第51話 誰が祈らせた
祈りは、形を持たない。
少なくとも、本来はそういうもののはずだった。
声にならない願い。言葉にできない痛み。誰にも言えなかった罪。救ってほしいという弱さ。赦されたいという浅ましさ。憎い相手が罰されてほしいという、本人でさえ綺麗に認められない黒い感情。
それらは、目に見えない。
だから人間は、紙に書く。
名を記す。
金額を添える。
箱に入れる。
帳簿に載せる。
祈願文として分類する。
祈りにまで整理番号を振るのだから、人間の事務処理欲は恐ろしい。神も受付印を押される側になれば、さぞ迷惑だろう。
夜見坂教会の事務室は、礼拝堂よりもずっと現実的な匂いがした。
古い木の机。金庫。寄付台帳。印鑑。封筒。手書きの領収控え。教会報の束。孤児保護活動に関する申請書類。祭壇の白い静けさとは違い、ここには金と名前と日付がある。
白石澪奈は、机の上に寄付金台帳を広げていた。
榊悠真はその向かいで、教会側から提出された記録の束に付箋を貼っている。神父は別室で待機していた。聖女像が夜に口を開き、「白い手で、血を隠した者――」と言いかけた直後である。本人を同じ部屋に置くほど、榊も神経が太くはなかった。警察官としての慎重さは、ときどき人類の希望に見える。希少種だ。保護しよう。
クラウディオ・ルジェリウスは、事務室の壁際に立っていた。
椅子はあった。座らない。礼拝堂でも座らなかった。教会で腰を落ち着ける気は、毛ほどもないらしい。
ルスト・ヴァルレインは、彼の隣にいる。
近い。
また近い。
クラウディオは横目で見た。
「近い」
「離れるか」
「その返しは聞き飽きた」
「なら言うな」
「本当に腹立たしいな、お前」
ルストは離れなかった。
澪奈は、二人のやり取りを聞こえなかったふりで流した。賢明である。事件現場では、ときどき見ないふりも技術になる。特にこの二人相手では。
榊が台帳の一部を指で押さえた。
「聖女像が最初に血を吐いた日の三日前から、寄付金が増えている」
澪奈が頷いた。
「匿名寄付が不自然に集中しています。金額はばらばらです。大きなものもありますし、少額の祈願料のようなものもあります」
「名目は?」
「ここです」
澪奈はコピーした記録を一枚抜き出した。
そこには、几帳面な字でいくつもの名目が並んでいた。
罪の告白。
清め。
真実の祈り。
聖女の前で明かされるべきこと。
隠された声のために。
孤児保護活動支援。
クラウディオの目が、最後の文字で止まった。
「孤児保護活動」
榊が顔を上げる。
「夜見坂教会は、地域の孤児保護や一時預かりの支援をしている。公式な活動だ。古い記録もある」
「公式なら清いとでも?」
「そうは言っていない」
榊は静かに返した。
「だから調べている」
クラウディオは短く鼻で笑った。
「ならいい」
澪奈は記録をめくる。
「寄付金の一部は、孤児保護活動へ回されています。ただし、全てではありません。名目上は支援金ですが、実際にそのまま使われた形跡が薄いものもあります」
「横領か」
榊が問う。
「まだ断定できません。会計処理の遅れや、別口座の処理の可能性もあります。ただ、不自然なのは日付です」
澪奈は別の資料を重ねた。
「高額寄付があった夜に、聖女像の口が開いています。そして、その告発内容は寄付名目と似ています」
ルストが低く言った。
「祈りが餌か」
クラウディオは台帳を見たまま答える。
「餌というより、材料だな」
「材料」
「聖女像が勝手に正義を吐いているわけじゃない。誰かが、吐かせたい言葉を集めている」
榊の眉が動いた。
「祈願文か」
「寄付、祈願文、告白、相談記録。名前は何でもいい。人間が自分の怒りや不安を、聖なる箱に入れて預けた。その箱の口が、夜になって開いている」
クラウディオは冷たく言った。
「問題は、誰が箱を置いたかだ」
事務室の奥には、祈願文を入れる木箱があった。
白く塗られた小さな箱。蓋には聖女像と同じ花の模様。前面に細い投入口があり、そこへ紙を入れる仕組みになっている。
「真実の祈り」と手書きで添えられていた。
澪奈がその紙を見た。
「この箱、以前からありましたか」
教会の事務担当者は、青ざめた顔で首を振った。
「いえ……たぶん、一か月ほど前からです。神父様が、悩みを抱える人が多いから、声を届ける場所を作ろうと」
榊が問い返す。
「神父が始めた?」
「はい。ただ、提案したのは外部の相談員の方だったと聞きました。信徒の心のケアをするためだと」
クラウディオの視線が動いた。
「外部の相談員」
事務担当者は怯えたように頷く。
「警察庁の方と関わりのある……顧問の先生ではなく、ええと、紹介を受けた方で。名前は資料に」
榊が資料を確認する。
「直接の名前は残っていない。紹介元だけだ」
澪奈が画面を覗き込む。
「警察庁外部顧問の関連資料に紐づいています。久遠院怜司本人の署名はありません」
事務室の空気が、少し冷えた。
クラウディオは笑わなかった。
「便利な距離だな」
ルストが問う。
「久遠院か」
「まだ名前を貼るな」
クラウディオは即座に言った。
「署名がない。本人の指示もない。あるのは、あいつの周辺にいた誰かと、この箱が置かれた時期だけだ」
「だが、近い」
「近いだけで燃やすな」
ルストは黙った。
クラウディオは木箱を見る。
「燃やされる側の気分を少しは学べ、灰銀」
ルストの目が、ほんのわずかに揺れた。
それを見て、クラウディオはすぐに顔を逸らした。
言いすぎたとは言わない。
謝らない。
だが、続きを言わなかった。
澪奈が木箱を開ける準備をした。手袋を替え、蓋の縁を確認する。榊が事務担当者に離れるよう促す。
箱の中には、紙が詰まっていた。
白い紙。便箋。教会が配った祈願用紙。封筒の切れ端。古い領収書の裏に書かれたもの。携帯の画面を印刷したようなものまである。
澪奈が一枚ずつ取り出し、番号を振る。
そこには、祈りの形をした告発があった。
夫の罪を暴いてください。
あの人が嘘をついていると示してください。
娘を傷つけた者を聖女様が裁いてください。
あの女が本当に清いか教えてください。
隠された金を明らかにしてください。
神父様の言う通り、真実の祈りを捧げます。
聖女様、赦しではなく、真実を。
榊が低く言った。
「赦しではなく、真実」
クラウディオの目が細くなる。
「言い方が揃っている」
澪奈は別の紙を取り出した。
「こちらにも同じ表現があります。『赦しではなく、真実を』。別人の筆跡です。でも文面が似ています」
榊が顔をしかめる。
「誰かが文例を配ったのか」
「可能性はあります」
澪奈は教会報の束を探った。
その中に、薄いリーフレットがあった。
聖女に真実を捧げる祈り。
柔らかい書体。優しい色。聖女像の輪郭。悩みを抱える方へ、隠された痛みを言葉にしましょう、と書かれている。
その言葉自体は、攻撃的ではなかった。
むしろ、弱っている人間に寄り添うように見える。
あなたの苦しみを、聖女は聞いています。
隠された真実は、祈りによって照らされます。
赦しを求める前に、まず真実を見つめましょう。
あなたが言えないことを、聖女の前に預けてください。
クラウディオはそのリーフレットを見て、嫌悪を隠さなかった。
「うまいな」
榊が問う。
「何が」
「祈りの形をしている。だが、やっていることは告発文の募集だ」
クラウディオはリーフレットを机に戻す。
「祈るなとは言っていない」
事務室の誰もが、彼を見る。
クラウディオの声は低かった。
「嫌いなのは信仰じゃない。祈りを道具にする人間だ」
ルストが、クラウディオを見た。
クラウディオは続けた。
「弱い人間が祈ることまで笑う気はない。どうにもならないものを、どこかへ預けなければ立っていられない時はある。だが、その弱さを集めて、誰かを燃やすための火種に変える奴は別だ」
彼の視線が、木箱へ落ちる。
「信じる者が愚かなんじゃない。信じたがっている者を利用する奴が腐っている」
事務室に、沈黙が落ちた。
神父がいない部屋で、その言葉は余計に重かった。
榊がリーフレットを手に取る。
「これを作ったのは教会か」
事務担当者は震える声で答えた。
「神父様が許可を……ただ、文面は外部の方が整えてくださったと」
「誰だ」
「名前までは……神父様が直接やり取りを」
クラウディオが呟く。
「祈らせたのは、誰だ」
それは問いというより、刃物だった。
澪奈は、祈願文の束を調べていく。
「祈願文の一部に、黒赤い粒があります。全てではありません。特定の紙だけです」
榊が反応する。
「血術核の残滓か」
「似ています。ただ、量はごく少ない。紙に練り込まれているというより、後から付着したもののようです」
ルストが箱に近づく。
「血の匂いが薄い」
「薄い?」
澪奈が問う。
「本体じゃない。印だ」
ルストの声は低い。
「祈願文を、口に繋ぐ印」
クラウディオが頷いた。
「紙が燃料。黒赤い粒が導火線。聖女像が口。祈りが、告発になる」
「告発術式か」
榊が言う。
クラウディオはすぐに返した。
「まだ術式と呼ぶな。名前をつけると分かった気になる」
榊は息を吐く。
「……分かった。祈願文と聖女像の反応の対応を確認する」
「それでいい」
澪奈がリーフレットをライトに透かした。
「紙の繊維に、細い線があります」
「波形か」
「はい。火刑事件の紙片、鍵穴傷、聖女像の録音波形と似ています。ただし完全一致ではありません」
クラウディオの口元が冷たく歪む。
「また声を紙にしている」
ルストが言う。
「誰の声だ」
「祈らせたい声だろうな」
クラウディオはリーフレットを見下ろす。
「自分の怒りを、自分の声で言わせない。聖女の口から言わせる。人間は本当に、自分の手を汚さず火をつける方法だけは熱心に探す」
榊が、静かに資料をめくった。
「寄付金記録と祈願文の日付を照合する」
澪奈が端末を操作する。
「すでに始めています。高額寄付があった日の夜に、告発が起きています。ただし、高額寄付者が直接告発内容を書いたとは限りません」
「誰かが祈りを選別した可能性は?」
「あります」
澪奈は別の画面を開いた。
「祈願文には回収済み印のような小さな点があります。黒ではなく、薄い赤です。全てではありません。聖女像の告発内容に近い祈願文にだけあります」
榊の目が鋭くなる。
「誰が印をつけた」
「不明です」
クラウディオは言った。
「印をつけた奴が、祈らせた奴に近い」
「神父か」
ルストが低く問う。
クラウディオは一拍置いた。
「可能性はある。だが、神父一人ではない」
榊が顔を上げる。
「根拠は」
「文面が整いすぎている。神父の説教の癖とは違う。もっと外から人間を見ている言葉だ」
その場にいる者の何人かが、同じ名前を思い浮かべた。
久遠院怜司。
だが、クラウディオはその名を言わなかった。
言えば、貼ることになるからだ。
澪奈の端末が短く鳴った。
嫌な予感ほど、律儀に通知音を鳴らして来る。文明、もう少し遠慮しろ。
「警察庁共有資料に、久遠院顧問からコメントです」
クラウディオは目を閉じた。
「本当に、あいつは呼んでいないのに来るな」
榊が読む。
「祈願文が集まっているなら、聖女像の現象は自発的な告発ではなく、共同体の願望を代弁する形になっている可能性があります。人は、自分の怒りを祈りとして提出するとき、その責任を神聖な器へ預けます」
澪奈が唇を結ぶ。
「正しいです」
クラウディオは低く言った。
「正しいから腹が立つ」
榊は続きを見る。
「赦しを求める祈りより、真実を求める祈りの方が、告発へ転化しやすい。誰かが意図的に言葉を整えていたなら、像は神の意志ではなく、人間の問いの反響板として機能しているのかもしれません」
事務室に、嫌な静けさが満ちた。
クラウディオはリーフレットを見る。
「反響板、ね」
ルストがクラウディオを見る。
「久遠院の言葉だ」
「まだ名前を貼るな」
クラウディオはまた言った。
だが、その声には苛立ちが混じっている。
「だが、趣味は近い」
榊が資料を閉じた。
「教会の事務室、聖具室、神父の私室、祈願文の保管場所を改めて確認する。祈願文に印をつけた人物、リーフレットを作った人物、寄付金と告発の対応を洗う」
クラウディオは頷いた。
「聖女像を見るな。箱と紙を見ろ」
澪奈が小さく息を吐いた。
「祈りを証拠品として扱う日が来るとは思いませんでした」
「祈りじゃない」
クラウディオは即座に言った。
「加工された願望だ」
その時、事務室の扉が軽く叩かれた。
警察官が顔を出す。
「榊さん。礼拝堂の前に、また人が集まっています。名前を書いた紙を持っている者が複数います」
榊の顔が歪む。
「誰かを告発してほしい、と?」
「はい。聖女様に真実を、と」
クラウディオは小さく笑った。
まったく楽しそうではない。
「増えたな」
ルストが言う。
「止めるか」
「止める。だが、祈る人間を殴っても意味はない」
クラウディオはリーフレットを指で押さえた。
「祈らせた奴を探す」
榊が頷く。
その時、木箱の中の祈願文が一枚、かすかに震えた。
風はない。
誰も触れていない。
白い紙の端が、ゆっくりと持ち上がる。
澪奈が息を呑む。
紙の上に、薄い赤い点が浮かんだ。
回収済み印に似ている。
いや、違う。
新しく滲んでいる。
クラウディオが近づく。
その祈願文には、震える筆跡で名前が書かれていた。
神父の名ではない。
シスターの名でもない。
そこには、ただ一文だけが書かれている。
祈らせた者を、暴いてください。
次の瞬間、礼拝堂の方から、低い音がした。
鐘ではない。
聖女像の口が、また開いた音だった。
ルストが顔を上げる。
澪奈の端末が勝手に録音を始める。
礼拝堂から、かすれた声が届いた。
「祈りを……集めた者――」
声はそこで、また途切れた。
誰かが遮ったのではない。
今度は、喉の奥で迷ったように。
クラウディオは目を細めた。
「迷ったな」
榊が問う。
「像が?」
「違う」
クラウディオは事務室の木箱を見た。
「祈らせた奴が、次に吐かせる罪を選んでいる」
白い祈願文の赤い点が、ゆっくり濃くなっていく。
クラウディオは低く言った。
「誰が祈らせた」
事務室の空気が、ひどく冷えた。




