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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第4部 血を吐く聖女像

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第50話 聖女の口


 夜見坂教会は、昼間だけなら静かだった。


 白い石壁に薄い冬の光が差し、礼拝堂の床には高窓の影が細く伸びている。聖女像は祭壇の奥で目を伏せたまま、動かない。口元には赤黒い血の跡が残っている。だが、それも乾きかけた汚れとして見れば、ただの不気味な事件の痕跡に過ぎなかった。


 昼間の聖女像は、喋らない。


 口を閉じ、白い顔で沈黙し、手を胸元に重ねている。


 祈りを聞くふりをする石の女。


 あるいは、聞いた祈りを吐き出す時を待っている口。


 警察は礼拝堂の出入口に見張りを置き、祭壇周辺を封鎖していた。聖女像の前には鑑識用の機材が置かれ、床には番号札が立っている。祈りの場に番号札。人間、信仰にも事件にも札を貼らないと落ち着かないらしい。便利な習性だ。おかげで証拠は迷子になりにくい。


 白石澪奈は、定点カメラの位置を調整していた。


 聖女像の口元、胸元、台座、床に落ちた血の跡。すべてが映る角度。録音機は礼拝堂の左右に二台、祭壇近くに一台。音声波形を確認する端末は、後方の長椅子に置かれている。


 榊悠真は、教会関係者への聞き取り記録を確認していた。


 神父は、少し離れた場所に立っている。


 黒い衣服。整った襟。祈り慣れた人間の穏やかな顔。だが、白い手袋の件が出てから、彼の手元は以前より慎重になっていた。指を重ねる角度。袖口を直す仕草。必要以上に手を隠さないようにしているのに、見られていることを意識している手。


 クラウディオ・ルジェリウスは、それを見ていた。


 聖女像ではなく、神父の手を。


 ルスト・ヴァルレインは、クラウディオのすぐ横に立っていた。近い。警護にしては近く、恋人にしては遠い。現代の人類が分類に困る距離である。分類できないからこそ、久遠院怜司のような男が嬉しそうに観察する。迷惑な生態系だ。


 クラウディオは横目でルストを見た。


「近い」


「離れるか」


「邪魔になるな」


「ならない」


「即答するな。腹立たしい」


「事実だ」


 クラウディオはそれ以上言わなかった。


 ルストは離れなかった。


 礼拝堂の中には、昼間の光がある。それでも、聖女像の口元だけは、妙に暗く見えた。血の跡が光を吸っている。乾いた赤黒い筋が、口の端から顎へ降り、白い胸元へ落ちている。澪奈の解析では、その血は一人分ではなかった。複数人の血。一部は現代の誰かに繋がる可能性があり、一部はどうしても照合できない。


 科学で拭える血と、拭えない血。


 澪奈はそう言った。


 その言葉を、クラウディオは否定しなかった。


 むしろ、見ろと言った。


 怪異に逃げるな。科学にも逃げるな。


 その言葉の通り、礼拝堂にはカメラと録音機と証拠袋と、ルストの鼻と、クラウディオの目が置かれている。科学と怪異と嫌味が同じ空間に詰め込まれている。礼拝堂も大変だ。聖域に同情する日が来るとは思わなかった。


 神父は静かに言った。


「本当に、夜を待つ必要があるのでしょうか」


 榊が顔を上げる。


「昼間は何も起きていません。過去二日とも、変化は夜間に集中しています」


「信徒たちが不安がっています。夜に聖女像を監視するというだけでも、恐れを煽ることになります」


 クラウディオが軽く笑った。


「恐れを煽るのは嫌いか」


 神父はクラウディオを見る。


「少なくとも、信仰の場で恐怖が広がることは望みません」


「聖女像が血を吐いた時点で、だいぶ手遅れだな」


「言葉を選んでください」


「お前もな」


 神父の顔がわずかに硬くなる。


 クラウディオは続けなかった。


 まだ名前を貼らない。


 神父の手袋には新しい血があった。聖女像の古い血とは別の血。だが、それが何を意味するかはまだ決まっていない。隠蔽か。救助か。儀式か。懺悔か。あるいは、もっと別の何かか。


 クラウディオは性急に断罪しない。


 嫌っている相手にも、証拠がなければ火をつけない。


 だからこそ、久遠院は彼を称賛した。気色悪いほど正しく。


 やはり最悪だ。


 日が落ちた。


 礼拝堂の高窓は黒くなり、外の街灯の光が古い硝子で滲んだ。警察の見張りは二名に絞られ、教会関係者のほとんどは別室へ移された。神父は残ることを希望した。榊は少し迷ったが、監視下であればという条件で許可した。


 澪奈は後方の端末前に座り、映像と音声を見ている。


 榊は祭壇から少し離れた位置に立つ。


 クラウディオは長椅子の端に腰を下ろさず、立っていた。教会に座る気がないのだろう。人形師の工房では紅茶を飲む男が、礼拝堂では椅子すら拒む。分かりやすい嫌悪である。面倒だが、ここまで徹底していると少し清々しい。いや、清々しくはない。面倒だ。


 ルストは、やはりその横にいる。


 午後九時を過ぎた頃だった。


 礼拝堂の空気が、わずかに湿った。


 火はない。雨も降っていない。だが、石の床から冷えが立ち上がる。聖女像の口元に残った血の跡が、暗い照明の中で少し濃く見えた。


 録音機に、低いノイズが入る。


 祈りに似ている。


 しかし、祈りではない。


 誰かが声を出す前に、喉の奥で息を整える音。


 ルストが顔を上げた。


「来る」


 聖女像の口元が、動いた。


 それは人間の唇の動きではなかった。


 石膏、あるいは大理石で作られた白い口。固く閉じられていたはずの線が、夜の冷気にひびを入れられたように、ほんの少しだけ開く。顎が落ちるわけではない。表情が変わるわけでもない。叫ぶわけでもない。


 ただ、口だけが静かに開いた。


 石の女が、夜だけ息をする。


 その瞬間、礼拝堂の誰もが黙った。


 聖女像の口から、血の匂いが漏れた。


 古い鉄。湿った石。蝋燭の芯。閉じ込められた懺悔の残り香。


 ルストが低く言った。


「声が血の匂いをしている」


 澪奈が端末を見る。


「音声、入っています」


 像の口から、声が漏れた。


 女の声にも聞こえた。老人の声にも聞こえた。子どもの声にも聞こえた。複数の声が重なっているのに、一つの告発として聞こえる。耳が勝手に言葉を整えてしまう。人間の脳、勝手に補正するな。怪異側に悪用されるぞ。もうされている。


 声は言った。


「あの人は、寄付金を隠した」


 誰も動かなかった。


 声は続けた。


「あの人は、娘の手紙を燃やした」


 録音機の波形が跳ねる。


「あの人は、病人を見捨てた」


 神父の手が、胸元で固まる。


「あの人は、嘘の証言をした」


 榊の目が鋭くなる。


「あの人は、祈りの名で脅した」


 クラウディオの表情が、冷えた。


 声はそこで途切れた。


 聖女像の口は、ほんの少しだけ開いたままだった。血が垂れるわけではない。ただ口の奥が暗く、底のない穴のように見える。


 澪奈が震えた息を吐いた。


「声は一人ではありません。複数の音声が重なっています」


「内容は?」


 榊が問う。


「断片です。今の時点では誰のことか特定できません。ただ……」


 澪奈は端末を操作する。


「一部の波形が、火刑事件の紙片、告発者の証言、夜見坂教会の血の反応と似ています。また同じ揺れです」


 クラウディオが言った。


「科学で切れるところまで切れ。残った口を見ろ」


「口、ですか」


「聖女じゃない。口だ」


 その声は冷たかった。


 神父が反応する。


「聖女を、そのように言うのは……」


「聖女なら、なぜ順番がある」


 クラウディオは神父を見ずに言った。


「なぜ今その罪を吐く。なぜその者の罪で、その者ではない罪は吐かない。なぜ教会の中にあるはずの別の罪は、まだ黙っている」


 神父の喉が動く。


「聖女は、隠された罪をお示しになっているのかもしれません」


 クラウディオはようやく神父を見た。


「便利な聖女だな。お前に都合の悪い罪だけは口が重い」


 礼拝堂の空気が、細く裂けた。


 榊が神父を見る。


 神父は表情を整えた。すぐに。あまりに早く。整いすぎた顔は、ときどき壊れた顔より嘘が濃い。


「私に都合が悪い、とは」


「まだ聞くのか」


 クラウディオは低く言った。


「なら、最後まで聞け。告発された者より、告発されなかった者を見ろ」


 ルストの視線が神父へ向いた。


 澪奈は、端末の別画面を開いた。


「今の告発の断片ですが、すでに外部へ漏れています」


 榊が振り向く。


「何?」


「教会関係者の一人が、昼間の時点で過去映像を撮影していた可能性があります。いま、夜の現象の音声の一部が、短く切り取られて拡散されています」


 榊の顔が険しくなる。


「誰が流した」


「確認中です。ただ、すでに見出しが出ています」


 澪奈は端末を榊に見せた。


 画面の光に、短い文字が浮かぶ。


 聖女像が罪を告げた。

 寄付金隠しの疑い。

 信徒の過去が暴かれる。

 教会の奇跡か、告発か。

 聖女は嘘をつくのか。


 投稿の羅列は見せない。そこにあるのは、切り取られた言葉と、画面の光と、燃え上がる前の空気だけだった。


 それでも十分だった。


 電話が鳴る。

 誰かが出ない。

 職場の扉が閉じられる。

 家族の前で、食卓が黙る。

 過去の発言が掘り返される。

 「そういえば」と誰かが言い出す。

 本人が弁明する前に、周囲が距離を取る。


 火は見えない。


 だが、社会的に燃える音はする。


 榊は歯を噛んだ。


「像の告発で人を裁くわけにはいかない」


 クラウディオが冷たく返す。


「今度は聖女の口付きだ。ありがたがる奴は増えるだろうな」


「本当の罪が混ざっているから厄介だ」


「嘘なら否定できる。半分本当なら、世間は止まらない」


 榊が言うより先に、クラウディオが言った。


 榊は一瞬だけ黙った。


 クラウディオは聖女像を見上げる。


「告発は祈りじゃない。火種だ」


 神父が低く息を吸う。


「隠された罪が明らかになるなら、それは悔い改めの機会でもあります」


「聖女の口まで、お前の説教に使うな」


 クラウディオの声が冷える。


「悔い改めを求めるなら、まず事実を調べろ。罪と噂を混ぜるな。祈りと告発を混ぜるな。燃えやすくなる」


 ルストが聖女像を見ていた。


「像が喋っているのではない」


 榊が問う。


「どういう意味ですか」


「血が、口を借りている」


 ルストは短く言った。


「この告発は、生きている喉から出たものじゃない」


 澪奈が録音波形を見る。


「声の中に、現代の誰とも一致しない層があります。聖女像の血と同じです。科学的に追える声と、追えない声があります」


「またそれか」


 榊が額に手を当てる。


 クラウディオは言った。


「怪異に逃げるな。科学にも逃げるな」


「分かってる」


 榊は短く返した。


 礼拝堂の外がざわつき始めていた。


 教会の前に、人が集まり始めている。警察が抑えているが、外からスマートフォンの光がいくつも見える。罪を暴いてほしいと願う者。奇跡を見たい者。誰かを裁く口実を探す者。自分の怒りを聖なる声に代弁してほしい者。


 祈りの場は、告発の場へ変わろうとしていた。


 匿名の祈願文が増えるだろう。

 誰かの名前を書いた紙が礼拝堂へ置かれるだろう。

 「あの人の罪を教えてください」と祈る者が現れるだろう。

 そして、それを撮る者も。


 人類、祈りより告発の方が熱心なの、だいぶ終わっている。いや、終わっているから事件になる。世界はいつも雑に辻褄を合わせてくる。


 クラウディオは外の光を見ずに言った。


「祈りに見せた告発所だ」


 榊が唇を結ぶ。


「止める必要がある」


「止めるなら、法則を読め」


 クラウディオは聖女像を見る。


「夜だけ。血の匂いが濃くなる時。名前と罪が集まる時。赦しではなく暴いてほしいと願う時。おそらくその辺りが口を開く条件だ」


 澪奈が記録する。


「完全な条件ではありませんね」


「完全なら、今ここで終わっている」


「……ですよね」


 クラウディオは皮肉に逃げず、淡々と言った。


「聖女が正しいなら、罪は平等に吐かれる。だが、吐かれる罪には順番がある。選別がある。告発されない罪がある」


 ルストが続ける。


「誰かが口を向けている」


 クラウディオは小さく頷く。


「口が開いたなら、誰が喋らせたかを見る」


 神父はそこで、静かに口を開いた。


「皆さんは、聖女像をただの道具のように扱っている」


 クラウディオの目が神父へ向いた。


「道具にしているのは、喋らせている奴だ」


「聖女は、隠された罪をお示しになっているだけかもしれない」


「なら、なぜお前はまだ告発されない」


 神父の顔が白くなる。


 ほんの少しだけ。


 だが、白い手袋より目立つ変化だった。


 その時、榊の端末が鳴った。


 警察庁共有資料への新しいコメント。


 久遠院怜司。


 クラウディオの目が、露骨に嫌そうになる。


「読むな」


 榊は画面を見た。


「読まない選択肢はありません」


「ある。人間には自由意志がある。使え」


「事件資料です」


「最悪だな」


 榊は短く読み上げた。


「聖女像が罪を告発するという構造は、信仰と断罪を結びつける上で非常に強力です。人は、自分の怒りを聖なる口から語らせたがります。告発が聖性を帯びた時、反論する者は信仰そのものへ逆らう形になります」


 澪奈が小さく言った。


「的確です」


 クラウディオは吐き捨てるように言う。


「的確だから気色悪いんだ」


 榊は続ける。


「これは、魔女狩りよりも効率的かもしれません」


 クラウディオの声が、低く落ちた。


「効率的、ね」


 ルストの視線が鋭くなる。


 クラウディオは聖女像を見る。


「神の口まで火刑台にする気か」


 そして、息を吐くように言った。


「やっぱり、あいつは嫌いだ」


 誰も、否定しなかった。


 久遠院は犯人ではない。まだ。証拠はない。

 だが、彼の言葉はいつも正しい位置に置かれすぎている。

 正しさが、刃物のように光っている。


 礼拝堂の外のざわめきが強くなる。


 教会関係者の一人が、誰かに電話で怒鳴っていた。別の信徒は泣いている。シスターは震える手で祈りの姿勢を取っていたが、その目は聖女像ではなく神父の方を見ている。


 クラウディオはそれを見逃さなかった。


「告発された者より、告発されなかった者を見ろ」


 もう一度、彼は言った。


 その時だった。


 聖女像の口が、再び開いた。


 今度は先ほどより、わずかに大きく。


 血の匂いが濃くなる。


 録音機の波形が跳ねる。


 神父が一歩も動かない。


 聖女像の口から、低い声が漏れた。


「白い手で、血を隠した者――」


 礼拝堂が凍った。


 シスターが息を呑む。


 神父の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


 ルストが神父を見る。


 クラウディオは、まだ振り向かなかった。


 聖女像の声は続くはずだった。


 だが、そこで途切れた。


 ぶつり、と。


 誰かが口を塞いだように。


 礼拝堂の灯りが一瞬落ちる。


 暗闇。


 短い悲鳴。


 録音機のノイズ。


 次に明かりが戻った時、聖女像の口元には新しい血が一筋増えていた。


 古い血の上に、濡れた赤黒い線が重なっている。


 澪奈が震える声で言う。


「今の、途切れました」


 榊が神父を見る。


 神父は、青ざめた顔で聖女像を見つめていた。


 クラウディオは、ようやく振り向いた。


 聖女像ではなく。


 神父でもなく。


 その間にある、見えない手の位置を読むように。


 そして、低く言った。


「口を塞いだな」



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