第47話 祈る者ほど嘘をつく
夜見坂教会の礼拝堂は、夜のうちに白さを失っていた。
昼間であれば、きっと清らかな場所に見えたのだろう。古い坂の上に建つ小さな教会。磨かれた長椅子。石造りの床。薄い布を掛けられた祭壇。古びた燭台。祈るために整えられた空間。
だが、夜の礼拝堂は違った。
高窓のステンドグラスは色を沈め、壁は灰を混ぜたような白になり、床の石目は濡れていないのに湿って見える。長椅子の影は黒く伸び、祭壇の奥に置かれた聖女像だけが、鑑識の白い灯りを浴びていた。
聖女像は、血を吐いた姿のまま残されていた。
目を伏せ、両手を胸の前で組み、慈悲深く祈る形をした白い像。その口元から、赤黒い筋が顎へ流れている。床には、落ちた血のようなものが三つ、乾ききらずに残っていた。多くはない。だからこそ、派手な惨状ではなく、静かな異物としてそこにあった。
白い場所に、赤黒い線だけがある。
それは、誰かが祈りの形を使って、何かを告げようとしているように見えた。
クラウディオ・ルジェリウスは、聖女像の正面には立たなかった。
少し斜めから、像の口元と、床の滴と、礼拝堂の奥を見ている。いつものように皮肉を言いそうな顔をしているのに、口数は少ない。教会が嫌いだ、と彼は言った。祈る場所は嫌いだ、とも。その理由は語らなかった。
語らなくても、ルストには分かるものがあった。
火刑台。
冤罪。
魔女。
燃やされた名前。
祈りは、人を救うために使われることもある。だが、人を燃やした側が、自分たちを清く見せるためにも使われる。人類、何でも便利に使いすぎる。道具箱に罪悪感まで入れるな。
礼拝堂の後方には、教会関係者たちが集められていた。
神父、シスター、清掃係、夜間管理人、事務担当、古くから通う信徒、聖女像の布替えを手伝っている奉仕活動の女性、そして聖歌隊の指導者。
全員、敬虔そうに見えた。
全員、疲れた顔をしていた。
全員が、綺麗な言葉を用意していた。
榊悠真は手帳を開き、まず神父の前に立った。
「聖女像を最後に確認したのは、いつですか」
神父は五十代半ばほどの男だった。白髪の混じった髪をきちんと撫でつけ、黒い服の襟元を整えている。声は穏やかで、長い年月、人の不安や罪悪感を聞いてきた者の柔らかさがあった。
「夜の祈りの後です。二十一時を少し過ぎた頃でした。その時、聖女像に異常はありませんでした」
「礼拝堂を閉めたのは」
「私です。いつもの手順通りに」
クラウディオの視線が、わずかに神父の手元へ落ちた。
いつもの手順通り。
便利な言葉だ。
便利すぎる言葉には、たいてい穴がある。
榊は訊ねた。
「いつもの手順とは」
神父は一拍置いた。
「祭壇の灯りを落とし、燭台を確認し、聖具室の戸締まりをし、礼拝堂の鍵を閉めます」
「鍵はどこへ」
「事務室の鍵箱へ戻します」
「記録は」
「鍵箱の横に記入簿があります」
事務担当の女が小さく身じろぎした。
クラウディオは神父の顔ではなく、右手を見ていた。
神父は、鍵の話をすると指輪に触れる。祈りや聖女について語る時はまっすぐ前を見るのに、鍵箱の話になると、目が一瞬だけ下がる。
神父の証言は、整っていた。
整いすぎていた。
次に、シスターが呼ばれた。
若い女だった。細い肩をして、胸の前で両手を組んでいる。怯えは本物に見えた。聖女像の口元から血のようなものが流れているのを見れば、誰でも怯える。人間、あれを見て平然としていたら、それはそれで警察に呼ばれるべきだ。
「昨夜、礼拝堂へ入りましたか」
榊が問う。
シスターは小さく頷いた。
「はい。神父様が閉められた後、燭台の蝋燭が一本残っているのを思い出して……二十一時半頃だったと思います」
榊のペンが止まる。
「二十一時半」
「はい。すぐに消して、出ました。その時も、聖女像には異常はありませんでした」
「鍵はどうしましたか」
「事務室の鍵箱から借りました。戻しました。いつものことです」
「戻した時刻は」
「……二十一時四十分頃、だったと思います」
神父は二十一時を少し過ぎた頃、礼拝堂を閉めたと言った。
シスターは二十一時半頃に鍵を借り、礼拝堂へ入り、二十一時四十分頃に戻したと言う。
それだけなら、まだおかしくはない。
だが、神父が言った「いつもの手順」と、シスターが言った「いつものこと」は、わずかに重ならない。
神父は鍵を戻すところまでを閉める手順と呼んだ。
シスターは閉めた後に鍵を借りることを、いつものことと言った。
つまり、礼拝堂は閉まっても、閉まっていない。
鍵は閉鎖の印ではなく、関係者が順番に使う道具になっている。
クラウディオはシスターの手元を見た。
彼女は話しながら、袖口を何度も触っていた。
手袋をしていない。
けれど、指は手袋の端を探すような動きをしている。
次に呼ばれたのは、清掃係だった。
六十代ほどの男で、祈りよりも床の汚れや窓の曇りを気にする者の目をしている。実務的で、余計な言葉は少ない。こういう人間ほど証言が役に立つこともあれば、都合の悪いところだけ実務の顔で隠すこともある。人類、油断ならない。
「今朝、最初に聖女像の異常を見つけたのは、あなたですね」
榊が確認する。
「はい。朝の六時半頃です。掃除に来たら、もうああなっていました」
「昨夜は」
「夕方の清掃までです。十八時には教会を出ました」
「聖女像に触れましたか」
「触れました。台座と足元を拭きました。像の口元には触っていません」
「手袋は」
男の目が落ちた。
本当にわずかに。
だが、クラウディオは見ていた。
「白い手袋を使います。像に素手で触れるのは避ける決まりです」
「その手袋は今どこに」
「聖具室の棚です」
澪奈が顔を上げた。
「棚には一組しかありませんでした。片方が見当たりません」
清掃係の喉が動いた。
「私は、昨日は両方戻しました」
「誰が最後に使ったか分かりますか」
「分かりません。神父様も、シスターも、布替えの方も使うので」
神父は指輪に触れる。
シスターは袖口に触れる。
清掃係は床を見る。
全員、祈りの話になると目を上げる。
手袋の話になると、目が落ちる。
クラウディオがようやく口を開いた。
「祈りの言葉より、手袋を見ろ」
礼拝堂の空気が、少し硬くなった。
神父が眉を寄せる。
「そのような言い方は……」
「祈りを侮辱されたと思ったか?」
クラウディオは神父を見る。
「俺は祈りを見ていない。証言を見ている」
神父は黙った。
クラウディオは、関係者たちの手元へ視線を滑らせる。
「祈りの言葉はよく磨かれている。だが、手元は雑だ。口は神を向いている。目は証拠から逃げている」
シスターの指が止まる。
事務担当の女が、抱えていた黒い手帳を少し強く押さえた。
クラウディオはそれも見ていた。
「祈る者ほど、手元を隠す」
ルストが聖女像の前から戻ってきた。
榊が問う。
「どうですか」
ルストは短く答えた。
「像の血は古い」
関係者たちの顔が、一斉に聖女像へ向いた。
ルストは続ける。
「だが、新しい血もある」
静けさが落ちた。
澪奈が視線を鋭くする。
「場所は」
「聖具室の方だ」
ルストは聖具室の扉を見る。
「薄い。洗われた匂いが混じっている」
澪奈がすぐ動いた。
榊も後に続く。
聖具室は礼拝堂の横にある小さな部屋だった。棚には蝋燭、清掃用の布、聖具、花瓶、手袋、古い箱が整然と並んでいる。整えられすぎていた。こういう時の片づき方は信用ならない。人間、隠し事をした時だけ掃除が上手くなる。普段からやれ。
澪奈は棚の奥から白い手袋を取り出した。
一枚だけ。
片手分だけ。
「片方しかありません」
榊が関係者たちを振り返る。
「もう片方は」
誰も答えない。
澪奈は手袋を透明袋に入れ、簡易検査用のライトを当てた。白い布の指先、掌の内側、縫い目のあたり。彼女の表情が少し変わる。
「微量ですが、血液反応があります」
シスターの肩が震えた。
「それは……聖女像の血では……」
「状態が違います」
澪奈は即座に言った。
「聖女像の口元の血とは、乾燥の仕方も反応も違います。この手袋の血は、新しいです」
必須の証拠というやつだ。祈りは揺らぐが、血液反応は揺らがない。人類よりずっと誠実である。見習ってほしい。
ルストが低く言った。
「像の血じゃない」
榊が関係者たちを見る。
「誰の血だ」
また沈黙。
神父は目を伏せた。
シスターは袖口を握る。
清掃係は床を見る。
夜間管理人は帽子を握り直す。
事務担当は手帳を抱えたまま、唇を薄く結んでいる。
榊は低く言った。
「手袋は洗われていますか」
澪奈は頷く。
「洗浄痕があります。でも完全には落ちていません。清掃に使ったという説明とは合いません」
「誰が洗った」
榊の声が少し強くなる。
誰も答えない。
誰もあからさまな嘘をついているようには見えない。
だが、全員が少しずつ都合の悪いものを避けている。
全員の沈黙が、礼拝堂の白い壁に染みていく。
夜間管理人が、かすれた声で言った。
「深夜に、鐘のような音を聞きました」
榊が振り返る。
「第46話の現場確認でも聞いていた話ですね。何時頃ですか」
「午前二時を少し過ぎた頃だったと思います」
「礼拝堂には入らなかった」
「はい」
「なぜですか」
管理人は帽子を握る。
「……気のせいだと思ったので」
クラウディオが薄く息を吐いた。
「便利な気のせいだな」
管理人は怯えたように口を閉じた。
クラウディオは責めているのではない。
観察している。
気のせい、いつものこと、大したことではない。
人間の証言は、都合の悪い事実に柔らかな布をかぶせる。祈りの場所では、その布が少しだけ上等になる。だからなおさら厄介だ。
榊は証言を整理した。
「神父は二十一時過ぎに礼拝堂を閉めた。シスターは二十一時半過ぎに入り、蝋燭を消して出た。夜間管理人は午前二時過ぎに音を聞いたが入っていない。清掃係は朝六時半に発見した」
事務担当の女が小さく言った。
「鍵は、朝には戻っていました」
榊が見る。
「あなたが確認したんですね」
「はい」
「夜の記録は」
「記入簿があります。ただ、昨日は少し慌ただしくて……抜けがあるかもしれません」
クラウディオは手帳を見る。
「手帳を抱くな」
女が固まる。
「え?」
「証言する時、人間は隠したいものに手を置く。お前はさっきから手帳を盾にしている」
「そんなつもりは……」
「つもりはどうでもいい。手がそう言っている」
榊が手を差し出した。
「確認させてもらえますか」
女は一瞬躊躇した。
その一瞬が、また一つ場に沈んだ。
彼女は手帳を渡した。
澪奈が横から覗き込む。
「鍵の貸し出し時刻が、途中から鉛筆書きになっています」
「普段は?」
「インクです」
事務担当は唇を噛む。
「急いでいたので……」
クラウディオが言う。
「急ぐと鉛筆になるのか。便利な筆記具だな」
榊が手帳をめくる。
「神父の返却記録、シスターの借用記録、その後に……空欄があります」
夜間管理人が顔を上げた。
清掃係が床から視線を離した。
シスターの手が袖口を握り直す。
神父は、今度は指輪に触れなかった。
触れないようにしている。
クラウディオは、それも見ていた。
信徒の老女が震える声で言った。
「聖女様が、罪を吐き出されたのではないでしょうか」
誰もすぐには返さなかった。
彼女は続ける。
「この教会には、昔からそういう話があるんです。罪を隠す者の前で、聖女様が血を流すと……」
「便利な聖女だな」
クラウディオの声は冷たい。
「人間が言いづらいことを、像に喋らせるのか」
「私は、ただ信じて……」
「信じることと、事実を見ることは別だ」
老女は口を閉じた。
クラウディオはそれ以上追わない。
信仰そのものを踏みにじるつもりはない。
彼が嫌悪しているのは、信仰を使って証拠の穴を塞ぐ手つきだ。
聖女像の口元から、かすかに空気が漏れたような音がした。
澪奈が録音機を見る。
「ノイズが入りました」
「波形は」
榊が問う。
「鐘の音に似ています。でも、実際の鐘ではありません。第46話で記録した礼拝堂のノイズと似ています」
クラウディオが聖女像を見上げる。
白い像の口元の赤黒い筋が、ほんの少し濃くなったように見えた。
気のせいかもしれない。
誰もそう言わなかった。
澪奈の端末に通知が入る。
警察庁外部顧問、久遠院怜司。
その名前が画面に表示された瞬間、ルストの空気が冷えた。
クラウディオも見た。
表情は動かない。
だが、彼の目に明らかな嫌悪が浮かんだ。
榊が短く確認してから、読み上げる。
「信仰の場における証言は、虚偽よりも“望ましい解釈”に寄りやすい傾向があります。祈りの言葉は、時に記憶の輪郭を整えすぎます。手袋は興味深いですね。聖なるものへ触れるための布は、同時に証拠から手を隔てるものでもあります」
礼拝堂の冷気が、少し深くなったように感じた。
言葉は正しい。
正しすぎる。
久遠院の分析は、いつも役に立つ。だから困る。役に立つナイフほど置き場所に困るのだ。持つ者がまともなら道具、違えば凶器。人類はそのへんを雑に棚へ突っ込む。
クラウディオは低く言った。
「手袋にまで意味をつけるか」
澪奈が端末を見たまま呟く。
「正しい分析なのに、なぜこんなに気持ち悪いんでしょう」
クラウディオは即座に返した。
「正しいからだ」
榊は苦い顔をする。
「久遠院顧問の見立ては、実際に助けになっています」
「火を消すのにも、火を広げるのにも役に立つだろうな」
クラウディオは端末を見ない。
「相変わらず、見ていたように言う」
ルストが短く言った。
「見ているかもしれない」
クラウディオは横目でルストを見る。
「証拠がない」
「分かっている」
「なら、名前を貼るな」
「貼らない」
その短いやり取りに、榊は少しだけ目を細めた。
二人の距離は近い。
ルストはクラウディオの横に立っている。警護というには近すぎる。恋人というには荒すぎる。関係性というには、行政手続きが追いつかない。文明がかわいそうだ。
クラウディオが低く言う。
「近い」
「離れるか」
「邪魔にならない距離にいろ」
「なら、ここだ」
「本当に図々しいな」
「帰らないと言った」
クラウディオは黙った。
ほんの短い沈黙。
しかし、ルストにはそれで十分だった。
榊は聞かなかったことにした。英断である。職場で他人の湿度に巻き込まれるほど給料は高くない。たぶん。
澪奈は手袋の反応結果を記録し、聖具室の棚をもう一度調べた。
「片方の手袋は見つかりません。手袋をしまう箱の底に、薄く赤黒い粒があります」
榊が近づく。
「血術核の残滓か」
「似ています。ただし、量はごくわずかです。火刑事件の紙片、工房の紙片、聖女像の足元の紙片と、系統は近いかもしれません」
クラウディオが言う。
「繋げたがっている奴がいる」
「教会と火刑事件を?」
榊が問う。
「教会、火刑、魔女、聖女、血、祈り、赦し。いくらでも繋がる。人間は意味の縄を作るのが好きだからな。首にかけるまで気づかない」
その時、懺悔室の方から、こつ、と小さな音がした。
全員が振り向いた。
懺悔室は礼拝堂の奥、聖女像から少し離れたところにある。古い木製の扉。小さな格子。誰かが罪を語り、誰かがそれを聞いたことにする場所。
今は閉まっている。
中に人はいないはずだった。
榊が声を落とす。
「誰か入っていますか」
神父は首を振った。
「いいえ。今は誰も」
シスターは何も言わない。
清掃係は視線を落とす。
夜間管理人は帽子を握る。
事務担当は手帳の角を撫でた。
全員の目が、懺悔室から逃げた。
クラウディオはそれを見た。
「祈りの言葉より、目の逃げ方の方がよく喋る」
そして、懺悔室へ視線を戻す。
ルストが半歩前へ出た。
「血の匂いが残っている」
榊が問う。
「中に?」
「近い」
澪奈が録音機を確認する。
「今の音、記録されています。木を内側から叩いたような波形です」
クラウディオは低く言った。
「祈りより、懺悔の方が先らしい」
もう一度、こつ、と音がした。
聖女像の口元の赤黒い線が、白い灯りの下で、わずかに濡れて見えた。




