第46話 聖女像の血
夜見坂教会へ向かう坂道は、濡れていた。
雨はもう止んでいる。けれど、石段の窪みにはまだ水が残り、古い街灯の光を細く揺らしていた。坂の左右には低い石垣と黒い植え込みが続き、その奥に古い住宅の窓がいくつか沈んでいる。夜は静かだった。静かすぎるほどだった。
坂の上に、教会がある。
白い壁は夜の湿気を吸い、昼間なら柔らかく見えるはずの外観も、今は骨のように冷たかった。尖塔は低く、鐘楼も小さい。大聖堂というほどではない。地元の人間が、祝い事や葬儀や日曜の祈りに訪れる、古く小さな教会だった。
だが、夜見坂教会には噂がある。
夜にだけ聖女像が泣く。
懺悔室から、誰もいないはずの声がする。
鐘が鳴らない夜ほど、よくないことが起きる。
くだらない、とクラウディオ・ルジェリウスなら言っただろう。人間は、古い建物と夜と静けさが揃うと、すぐ怪談を生やす。湿った壁にまで物語を着せる。害虫より繁殖力がある。
だが、その夜、教会には本当に警察車両が止まっていた。
青い光は消されている。近隣への配慮だろう。代わりに、門の前には制服警官が立ち、鉄柵の奥の礼拝堂には鑑識の白いライトが差し込んでいた。
榊悠真は、礼拝堂の入口でクラウディオとルストを待っていた。
顔色は悪くない。だが、目の奥に疲労がある。火刑事件の後始末はまだ完全には終わっていない。被害者女性を「魔女」に仕立てた世論誘導、告発者の証言汚染、火の残響、久遠院怜司の気味の悪い正しさ。それらの整理が進む前に、新しい事件が起きた。
火の次は、教会。
血の次は、祈り。
人類、燃やした後に祈るな。順番が最悪である。
クラウディオは黒いコートの襟を指先で軽く直しながら、門をくぐった。
ルストはその半歩後ろにいる。
灰銀の髪は夜気の中で鈍く光り、鋼色の目は教会の入口を見ていた。二百二十センチ近い巨躯が、濡れた石畳の上に長い影を落とす。
クラウディオは教会の扉の前で、一瞬だけ足を止めた。
本当に、一瞬だけだった。
だが、ルストは気づいた。
あの夜、工房《箱庭》で、クラウディオは人形を壊す手を止められなくなった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
過去を語らなかった。
ただ静かに壊した。
ルストは帰らなかった。
帰らない、と言った。
そして最後に、クラウディオは低く短く言った。
帰るな。
その一言の余韻は、まだ二人の間に残っている。
言葉にしない。
触れもしない。
けれど、距離だけが変わっていた。
ルストが隣へ並ぶ。
クラウディオは横目で見た。
「近い」
「離れるか」
ルストが短く返す。
クラウディオは一拍置いた。
「邪魔にならない距離にいろ」
「なら、ここだ」
クラウディオはそれ以上言わなかった。
ルストも離れない。
榊はその空気を見て、何か言いかけたが、賢明にも飲み込んだ。人類にもたまには学習能力がある。絶滅回避の兆しだ。
「中へ」
榊が扉を開ける。
礼拝堂の空気は冷たかった。
湿った石。
古い木。
蝋燭の残り香。
埃を吸った布。
ステンドグラスの暗い色。
祈りの場所特有の、静かに整えられた空気。
その奥に、赤黒い匂いが混じっていた。
クラウディオの眉がわずかに動く。
ルストの目も細くなる。
礼拝堂の中央には、長椅子が左右に並んでいた。奥の祭壇には白い布がかかり、両側の燭台には古い蝋が残っている。高窓のステンドグラスは夜のせいで色を失い、ただ暗い鉛の線だけが浮かんでいる。
そして、祭壇の横に、聖女像があった。
白い聖女像。
両手を胸の前で組み、目を伏せ、慈悲深く祈る姿をしている。石膏か、大理石風の質感か。柔らかな衣の襞、伏せられた睫毛、わずかに開いた唇。よく手入れされている。古いが、丁寧に守られてきた像だった。
その口元から、血のようなものが流れていた。
目ではない。
涙ではない。
口から。
祈る聖女が、血を吐いているように見えた。
赤黒い筋は白い顎を伝い、首元へ落ちる前に止まっている。床には、ぽたりぽたりと落ちた跡が数滴。量は多くない。血溜まりではない。だからこそ不気味だった。
白い場所に、赤黒い線だけが残っている。
信仰の象徴に、告発の傷をつけたように。
クラウディオは聖女像を見上げた。
顔には、大きな変化はない。
だが、声が冷えた。
「聖女像が血を吐いた? 随分と分かりやすい趣味だな」
榊が低く言う。
「最初は、悪質ないたずらと見ています」
「だろうな」
クラウディオは礼拝堂を見渡す。
「白い像ほど汚し甲斐がある、という発想か」
澪奈はすでに現場保存の準備をしていた。
白石澪奈。特殊未解明事件係の鑑識官。手袋を替え、ライトを当て、像の口元と床の滴を確認している。彼女の動作は冷静だった。だが、いつもの科学だけで片づく現場ではないことを、もう理解している目だった。
「液体は血液反応を示しています」
澪奈が言う。
「ただ、状態が不自然です」
榊が眉を寄せる。
「不自然?」
「新しい血に見える部分があります。表面の濡れ方も、床の滴も。ですが、成分の一部が古い。保存された血液とも、乾いた血が再溶解したものとも違います」
クラウディオは聖女像を見たまま言う。
「像の内部は?」
「まだ確認中です。今のところ、外部から仕込んだ管や装置らしいものは見つかっていません」
「口元から出たように見えるが、構造的には不可能、か」
澪奈は頷く。
「像の内部から来たなら、像そのものが血を持っていたことになります。そんなはずはありません」
「人間の常識では、な」
クラウディオの声は薄かった。
ルストが聖女像へ近づいた。
警察官たちが自然に道を空ける。相変わらず、彼の存在感は人間の職務意識すら後退させる。便利な巨躯である。迷惑でもある。
ルストは像の口元を見た。
指を触れない。
ただ、近づき、匂いを拾う。
彼の瞳がわずかに細くなった。
そして、低く言った。
「古い」
その一言で、礼拝堂の空気が沈んだ。
榊が問う。
「血が、ですか」
「この血は新しくない」
ルストは像の口元から床へ落ちた滴を見る。
「流れたのは今でも、血は古い」
「保存血か?」
榊が言う。
ルストは首を横に振る。
「違う。死んだ直後の血じゃない。長く閉じ込められていた」
クラウディオは、ルストを見た。
ルストは続ける。
「聖女像が吐いた、というより、吐かされた血だ」
礼拝堂の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。
関係者たちが集められていた。
神父。
シスター。
教会の清掃係。
信徒代表の老女。
近隣の奉仕活動に関わる女性。
夜間管理人。
全員、警察官に付き添われ、落ち着かない顔で立っている。
神父が一歩前に出た。
六十近い男だった。白髪交じりの髪を整え、黒い服の襟元をきっちり留めている。顔には疲労があるが、声は穏やかだった。
「このようなことが起きて、私どもも大変困惑しています。誰が、なぜこのような……」
「意味を探すな。まず証拠を見ろ」
クラウディオが遮った。
神父が言葉を止める。
クラウディオは聖女像を見上げる。
「聖女に血を吐かせれば、信心深い連中は勝手に意味を探す。罪だ、告白だ、赦しだ、清めだ。実に便利だな」
シスターが顔を強張らせる。
クラウディオは続けた。
「教会は嫌いだ」
その声は、低く、冷たく、短かった。
榊がクラウディオを見る。
ルストも見る。
クラウディオは二人の視線を無視して、礼拝堂の空気を吸った。
「祈りの匂いは嫌いだ。人を燃やす前にも後にも使える」
その言葉に、神父の顔がわずかに曇った。
けれど、クラウディオは宗教そのものを叩いているわけではない。
少なくとも、榊にはそう見えた。
クラウディオが嫌悪しているのは、祈りという言葉の後ろに隠れる断罪の手つきだ。人を燃やす時に正義を掲げ、燃えた後に祈りで包む、人間の清潔そうな残酷さだ。
火刑事件の後。
魔女という紙片。
群衆の声。
被害者女性の欠点を証拠の代わりにして燃やした世論。
その次に、聖女像の血。
順番が悪すぎる。
いや、悪いというより、よくできすぎている。
榊は神父へ向き直った。
「前夜まで、聖女像に異常は?」
「ありません。昨日の夜の祈りが終わった時も、像はいつも通りでした」
「最後に礼拝堂を確認したのは」
「私です。二十一時頃です。鍵をかけました」
「鍵は」
「事務室の鍵箱へ戻しました」
シスターが小さく口を開いた。
「あの……その後、私も礼拝堂に入りました」
榊が目を向ける。
「何時ですか」
「二十一時半過ぎです。燭台の蝋燭を一本、消し忘れたかもしれないと思って」
「鍵は?」
「鍵箱から借りました。すぐ戻しました」
榊のペンが止まる。
神父は二十一時に鍵を閉めた。
シスターは二十一時半過ぎに鍵を開けた。
ここまでは成立する。
だが、夜間管理人が口を挟んだ。
「深夜、一度だけ音を聞きました」
初老の男だった。作業服の袖を握っている。
「鐘の音のような……短く、一度だけ。ですが、鐘は鳴っていないはずです。私は外を確認しましたが、礼拝堂には入りませんでした」
「なぜ」
榊が問う。
管理人は目を逸らした。
「……気のせいだと思ったので」
クラウディオが薄く息を吐く。
「便利な気のせいだ」
清掃係の女性は、朝の状況を話した。
「朝六時過ぎに掃除に来ました。その時には、もう像の口元に赤いものが……」
「入口の鍵は」
「閉まっていました。いつも通りです」
いつも通り。
また出た。
人間、都合の悪い時ほど「いつも」を乱用する。壊れた自販機みたいに同じ言葉を出す。返品したい。
澪奈は礼拝堂の床へライトを当てていた。
「床の滴は三箇所。像の口元から落ちたものに見えます。ただ、床に落ちた後の広がり方が少し妙です」
「妙?」
榊が近づく。
「石床に染み込んだ痕が弱すぎます。落ちた量のわりに、浸透が浅い。表面に置かれたようにも見えます」
クラウディオが言った。
「血だけが、時間から遅れている」
澪奈は顔を上げた。
「それ、ルストさんの言い方と似ていますね」
「犬の鼻に合わせてやっただけだ」
ルストが無言でクラウディオを見る。
クラウディオは気にしない。
神父が慎重に言った。
「ですが、もしこれが何かの告げであるなら……」
「告げ?」
クラウディオの目が冷えた。
「血を吐いた像に、誰かが都合のいい意味を着せる。そういう作業を告げと呼ぶのか」
「人は、意味を求めます」
「求めるのは勝手だ。証拠の上に座るな」
礼拝堂の奥で、空気が小さく揺れた。
懺悔室の方だった。
木製の扉の格子が、闇の中で黒く沈んでいる。
クラウディオの視線がそちらへ動く。
ルストも同じ方向を見る。
榊が問う。
「懺悔室は昨夜、使われましたか」
神父は少しだけ沈黙した。
「いいえ。記録にはありません」
「記録には」
クラウディオが繰り返す。
神父の目が一瞬だけ逸れた。
祈りの言葉は真っ直ぐ出る。
だが、記録の話になると目が逃げる。
人間の目は口より正直だ。なのに口ばかり信じるから、こうなる。
ルストが聖女像から少し離れ、礼拝堂の端へ歩いた。
血の匂いを辿っている。
像の口元。
床の滴。
燭台。
祭壇。
懺悔室。
そして、聖具室。
彼は聖具室の前で足を止めた。
「ここにも匂いがある」
榊が扉を開ける。
聖具室には、布、蝋燭、清掃用具、手袋、古い箱が整えられていた。澪奈がすぐに確認へ入る。
「白い手袋があります。像に触れる時に使うものですか」
シスターが答えた。
「はい。聖女像に直接触れる時は、必ず」
澪奈は手袋を袋に入れる。
「片方だけ、少し湿っています」
クラウディオの目が細くなる。
ルストが低く言った。
「古い血じゃない」
榊が問う。
「新しい?」
「像の血とは違う」
澪奈は簡易検査を始めた。
ライトの下で、白い布の指先に薄い反応が浮かぶ。
彼女の声が少し硬くなる。
「微量ですが、血液反応があります。聖女像の口元のものとは状態が違います」
神父が息を呑んだ。
清掃係が視線を落とす。
シスターは両手を握った。
ルストは言う。
「この血は新しくない。だが、手袋の方は違う」
クラウディオは聖具室の棚を見た。
「手袋で聖なるものに触れる。なるほど。手を清く見せるには便利だな」
澪奈の端末が鳴った。
警察庁の共有資料へのコメント通知。
久遠院怜司。
その名前を見た瞬間、クラウディオの表情がわずかに削げた。
榊が画面を確認し、読み上げる。
「聖女像が血を吐くという現象は、罪を内側から吐き出す象徴として機能する場合があります。教会という場所は、断罪と赦しの両方を演出できます。血は証拠であると同時に、信仰においては意味を持ちすぎる素材です」
礼拝堂が静かになる。
言葉は正しい。
正しすぎる。
久遠院の文章はいつもそうだった。整っている。冷静で、的確で、余計な感情がない。事件の構造を見抜くには役に立つ。
そして、気味が悪い。
クラウディオは低く言った。
「また意味をつけている」
ルストの目が端末からクラウディオへ移る。
クラウディオは続ける。
「血にまで説教を着せる気か」
榊は苦い顔をした。
「久遠院顧問の見立ては、捜査の助けにはなります」
「火を消すのにも、広げるのにも役に立つだろうな」
クラウディオは聖女像を見上げた。
「気色悪いほど、祈りの使い方を知っている」
久遠院を犯人と断じてはいない。
証拠がないから。
名前を貼れば、火刑台と同じになるから。
だが、嫌悪は隠さない。
澪奈が血液反応の写真を撮る。
「手袋の血は、像の血とは別に調べます。洗浄痕も確認します。あと、聖女像の足元に紙片があります」
榊が近づく。
聖女像の台座の影。
そこに、小さな紙片が落ちていた。
文字はない。
だが、端に黒赤い粒がついている。
火刑事件の「魔女」と書かれた紙片。
工房《箱庭》へ届いた菓子の包み紙に似せられた紙片。
それらと同じ系統の、嫌な粒。
澪奈が慎重に拾い上げる。
「紙質は……火刑事件の紙片に少し似ています。完全には同じではありません。黒赤い粒もあります」
「血術核の残滓か」
榊が低く言う。
「まだ断定できません」
澪奈は即座に返す。
科学者として正しい。
クラウディオはそれを聞いて、わずかに頷いた。
「断定するな。貼られたい名前を貼るだけになる」
礼拝堂の空気がさらに重くなる。
その時、聖女像の口元から、一滴、赤黒いものが落ちた。
ぽたり。
音は小さかった。
けれど、全員が聞いた。
澪奈の録音機にノイズが走る。
低い声とも、祈りとも、吐息ともつかない音。
実在の聖歌ではない。
言葉でもない。
ただ、声になる前の喉の震えのようなもの。
澪奈が波形を見る。
画面の上で、細い線が震えていた。
「また、同じ揺れです」
榊が息を止める。
「火刑事件と繋がるのか」
クラウディオは聖女像を見上げた。
白い聖女。
伏せられた目。
血を吐く口。
祈りの形をした沈黙。
「火を消した後に、血を吐かせる。順番がよくできている」
その声は冷えていた。
怒鳴りはしない。
けれど、火刑台の残り火が、彼の声の底でまだ燻っている。
ルストは、聖女像の血を見ていた。
それから、ゆっくりと言う。
「この血は、もっと古い」
クラウディオがルストを見る。
ルストの鋼色の目は、聖女像ではなく、礼拝堂全体の奥を見ているようだった。
古い石。
湿った壁。
懺悔室の暗がり。
鐘楼の沈黙。
この教会が建つ前から、どこかに閉じ込められていたものを見るように。
ルストは続けた。
「この教会より古いかもしれない」
その言葉の後、誰もすぐには動かなかった。
聖女像の口元で、赤黒い筋が夜の光を受け、ほんのわずかに濡れて見えた。




