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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第3部 火刑の街

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第40話 解説してやる、正義は燃えやすい



 霧杜中央署の捜査本部には、朝から火の匂いが残っていた。


 実際に何かが燃えているわけではない。換気はされている。灰皿もない。暖房も切られている。机の上に並んでいるのは、焦げた木材ではなく、証拠写真と調書と音声解析の資料だけだ。


 それでも、部屋の奥には焦げた紙のような匂いが薄く漂っていた。


 火刑事件の現場写真が、ホワイトボードに貼られている。


 火の気のない地下展示室。


 燃え広がっていない壁。


 床に残った黒い影。


 燃え切らずに残った紙片。


 そこに書かれた、二文字。


 魔女。


 その隣には、告発者女性の証言記録、SNS上で拡散された発言の時刻表、報道映像の切り抜き音声、警察発表の文面、久遠院怜司のコメント履歴が並べられていた。さらに、廃校の歌う人形の血術核、工房《箱庭》の鍵穴傷、音声波形、人形の夢に残ったノイズ。そのすべてが、糸で繋がれるように壁へ貼られている。


 白石澪奈は端末の前に座り、音声波形をひとつずつ重ねていた。榊悠真は腕を組み、ホワイトボードの前に立っている。ルスト・ヴァルレインは入口の近くに立ち、部屋全体ではなく、クラウディオ・ルジェリウスの声を待っているようだった。


 クラウディオは、机の端に片手を置いていた。


 黒いシャツも、襟元も、袖口も整っている。昨日、火の前で動けなくなった男には見えない。昨夜、事件を解きながら声だけが冷え続けていた男にも見えない。


 だが、ルストには分かる。


 戻ってはいない。


 平然としているだけだ。


 人間は平然という布で傷を覆うと、治ったと思い込む。実に愚かしい。包帯を巻いたら骨折が治ると思う種類の雑な文明である。


 榊が低く言った。


「整理するぞ。火刑事件は、単独の殺害として扱うには構造が複雑すぎる」


 クラウディオが薄く笑う。


「ようやくそこまで来たか」


「お前の嫌味は資料に載せない」


「載せろ。読みやすくなる」


「ならない」


 澪奈が、波形をモニターに映した。


「告発者の証言中、“魔女”という語の前後に異常な揺れがあります。紙片裏の線、廃校事件の音声、工房の鍵穴傷と一部似ています。完全一致ではありませんが、同じ構造の癖があると見ています」


 榊はホワイトボードの紙片写真を指した。


「紙片に付着していた黒赤い粒も、廃校事件の血術核と完全一致ではない。ただ、同系統だ。血術核の残滓、あるいは火種に近いものと見ている」


 ルストが短く言う。


「薄い。だが、ある」


 クラウディオは、火刑事件の写真を見ていた。


 表情は動かない。


 だが、その声だけが低く落ちる。


「解説してやる」


 室内の空気が、ほんの少しだけ張った。


 榊が眉を寄せる。


「頼んでいない」


「頼まれる前に分かれ。人類は説明待ちが多すぎる」


「本当に腹立つな」


「理解力の遅さを俺にぶつけるな」


 クラウディオは、紙片の写真を指した。


「まず、それは証拠じゃない」


 澪奈が視線を上げる。


「現場に残された物証ではあります」


「物としてはな。だが、役割が違う」


 クラウディオの指先が、写真の中の二文字をなぞるように動く。


「これは被害者が魔女だった証拠じゃない。周囲に“この女を魔女として見ろ”と命じる札だ」


 榊の目が細くなる。


「役割札、か」


「そうだ。紙に魔女と書けば、死体は反論できない」


 その声は、冷たい。


 怒鳴り声ではない。


 けれど、室温が下がるような冷たさがあった。


「死んだ女の横に札を置く。すると、人間は勝手に物語を作る。なぜ燃えたのか。なぜ周囲は燃えていないのか。なぜ紙片だけが残ったのか。そういう疑問の前に、“魔女だから”という答えを置く。実に雑で、よく効く」


 澪奈は、手元の資料を見る。


「紙片そのものに、被害者女性と怪異の関係を示す証拠はありません」


「当然だ。示すためのものじゃない。信じさせるためのものだ」


 クラウディオは淡々と続ける。


「火をつけた奴はいる。だが、それだけならただの殺しだ。今回の事件は、それだけでは完成しない」


 榊が問う。


「完成?」


「殺した後に、魔女として完成させる。そういう事件だ」


 その言葉に、榊は息を止めた。


 ルストは黙ってクラウディオを見る。


 彼は今の事件を解いている。


 だが、それだけではない。


 かつての火刑台を、現代の資料の中で解体しようとしているようにも見える。


 榊は低く言う。


「続けろ」


 クラウディオは、告発者女性の証言記録へ目を向けた。


「泣いた女は火をつけていない」


 澪奈の指が止まる。


「ですが、彼女の証言は」


「薪だ」


 クラウディオの声が短く落ちる。


「泣いた女は火をつけていない。だが、薪を運んだ」


 榊は眉を寄せた。


「彼女を犯人扱いするには無理がある」


「誰が犯人だと言った」


 クラウディオは榊を見る。


「彼女は嘘を吐いていない。自分の恐怖を本当に信じていた。家族の不調も、不運も、不安も、被害者女性のせいだと本気で思い込んでいた。だから、告発術式にはよく合った」


 澪奈が音声を再生する。


『怖かったんです……本当に、みんなを守りたかっただけで……』


 波形の一部が跳ねる。


 泣き声。


 震える息。


 証言の奥に混じる、薄いノイズ。


 クラウディオはそれを見た。


「嘘を混ぜないから、よく効く」


 彼は、告発者の記録を一枚取る。


「人間は、自分が信じていることを証言する時が一番厄介だ。嘘なら折れる。信じている声は折れにくい」


 ルストが低く言う。


「善意も使われた」


「善意の顔をした薪ほど、よく燃える」


 榊は苦い顔をした。


「彼女も利用された被害者だ」


「そうだな」


 クラウディオは即答した。


「そして、死んだ女の名を燃やす声にもなった」


 室内が静かになる。


 単純ではない。


 告発者を悪人にすれば楽だ。


 被害者にすれば、もっと楽だ。


 だが、事件はそのどちらにも収まらない。人間社会、ややこしい上に責任の分割払いが好きすぎる。金利は地獄である。


 澪奈は端末を操作し、SNS拡散記録を表示した。


「告発者の証言が外部へ漏れたあと、“魔女”という語と被害者女性の名前が結びつく投稿が急増しています。投稿内容そのものはばらばらですが、使われている表現には一定の傾向があります。“守るため”“危険だった”“前から怪しかった”“魔女なら納得できる”などです」


 榊が険しい顔になる。


「報道も一部を切り取った。警察発表の曖昧な箇所も燃料にされた」


「発表すれば燃える。伏せれば隠蔽だと燃える。便利な時代だな。どちらにしても燃やせる」


 クラウディオの声は乾いている。


「群衆は広場から消えた。画面の向こうに移っただけだ」


 ルストが短く言う。


「世論が風になった」


「風というより、息だな。全員が少しずつ吹き込んでいる」


 クラウディオは、SNS拡散グラフを指した。


「誰も自分が燃やしたとは思わない。だから燃え続ける。正義を名乗る声は、火より速く回る」


 榊が低く問う。


「世論まで被疑者にするのか」


「するわけがない。警察にそんな度胸も制度もない」


「殴るぞ」


「できもしないことを言うな」


 クラウディオは淡々と返した。


「だが、無関係とは言えない。火刑台に必要なのは火だけじゃない。観客だ」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 澪奈は次の資料を表示した。


 保管庫の映像。


 証拠袋に入れられた「魔女」の紙片。


 告発者の証言再生時刻。


 SNS上の語句増加時刻。


 報道映像の再生時刻。


 複数の線が、ある瞬間に重なる。


「“魔女”という語の拡散が増えた時間帯と、録音データの群衆ノイズの増加が重なっています。紙片の文字が濃く見える現象も、同じ時刻帯に集中しています」


 榊が言う。


「偶然では片づけにくい」


「科学的に全部は説明できません。でも、同じ構造です」


 澪奈の声は静かだった。


 科学を捨てているわけではない。


 むしろ、科学で追える部分をきちんと追った上で、その外側にあるものを認めざるを得なくなっている。


 クラウディオはモニターを見ながら言った。


「怪異が人を燃やしたんじゃない。人間が火に言葉を食わせた」


 ルストの目が細くなる。


「断罪が餌」


「そうだ。火刑台には相応しい」


 録音機の赤いランプが、勝手に一度だけ点滅した。


 誰も触れていない。


 ざ、と小さなノイズが入る。


 火の爆ぜるような音にも聞こえた。


 だが、部屋に火はない。


 炎はない。


 言葉だけが燃えている。


 クラウディオは、赤いランプを見下ろして言った。


「正義は燃えやすい」


 その一言が、部屋の中央に落ちた。


 澪奈は息を止めた。


 榊は唇を引き結んだ。


 ルストは、クラウディオの横顔を見た。


 それは彼自身の過去から出た言葉でもあり、今回の事件の核心でもあった。


 正義。


 守りたい。


 怖かった。


 危険だと思った。


 みんなを守るため。


 清めるため。


 そういう言葉は、よく燃える。


 火を持っている自覚がないから。


 クラウディオは続けた。


「嘘を吐かせる必要なんてなかった。正しいと思わせれば、人間は勝手に火を運ぶ」


 榊が低く言った。


「それが告発術式」


「一部はな」


 クラウディオはホワイトボードへ向き直る。


「犯人は一人じゃない」


 榊が顔を上げる。


 澪奈も、ルストも、彼を見る。


 クラウディオは資料をひとつずつ指した。


「火をつけた奴がいる。薪を運んだ女がいる。風を送った世論がある。火を食った怪異がいる」


 彼の指が、久遠院怜司のコメント履歴で止まった。


「そして、風向きを教えた男がいる」


 榊の声が低くなる。


「久遠院か」


 クラウディオはすぐには答えなかった。


 モニターには、久遠院のコメントが並んでいる。


 火刑台とは、火を置く場所ではなく、誰が燃えてよいかを共同体に確認させる場です。


 告発者が嘘をついていない場合、断罪はより強固になります。


 現代では、火刑台は物理的な構造物である必要がありません。


 どれも正しい。


 あまりにも正しい。


 クラウディオは低く言った。


「久遠院は火をつけたとは限らない」


 榊は黙って聞く。


「だが、どこに薪を置けばよく燃えるかは知っていた」


 ルストが短く言う。


「解説者の顔で」


「火刑台の組み方を教えていた」


 クラウディオの声は冷えきっていた。


「正しい言葉ほど、人を動かしやすい。久遠院の言葉は、火を消す水じゃない。風だ」


 澪奈が小さく呟いた。


「分析が、誘導にもなる」


「そうだ」


 榊は厳しい顔で腕を組んだ。


「証拠は」


「まだ足りない」


「なら、久遠院を黒とするのは早い」


「誰が黒と言った」


 クラウディオの目が榊へ向く。


「俺は嫌っているだけだ。嫌悪と証拠を混ぜるほど愚かではない」


 ルストが静かに見る。


 クラウディオは、今それを自分へも言っているのかもしれなかった。


 火刑台の過去。


 菓子屋の女性。


 魔女という名札。


 何もできなかった少年。


 それらが今の事件と重なる。


 それでも、クラウディオは証拠を見ると言っている。


 燃える感情を、火刑台に載せないために。


 ルストは低く問う。


「お前は、今の事件を解いているのか」


 クラウディオは資料から目を離さない。


「他に何を解く」


「過去の火だ」


 クラウディオの指が止まった。


 短い沈黙。


 榊も澪奈も口を挟まない。


 クラウディオは答えなかった。


 否定もしなかった。


 ただ、低く言う。


「事件の話をしている」


 ルストはそれ以上問わない。


「分かった」


「分かった顔をするな」


「していない」


「嘘が下手だ」


「知っている」


 クラウディオは、ほんのわずかに目を細めた。


 だが、その一瞬のあと、すぐに資料へ戻った。


 榊は咳払いをした。


「警察として整理する。実行犯、告発者、拡散、怪異、久遠院の誘導疑い。全部が絡む。だが立件できるのは、証拠のある部分だけだ」


「怪異を逮捕できるなら苦労しない、か」


 クラウディオが言う。


 榊は眉を寄せる。


「その通りだ」


「なら、怪異に食わせた人間の方を見るしかない」


 澪奈が頷いた。


「火をつけた者。紙片を置いた者。告発者の証言を汚染した経路。SNSへの初期拡散。久遠院顧問のコメントが警察発表に影響した時系列。その全部を重ねます」


 クラウディオは言った。


「火をつけた奴と、薪を運んだ奴と、風を送った奴がいる」


 榊が頷く。


「それぞれを見る」


「間違えるな。全員が同じ罪ではない」


「分かっている」


「分かっているならいい。分かっていない人間のせいで、また燃える」


 その時、録音機が勝手に再生を始めた。


 赤いランプ。


 低いノイズ。


 群衆の声が、薄く流れる。


 魔女。


 正義だ。


 守るためだ。


 燃やせ。


 声は、最初はばらばらだった。


 告発者の泣き声。


 SNSの機械音声。


 報道番組の読み上げ。


 警察発表の録音。


 それらが少しずつ混ざり、火刑台の広場の声のように変わっていく。


 澪奈が録音機を見た。


「また勝手に」


 ルストはクラウディオの横に立った。


 触れない。


 ただ、そこにいる。


 クラウディオは録音機を見ない。


 顔も変えない。


 群衆の声の中に、ひとつ、穏やかな声が混ざった。


『正しいと思うなら、人は火を怖がりません』


 久遠院怜司の声に似ていた。


 だが、本当に久遠院の声なのか、怪異が作った声なのかは分からない。音声は歪み、輪郭が曖昧だった。言葉だけが、嫌になるほど明瞭だった。


 榊が息を止める。


 澪奈が波形を保存する。


 ルストはクラウディオを見る。


 クラウディオは画面を見ずに、低く言った。


「まだ名前を貼るな。俺たちまで火刑台に乗る」


 その声は、静かだった。


 だが、部屋の誰よりも火刑台を知っている者の声だった。


 録音機の赤いランプが消える。


 部屋には、焦げた匂いだけが残る。


 クラウディオは、久遠院のコメント履歴を閉じた。


 そして、吐き捨てるように言った。


「やっぱり、あいつは嫌いだ」


 誰も否定しなかった。


 ただ、まだ犯人とは呼ばなかった。


 火刑台に新しい札を貼らないために。




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