第36話 泣く告発者
泣いている人間の声は、録音機の中で妙に大きく聞こえる。
霧杜中央署の面談室は、過度に白かった。壁も、机も、椅子も、天井の蛍光灯も、何もかもが薄い白で整えられている。清潔であるはずの色は、長く見ていると人の顔色まで奪っていく。机の中央には録音機が置かれ、赤いランプが静かに点っていた。その横にはティッシュの箱、未開封の水のペットボトル、事情聴取用の書類が並んでいる。
部屋の隅には榊悠真が立っていた。壁にもたれず、腕も組まず、必要以上に威圧しない距離を保っている。白石澪奈は端末と記録用紙を手元に置き、机の斜め横に座っていた。証言者の視界に入る位置だが、正面ではない。正面に座るのは、泣いている女性と向き合う役目を負う刑事だった。
ルスト・ヴァルレインは扉のそばに立っている。
二百二十センチ級の巨躯は、狭い面談室に似合わない。灰銀の髪も、鋼色の瞳も、白い壁の中では異物めいて見えた。それでも彼は、できる限り気配を抑えている。泣いている者へ不用意な圧をかけないように。怯えている者へ、さらに恐怖を重ねないように。
クラウディオ・ルジェリウスは、窓のない壁際に立っていた。
座らない。
黒いシャツの襟は高く、袖は手首まで下りている。昨日の壁際の抱擁も、その前に残された痕も、布の下に隠れている。顔は整っている。口元にも、いつもの皮肉が戻っているように見えた。
だが、火の匂いの現場から続く沈黙は、まだ完全には消えていない。
彼は、泣いている女性を見ていた。
女性は三十代半ばほどに見えた。地味な灰色のカーディガンに、膝丈のスカート。化粧は薄く、髪は後ろでひとつにまとめている。指先は震え、膝の上に置いたハンカチは、もう何度も握りしめられたせいで皺になっていた。
目元は赤い。
鼻をすする音が、小さく部屋に落ちる。
彼女は、自分の名前を言ったあと、しばらく声を詰まらせた。
「すみません……うまく、話せなくて」
面談役の刑事が、柔らかい声で言う。
「急がなくて大丈夫です。ここでは、あなたが見たこと、聞いたことを順番に確認します」
女性は何度も頷いた。
頷くたび、涙が一粒ずつ落ちる。
ルストの視線が少しだけ揺れた。
泣いている者を、すぐに疑うことはできない。
それは彼の弱さではなく、古い倫理だった。怯えている者は守る。泣いている者を踏みつけない。傷ついている者へ不用意に刃を向けない。彼の中には、そういう線がある。
クラウディオは、その線を知っている。
そして、その線が誰かに利用される可能性も知っている。
女性は、嗚咽を押し殺しながら話し始めた。
「私、本当に怖かったんです。あの人、ずっと変だったから……」
榊の目が細くなる。
澪奈は記録を取り始めた。
「あの人、というのは、資料館で亡くなった女性のことですか」
「はい……そうです。近所では、有名でした。古いお札とか、人形とか、よく持っていて。相談に来る人もいました。夜に、誰かと話しているみたいな声が聞こえたこともあります」
「あなたは被害者女性と直接話したことがありますか」
女性はハンカチを握りしめた。
「何度か……でも、ちゃんと話したのは、少しだけです」
「回数は覚えていますか」
「二、三回……いえ、もっとかもしれません。挨拶も入れたら」
クラウディオの視線が動く。
澪奈も小さく目を上げた。
回数が揺れる。
まだ嘘とは言えない。
人は緊張すれば記憶の数を間違える。怖かった話をする時、細部が揺れることもある。人間の記憶は法廷資料ではない。もっと雑で、都合よく、傷つきやすい。
だが、揺れた場所は記録する。
そこに意味が生まれるかもしれないからだ。
女性は続ける。
「あの人に睨まれてから、母が倒れたんです」
面談役の刑事が問う。
「睨まれた、というのは」
「スーパーの帰り道で……あの人が向こうから歩いてきて、私をじっと見て。それから、次の日に母が具合を悪くして」
「お母様の体調不良について、診断は」
「持病が悪化したって言われました。でも、あんなに急に悪くなるなんて……それに、その前にも、息子が熱を出して、夫の仕事もうまくいかなくなって」
彼女の声は震えていた。
嘘をついている声には聞こえない。
本当に怖かったのだろう。
本当に不幸が続いたのだろう。
本当に、そこへ意味を探してしまったのだろう。
不幸は、何も理由を言わずに来る。その理不尽さに耐えられない人間は、どこかに原因を見つけたがる。誰かの目。誰かの言葉。誰かの家。誰かの噂。人類、偶然というものを嫌いすぎる。だから神も悪魔も怪異も忙しくなる。迷惑な話だ。
ルストは女性を見る。
彼女は本当に怯えている。
だからこそ厄介だった。
完全な作り話なら、切れる。
だが、信じ込まされた恐怖は、嘘より強いことがある。
澪奈が静かに聞いた。
「被害者女性があなたやご家族に危害を加えた、具体的な行為はありましたか」
女性は唇を噛んだ。
「だから……睨まれて」
「それ以外には」
「変なことを言われました。『気をつけた方がいい』って」
「どのような状況で」
「町内の集まりで……私が、最近ついてないって話をしたら、あの人が近づいてきて。気をつけた方がいい、家の中の古いものを見直した方がいいって」
榊が少し顔を上げた。
「家の中の古いもの?」
「はい。でも、普通そんなこと言いますか。怖いじゃないですか。まるで、何か見えているみたいで」
クラウディオの唇が、ほんのわずかに歪む。
助言かもしれない。
脅しにも聞こえる。
受け取る側の恐怖が、言葉の形を変える。
榊は慎重に言った。
「その言葉は、脅迫だと感じましたか」
「分かりません。でも、怖かったんです」
「その後、誰かに相談しましたか」
「はい。地域の掲示板で……少しだけ。あの人、怖いって。そうしたら、他にも同じように思っている人がいて。魔女みたいだって、誰かが……」
澪奈の指が止まった。
クラウディオも目を上げる。
ルストの視線が女性から澪奈へ移った。
榊が問う。
「今、魔女という言葉が出ましたね」
女性は目を見開いた。
「あ、いえ……その、紙片に、そう書いてあったってニュースで見て」
「ニュースで見た後に、そう思った?」
「はい……そうです」
澪奈は端末を見た。
「確認します」
女性が震える。
「私、何か変なこと言いましたか」
榊はすぐには答えない。
澪奈が、投稿時刻と報道時刻を開いた。細かい特定手順は言葉にしない。ただ、時刻と文面を比較する。警察発表が紙片の文字を公表する前、地域掲示板に「魔女みたい」という語が出ている。さらに、その言い回しは、今の女性の証言と似ていた。
完全一致ではない。
同じ人物と断定はできない。
だが、無視できない。
澪奈は静かに言った。
「紙片の内容が報道される前に、“魔女”という語が地域掲示板に出ています」
女性の顔が白くなる。
「そんな……私、覚えていません」
「この言い回し、あなたの証言と似ています」
「私じゃないです。たぶん、他の人が……みんな言っていました。あの人は魔女みたいだって」
クラウディオが、そこで初めて口を開いた。
「“みんな”とは便利な火種だな」
女性がびくりと肩を揺らす。
ルストが低く言った。
「クラウディオ」
クラウディオはルストを見ない。
女性だけを見る。
「最初に言った人間が消える。責任が薄まる。あとは“みんなが言っていた”で済む」
女性の目から、また涙がこぼれた。
「私、怖かっただけなんです……本当に。あの人が何かしたんじゃないかって。母も、息子も、夫も、みんなおかしくなって。誰かに聞いてほしかっただけで……」
ルストが一歩動いた。
彼女を庇うように、わずかに前へ出る。
「クラウディオ。言い方を考えろ」
クラウディオの目が、ようやくルストへ向いた。
「何を」
「彼女は怯えている」
「見れば分かる」
「泣いている」
「だから何だ」
その言葉は冷たかった。
面談室の空気が凍る。
ルストの表情がわずかに険しくなる。
クラウディオは女性へ視線を戻した。
「泣けば正しいと思うな」
低く、静かな声だった。
怒鳴らない。
叫ばない。
ただ、その一言が、机の上の録音機よりも鮮明に部屋へ落ちた。
女性の涙が止まったように見えた。
榊も、澪奈も、ルストも、一瞬黙る。
クラウディオは続けた。
「涙は証拠じゃない。怯えていることと、真実を話していることは別だ」
「そんな……私、嘘なんて」
「嘘をついているとは言っていない」
クラウディオの声はさらに冷える。
「お前が怖かったことは、本物かもしれない。だが、お前が怖かったことと、あの女が魔女だったことは繋がらない」
女性の唇が震える。
「でも、あの人のせいで」
「証拠は」
その言葉に、女性は何も言えなかった。
クラウディオは机の上のティッシュ箱を見る。
「被害者の顔をした人間が、誰かを火刑台へ押し上げることもある」
ルストが低く言う。
「彼女が泣いているのは本当だ」
クラウディオは短く返した。
「涙が本物なら、言葉まで本物になるのか」
ルストは黙った。
その沈黙は、反論できない沈黙だった。
泣いている者を守りたい。
それは間違っていない。
だが、その涙の影で、死んだ女性がさらに燃やされるなら。
守るべき者は、誰だ。
泣いている告発者か。
もう泣くこともできない被害者か。
その両方か。
ルストは、女性から録音機へ視線を落とした。
赤いランプが点っている。
涙も、言葉も、沈黙も、すべて記録されている。
澪奈が、端末の画面を切り替えた。
「時系列を確認します。あなたが地域掲示板へ書き込んだかどうかは、ここでは断定しません。ただ、“魔女”という語は、警察が紙片の内容を公表する前から出ています」
女性はハンカチを握りしめる。
「私は……覚えていません。本当に。誰かが言っていて、それを見たのかもしれないし……私が、少し、書いたのかもしれない。でも、そんなつもりじゃ」
榊が問う。
「あなたは、紙片が報道される前に“魔女”という言葉を使いましたか」
女性は泣いた。
答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
人は、自分が火をつけた瞬間を覚えていないことがある。
特に、火をつけたつもりがなかった場合は。
彼女は、本当に誰かを殺したかったわけではないのかもしれない。
だが、火刑台へ薪を一本置いた可能性はある。
それを罪と呼ぶには、まだ証拠が足りない。
だが、無関係と呼ぶにも、もう遅い。
その時、面談室の照明が一瞬だけ揺れた。
蛍光灯が、ちか、と白く瞬く。
録音機にノイズが入った。
ざ、と低い音。
女性が「魔女」と言った時の波形が、画面の上で不自然に跳ねる。
澪奈が顔を上げた。
榊が扉の方を見る。
ルストの目が細くなる。
火の匂いがした。
誰も火を使っていない。
面談室には、炎も煙もない。
それでも、焦げた紙のような匂いが、ほんの微かに鼻の奥をかすめた。
クラウディオは、女性ではなく録音機を見た。
「泣き声まで薪にする気か」
女性が小さく息を呑む。
「な、何ですか、今の」
ルストは一歩、彼女の方へ動いた。
「落ち着け」
クラウディオが言う。
「火刑台は、泣いた声も燃料にするらしい」
澪奈は端末を確認する。
「波形が跳ねています。彼女の“魔女”という発言に反応したように見えます。録音機側の異常か、室内環境の影響かはまだ」
「怪異の反応だ」
ルストが言った。
榊は眉を寄せる。
「告発の声を餌にしている?」
「涙もだ」
クラウディオの声は冷たい。
「泣いているから正しい。怯えているから守られるべき。守られる者の言葉だから疑ってはいけない。そうやって火が増える」
女性は、ますます泣いた。
「私、そんなつもりじゃ……ただ、怖かっただけで……みんなを守りたかっただけなんです」
クラウディオの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「誰を守りたかった」
「え……?」
「みんなとは誰だ。母親か。息子か。夫か。地域か。お前自身の評判か」
ルストがまた言う。
「クラウディオ」
「必要な確認だ」
クラウディオは退かない。
「“守りたかっただけ”は美しい言葉だな。何でも包める。恐怖も、憎しみも、噂も、保身も」
女性は首を振る。
「違います。私は……本当に」
「本当に怖かった」
クラウディオが言葉を引き取る。
「それは分かった」
女性は息を詰める。
「だが、怖かった人間が正しいとは限らない」
ルストは、女性を見た。
彼女は震えている。
本当に怯えている。
それは間違いない。
だが、クラウディオの言葉も間違っていない。
ルストの中で、何かが静かに軋んだ。
泣く者を守る。
その線は必要だ。
だが、その線だけでは足りない。
泣いている者の言葉が、別の誰かを焼くなら。
そこには証拠が必要だ。
ルストは低く言った。
「証拠を見る」
クラウディオが、ようやくルストを見た。
ほんの少しだけ、目が細くなる。
「やっとだ」
その短いやり取りに、女性はまた泣きそうな顔をした。
だが、今度は誰も、その涙だけで話を止めなかった。
榊は椅子を引き、机に向き直る。
「整理する。あなたは被害者女性を怖いと思っていた。実際に家族の不調や不幸が続いた。だが、それが被害者女性の行為によるものだという証拠はない」
女性は震えながら頷く。
「“魔女”という言葉を、紙片の報道前に使った可能性がある。あなたは覚えていないと言っている。そこは確認する」
頷きが小さくなる。
「あなたが完全な嘘をついているとは、現時点では言えない。だが、あなたの言葉が被害者女性への死後の断罪に影響している可能性がある」
女性は顔を覆った。
「私……そんなつもりじゃ……」
榊は声を荒げなかった。
「その“つもり”も含めて確認する」
澪奈は録音機のデータを保存し、別画面を開いた。
「告発者女性の証言時刻、地域掲示板の投稿時刻、報道発表時刻、SNS上での“魔女”という語の拡散時刻を照合します。現時点では、複数の線が重なっています」
クラウディオは淡々と言う。
「線が重なる場所に火が置かれている」
ルストが問う。
「誰が置いた」
「泣いた女かもしれない。紙片を置いた奴かもしれない。声を拾った怪異かもしれない。あるいは、全部を眺めている奴かもしれない」
「久遠院か」
「証拠はない」
クラウディオは即答した。
「ただ、泣く役まで用意していたような構造だな」
その時、榊の端末が震えた。
警察庁共有資料。
久遠院怜司からのコメントだった。
榊は画面を読み、眉をひそめる。
「久遠院顧問からだ」
クラウディオは嫌そうに目を細めた。
「よく燃える場所にだけ水を差す顔をして現れるな」
榊は読み上げた。
「涙は、真実の保証ではありません。ただし、共同体は涙を真実の代用品として扱いやすい」
面談室は静まり返った。
告発者女性は、まだ顔を覆って泣いている。
榊は続ける。
「泣く告発者は、断罪構造において非常に強い役割を持ちます。彼女自身が嘘をついているとは限りません。信じ込まされた証言ほど扱いにくいものはありません」
クラウディオは低く笑った。
嫌悪だけがこもった笑いだった。
「よく分かっているな。気味が悪いほど」
ルストが見る。
クラウディオは続けた。
「泣く役まで用意していたような言い方だ」
榊は端末を閉じた。
「久遠院を犯人と見るには、まだ何もない」
「分かっている」
クラウディオの声は短い。
「分かっているから癪なんだろう」
面談は一度中断された。
女性は別室で休ませることになった。ルストは、彼女が立ち上がる時に、椅子の脚が床に引っかかるのを見て、無意識に一歩動いた。彼女が転びかける前に、近くの女性職員が支える。
女性はルストを見上げ、泣き腫らした目で小さく頭を下げた。
ルストは、何も言わなかった。
彼女は守られるべき人間でもある。
だが、彼女の言葉で燃える死者もいる。
その両方を、今は見なければならない。
扉が閉まったあと、面談室に残ったのは、榊と澪奈、ルスト、クラウディオだけだった。
澪奈は録音データを再確認している。
「彼女の泣き声が入った部分、ノイズが増えています。“魔女”という語の直後が特に強いです」
榊は机に手をついた。
「告発の声と泣き声を餌にしている」
クラウディオは、画面を見ずに言った。
「火刑台に必要なのは、怒鳴る声だけじゃない。泣いて訴える声もよく燃える」
ルストはクラウディオを見る。
「お前は、彼女を責めたいわけじゃない」
クラウディオは少しだけ眉を動かした。
「今さら何だ」
「確認だ」
「お前の確認はいつも遅い」
「そうか」
ルストは、告発者が座っていた椅子を見た。
「彼女は怖かった」
「そうだろうな」
「だが、証拠ではない」
「やっと学んだか」
クラウディオは、ひどく薄く笑った。
その笑みは、勝利の笑みではない。
むしろ、また人間の面倒な構造を一つ確認してしまったような、苦いものだった。
その日の夕方、告発者女性の証言の一部が外へ漏れた。
誰が流したのかは、まだ分からない。
映像ではない。
だが、音声の一部とされるものが、短く切り取られて拡散されていた。
怖かったんです。
あの人は、本当に魔女みたいで。
私は、みんなを守りたかっただけです。
画面には、彼女の泣き声が添えられていた。
すぐに見出しがつく。
告発者女性、涙の証言。
魔女と呼ばれた被害者に新証言。
周囲に被害訴え。
怪異を呼んだ可能性。
文字は増える。
声は増える。
死んだ女性の名前は、また少し遠ざかる。
保管庫では、「魔女」と書かれた紙片が証拠袋の中にあった。
澪奈が送ってきた監視映像には、何も触れていないはずの紙片が映っている。照明条件か、カメラの補正か、それとも本当にそうなのか、文字がわずかに濃くなったように見えた。
録音機には、群衆の声が重なっていた。
魔女。
魔女。
魔女。
その中に、告発者の泣き声も混じっていた。
最初は嗚咽だった。
次第に、断罪の声と区別がつかなくなっていく。
工房《箱庭》の作業台で、その映像を見ていたクラウディオは、画面を見なかった。
ただ、低く言った。
「泣き声まで、よく燃える」
奥の箱庭の園で、止まっていたはずのゼンマイが、一度だけ鳴った。




