯えた。
「また、祈るんですか」
クラウディオが返す。
「嫌なら断れ」
少女は困惑したように彼を見た。
その顔に、奇妙な空白があった。
断る。
その選択肢を、初めて聞いたような顔だった。
ルストがそれに気づく。
澪奈も。
シスターは、目を伏せた。
クラウディオは言う。
「祈らないといけない、と言ったな」
少女は唇を震わせる。
「……はい」
「誰が、お前に“いけない”を渡した」
少女は答えなかった。
その時、廊下の向こうから足音がした。
神父だった。
白い手袋はしていない。
しかし、手は前で重ねられていた。素手になったからといって、隠す癖が消えるわけではない。人間の手癖、こういう時だけ律儀に本人を裏切る。実に役に立つ。
「莉乃」
神父の声は穏やかだった。
少女がびくりと肩を震わせる。
ルストの目が冷える。
神父は榊へ向いた。
「この子には休息が必要です。これ以上怯えさせるのは」
クラウディオが遮る。
「守っているのか、口を塞いでいるのか」
神父の顔がわずかに強張る。
「何を」
「この子が助けを求めた。お前は休息と言った。随分便利な眠気だな」
「彼女は混乱しています」
「混乱している子どもが、祈りだけは完璧に唱える」
神父は一瞬、少女を見た。
その視線は、心配ではなかった。
確認だった。
クラウディオは見逃さない。
「今、答え合わせをしたな」
神父は沈黙した。
榊が一歩前に出る。
「神父。彼女が毎晩唱えていた祈りについて、詳しく聞かせてください」
神父は静かに息を吸った。
「祈りは、心を落ち着かせるためのものです」
クラウディオが低く笑う。
「心を落ち着かせる祈りに、“悪しき名を明らかにしてください”か。落ち着くどころか、よく燃えそうだ」
「彼女は不安定です。悪いものを遠ざけたいと願うのは自然でしょう」
「自然な祈りなら、なぜ一字も崩れない」
神父の顔から、穏やかさが少しずつ剥がれていく。
ルストが言った。
「神父に言われたのか」
少女は震えた。
言えない。
だが、首を振ることもできない。
神父が口を開きかける。
その瞬間、礼拝堂の方から、低い音がした。
聖女像の口が動く前に鳴る、あの嫌な音。
全員が振り向いた。
少女の唇が、勝手に祈りの形へ動いた。
「聖女様、罪を照らしてください」
クラウディオが少女を見る。
彼女は泣いていた。
泣きながら、それでも祈りは止まらない。
「隠された声を、血の中からお示しください」
神父が少女の肩に手を置く。
聖女像の方からの音が、ふっと弱まった。
クラウディオの目が鋭くなる。
「今、止めたな」
神父は手を離した。
「落ち着かせただけです」
「聖女像の口も落ち着くとはな。便利な手だ」
神父の唇が引き結ばれる。
榊が低く言う。
「礼拝堂へ」
彼らは廊下を進んだ。
少女はルストの後ろに隠れるように歩く。だが、完全には近づかない。神父から逃げるようで、同時に神父の許可を待っているようにも見える。
礼拝堂は暗かった。
聖女像の口元には、まだ血が残っている。乾いた筋。濡れた筋。古い血と新しい血。科学で追える血と、追えない血。
録音機は、澪奈がすぐに起動した。
榊は神父に距離を取らせる。
ルストは少女の前に立った。
クラウディオは聖女像の斜め前に立つ。
少女は震えていた。
何度も呼吸を乱した。
榊が「無理ならやめていい」と言った。
少女は、意味が分からないような顔をした。
無理なら、やめていい。
その言葉は、彼女の中に置かれていなかった。
ルストが低く言う。
「やめていい」
少女の目が、初めてルストを真正面から見た。
だが、次の瞬間、彼女の視線は神父へ逃げた。
神父は何も言わない。
ただ、静かに見ている。
少女は唇を開いた。
「祈らないといけないんです」
その声は、ほとんど泣き声だった。
クラウディオは何も言わない。
少女は聖女像の前に立つ。
小さな手を胸の前で組む。
震えている。
涙が頬を落ちる。
肩が揺れている。
息が乱れている。
それでも、祈りだけは始まった。
「聖女様、罪を照らしてください」
録音機の波形が揺れる。
「隠された声を、血の中からお示しください」
聖女像の口元の血が、わずかに濃く見える。
「迷える者に赦しを、偽る者に告げ口を」
澪奈が端末を見る。
「波形が乗っています。少女の声とは別に、低い揺れが」
「私たちを守るため、悪しき名を明らかにしてください」
少女は最後まで、間違えなかった。
泣きながら。
震えながら。
怯えながら。
一度も。
ルストの顔から、迷いが消えていく。
クラウディオは聖女像を見上げた。
祈りが終わった瞬間、聖女像の口元から血が一滴落ちた。
石の胸を伝い、白い台座へ落ちる。
録音機に、少女の声とは違う声が混ざった。
「よくできました」
誰の声か分からなかった。
神父の声にも聞こえる。
久遠院怜司の穏やかな声にも似ている。
教会そのものが、よく訓練された子どもを褒めたようにも聞こえる。
断定はできない。
だから余計に気持ち悪い。
少女がびくりと肩を震わせた。
ルストの目が冷える。
榊が神父を見る。
澪奈は息を呑んだまま、波形を保存する。
クラウディオは、少女を責めなかった。
ただ、低く言った。
「覚えさせられたな」




