第41話 焼かれたのは誰か
人間は、死者にまで点数をつけたがる。
霧杜中央署の資料室には、被害者女性に関する記録が積まれていた。相談記録、通話履歴、振込明細、手帳の写し、近隣住民の証言、報道番組の切り抜き、匿名掲示板の投稿をまとめた資料。机の上に広げられた紙束は、ひとりの人間を分解して並べた標本のようだった。
白い蛍光灯の下では、誰の人生も薄く見える。
火刑事件の被害者女性、葛城真砂は、これまで世間の中で二度殺されていた。
一度目は、火の気のない地下展示室で。
二度目は、「魔女」という二文字で。
そして今、彼女は三度目の断罪を受けかけていた。
今度は、善人ではなかったという理由で。
クラウディオ・ルジェリウスは、資料室の隅で、机の上に置かれた相談記録を見下ろしていた。黒いシャツの襟元は整っている。声も、表情も、いつもの通りに見えた。だが、ルスト・ヴァルレインには、その静けさが前よりも硬いことが分かる。
火の匂いはもうない。
それでも、クラウディオの中では、まだ何かが焼けている。
榊悠真は、椅子に座らず、机の端に片手をついていた。眉間には深い皺がある。警察として見なければならないものと、人として見たくないものが同じ紙束に挟まっている時、人間はだいたいこういう顔をする。胃薬の需要が伸びるわけだ。文明の負けである。
白石澪奈は端末に資料を整理している。感情を表に出しすぎない彼女でさえ、今日は何度か沈黙が長かった。
「相談料の記録があります」
澪奈は淡々と言った。
「葛城真砂は、怪異相談や古い信仰、民間療法に近い内容で相談を受けていました。金額は一定ではありません。無料の時もあれば、高額に見える振込もあります」
榊が低く問う。
「詐欺か」
「断定はできません」
澪奈は画面を切り替える。
「相談者の中には、彼女に救われたと話している人もいます。不眠が改善した、家族との関係を見直せた、亡くなった人について話せるようになった、という証言もあります。ただ、別の相談者は、強い言葉で不安を煽られたと証言しています」
画面に、相談記録の一部が映る。
あなたの家には、古いものが残りすぎている。
このままでは、悪いものが続く。
水場を清めなければ、子どもに影響が出る。
澪奈は声を落とした。
「“あなたは祟られている”“このままでは悪いことが起きる”といった表現も残っています。相手が弱っている時に、かなり強い言葉を使っていたのは事実です」
榊は息を吐く。
「被害者を責めたいわけじゃない」
「分かっています」
「だが、彼女が相談者とトラブルを起こしていたのも事実だ。金銭のやり取りもある。近所付き合いも悪かった。相談者の中には、恨んでいる人間もいる」
クラウディオは資料から目を離さない。
「なら、その恨みを調べろ」
榊が顔を上げる。
「言われなくても調べる」
「ならいい」
短いやり取りだった。
だが、そこには奇妙な緊張があった。
被害者女性に問題があったと認めること。
それは、世間にとっては被害者を燃やし直す薪になる。
警察にとっては、動機を探るための必要な作業になる。
そしてクラウディオにとっては、罪と冤罪を切り分けるための刃になる。
同じ資料でも、使い方を間違えれば火刑台が組み上がる。紙というのは恐ろしい。燃えやすい上に、人間がすぐ正義の名札を貼りたがる。
資料室の壁に設置されたモニターには、報道番組の見出しが映っていた。
被害女性、怪異相談で高額謝礼か。
相談者に「不幸が来る」と発言。
周囲とトラブルも。
魔女と呼ばれた理由が見えてきた。
やはり加害側だった?
被害者にも問題が。
それぞれの言葉は短く、分かりやすく、だから危険だった。
複雑な人間を、数秒で燃やせる形へ加工している。
クラウディオはそれを見て、薄く笑った。
「人間は便利だな。嫌いな相手なら、死んだ後に罪まで増やせる」
榊が言う。
「報道がすべて間違っているわけじゃない。金銭のやり取りは実際にある。相談者への強い発言も残っている」
「事実だろうな」
クラウディオは否定しなかった。
「そして、それは殺人の証拠ではない」
澪奈が、静かに頷く。
「欠点を証拠の代わりに使っています」
クラウディオが、そこで初めて澪奈を見た。
「欠点は証拠じゃない」
その声は、ひどく冷えていた。
けれど、怒鳴ってはいない。
「近所付き合いが悪い。相談料を取った。強い言葉を使った。不安を煽った。嫌な女だったかもしれない。弱った人間につけ込んだ面もあったかもしれない。だが、それらは火刑の根拠じゃない」
榊は黙って聞いていた。
クラウディオは、モニターの見出しへ視線を戻す。
「善人でなければ、焼いていいのか」
その言葉に、資料室の空気が重くなる。
ルストは、クラウディオの横顔を見る。
彼は被害者女性を美化していない。
葛城真砂という女を、聖女にも、哀れなだけの被害者にもしていない。
むしろ冷淡なほどに、彼女の問題も見ている。
だからこそ、その断罪は鋭かった。
「罪と冤罪は別だ。混ぜるな」
クラウディオは、はっきりと言った。
「混ぜれば燃えやすくなる」
ルストの目がわずかに動く。
それは現代の事件だけに向けた言葉ではなかった。
だが、彼は問わない。
クラウディオも語らない。
榊が、相談者の証言を一枚取り上げた。
「この相談者は、葛城真砂に“あなたの家の水は悪いものを溜めている”と言われて、浄化の名目で何度も金を払っている。総額は小さくない」
澪奈が補足する。
「ただ、葛城側の手帳には、同じ相談者へ無償で通話対応した記録もあります。病院へ行くよう勧めたメモも残っています。金を取るだけが目的だったとは断定できません」
「善人とも悪人とも言い切れない」
榊が言う。
クラウディオは冷たく返した。
「人間はだいたいそうだろう」
あまりにも当然のことを、人間はよく忘れる。白か黒かでしか見られないなら、もう少し広い色鉛筆を買え。できれば脳も一緒に。
澪奈は次の資料を表示した。
「近隣住民の証言です。葛城真砂は愛想が悪く、町内会にもほとんど参加していませんでした。子どもに話しかけられても無視することがあった。ただし、夜間に迷子になった子を交番まで連れて行った記録もあります。本人は名乗らずに帰ったようです」
榊が眉を寄せる。
「冷淡なのか親切なのか分からないな」
「どちらもだろう」
クラウディオは短く言う。
「人間をひとつの札にするな。魔女と書いた奴と同じことをする羽目になる」
榊は言葉を飲んだ。
ルストが低く問う。
「庇うのかと思った」
クラウディオは、ゆっくりとルストを見た。
「庇っているんじゃない。分けている」
その声には、苛立ちが混じっていた。
「死んだ女を聖人にする気はない」
ルストは少しだけ目を細める。
「なら、何を守る」
「裁く手順だ」
クラウディオは即答した。
資料室が静まり返る。
裁く手順。
証拠。
検証。
反論の機会。
生きている者にも、死んだ者にも必要なもの。
それが失われた時、人は簡単に火刑台を作る。
ルストは、ようやく理解した。
クラウディオは、被害者女性を守っているだけではない。
過去に火刑台で燃やされた誰かの名を守ろうとしているだけでもない。
彼が見ているのは、もっと冷たく、もっと根深いものだ。
証拠なしに、人が人を燃やせる構造。
それを憎んでいる。
クラウディオは、火刑に囚われている。
けれど、囚われているからこそ、火の前で手順にしがみついている。
皮肉な話だ。吸血鬼が、人間よりよほど裁きの手順を信じている。人類、そこで負けてどうする。
榊は深く息を吐いた。
「彼女に罪があるなら、調べる。金銭トラブルも、相談内容も、恨みを持っていた相手も。だが、それは火刑事件の被害者としての立場を消すものじゃない」
クラウディオが頷く。
「罪があることと、焼かれていいことは別だ」
その一言で、机の上に積まれた資料の意味が少し変わった。
葛城真砂は、完全な善人ではない。
人を傷つけたかもしれない。
弱っている者へ強い言葉を投げたかもしれない。
相談料を取りすぎたかもしれない。
誰かの不安につけ込んだ面もあったかもしれない。
けれど、それは「魔女」と書かれて死体の横に置かれる理由ではない。
死んだ後に、名を燃やされる理由でもない。
澪奈が音声データを開いた。
「新しい反応があります。報道番組で葛城真砂の相談記録が読み上げられた直後、保管庫の録音機にノイズが入っています」
榊が顔を上げる。
「火の爆ぜる音か」
「はい。さらに、“やっぱり”という語句の増加と同期しています」
画面には、短い投稿の断片がいくつか映る。
やっぱり怪しい女だった。
やっぱり魔女と呼ばれるだけの理由がある。
やっぱり被害者にも問題があった。
やっぱり、やっぱり、やっぱり。
澪奈は言った。
「“やっぱり”という言葉に反応しているように見えます。断定ではありませんが、波形が跳ねています」
クラウディオが、ひどく冷たい顔で笑った。
「正義じゃない。材料探しだ」
ルストが短く言う。
「燃やす理由を探している」
「そうだ。火をつけた後で、薪に名前を書いている」
録音機から、微かに音がした。
ちり、と火の爆ぜるようなノイズ。
だが、火はない。
資料室にあるのは紙と端末だけだ。
それなのに、誰かが相談記録を読み上げるたび、焦げた匂いが一瞬だけ戻る。
怪異は、葛城真砂の悪い部分を燃料にしていた。
善人ではなかったという事実。
相談者を傷つけたかもしれないという疑い。
高額な謝礼。
冷淡な態度。
そういう欠点を、火刑台の薪へ変えていく。
まったく、人間の欠点は燃えやすい。だからといって、全部火にくべるな。暖房器具ではない。
榊の端末が震えた。
画面に、警察庁共有資料の通知が出る。
久遠院怜司。
クラウディオの表情が、目に見えて冷えた。
「来たか、意味付け屋」
榊は一瞬迷ったが、結局表示した。
久遠院からのコメントは短かった。
死者が完全な善人でない場合、世論は断罪を正当化しやすくなります。
欠点は、共同体にとって非常に扱いやすい燃料です。
人は、相手に罪がひとつ見つかると、全ての苦痛を正当化したがる傾向があります。
資料室に沈黙が落ちた。
正しい。
また、正しい。
正しい言葉が、正しいからこそ気味が悪い。
クラウディオは低く言った。
「よく燃える燃料を知っているな」
榊は端末を下ろす。
「久遠院顧問の分析は、有用ではある」
「有用な刃物で人も切れる」
「分かっている」
「なら握り方を間違えるな」
クラウディオは、久遠院のコメント履歴へ目を向けた。
「死者の欠点まで薪にする気か」
ルストが言う。
「久遠院が送った言葉は、火を消していない」
「むしろ燃える場所を照らしている」
クラウディオの声は静かだった。
「証拠はまだない。だが、あいつは欠点の燃え方を知っている」
澪奈が端末を見ながら言う。
「久遠院顧問のコメントが出た直後に、報道番組の論調が変わっています。“被害者女性にも問題があった可能性”という表現が増えています。ただし、彼のコメントが直接外部に出た証拠はありません」
榊が顎に手を当てる。
「警察内部の認識が報道へ漏れた可能性、あるいは別経路で同じ方向へ誘導された可能性」
「まだ断定はできません」
クラウディオが短く言う。
「断定するな。札を貼るには早い」
自分でそう言える程度には、彼は冷静だった。
だからこそ、危うい。
ルストは、クラウディオの声を聞いていた。
そこには怒りがある。
過去の火もある。
だが、火に任せていない。
証拠という細い道を、苛立ちながら歩いている。
ルストは、低く言った。
「裁く手順を守るためか」
クラウディオは振り返らない。
「他に守れるものがあるのか」
その声は軽かった。
けれど軽くはなかった。
榊が、被害者女性の手帳コピーを机に広げる。
「葛城真砂の手帳に、火刑事件の三日前のメモがある。“また、あなたの言葉は強すぎると言われた。そうかもしれない。けれど弱い言葉では届かない人もいる”」
澪奈が続ける。
「その次に、“助けたつもりでも、傷つけているのかもしれない”とあります」
資料室の空気が少し変わった。
葛城真砂という女の輪郭が、紙の中でわずかに動いた。
彼女はただの詐欺師ではない。
ただの聖女でもない。
ただの魔女でもない。
助けたつもりで傷つけたかもしれない女。
強い言葉を武器のように使った女。
金を受け取った女。
誰かに救いを与えた女。
誰かに恐怖を残した女。
そして、殺された女。
クラウディオは手帳のコピーを見る。
「複雑な人間だな」
榊が静かに言う。
「ああ」
「世間は複雑な人間が嫌いだ。燃えにくいからな」
澪奈が視線を上げた。
「燃えにくい?」
「単純な悪人にすれば燃やしやすい。単純な聖女にすれば悼みやすい。だが、どちらでもない人間は扱いづらい。だから切り落とす。欠点だけ拾って魔女にするか、美点だけ拾って聖女にする」
クラウディオは、手帳から目を離した。
「どちらも死人の顔ではない」
ルストは、低く問う。
「焼かれたのは、誰だ」
タイトルのような問いだった。
だが、誰もそれをそんなふうには扱わない。
クラウディオは少しだけ沈黙した。
「女だ」
短く言う。
「身体も、名前も、過去も、欠点を含んだ人物像も、反論する権利もだ」
彼は資料を閉じた。
「焼かれたのは女だけじゃない。判断する手順だ」
その言葉に、榊は目を伏せた。
澪奈は端末に記録を残す。
ルストは、クラウディオを見ていた。
過去を語らない男が、現代の死者の名を守るために、ここまで語る。
それは、彼にとって事件解決であると同時に、火刑台への復讐でもあるのかもしれなかった。
ただし、クラウディオは復讐という言葉を使わない。
証拠。
手順。
切り分け。
その冷たい言葉の中に、自分の火を閉じ込めている。
榊の端末に、新しい通知が入った。
澪奈からだった。
「解析結果が来ました」
澪奈は自分の端末で同じデータを開き、声を低くする。
「葛城真砂の端末から、事件直前に受信した音声メッセージが復元されました。発信元は偽装されています。加工もあります。声紋一致は取れません」
榊が問う。
「内容は」
澪奈は、再生前に少しだけ間を置いた。
資料室の空気が、また重くなる。
録音が流れる。
静かな声だった。
責める声ではない。
助けを求める声でもない。
怒鳴りもしない。
ただ、穏やかに問う声。
『あなたは、本当に魔女ではないのですか』
その一文だけで、資料室の温度が下がったように感じた。
誰の声かは分からない。
加工されている。
けれど、言い方が整いすぎている。
問いの形が、あまりに清潔すぎる。
久遠院怜司の声に似ているようにも聞こえる。
だが、似ているだけだ。
断定はできない。
クラウディオは、音声を聞き終えてから、冷たく笑った。
「質問の形をした火種か」
ルストが問う。
「誘導か」
「そうだ。人は問われただけで、自分を疑い始める」
クラウディオは、録音機を見た。
「お前は本当に魔女ではないのか。いい質問だな。答えた瞬間、相手の土俵に立つ。違うと叫べば、必死に否定する魔女に見える。黙れば、答えられない魔女に見える」
榊の拳が握られる。
「卑劣だな」
「卑劣というより、古典的だ」
クラウディオは淡々と言った。
「火刑台は、問いから始まることもある」
澪奈が音声波形を拡大する。
「このメッセージの末尾に、紙片裏の線と似た揺れがあります。鍵穴傷の線にも近い。ただし、やはり完全一致ではありません」
ルストが短く言う。
「同じ風」
クラウディオは頷いた。
「火種を置いた奴がいる。質問を投げた奴がいる。泣いた女の声を薪にした奴がいる。世論に風を送った奴がいる。全部が同じ手とは限らない」
「だが、繋がる」
「繋げたがっている」
クラウディオは、音声メッセージの波形を見つめた。
その目は冷たい。
燃えているのではない。
燃やすものを探しているのでもない。
火刑台の構造を、ひとつずつ解体している目だった。
録音機から、焦げたノイズが走った。
ちり、と小さく。
紙片の「魔女」の文字が、保管映像の中でまた少し濃くなったように見える。
澪奈がすぐに映像を保存する。
榊が低く言う。
「また反応した」
クラウディオは、波形から目を離さない。
「次は、問いを投げた奴だ」
その声は静かだった。
だが、火の前で動けなかった少年の声ではなかった。
火刑台の周りにいる者を、ひとりずつ数えていく男の声だった。




