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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第4部 血を吐く聖女像

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第51話 誰が祈らせた



 祈りは、形を持たない。


 少なくとも、本来はそういうもののはずだった。


 声にならない願い。言葉にできない痛み。誰にも言えなかった罪。救ってほしいという弱さ。赦されたいという浅ましさ。憎い相手が罰されてほしいという、本人でさえ綺麗に認められない黒い感情。


 それらは、目に見えない。


 だから人間は、紙に書く。


 名を記す。

 金額を添える。

 箱に入れる。

 帳簿に載せる。

 祈願文として分類する。


 祈りにまで整理番号を振るのだから、人間の事務処理欲は恐ろしい。神も受付印を押される側になれば、さぞ迷惑だろう。


 夜見坂教会の事務室は、礼拝堂よりもずっと現実的な匂いがした。


 古い木の机。金庫。寄付台帳。印鑑。封筒。手書きの領収控え。教会報の束。孤児保護活動に関する申請書類。祭壇の白い静けさとは違い、ここには金と名前と日付がある。


 白石澪奈は、机の上に寄付金台帳を広げていた。


 榊悠真はその向かいで、教会側から提出された記録の束に付箋を貼っている。神父は別室で待機していた。聖女像が夜に口を開き、「白い手で、血を隠した者――」と言いかけた直後である。本人を同じ部屋に置くほど、榊も神経が太くはなかった。警察官としての慎重さは、ときどき人類の希望に見える。希少種だ。保護しよう。


 クラウディオ・ルジェリウスは、事務室の壁際に立っていた。


 椅子はあった。座らない。礼拝堂でも座らなかった。教会で腰を落ち着ける気は、毛ほどもないらしい。


 ルスト・ヴァルレインは、彼の隣にいる。


 近い。


 また近い。


 クラウディオは横目で見た。


「近い」


「離れるか」


「その返しは聞き飽きた」


「なら言うな」


「本当に腹立たしいな、お前」


 ルストは離れなかった。


 澪奈は、二人のやり取りを聞こえなかったふりで流した。賢明である。事件現場では、ときどき見ないふりも技術になる。特にこの二人相手では。


 榊が台帳の一部を指で押さえた。


「聖女像が最初に血を吐いた日の三日前から、寄付金が増えている」


 澪奈が頷いた。


「匿名寄付が不自然に集中しています。金額はばらばらです。大きなものもありますし、少額の祈願料のようなものもあります」


「名目は?」


「ここです」


 澪奈はコピーした記録を一枚抜き出した。


 そこには、几帳面な字でいくつもの名目が並んでいた。


 罪の告白。

 清め。

 真実の祈り。

 聖女の前で明かされるべきこと。

 隠された声のために。

 孤児保護活動支援。


 クラウディオの目が、最後の文字で止まった。


「孤児保護活動」


 榊が顔を上げる。


「夜見坂教会は、地域の孤児保護や一時預かりの支援をしている。公式な活動だ。古い記録もある」


「公式なら清いとでも?」


「そうは言っていない」


 榊は静かに返した。


「だから調べている」


 クラウディオは短く鼻で笑った。


「ならいい」


 澪奈は記録をめくる。


「寄付金の一部は、孤児保護活動へ回されています。ただし、全てではありません。名目上は支援金ですが、実際にそのまま使われた形跡が薄いものもあります」


「横領か」


 榊が問う。


「まだ断定できません。会計処理の遅れや、別口座の処理の可能性もあります。ただ、不自然なのは日付です」


 澪奈は別の資料を重ねた。


「高額寄付があった夜に、聖女像の口が開いています。そして、その告発内容は寄付名目と似ています」


 ルストが低く言った。


「祈りが餌か」


 クラウディオは台帳を見たまま答える。


「餌というより、材料だな」


「材料」


「聖女像が勝手に正義を吐いているわけじゃない。誰かが、吐かせたい言葉を集めている」


 榊の眉が動いた。


「祈願文か」


「寄付、祈願文、告白、相談記録。名前は何でもいい。人間が自分の怒りや不安を、聖なる箱に入れて預けた。その箱の口が、夜になって開いている」


 クラウディオは冷たく言った。


「問題は、誰が箱を置いたかだ」


 事務室の奥には、祈願文を入れる木箱があった。


 白く塗られた小さな箱。蓋には聖女像と同じ花の模様。前面に細い投入口があり、そこへ紙を入れる仕組みになっている。


 「真実の祈り」と手書きで添えられていた。


 澪奈がその紙を見た。


「この箱、以前からありましたか」


 教会の事務担当者は、青ざめた顔で首を振った。


「いえ……たぶん、一か月ほど前からです。神父様が、悩みを抱える人が多いから、声を届ける場所を作ろうと」


 榊が問い返す。


「神父が始めた?」


「はい。ただ、提案したのは外部の相談員の方だったと聞きました。信徒の心のケアをするためだと」


 クラウディオの視線が動いた。


「外部の相談員」


 事務担当者は怯えたように頷く。


「警察庁の方と関わりのある……顧問の先生ではなく、ええと、紹介を受けた方で。名前は資料に」


 榊が資料を確認する。


「直接の名前は残っていない。紹介元だけだ」


 澪奈が画面を覗き込む。


「警察庁外部顧問の関連資料に紐づいています。久遠院怜司本人の署名はありません」


 事務室の空気が、少し冷えた。


 クラウディオは笑わなかった。


「便利な距離だな」


 ルストが問う。


「久遠院か」


「まだ名前を貼るな」


 クラウディオは即座に言った。


「署名がない。本人の指示もない。あるのは、あいつの周辺にいた誰かと、この箱が置かれた時期だけだ」


「だが、近い」


「近いだけで燃やすな」


 ルストは黙った。


 クラウディオは木箱を見る。


「燃やされる側の気分を少しは学べ、灰銀」


 ルストの目が、ほんのわずかに揺れた。


 それを見て、クラウディオはすぐに顔を逸らした。


 言いすぎたとは言わない。


 謝らない。


 だが、続きを言わなかった。


 澪奈が木箱を開ける準備をした。手袋を替え、蓋の縁を確認する。榊が事務担当者に離れるよう促す。


 箱の中には、紙が詰まっていた。


 白い紙。便箋。教会が配った祈願用紙。封筒の切れ端。古い領収書の裏に書かれたもの。携帯の画面を印刷したようなものまである。


 澪奈が一枚ずつ取り出し、番号を振る。


 そこには、祈りの形をした告発があった。


 夫の罪を暴いてください。

 あの人が嘘をついていると示してください。

 娘を傷つけた者を聖女様が裁いてください。

 あの女が本当に清いか教えてください。

 隠された金を明らかにしてください。

 神父様の言う通り、真実の祈りを捧げます。

 聖女様、赦しではなく、真実を。


 榊が低く言った。


「赦しではなく、真実」


 クラウディオの目が細くなる。


「言い方が揃っている」


 澪奈は別の紙を取り出した。


「こちらにも同じ表現があります。『赦しではなく、真実を』。別人の筆跡です。でも文面が似ています」


 榊が顔をしかめる。


「誰かが文例を配ったのか」


「可能性はあります」


 澪奈は教会報の束を探った。


 その中に、薄いリーフレットがあった。


 聖女に真実を捧げる祈り。


 柔らかい書体。優しい色。聖女像の輪郭。悩みを抱える方へ、隠された痛みを言葉にしましょう、と書かれている。


 その言葉自体は、攻撃的ではなかった。


 むしろ、弱っている人間に寄り添うように見える。


 あなたの苦しみを、聖女は聞いています。

 隠された真実は、祈りによって照らされます。

 赦しを求める前に、まず真実を見つめましょう。

 あなたが言えないことを、聖女の前に預けてください。


 クラウディオはそのリーフレットを見て、嫌悪を隠さなかった。


「うまいな」


 榊が問う。


「何が」


「祈りの形をしている。だが、やっていることは告発文の募集だ」


 クラウディオはリーフレットを机に戻す。


「祈るなとは言っていない」


 事務室の誰もが、彼を見る。


 クラウディオの声は低かった。


「嫌いなのは信仰じゃない。祈りを道具にする人間だ」


 ルストが、クラウディオを見た。


 クラウディオは続けた。


「弱い人間が祈ることまで笑う気はない。どうにもならないものを、どこかへ預けなければ立っていられない時はある。だが、その弱さを集めて、誰かを燃やすための火種に変える奴は別だ」


 彼の視線が、木箱へ落ちる。


「信じる者が愚かなんじゃない。信じたがっている者を利用する奴が腐っている」


 事務室に、沈黙が落ちた。


 神父がいない部屋で、その言葉は余計に重かった。


 榊がリーフレットを手に取る。


「これを作ったのは教会か」


 事務担当者は震える声で答えた。


「神父様が許可を……ただ、文面は外部の方が整えてくださったと」


「誰だ」


「名前までは……神父様が直接やり取りを」


 クラウディオが呟く。


「祈らせたのは、誰だ」


 それは問いというより、刃物だった。


 澪奈は、祈願文の束を調べていく。


「祈願文の一部に、黒赤い粒があります。全てではありません。特定の紙だけです」


 榊が反応する。


「血術核の残滓か」


「似ています。ただ、量はごく少ない。紙に練り込まれているというより、後から付着したもののようです」


 ルストが箱に近づく。


「血の匂いが薄い」


「薄い?」


 澪奈が問う。


「本体じゃない。印だ」


 ルストの声は低い。


「祈願文を、口に繋ぐ印」


 クラウディオが頷いた。


「紙が燃料。黒赤い粒が導火線。聖女像が口。祈りが、告発になる」


「告発術式か」


 榊が言う。


 クラウディオはすぐに返した。


「まだ術式と呼ぶな。名前をつけると分かった気になる」


 榊は息を吐く。


「……分かった。祈願文と聖女像の反応の対応を確認する」


「それでいい」


 澪奈がリーフレットをライトに透かした。


「紙の繊維に、細い線があります」


「波形か」


「はい。火刑事件の紙片、鍵穴傷、聖女像の録音波形と似ています。ただし完全一致ではありません」


 クラウディオの口元が冷たく歪む。


「また声を紙にしている」


 ルストが言う。


「誰の声だ」


「祈らせたい声だろうな」


 クラウディオはリーフレットを見下ろす。


「自分の怒りを、自分の声で言わせない。聖女の口から言わせる。人間は本当に、自分の手を汚さず火をつける方法だけは熱心に探す」


 榊が、静かに資料をめくった。


「寄付金記録と祈願文の日付を照合する」


 澪奈が端末を操作する。


「すでに始めています。高額寄付があった日の夜に、告発が起きています。ただし、高額寄付者が直接告発内容を書いたとは限りません」


「誰かが祈りを選別した可能性は?」


「あります」


 澪奈は別の画面を開いた。


「祈願文には回収済み印のような小さな点があります。黒ではなく、薄い赤です。全てではありません。聖女像の告発内容に近い祈願文にだけあります」


 榊の目が鋭くなる。


「誰が印をつけた」


「不明です」


 クラウディオは言った。


「印をつけた奴が、祈らせた奴に近い」


「神父か」


 ルストが低く問う。


 クラウディオは一拍置いた。


「可能性はある。だが、神父一人ではない」


 榊が顔を上げる。


「根拠は」


「文面が整いすぎている。神父の説教の癖とは違う。もっと外から人間を見ている言葉だ」


 その場にいる者の何人かが、同じ名前を思い浮かべた。


 久遠院怜司。


 だが、クラウディオはその名を言わなかった。


 言えば、貼ることになるからだ。


 澪奈の端末が短く鳴った。


 嫌な予感ほど、律儀に通知音を鳴らして来る。文明、もう少し遠慮しろ。


「警察庁共有資料に、久遠院顧問からコメントです」


 クラウディオは目を閉じた。


「本当に、あいつは呼んでいないのに来るな」


 榊が読む。


「祈願文が集まっているなら、聖女像の現象は自発的な告発ではなく、共同体の願望を代弁する形になっている可能性があります。人は、自分の怒りを祈りとして提出するとき、その責任を神聖な器へ預けます」


 澪奈が唇を結ぶ。


「正しいです」


 クラウディオは低く言った。


「正しいから腹が立つ」


 榊は続きを見る。


「赦しを求める祈りより、真実を求める祈りの方が、告発へ転化しやすい。誰かが意図的に言葉を整えていたなら、像は神の意志ではなく、人間の問いの反響板として機能しているのかもしれません」


 事務室に、嫌な静けさが満ちた。


 クラウディオはリーフレットを見る。


「反響板、ね」


 ルストがクラウディオを見る。


「久遠院の言葉だ」


「まだ名前を貼るな」


 クラウディオはまた言った。


 だが、その声には苛立ちが混じっている。


「だが、趣味は近い」


 榊が資料を閉じた。


「教会の事務室、聖具室、神父の私室、祈願文の保管場所を改めて確認する。祈願文に印をつけた人物、リーフレットを作った人物、寄付金と告発の対応を洗う」


 クラウディオは頷いた。


「聖女像を見るな。箱と紙を見ろ」


 澪奈が小さく息を吐いた。


「祈りを証拠品として扱う日が来るとは思いませんでした」


「祈りじゃない」


 クラウディオは即座に言った。


「加工された願望だ」


 その時、事務室の扉が軽く叩かれた。


 警察官が顔を出す。


「榊さん。礼拝堂の前に、また人が集まっています。名前を書いた紙を持っている者が複数います」


 榊の顔が歪む。


「誰かを告発してほしい、と?」


「はい。聖女様に真実を、と」


 クラウディオは小さく笑った。


 まったく楽しそうではない。


「増えたな」


 ルストが言う。


「止めるか」


「止める。だが、祈る人間を殴っても意味はない」


 クラウディオはリーフレットを指で押さえた。


「祈らせた奴を探す」


 榊が頷く。


 その時、木箱の中の祈願文が一枚、かすかに震えた。


 風はない。


 誰も触れていない。


 白い紙の端が、ゆっくりと持ち上がる。


 澪奈が息を呑む。


 紙の上に、薄い赤い点が浮かんだ。


 回収済み印に似ている。


 いや、違う。


 新しく滲んでいる。


 クラウディオが近づく。


 その祈願文には、震える筆跡で名前が書かれていた。


 神父の名ではない。


 シスターの名でもない。


 そこには、ただ一文だけが書かれている。


 祈らせた者を、暴いてください。


 次の瞬間、礼拝堂の方から、低い音がした。


 鐘ではない。


 聖女像の口が、また開いた音だった。


 ルストが顔を上げる。


 澪奈の端末が勝手に録音を始める。


 礼拝堂から、かすれた声が届いた。


「祈りを……集めた者――」


 声はそこで、また途切れた。


 誰かが遮ったのではない。


 今度は、喉の奥で迷ったように。


 クラウディオは目を細めた。


「迷ったな」


 榊が問う。


「像が?」


「違う」


 クラウディオは事務室の木箱を見た。


「祈らせた奴が、次に吐かせる罪を選んでいる」


 白い祈願文の赤い点が、ゆっくり濃くなっていく。


 クラウディオは低く言った。


「誰が祈らせた」


 事務室の空気が、ひどく冷えた。



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