第48話 神父の手袋
白いものほど、汚れを隠すのに向いていない。
それでも人間は、白を好む。白い壁。白い布。白い花。白い衣。白い手袋。清らかであることを示す色として、何度も白を選ぶ。選んだ後で、その白がほんの少し汚れただけで、驚いた顔をする。最初から汚れが目立つ色を選んでおいて、実に忙しい生き物だった。
夜見坂教会の聖具室は、礼拝堂より狭く、空気が濃かった。
礼拝堂には祈りのための空間がある。声が高く抜け、沈黙にも余白がある。だが聖具室は違う。棚と箱と布と蝋燭と、古い金属の匂いで満ちている。人が祈るためではなく、祈りを整えるための道具を置く場所だった。
そこに、白い手袋が一枚、証拠袋に入れられていた。
片方だけ。
もう片方は見つかっていない。
白石澪奈は、折り畳み式の作業台にライトを置き、手袋を透明袋の上から観察していた。表面は白い。洗われている。少なくとも、外から見れば、ほとんど汚れていない。
だが、縫い目は別だった。
指の付け根。
内側の折り目。
掌のくぼみ。
布が重なったところに、ごく微かな反応が残っている。
澪奈は顔を上げずに言った。
「外側は洗われています」
榊悠真が腕を組む。
「洗ったのか」
「洗われた、と見るべきです。自然な清掃後の湿り方ではありません。水を通した跡があります。でも、縫い目に反応が残っています」
彼女は別のライトを当てた。
「聖女像の口元の血とは状態が違います。新しい血です」
神父は、聖具室の入口近くに立っていた。
落ち着いた顔をしている。黒い服の襟元は乱れていない。手は腹の前で重ねられていた。声を荒げる気配はない。けれど、白い手袋が話題に出た時から、彼の瞬きは少し増えていた。
「その手袋が、事件と関係しているとお考えですか」
神父は静かに訊ねた。
被害者の顔だった。
教会を汚された者の顔。
聖女像を傷つけられた者の顔。
信徒を守らなければならない者の顔。
見事な顔だった。
クラウディオ・ルジェリウスは、聖具室の壁にもたれず、棚の前に立っていた。硝子のように澄んだ目で、神父の顔ではなく、その手元を見ている。
「被害者の席は座り心地がいいか」
静かな声だった。
神父の表情が初めて、わずかに硬くなる。
「……どういう意味でしょう」
「そのままだ。教会が汚された。信徒が怯えている。聖女像が冒涜された。お前はその椅子に座って話している。だが、教会が汚されたことと、お前の手袋が汚れていることは別だ」
神父は、指先を重ねた。
「私は、ただこの場所を守りたいだけです」
「なら、手袋も守ればよかったな」
澪奈が低く続ける。
「この手袋は、清掃に使ったものではありません」
空気が細く裂けた。
神父は澪奈を見た。
「なぜ、そう言えるのです」
「像を拭いたなら、汚れ方が逆です。聖女像の口元についた血を拭った場合、外側の指先や掌に反応が集中するはずです。でも、この手袋は外側が洗われていて、内側と縫い目、指の曲がる部分に残っています」
「何かの手違いでは」
「手違いで血は縫い目に潜りません」
澪奈の声は冷静だった。科学は祈らない。だからありがたい。祈らないものほど、こういう場では役に立つ。世界もたまにはまともな設計をする。
ルストは聖具室の奥を見ていた。
灰銀の髪が、白いライトの中で冷たく光る。長い影が棚に落ちていた。彼は手袋に触れず、ただ匂いを拾っている。
「像の血じゃない」
神父の視線がルストへ向く。
ルストは続けた。
「新しい血だ。手袋の内側に残っている」
「新しい血……」
神父は小さく繰り返した。
その声は、驚いているようにも聞こえた。
けれど、クラウディオはその声ではなく、喉の動きを見ていた。神父は驚いた時に声を落とす。だが、手袋の内側と言われた時には、声より先に喉が固まった。
知っている反応だった。
聞かれていないことに、身体が先に答える。
榊は手帳を開いた。
「神父、手袋の管理についてもう一度確認します。聖女像に触れる白い手袋は、普段どこに保管されていますか」
「この棚の上段です。清掃や布替えの際に使います」
「管理者は」
「基本的には私と、シスター、それから清掃担当です。事務担当も場所は知っています」
「昨夜、あなたは使いましたか」
「私は、夜の祈りの後に聖女像の周囲を確認しました。その際、像には触れていません」
「手袋は使っていない」
「はい」
クラウディオの目が、神父の手元から棚へ移った。
棚の上段には、手袋を入れる箱があった。白い木箱。蓋の縁には古い擦れがあり、中には仕切りがある。一組ずつ収めるためのものだろう。
ただ、一箇所だけ布の跡が違った。
空になった場所。
そこだけ、仕切りの底に薄い湿り気の跡が残っている。
澪奈が採取する。
「箱の底にも反応があります。ごく微量です」
「血か」
榊が問う。
「血液反応は薄いです。ただ、黒赤い粒が混じっています」
クラウディオの目が細くなる。
火刑事件の紙片。
工房《箱庭》へ届いた菓子の包み紙に似た紙片。
聖女像の台座近くに落ちていた紙片。
それらと似た、黒赤い粒。
血術核の残滓に近いもの。
「またか」
クラウディオが低く言った。
ルストの空気が冷える。
榊が顔をしかめた。
「血術核の残滓か」
「まだ断定できません」
澪奈は即座に返す。
クラウディオはわずかに頷いた。
「その程度の慎重さが、人類全体に配布されていれば、火刑台ももう少し減っただろうな」
榊は無視した。えらい。警察官は皮肉への耐性試験でも受けているのかもしれない。職業病だ。
神父は静かに言った。
「これは、教会への冒涜です。聖女像があのような姿にされたことが、何よりも苦しい。信徒たちも怯えています。私も、恐ろしく思っています」
その声は、整っていた。
丁寧で、穏やかで、正しい。
クラウディオは目を細める。
「祈る顔で、手元を隠すな」
神父の口が止まった。
「私は隠してなど……」
「なら、手袋の話で目を逸らすな」
クラウディオは一歩近づいた。
ルストも同じだけ動いた。ほとんど無意識に、神父とクラウディオの間を少し斜めに塞ぐ位置へ入る。
クラウディオは横目でルストを見た。
「近い」
「離れるか」
「邪魔にならない距離にいろ」
「なら、ここだ」
「本当に面倒な男だな」
「帰らないと言った」
神父の前で交わす会話ではない。だが、教会の空気が固まりすぎていたので、逆に少しだけ呼吸が戻った。人間関係の湿度で換気するな。建築基準法が泣く。
クラウディオはすぐ神父へ視線を戻す。
「神の前で嘘をつく者など、ここにはいません、とでも言いたい顔だな」
神父は静かに答えた。
「実際に、私はそう信じています」
「神の前では、か。人間の前では便利な言い方だな」
神父の眉がかすかに動いた。
クラウディオは続けない。
まだ言い切らない。
言い切るには証拠が足りない。
ルストが低く言った。
「気づいているな」
「何に」
クラウディオは涼しい顔で返す。
「神父だ」
「まだ名前を貼るな」
その言葉は短かった。
だが、火刑事件から続く重さがあった。
魔女。
聖女。
罪人。
被害者。
人間は名前を貼ると安心する。貼られた側が燃えることは気にしない。だから、クラウディオは急がない。
ルストはクラウディオを見る。
「俺にも言わないのか」
「お前が顔に出す」
「出さない」
「嘘が下手だ」
ルストは黙った。
不満そうではあった。
だが、引いた。
クラウディオが答えを隠しているのではなく、証拠が出るのを待っていると分かったからだ。彼は人を嫌う。祈りを嫌う。教会を嫌う。久遠院を嫌う。人類全体にもだいぶ厳しい。だが、証拠なしに名前を貼ることはしない。そこだけは、彼の中で折れない。
榊は神父へ問いを戻した。
「昨夜、懺悔室は使われましたか」
神父は一瞬、遅れた。
本当に一瞬だった。
「記録上は、ありません」
「記録上は?」
「夜間の懺悔は通常受けておりません。ですが、信徒の方が急に訪ねてくることもあります」
「昨夜は?」
「ありません」
「断言できますか」
「……少なくとも、私は受けていません」
クラウディオの視線が神父の右手へ落ちる。
神父はまた、指を重ねた。
手袋の話。
懺悔室の話。
どちらでも、手元が動く。
聖具室の外では、関係者たちが落ち着かない様子で待っていた。シスターは顔を青くし、清掃係は手袋の保管箱を見ないようにしている。夜間管理人は「私は触っていない」と、誰も聞いていないのに先ほどから二度も言った。人間、先に否定したがる時ほど、ろくなことがない。
信徒の老女は神父を庇うように言った。
「神父様がそんなことをなさるはずありません。教会を誰よりも大切にしておられるのです」
クラウディオは振り返らない。
「大切にしているものを汚す人間はいくらでもいる」
老女は息を呑んだ。
「そんな……」
「信仰心は免罪符じゃない」
その声は静かだった。
宗教そのものへの罵倒ではない。だが、信仰を盾にして証拠から目を逸らすことは許さない声だった。
澪奈が聖具室の棚の奥から、小さな布片を取り出した。
「白い糸くずがあります。手袋と同系統か確認します」
榊が頷く。
「懺悔室にも同じ繊維があれば、繋がるな」
クラウディオが言った。
「繋げるな。確認しろ」
榊はわずかに苦笑した。
「了解」
言葉は雑に使うと、すぐ火をつける。確認と断定の間には、細いが深い溝がある。人間はその溝をよく見落とす。落ちた後で、なぜ濡れたのかと騒ぐ。
礼拝堂へ戻ると、聖女像の口元の血は乾き始めていた。
だが、手袋が話題に出るたび、赤黒い筋が濃く見える。錯覚かもしれない。照明の角度かもしれない。怪異かもしれない。ここでは、その三つを簡単に分けられない。
澪奈の録音機に、古い鐘のようなノイズが入った。
ごん、と鳴る前の、空気だけが震えるような音。
聖女像の口元から、ぽたりと一滴が落ちた。
神父が目を閉じる。
クラウディオはそれを見た。
「冒涜と言ったな」
「はい」
「何度も」
神父は目を開けた。
「聖女像がこのような姿にされたのです。当然です」
「当然、ね」
クラウディオは聖女像を見る。
「お前は血を『血』と呼ばない。汚れ、冒涜、恐ろしいこと。言葉を替える。血を見ているようで、意味を見ている」
「信仰の場では、意味を考えることも必要です」
「証拠を見てから考えろ」
神父は口を閉じた。
榊が懺悔室へ向かった。
木製の扉は古く、手をかけると小さく軋んだ。中は狭い。片側に告白する者の椅子、もう片側に聞く者の椅子。仕切りの格子は黒く、そこに残った指跡までは暗さに溶けている。
澪奈がライトを入れる。
椅子が、わずかにずれていた。
誰かが座った後、急いで戻したような角度だった。
床には、白い糸くずが一つ。
仕切りの下、暗い木目の上に落ちていた。
澪奈が採取する。
「手袋の繊維と照合します」
ルストが懺悔室の入口で足を止める。
「手袋と同じ匂いだ」
クラウディオは懺悔室の壁を見る。
そこに、細い跡があった。
爪で引っかいたような線。
血ではない。
けれど、内側から何かを隠そうとして、木の表面をこすったような跡だった。
榊が顔を近づける。
「新しい傷か?」
澪奈がライトを当てる。
「古い傷の上に、新しい擦過があります。上からなぞったような……」
ルストの目が暗くなる。
クラウディオは低く言った。
「聖女像より、懺悔室の方がよく喋る」
背後で、神父の声がした。
「そこは、信徒が罪を告げる場所です」
クラウディオは振り返らなかった。
「なら、お前も入れ」
空気が凍った。
誰も、すぐには動かなかった。
聖女像の方から、また一滴、血の落ちる音がした。




