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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第3部 火刑の街

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第45話 夜は火を覚えている



 工房《箱庭》の夜は、静かすぎた。


 街の音は遠い。路地裏を通る車の気配も、人の足音も、古い壁に吸われて薄く消えていく。外に火はない。窓の向こうに赤い光もない。街灯は白く、夜気は冷えていて、工房の硝子窓には湿った闇が貼りついているだけだった。


 それでも、夜は火を覚えていた。


 作業台の上には、透明な証拠袋に入れられた紙片が置かれている。


 古い菓子屋の包み紙に似せられた紙片。


 生成り色の紙。


 擦れた端。


 欠けた飾り罫。


 読めない店名の断片。


 蜂蜜とバターの記憶を真似た甘い匂い。


 その奥に混じる、焦げた砂糖のような嫌な匂い。


 紙片は本物ではない。


 本物ではない、とクラウディオ・ルジェリウスは言った。


 けれど、本物だと疑う形に作ってある、とも言った。


 それが一番、悪質だった。


 本物を送りつけられるよりも、よく似た偽物を置かれる方が、記憶は揺れる。人間も吸血鬼も、欠けたところを自分で補う。親切な脳味噌である。実に迷惑だ。


 録音端末は伏せられている。


 さきほどまで、そこから柔らかい女性の声のようなものが漏れていた。


 クラ、と。


 そこで途切れた。


 クラウディオはそれを止めた。


 ルストは、何も聞かなかった。


 聞かない、と言った。


 聞くな、とクラウディオは返した。


 だが、探す、とルストは言った。


 その短いやり取りの後、工房には長い沈黙が落ちた。


 クラウディオはいつものように平静だった。


 証拠袋の封を確認し、紙片に触れた手袋を外し、分析に回すべき項目を端末に記録し、榊と澪奈へ送る追加情報を整理した。焦げた匂い。人工的に付与された甘い香料。黒赤い粒。血術核の残滓に似た反応。紙の繊維に隠された波形のような線。火刑事件の問いとは違う、別の短い音声らしき痕跡。


 手順は完璧だった。


 声も乱れない。


 動作も乱れない。


 それが、ルストにはかえって危うく見えた。


 クラウディオは、崩れていない。


 崩れないように、何かを固めている。


 作業台の灯りは小さかった。白い布の上に、証拠袋、細い筆、硝子の眼球が収まった箱、解体用の小さな器具、銀色のピンセット、未使用の手袋が並んでいる。整いすぎている。


 工房の奥から、かすかなゼンマイの音がした。


 ち、と。


 夜が喉の奥で小さく笑ったような音だった。


 クラウディオの指が止まる。


 ルストは展示室の方を見る。


 奥には、箱庭風の展示室がある。


 閉ざされた園。


 白い砂。


 硝子の天蓋。


 枯れない造花。


 止まった噴水の模型。


 銀色に塗られた小道。


 小さなベンチ。


 止まったゼンマイ仕掛けの舞台。


 踊らない少女人形たち。


 クラウディオは、端末の画面を消した。


 そして、何も言わずに奥へ向かった。


 ルストは止めなかった。


 後を追う。


 展示室へ続く扉は、少しだけ開いていた。内側から冷たい空気が流れている。木材と絵具の匂いの奥に、菓子の包み紙に似せられた甘い匂いが薄く混じっていた。焦げた砂糖の匂いもまだある。


 火はない。


 炎はない。


 それなのに、硝子の天蓋に映る作業灯の光が、赤く揺れたように見えた。


 クラウディオは展示室の中央で足を止めた。


 少女人形たちは、いつもの位置にいた。


 踊り出す直前の姿勢で止まったもの。


 椅子に座ったまま空席を見ているもの。


 片足を前に出し、誰かの手を待つように指を伸ばしたもの。


 首をわずかに傾け、聞こえない音楽を聴いているようなもの。


 そのすべてが、同じ誰かを目指して、どれも届かなかったものたちだった。


 クラウディオは一体の人形の前で止まった。


 白いドレス。


 淡い金糸を編み込んだ髪。


 やや伏せた硝子の目。


 細い指。


 小さな唇。


 踊るために作られた足先。


 美しい人形だった。


 息をしていないことだけが、欠点のように見えるほどに。


 クラウディオは、その人形を両腕で抱え上げた。


 抱く、というより、運ぶ。


 作業台へ戻るまでの足取りは、いつも通りだった。


 揺らさない。


 傾けない。


 壊れ物を扱う職人の手つき。


 ルストはその後ろを歩きながら、何も言わなかった。


 作業台に人形が横たえられる。


 白い布の上に、白いドレスが広がる。


 クラウディオは手袋を替えた。古いものを捨て、新しい薄手の手袋を指先まで丁寧に伸ばす。その動作の間、表情はない。


 次に、器具箱を開けた。


 細い金具。


 小さなドライバー。


 留め具外し。


 ピンセット。


 柔らかい布。


 刃のない分解用の道具。


 すべてが、手の届く位置に整然と並ぶ。


 ルストは、作業台の反対側に立った。


 クラウディオが顔を上げる。


「帰れ」


 声は低い。


 命令というより、遮断だった。


 ルストは短く返した。


「帰らない」


 クラウディオの眉がわずかに動く。


「これはお前に関係ない」


「関係がある」


「俺の工房だ」


「知っている」


「俺の人形だ」


「知っている」


「なら見るな」


「見る」


 クラウディオはしばらくルストを見た。


 怒鳴らなかった。


 舌打ちもしなかった。


 ただ、視線を作業台へ戻す。


 そして、人形の硝子の目に指を添えた。


 分解は静かに始まった。


 彼は、まず人形の髪を整えた。


 壊す前に。


 指先で乱れた髪を梳き、留め具を外し、細い髪飾りを白い布の端へ置く。金具が小さく鳴った。その音は、遠い菓子屋の扉についた鈴に似ていた。


 クラウディオの指が一瞬だけ止まる。


 すぐに動く。


 次に、硝子の目を外す。


 乱暴ではない。


 痛々しいほど丁寧だった。


 瞼の裏を傷つけないように、固定を緩め、片方ずつ取り出す。硝子の目が小皿の上に置かれる。ころ、とも鳴らない。柔らかい布が音を吸う。


 その硝子の目に、作業灯の光が映った。


 赤く。


 火のように。


 ルストは息を止めかけた。


 クラウディオは何も言わない。


 胸元のドレスを開く。


 糸を切るのではなく、縫い目をほどく。


 白い布が左右に分かれ、内部の構造が現れる。


 木製の骨組み。


 小さなゼンマイ。


 細い留め具。


 空洞。


 そこに、心臓はない。


 あるはずがない。


 クラウディオはゼンマイを外した。


 小さな金属音。


 ち、と。


 展示室で鳴った音に似ている。


 人形の腕を持ち上げ、指の関節をひとつずつ解く。細い指が力を失い、布の上へ並べられる。親指、人差し指、中指。順番に。寸分違わぬ手順で。


 ルストは、その手つきを見ていた。


 怒りではない。


 癇癪でもない。


 八つ当たりでもない。


 これは、儀式に近い。


 完成したものを、完成していなかった状態へ戻していく手。


 彼女ではないものを、彼女として残さないための手。


 誰かに記憶を飾らせないための手。


 自分で壊すことで、他人に奪わせないための手。


 クラウディオは壊しているのではなく、耐えている。


 壊さなければ、もっと深い場所へ落ちる。


 ルストには、それが分かった。


 分かってしまった。


 だから、すぐには止めなかった。


「やめろとは言わない」


 ルストが低く言う。


 クラウディオは答えない。


「だが、一人でやるな」


 クラウディオの指が、胸の留め具の上で止まった。


「勝手に立っているだけだろう」


「そうだ」


「邪魔だ」


「それでもいる」


「面倒な男だな」


「知っている」


 クラウディオはわずかに笑った。


 笑みではない。


 逃げるための薄い皮肉だった。


「知っているなら帰れ」


「帰らない」


 その言葉が、工房の暗がりに重く落ちた。


 クラウディオは何も言わず、作業を続けた。


 人形の胸を開いた時、内部に黒赤い粒がひとつ見つかった。


 小さな粒。


 乾いた血のような色。


 石にも、蝋にも、焦げた砂糖にも見える。


 クラウディオの指が止まる。


 ルストも身を乗り出した。


 粒は人形の構造の一部ではない。


 クラウディオが入れたものでもない。


 人形の胸の内側、ゼンマイの影になる場所に、貼りつけるように仕込まれていた。


 クラウディオの声が、さらに低くなる。


「ここにもか」


 ルストの目が冷えた。


 クラウディオは粒に触れず、周囲を見た。胸の内側の木材に、音声波形のような細い傷が走っている。菓子の包み紙の裏にあった線と似ていた。完全に同じではない。だが、同じ手癖を感じる。


 クラウディオの呼吸が止まる。


 ほんの一瞬。


「触ったな」


 その声は、ほとんど息だった。


 だが、ルストには聞こえた。


 クラウディオは続ける。


「俺の人形に、勝手に触るな」


 ルストの怒りが、静かに底へ沈んだ。


 派手に燃え上がらない。


 ただ、温度が消える。


 工房の空気が一段冷えた。


「これ以上は、許さない」


 ルストが言った。


 クラウディオは黒赤い粒を見たまま、薄く返す。


「誰に言っている」


「置いた奴に」


「まだ名前を貼るな」


「分かっている」


「嘘が下手だ」


「今のは本当だ」


 ルストはクラウディオを見る。


「お前の過去を知らない」


 クラウディオの手が止まる。


「だが、踏まれたことは分かる」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 クラウディオは、紙片の匂いを思い出しているように見えた。


 菓子屋の窓。


 甘い匂い。


 白い手袋。


 赤い火。


 群衆。


 魔女という声。


 「クラ……」と途切れた音。


 火刑台の赤い光は、今この工房にはない。


 それでも、作業灯の淡い光が、人形の白いドレスを灰のように見せた。


 クラウディオは、黒赤い粒を証拠用の小皿へ移した。


 手は震えていない。


 震えていないように見える。


 そして、分解を続けた。


 人形の首の留め具を外す。


 胴体の固定を緩める。


 内部構造を開き、布を剥がす。


 そこにも、細い傷があった。


 波形のような線。


 クラウディオは目を伏せた。


「……悪趣味だな」


 第44話で紙片を見た時と同じ言葉だった。


 だが、今度はもっと深い場所から出ていた。


 ルストは、作業台の端を握る自分の指に力が入っていることに気づいた。


 クラウディオは、それを見ていない。


 見ないまま、人形の最後の留め具を外す。


 分解された人形は、白い布の上に静かに横たわった。


 硝子の目。


 外された髪留め。


 小さなゼンマイ。


 指の関節。


 胸の部品。


 空になった胴体。


 それは破壊というより、解剖に近かった。


 だが、クラウディオの目には、まだ終わっていない光があった。


 彼は、次の人形へ手を伸ばしかけた。


 展示室から運んできていない、別の人形へ。


 作業台の隅に座らせていた未完成の少女人形。


 まだ目が入っていない。


 口元も描かれていない。


 彼女ではない。


 まだ、誰でもない。


 クラウディオの手が、その人形へ向かう。


 そこで、ルストが動いた。


 強く押さえつけることはしなかった。


 作業台を越え、クラウディオの手首を掴む。


 力は強すぎない。


 だが、逃がさないだけの圧があった。


「もういい」


 クラウディオの目がルストへ向く。


 冷たい。


 苛立っている。


 けれど、その奥に、わずかな空白がある。


「まだだ」


「今はもういい」


「離せ」


「離したら、また壊す」


 クラウディオは反射的に振り払おうとした。


 けれど、振り払えなかった。


 その時、自分の手が冷えていることに気づいたのだろう。


 あるいは、止まらなかったことに気づいたのかもしれない。


 クラウディオは、ルストに掴まれた手首を見た。


 次に、白い布の上で分解された人形を見る。


 硝子の目。


 空洞の胸。


 黒赤い粒。


 波形の傷。


 そして、自分の指。


 手袋越しでも分かるほど、指先は強張っていた。


 クラウディオは、ゆっくり息を吸った。


 途中で止まる。


 吐き出せないまま、喉の奥に引っかかる。


 泣かない。


 弱音も吐かない。


 叫ばない。


 ただ、息が止まる。


 ルストは手首を掴んだまま、少しだけ声を落とした。


「壊しているのは人形だけか」


 クラウディオの唇が動く。


 何かを言い返そうとした。


 しかし、言葉にならなかった。


 代わりに、低く絞る。


「……離せ」


「離したら、また壊す」


 クラウディオは黙った。


 当たっているからだった。


 長い沈黙の後、彼はようやく視線を逸らした。


「見るな」


「見ている」


「嘘くらいつけ」


「嘘が下手だ」


 クラウディオは、ごくわずかに笑った。


 今度は皮肉ですらなかった。


 ひびの入った息のようなものだった。


 ルストは、そこで手を離した。


 ただし、完全には距離を取らない。


 クラウディオの手が次の人形へ伸びない位置に立つ。


 工房の空気は、まだ甘く焦げていた。


 録音端末のランプが、また小さく点きかける。


 ルストが先に手を伸ばし、端末を止めた。


 クラウディオはそれを見る。


「勝手に触るな」


「証拠は触っていない」


「それは端末だ」


「勝手に鳴る方が悪い」


「雑な理屈だな」


「お前よりましだ」


 クラウディオは返さなかった。


 ルストは、落ちた工具を拾った。


 証拠品には触れない。


 黒赤い粒にも、紙片にも、分解された人形にも触れない。


 ただ、床へ転がったピンセットを布の上へ戻し、倒れた椅子を直し、窓の隙間を閉めた。


 クラウディオの領域を荒らさず、しかし工房から出ていかない。


 その残り方が、クラウディオには気に障るらしかった。


「帰れ」


「帰らない」


「命令だ」


「聞かない」


「お前、いつからそんなに図々しくなった」


「前からだ」


「自覚があるなら直せ」


「直さない」


 クラウディオは、作業台の前に立ったまま目を伏せた。


 分解された人形は、もう動かない。


 最初から動かなかった。


 それでも、壊される前には、動き出す直前の形をしていた。


 今は違う。


 ただの部品だ。


 彼女ではない。


 彼女ではなかった。


 彼女にされる前に、クラウディオ自身の手で戻された。


 その行為が救いなのか、罰なのか、ルストには分からない。


 分からなくていい。


 今は、分からないままここにいることの方が必要だった。


 工房の奥で、また鈴のような音がした。


 今度は、菓子屋の扉の鈴に似ていた。


 その後ろに、群衆の声が混ざる。


 魔女、と言いかける前の呼吸。


 クラウディオの肩がわずかに強張る。


 ルストは声を出さない。


 ただ、作業台の横に立つ。


 夜は深くなっていた。


 外の路地は静かだ。


 火はない。


 それでも、夜はまだ火を覚えている。


 紙片は証拠袋の中で眠っている。


 録音端末は伏せられている。


 黒赤い粒は小皿に隔離されている。


 箱庭の園の少女人形たちは沈黙している。


 そして、クラウディオの手は、もう次の人形へ伸びていない。


 ルストは椅子を一脚、作業台の近くへ引いた。


 音がした。


 クラウディオが反射的に顔を上げる。


 その一瞬、彼の目に警戒ではなく、別のものが走った。


 ルストが入口の方へ向かうと思ったのだろう。


 あるいは、そう思いたかったのかもしれない。


 クラウディオは、低く、短く言った。


「帰るな」


 その言葉は、工房のどの音より小さかった。


 けれど、ルストには聞こえた。


 彼は振り返る。


 理由は聞かない。


 どうしてとも言わない。


 何が怖いとも聞かない。


 ただ、短く返す。


「帰らない」


 クラウディオは何も言わなかった。


 視線を逸らし、分解された人形を見る。


 だが、手はもう動かない。


 次の人形へは伸びない。


 ルストは椅子に座らなかった。


 立ったまま、工房に残る。


 火はなかった。


 それでも夜は、まだ燃え方を覚えていた。



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