第50話 聖女の口
夜見坂教会は、昼間だけなら静かだった。
白い石壁に薄い冬の光が差し、礼拝堂の床には高窓の影が細く伸びている。聖女像は祭壇の奥で目を伏せたまま、動かない。口元には赤黒い血の跡が残っている。だが、それも乾きかけた汚れとして見れば、ただの不気味な事件の痕跡に過ぎなかった。
昼間の聖女像は、喋らない。
口を閉じ、白い顔で沈黙し、手を胸元に重ねている。
祈りを聞くふりをする石の女。
あるいは、聞いた祈りを吐き出す時を待っている口。
警察は礼拝堂の出入口に見張りを置き、祭壇周辺を封鎖していた。聖女像の前には鑑識用の機材が置かれ、床には番号札が立っている。祈りの場に番号札。人間、信仰にも事件にも札を貼らないと落ち着かないらしい。便利な習性だ。おかげで証拠は迷子になりにくい。
白石澪奈は、定点カメラの位置を調整していた。
聖女像の口元、胸元、台座、床に落ちた血の跡。すべてが映る角度。録音機は礼拝堂の左右に二台、祭壇近くに一台。音声波形を確認する端末は、後方の長椅子に置かれている。
榊悠真は、教会関係者への聞き取り記録を確認していた。
神父は、少し離れた場所に立っている。
黒い衣服。整った襟。祈り慣れた人間の穏やかな顔。だが、白い手袋の件が出てから、彼の手元は以前より慎重になっていた。指を重ねる角度。袖口を直す仕草。必要以上に手を隠さないようにしているのに、見られていることを意識している手。
クラウディオ・ルジェリウスは、それを見ていた。
聖女像ではなく、神父の手を。
ルスト・ヴァルレインは、クラウディオのすぐ横に立っていた。近い。警護にしては近く、恋人にしては遠い。現代の人類が分類に困る距離である。分類できないからこそ、久遠院怜司のような男が嬉しそうに観察する。迷惑な生態系だ。
クラウディオは横目でルストを見た。
「近い」
「離れるか」
「邪魔になるな」
「ならない」
「即答するな。腹立たしい」
「事実だ」
クラウディオはそれ以上言わなかった。
ルストは離れなかった。
礼拝堂の中には、昼間の光がある。それでも、聖女像の口元だけは、妙に暗く見えた。血の跡が光を吸っている。乾いた赤黒い筋が、口の端から顎へ降り、白い胸元へ落ちている。澪奈の解析では、その血は一人分ではなかった。複数人の血。一部は現代の誰かに繋がる可能性があり、一部はどうしても照合できない。
科学で拭える血と、拭えない血。
澪奈はそう言った。
その言葉を、クラウディオは否定しなかった。
むしろ、見ろと言った。
怪異に逃げるな。科学にも逃げるな。
その言葉の通り、礼拝堂にはカメラと録音機と証拠袋と、ルストの鼻と、クラウディオの目が置かれている。科学と怪異と嫌味が同じ空間に詰め込まれている。礼拝堂も大変だ。聖域に同情する日が来るとは思わなかった。
神父は静かに言った。
「本当に、夜を待つ必要があるのでしょうか」
榊が顔を上げる。
「昼間は何も起きていません。過去二日とも、変化は夜間に集中しています」
「信徒たちが不安がっています。夜に聖女像を監視するというだけでも、恐れを煽ることになります」
クラウディオが軽く笑った。
「恐れを煽るのは嫌いか」
神父はクラウディオを見る。
「少なくとも、信仰の場で恐怖が広がることは望みません」
「聖女像が血を吐いた時点で、だいぶ手遅れだな」
「言葉を選んでください」
「お前もな」
神父の顔がわずかに硬くなる。
クラウディオは続けなかった。
まだ名前を貼らない。
神父の手袋には新しい血があった。聖女像の古い血とは別の血。だが、それが何を意味するかはまだ決まっていない。隠蔽か。救助か。儀式か。懺悔か。あるいは、もっと別の何かか。
クラウディオは性急に断罪しない。
嫌っている相手にも、証拠がなければ火をつけない。
だからこそ、久遠院は彼を称賛した。気色悪いほど正しく。
やはり最悪だ。
日が落ちた。
礼拝堂の高窓は黒くなり、外の街灯の光が古い硝子で滲んだ。警察の見張りは二名に絞られ、教会関係者のほとんどは別室へ移された。神父は残ることを希望した。榊は少し迷ったが、監視下であればという条件で許可した。
澪奈は後方の端末前に座り、映像と音声を見ている。
榊は祭壇から少し離れた位置に立つ。
クラウディオは長椅子の端に腰を下ろさず、立っていた。教会に座る気がないのだろう。人形師の工房では紅茶を飲む男が、礼拝堂では椅子すら拒む。分かりやすい嫌悪である。面倒だが、ここまで徹底していると少し清々しい。いや、清々しくはない。面倒だ。
ルストは、やはりその横にいる。
午後九時を過ぎた頃だった。
礼拝堂の空気が、わずかに湿った。
火はない。雨も降っていない。だが、石の床から冷えが立ち上がる。聖女像の口元に残った血の跡が、暗い照明の中で少し濃く見えた。
録音機に、低いノイズが入る。
祈りに似ている。
しかし、祈りではない。
誰かが声を出す前に、喉の奥で息を整える音。
ルストが顔を上げた。
「来る」
聖女像の口元が、動いた。
それは人間の唇の動きではなかった。
石膏、あるいは大理石で作られた白い口。固く閉じられていたはずの線が、夜の冷気にひびを入れられたように、ほんの少しだけ開く。顎が落ちるわけではない。表情が変わるわけでもない。叫ぶわけでもない。
ただ、口だけが静かに開いた。
石の女が、夜だけ息をする。
その瞬間、礼拝堂の誰もが黙った。
聖女像の口から、血の匂いが漏れた。
古い鉄。湿った石。蝋燭の芯。閉じ込められた懺悔の残り香。
ルストが低く言った。
「声が血の匂いをしている」
澪奈が端末を見る。
「音声、入っています」
像の口から、声が漏れた。
女の声にも聞こえた。老人の声にも聞こえた。子どもの声にも聞こえた。複数の声が重なっているのに、一つの告発として聞こえる。耳が勝手に言葉を整えてしまう。人間の脳、勝手に補正するな。怪異側に悪用されるぞ。もうされている。
声は言った。
「あの人は、寄付金を隠した」
誰も動かなかった。
声は続けた。
「あの人は、娘の手紙を燃やした」
録音機の波形が跳ねる。
「あの人は、病人を見捨てた」
神父の手が、胸元で固まる。
「あの人は、嘘の証言をした」
榊の目が鋭くなる。
「あの人は、祈りの名で脅した」
クラウディオの表情が、冷えた。
声はそこで途切れた。
聖女像の口は、ほんの少しだけ開いたままだった。血が垂れるわけではない。ただ口の奥が暗く、底のない穴のように見える。
澪奈が震えた息を吐いた。
「声は一人ではありません。複数の音声が重なっています」
「内容は?」
榊が問う。
「断片です。今の時点では誰のことか特定できません。ただ……」
澪奈は端末を操作する。
「一部の波形が、火刑事件の紙片、告発者の証言、夜見坂教会の血の反応と似ています。また同じ揺れです」
クラウディオが言った。
「科学で切れるところまで切れ。残った口を見ろ」
「口、ですか」
「聖女じゃない。口だ」
その声は冷たかった。
神父が反応する。
「聖女を、そのように言うのは……」
「聖女なら、なぜ順番がある」
クラウディオは神父を見ずに言った。
「なぜ今その罪を吐く。なぜその者の罪で、その者ではない罪は吐かない。なぜ教会の中にあるはずの別の罪は、まだ黙っている」
神父の喉が動く。
「聖女は、隠された罪をお示しになっているのかもしれません」
クラウディオはようやく神父を見た。
「便利な聖女だな。お前に都合の悪い罪だけは口が重い」
礼拝堂の空気が、細く裂けた。
榊が神父を見る。
神父は表情を整えた。すぐに。あまりに早く。整いすぎた顔は、ときどき壊れた顔より嘘が濃い。
「私に都合が悪い、とは」
「まだ聞くのか」
クラウディオは低く言った。
「なら、最後まで聞け。告発された者より、告発されなかった者を見ろ」
ルストの視線が神父へ向いた。
澪奈は、端末の別画面を開いた。
「今の告発の断片ですが、すでに外部へ漏れています」
榊が振り向く。
「何?」
「教会関係者の一人が、昼間の時点で過去映像を撮影していた可能性があります。いま、夜の現象の音声の一部が、短く切り取られて拡散されています」
榊の顔が険しくなる。
「誰が流した」
「確認中です。ただ、すでに見出しが出ています」
澪奈は端末を榊に見せた。
画面の光に、短い文字が浮かぶ。
聖女像が罪を告げた。
寄付金隠しの疑い。
信徒の過去が暴かれる。
教会の奇跡か、告発か。
聖女は嘘をつくのか。
投稿の羅列は見せない。そこにあるのは、切り取られた言葉と、画面の光と、燃え上がる前の空気だけだった。
それでも十分だった。
電話が鳴る。
誰かが出ない。
職場の扉が閉じられる。
家族の前で、食卓が黙る。
過去の発言が掘り返される。
「そういえば」と誰かが言い出す。
本人が弁明する前に、周囲が距離を取る。
火は見えない。
だが、社会的に燃える音はする。
榊は歯を噛んだ。
「像の告発で人を裁くわけにはいかない」
クラウディオが冷たく返す。
「今度は聖女の口付きだ。ありがたがる奴は増えるだろうな」
「本当の罪が混ざっているから厄介だ」
「嘘なら否定できる。半分本当なら、世間は止まらない」
榊が言うより先に、クラウディオが言った。
榊は一瞬だけ黙った。
クラウディオは聖女像を見上げる。
「告発は祈りじゃない。火種だ」
神父が低く息を吸う。
「隠された罪が明らかになるなら、それは悔い改めの機会でもあります」
「聖女の口まで、お前の説教に使うな」
クラウディオの声が冷える。
「悔い改めを求めるなら、まず事実を調べろ。罪と噂を混ぜるな。祈りと告発を混ぜるな。燃えやすくなる」
ルストが聖女像を見ていた。
「像が喋っているのではない」
榊が問う。
「どういう意味ですか」
「血が、口を借りている」
ルストは短く言った。
「この告発は、生きている喉から出たものじゃない」
澪奈が録音波形を見る。
「声の中に、現代の誰とも一致しない層があります。聖女像の血と同じです。科学的に追える声と、追えない声があります」
「またそれか」
榊が額に手を当てる。
クラウディオは言った。
「怪異に逃げるな。科学にも逃げるな」
「分かってる」
榊は短く返した。
礼拝堂の外がざわつき始めていた。
教会の前に、人が集まり始めている。警察が抑えているが、外からスマートフォンの光がいくつも見える。罪を暴いてほしいと願う者。奇跡を見たい者。誰かを裁く口実を探す者。自分の怒りを聖なる声に代弁してほしい者。
祈りの場は、告発の場へ変わろうとしていた。
匿名の祈願文が増えるだろう。
誰かの名前を書いた紙が礼拝堂へ置かれるだろう。
「あの人の罪を教えてください」と祈る者が現れるだろう。
そして、それを撮る者も。
人類、祈りより告発の方が熱心なの、だいぶ終わっている。いや、終わっているから事件になる。世界はいつも雑に辻褄を合わせてくる。
クラウディオは外の光を見ずに言った。
「祈りに見せた告発所だ」
榊が唇を結ぶ。
「止める必要がある」
「止めるなら、法則を読め」
クラウディオは聖女像を見る。
「夜だけ。血の匂いが濃くなる時。名前と罪が集まる時。赦しではなく暴いてほしいと願う時。おそらくその辺りが口を開く条件だ」
澪奈が記録する。
「完全な条件ではありませんね」
「完全なら、今ここで終わっている」
「……ですよね」
クラウディオは皮肉に逃げず、淡々と言った。
「聖女が正しいなら、罪は平等に吐かれる。だが、吐かれる罪には順番がある。選別がある。告発されない罪がある」
ルストが続ける。
「誰かが口を向けている」
クラウディオは小さく頷く。
「口が開いたなら、誰が喋らせたかを見る」
神父はそこで、静かに口を開いた。
「皆さんは、聖女像をただの道具のように扱っている」
クラウディオの目が神父へ向いた。
「道具にしているのは、喋らせている奴だ」
「聖女は、隠された罪をお示しになっているだけかもしれない」
「なら、なぜお前はまだ告発されない」
神父の顔が白くなる。
ほんの少しだけ。
だが、白い手袋より目立つ変化だった。
その時、榊の端末が鳴った。
警察庁共有資料への新しいコメント。
久遠院怜司。
クラウディオの目が、露骨に嫌そうになる。
「読むな」
榊は画面を見た。
「読まない選択肢はありません」
「ある。人間には自由意志がある。使え」
「事件資料です」
「最悪だな」
榊は短く読み上げた。
「聖女像が罪を告発するという構造は、信仰と断罪を結びつける上で非常に強力です。人は、自分の怒りを聖なる口から語らせたがります。告発が聖性を帯びた時、反論する者は信仰そのものへ逆らう形になります」
澪奈が小さく言った。
「的確です」
クラウディオは吐き捨てるように言う。
「的確だから気色悪いんだ」
榊は続ける。
「これは、魔女狩りよりも効率的かもしれません」
クラウディオの声が、低く落ちた。
「効率的、ね」
ルストの視線が鋭くなる。
クラウディオは聖女像を見る。
「神の口まで火刑台にする気か」
そして、息を吐くように言った。
「やっぱり、あいつは嫌いだ」
誰も、否定しなかった。
久遠院は犯人ではない。まだ。証拠はない。
だが、彼の言葉はいつも正しい位置に置かれすぎている。
正しさが、刃物のように光っている。
礼拝堂の外のざわめきが強くなる。
教会関係者の一人が、誰かに電話で怒鳴っていた。別の信徒は泣いている。シスターは震える手で祈りの姿勢を取っていたが、その目は聖女像ではなく神父の方を見ている。
クラウディオはそれを見逃さなかった。
「告発された者より、告発されなかった者を見ろ」
もう一度、彼は言った。
その時だった。
聖女像の口が、再び開いた。
今度は先ほどより、わずかに大きく。
血の匂いが濃くなる。
録音機の波形が跳ねる。
神父が一歩も動かない。
聖女像の口から、低い声が漏れた。
「白い手で、血を隠した者――」
礼拝堂が凍った。
シスターが息を呑む。
神父の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
ルストが神父を見る。
クラウディオは、まだ振り向かなかった。
聖女像の声は続くはずだった。
だが、そこで途切れた。
ぶつり、と。
誰かが口を塞いだように。
礼拝堂の灯りが一瞬落ちる。
暗闇。
短い悲鳴。
録音機のノイズ。
次に明かりが戻った時、聖女像の口元には新しい血が一筋増えていた。
古い血の上に、濡れた赤黒い線が重なっている。
澪奈が震える声で言う。
「今の、途切れました」
榊が神父を見る。
神父は、青ざめた顔で聖女像を見つめていた。
クラウディオは、ようやく振り向いた。
聖女像ではなく。
神父でもなく。
その間にある、見えない手の位置を読むように。
そして、低く言った。
「口を塞いだな」




