第49話 科学で拭えない血
霧杜中央署の解析室は、祈りに向いていなかった。
白い壁。白い照明。無機質な机。透明な保管容器。記録用端末の低い駆動音。冷房の風が乾いていて、夜見坂教会の湿った木の匂いも、蝋燭の甘い匂いも、礼拝堂の石床に沈んでいた古い空気も、ここにはない。
ここにあるのは、数字と記録と反応だった。
祈りの言葉よりは、信用できる。
たぶん。
人類が数字まで都合よく使い始めるので、完全には信用できない。面倒な種族である。
白石澪奈は、机の上に並べた資料をもう一度確認していた。
聖女像の口元から採取した赤黒い液体。
像の台座に落ちた滴。
礼拝堂の床材に染みた薄い反応。
聖具室の白い手袋に残っていた新しい血。
懺悔室の床と、仕切りの下で見つかった白い糸くず。
聖具室の手袋箱の底に残っていた、黒赤い粒。
全部が、同じ事件の中にある。
しかし、全部が同じ意味を持っているわけではなかった。
澪奈は目の下に疲れを滲ませながら、端末の画面を切り替えた。夜通し解析室に籠もっていた者の顔だった。髪は乱れていない。声も平静だった。だが、平静であろうとするために、ひどく力を使っていることは分かった。
榊悠真は腕を組み、彼女の横に立っている。
ルスト・ヴァルレインは壁際にいた。巨大な影のように、ただそこに立っている。だが、その鋼色の目は机の上の資料ではなく、保管容器の中の赤黒い一点を見ていた。
クラウディオ・ルジェリウスは、椅子に座らなかった。
机から少し離れたところに立ち、白い保管容器を冷めた目で眺めている。教会にいた時ほど、口数は少なくない。だが、いつものように全てを皮肉で切り裂くほど軽くもなかった。
教会。
聖女像。
血。
懺悔。
白い手袋。
祈りの場は嫌いだと、クラウディオは言った。
その言葉の後ろに何があるのか、誰も完全には知らない。ルストでさえ、全部は聞いていない。
澪奈が深く息を吸った。
「分析結果を共有します」
榊が頷く。
「お願いします」
澪奈は最初の資料を示した。
「聖女像の血は、一人分ではありません」
解析室の空気が、少しだけ重くなった。
榊の眉が動く。
「複数人分、ということか」
「はい。混ざっています。単純な一人分の血液ではありません」
澪奈の声は、科学者の声だった。感情ではなく、データを並べる声。だが、その奥に戸惑いがある。
「一部は、現代の人物と照合できる可能性があります。教会関係者、これまでの事件関係者、火刑事件関係者の資料とも照合を進めています。ただし……」
彼女はそこで一拍置いた。
「この一部だけ、照合できません」
榊は腕を組み直した。
「未登録という意味か」
「それならまだ説明がつきます。けれど、そういう単純な話ではありません」
澪奈は画面に並ぶ複数の波形と数値を見つめた。
「人間の血に近い。でも、現代の誰とも一致しません。登録データにも、教会関係者にも、火刑事件の被害者女性にも、告発者にも、これまでに採取した関係者のものにも一致しません」
「古い血か」
榊が言う。
澪奈は首を振った。
「古い、とだけ言えればよかったんですが」
クラウディオが、ようやく口を開いた。
「よくない結果が出た顔だな」
「はい」
澪奈は否定しなかった。
「劣化の仕方が、時間経過と合いません。新しい血と、古い血が、同じ滴の中にあります。保存状態としてもおかしい。時間が違うものを一つの容器に無理やり閉じ込めたように見えます」
「科学的には?」
榊が訊く。
澪奈は、ほんの少し唇を結んだ。
「科学的には、矛盾しています」
解析室の機械音だけが残った。
澪奈は続ける。
「でも、データはそう出ています」
人間はときどき、都合の悪い結果が出ると機械を疑う。機械にも失敗はある。だが、何度も確認した後に残るものは、もう都合の悪い事実だ。人類、そこで怒る相手を間違えがちである。機械に八つ当たりするな。かわいそうだろう。
ルストが、低く言った。
「やはり古い」
澪奈の視線が彼へ向く。
「あなたは、最初からそう言っていましたね」
「だが、死んだ血とは違う」
ルストは保管容器を見たまま言った。
「眠っていた血だ」
「眠っていた血……?」
榊が繰り返す。
ルストの声は静かだった。
「誰かのものだ。だが、誰か一人のものじゃない。混ざりすぎている」
「吸血鬼の感覚では、そう見えるのか」
「匂いがそう言っている」
クラウディオは小さく鼻で笑った。
「科学に犬の鼻が追いついたらしい」
「逆だ」
ルストは短く返す。
「科学が匂いに追いついた」
澪奈が疲れた目で二人を見る。
「追いついたというより、置いていかれている気分です」
クラウディオは澪奈を見た。
「置いていかれるな。追え」
その声に、嘲笑はなかった。
澪奈は少しだけ目を見開いた。
クラウディオは、科学を馬鹿にしていない。
怪異を見ている。
血術を知っている。
吸血鬼の古い法則を嗅ぎ取る男の隣にいる。
それでも彼は、科学で追えるものを軽んじていなかった。
クラウディオは机の資料へ顎を向ける。
「科学で拭える血は拭え。残ったものを見るのが、俺たちの仕事だ」
澪奈は、端末を握る手に少し力を込めた。
「……これは、科学だけでは拭えません」
その言葉は、悔しさを含んでいた。
科学者が敗北を認めた声ではない。
むしろ、科学で切り分けたからこそ、切り分けられないものが見えてしまった声だった。
クラウディオは頷いた。
「なら、そこから目を逸らすな」
榊が資料をめくる。
「手袋の血はどうなんだ」
澪奈は別の画面を開いた。
「白い手袋に残っていた新しい血は、聖女像の口元の古い血とは別です。少なくとも、聖女像から流れたものを拭っただけ、という説明とは合いません」
榊の目が鋭くなる。
「神父の説明とは?」
「合いません」
澪奈ははっきり言った。
「像の血を拭いたなら、手袋につく血は古い血のはずです。でも、この手袋には新しい血があります。外側は洗われていますが、縫い目や内側に残っています」
ルストが補った。
「像の血じゃない」
榊が息を吐く。
「つまり、神父は聖女像とは別の血に触れている」
「その可能性が高いです。ただし、誰の血かはまだ分かりません」
澪奈は慎重に言った。
「神父本人の血かもしれない。別の人物の血かもしれない。誰かを助けようとして触れた可能性もあります。隠蔽か、救助か、関与か。現段階では断定できません」
クラウディオは薄く笑った。
「まともだな」
澪奈は少し眉をひそめる。
「褒めていますか?」
「比較対象が人類全体だから、だいぶ褒めている」
「それは褒め方としてどうなんですか」
「諦めろ。俺の親切はこの程度だ」
榊は、話を戻した。えらい。解析室で皮肉合戦をされても、事件は進まない。人類は寄り道が大好きだが、警察はたまに道へ戻してくれる。
「神父の手袋にある新しい血は追える。聖女像の古い血は、今すぐには追えない。そういう理解でいいか」
「はい」
澪奈は頷く。
「ただし、聖女像の血の中にも、現代の誰かに繋がる可能性がある成分はあります。複数人分ですから」
「混ざりすぎている、とルストさんは言った」
榊がルストを見る。
「それは、誰かが意図的に混ぜたという意味ですか」
ルストは少し黙った。
「混ぜた、というより、吸わせた」
澪奈の指が止まる。
「吸わせた?」
「教会が吐いた血だ」
短い言葉だった。
だが、解析室の温度が下がったように感じた。
クラウディオは、ひどく嫌そうに目を細める。
「言い方が最悪だな」
「違うか」
「違わないから最悪だ」
ルストは黙った。
榊が顔をしかめる。
「教会が吐いた血、か」
「聖女像だけを見るな」
クラウディオが言う。
「像は口だ。吐いたのは、もっと奥にあるものかもしれない」
「夜見坂教会そのもの、ということか」
「教会、懺悔、祈り、罪、赦し。人間は便利な箱を作る。そこへ入れたものが腐っても、箱に白い布をかければ綺麗になった気でいる」
クラウディオは保管容器を見る。
「血は証拠だ。だが、この教会では意味も混ざる」
澪奈が、ゆっくりと言った。
「血が個人を示すだけではなく、場所や記憶も背負っている……ということですか」
「怪異が絡むなら、そういうこともある」
クラウディオは少しだけ彼女を見る。
「だが、勘違いするな」
「はい」
「怪異に逃げるな。科学にも逃げるな」
澪奈は、その言葉を聞いて息を止めた。
クラウディオの声は、冷たかった。
だが、突き放してはいなかった。
「怪異のせいにすれば楽だ。人間の手まで消える。科学だけに閉じこもれば楽だ。説明できないものを存在しないことにできる。どちらも同じだ。楽な方へ逃げるな」
解析室に、しばらく沈黙が落ちた。
榊が低く言う。
「扱えないなら、扱えるところから触れ、か」
「覚えているなら実行しろ」
クラウディオは言った。
「手袋の血を追え。像の血はまだ喋らせるな」
ルストがクラウディオを見る。
「像の血は、まだ動く」
「だろうな」
「教会に戻るか」
「戻る前に記録だ」
クラウディオは澪奈へ視線を向けた。
「教会の記録を掘れ」
澪奈が頷く。
「過去の記録、ですか」
「現代の血じゃないなら、現代だけを見るな」
クラウディオは不快そうに言った。
「祈りより帳簿だ。神より記録の方がまだ嘘が下手だ」
ルストはわずかに目を伏せた。
クラウディオはそれを見逃さなかった。
「何だ」
「いや」
「見るな」
「見ている」
「本当に図々しいな」
「お前が教会で口数を減らすからだ」
クラウディオの視線が冷えた。
「分析結果の話をしている」
「今もな」
「嘘が下手だ、灰銀」
「お前ほどではない」
クラウディオは一瞬だけ黙った。
榊は資料に目を落とした。賢明な判断である。人間関係の湿度が上がった時は、書類を見るに限る。国家資格に入れてもいい。
その時、澪奈の端末が短く鳴った。
画面に、警察庁外部顧問のコメントが表示される。
久遠院怜司。
その名前が出た瞬間、クラウディオの口元から表情が消えた。ルストの目も冷える。
榊は内容を確認してから、短く息を吐いた。
「久遠院顧問からの補足です」
クラウディオは言った。
「聞きたくない」
「役に立つ可能性があります」
「だから嫌なんだ」
榊は、読み上げた。
「科学で説明できる部分と、説明できない部分を分けることは重要です。怪異は科学の反対ではありません。科学が扱えない意味をまとって現れることがあります。血は個人を示す証拠であると同時に、共同体の記憶を引き受ける媒体にもなり得ます」
澪奈は黙った。
正しい。
気味が悪いほど正しい。
クラウディオは低く笑った。楽しそうではない。
「また正しいことを言っている」
榊が画面を見る。
「内容自体は、今回の状況に合っています」
「正しさで気分を悪くさせる才能だけはあるな」
クラウディオは端末を見ない。
「血に意味を着せたがる連中は、揃って趣味が悪い」
ルストが短く言った。
「久遠院か」
「まだ名前を貼るな」
「分かっている」
「なら、その目をするな」
「出ていたか」
「お前が顔に出すと言っただろう」
ルストは否定しなかった。
久遠院はまだ犯人ではない。
証拠がない。
だが、彼の言葉はいつも事件の中心に近すぎる。近すぎる正しさは、もはや善意よりも刃物に見える。人間、正論を研ぎすぎるな。切れる。
澪奈は聖女像の写真を画面に出した。
口元から赤黒い筋が流れている。
「この写真ですが」
画面の中の血が、ほんの少し動いたように見えた。
榊が目を細める。
「今、動いたか?」
「映像記録です。静止画ではありません」
澪奈がすぐに操作する。
「教会に設置した定点カメラの映像です。確認します」
映像の中で、白い聖女像は動かない。
だが、口元の赤黒い筋だけが、ほんのわずかに重さを思い出したように、下へ揺れた。
その瞬間、解析室の照明が一度だけ揺れる。
澪奈の録音機に、低いノイズが入った。
祈りのような音ではない。
言葉になる前の息。
誰かが喉の奥で、何かを飲み込んだような音。
クラウディオの目が細くなる。
「反応している」
澪奈は画面を見つめたまま言った。
「『一致しない』と読み上げた時にも、数値が跳ねました。科学的な言葉に反応しているように見えます」
「科学で切られるのが嫌いらしいな」
クラウディオは冷たく言った。
「怪異のくせに繊細だ。人間に似ていて腹が立つ」
ルストが聖女像の映像を見る。
「違う」
クラウディオが横目で見る。
「何が」
「嫌がっているだけじゃない」
ルストの声は低い。
「喋ろうとしている」
解析室の空気が、今度こそはっきり冷えた。
澪奈が画面を止める。
「聖女像の血の中で、照合不能な部分ですが」
彼女は別の資料を開いた。
「過去の教会文書と照合する必要が出てきました」
榊が問う。
「どれくらい古い」
澪奈は少しだけ躊躇した。
「少なくとも、この教会の現在の登録より前です」
「現在の夜見坂教会より前、ということか」
「はい。夜見坂教会は、現行の宗教法人としての登録以前に、別の形で礼拝所か関連施設として使われていた可能性があります。聖女像も、もともと別の場所から移されたものかもしれません」
クラウディオが嫌そうに聖女像の映像を見る。
「面倒な来歴だな」
澪奈はさらに続けた。
「古い告解記録、寄進記録、像の修復記録が残っていれば、照合できるかもしれません」
榊が頷く。
「教会の保管資料を確認する」
「神父に任せるなよ」
クラウディオが即座に言った。
榊は苦い顔をする。
「分かっています。押収手続きは取ります」
ルストは映像の聖女像を見たまま、低く言った。
「この教会より古い血だと言った」
クラウディオは、ひどく嫌そうな顔で返した。
「なら、教会が建つ前から、何かを吐きたがっていたわけだ」
その瞬間だった。
録音機に、ざり、とノイズが走った。
低い祈りではない。
鐘でもない。
誰かが息を詰めて、言葉ではなく血を飲み込んだような音だった。
解析室の全員が黙った。
澪奈がすぐに録音波形を確認する。
「今の音、記録されています」
榊が言う。
「発生源は」
「室内のマイクです。でも、誰も声を出していません」
クラウディオは映像を見る。
聖女像の口元から、映像の中で一滴、赤黒いものが落ちた。
それは画面の中の出来事だった。
教会の映像記録。
解析室には、聖女像などない。
それなのに。
机の上に置かれていた印刷資料の端に、赤黒い点が一つ落ちた。
澪奈が息を呑む。
榊が一歩下がる。
ルストの目が鋭くなる。
クラウディオだけが、その赤黒い点を見下ろし、冷たく言った。
「科学に喧嘩を売るなら、もう少し行儀よくしろ」
紙の上の赤黒い点は、ゆっくりと滲んだ。
まるで、まだ拭われる気はないとでも言うように。




