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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第3部 火刑の街

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第35話 壁際の抱擁



 録音データは、三度目の再生でも同じように歪んだ。


 霧杜中央署の会議室には、昼を過ぎても重い空気が沈んでいた。蛍光灯は白く、机の上には資料が積み上げられている。民俗資料館地下展示室の現場写真。被害者女性の生活記録。怪異相談に関するメモ。現場から回収された「魔女」と書かれた紙片の拡大画像。紙片裏の波形。鍵穴傷との比較資料。SNS上で拡散された音声付き動画の解析結果。警察庁外部顧問・久遠院怜司のコメント。


 どれも紙と画面の上では冷静な顔をしていた。


 だが、その下にあるものは、火だった。


 火元のない焼死体。


 燃えていない周囲。


 被害者だけが焼けた地下展示室。


 死体のそばに落ちていた紙片。


 魔女。


 その二文字は、現場から離れても燃え広がっていた。報道で、匿名の画面で、切り取られた警察発表で、住民の曖昧な証言で、被害者女性は死後も名を焼かれ続けている。火は消えた。だが、断罪は終わっていない。


 榊悠真は、会議室の正面モニターを睨んでいた。


 そこには、録音データの波形が映っている。


 地下展示室で採取された音。


 初めは低いノイズに見えた。だが解析を進めると、複数の声らしき揺れが重なっていることが分かった。そこへ、報道音声やSNS上の動画から拾われたものと似た成分が混じっている可能性が出てきた。


 世論が、怪異に食われている。


 そう言えば簡単だ。


 だが、あまりに簡単すぎて腹が立つ。人間が勝手に燃やした声を、怪異が拾って火刑台を組み直している。最低の共同作業である。もう少しマシな共同作業を覚えろ。花壇の水やりとか。


 白石澪奈は端末を操作した。


「もう一度、音量を落として流します」


 榊が頷く。


 会議室の空気が、わずかに張る。


 スピーカーから、ざ、というノイズが流れた。


 低い音。


 古い録音機の底から剥がれてくるような揺れ。


 そこへ、声が重なった。


 魔女。


 魔女。


 魔女。


 一人ではない。


 複数の声がある。若い声。老いた声。怒った声。怯えた声。面白がっているような声。正義のつもりで濁った声。誰かが言い、それを誰かが真似し、やがて誰が最初だったのか分からなくなる。


 魔女。


 燃やせ。


 清めろ。


 澪奈の手が止まる。


 榊が険しい顔をする。


「前回より、はっきりしていないか」


「はい。波形上も強くなっています。特に、報道直後と、SNS上で『魔女』という語が急増した時間帯以降の録音データに、声の層が増えています」


 会議室の隅にいた若い刑事が、思わず言った。


「投稿に反応しているんですか」


 澪奈は、簡単に頷かなかった。


「断定はできません。ただ、現場録音の変化と、外部情報の拡散タイミングに相関が見えます。偶然の可能性もあります」


 クラウディオ・ルジェリウスは、窓際に立っていた。


 黒いシャツの襟は高く、袖は手首を隠している。いつものように整った姿だった。けれど、朝の工房で紅茶を飲んでいた時より、さらに静かだった。


 静かすぎる。


 ルスト・ヴァルレインは、会議室の後方からクラウディオを見ていた。


 灰銀の髪は蛍光灯の光を鈍く受け、鋼色の瞳は正面モニターではなく、クラウディオの横顔に向いている。


 火の匂いは、ここにはないはずだった。


 だが、資料の紙の匂い、端末が熱を持つわずかな匂い、誰かが淹れたコーヒーの焦げた香り、空調の乾いた風、そのどれかが、火刑台の残響へ繋がっている。


 クラウディオの指先が止まっていた。


 資料を持つでもなく、端末に触れるでもなく、ただ少し曲げたまま動かない。


 呼吸が浅い。


 目はモニターを見ているようで、見ていない。


 澪奈が再生を止めようとした時、録音の奥から、別の声が出た。


 証拠は?


 クラウディオの声に似ていた。


 だが、今のクラウディオは何も言っていない。


 会議室の全員が、一瞬、クラウディオを見た。


 その視線が悪かった。


 本人が何かをしたと疑ったわけではない。だが、怪異が彼の声を拾っているという事実が、また彼を事件の中心へ引きずる。本人の意思とは関係なく、声まで使われる。言葉まで火にくべられる。


 クラウディオは表情を変えなかった。


 だが、ルストには分かった。


 彼は、会議室にいない。


 意識の一部が、別の場所へ引きずられている。


 赤い光。


 石畳。


 広場に集まる足音。


 祈りの声と罵声が混ざる。


 魔女、と叫ぶ声。


 焼けた砂糖の匂い。


 菓子屋の窓。


 白い手袋の指。


 炎の前に、名前が汚される感覚。


 火そのものより、火を見る人間の目が怖い。


 見ていろ。


 燃やせ。


 清めろ。


 皆が言っている。


 魔女だ。


 証拠は?


 その言葉さえ、群衆の声に呑まれていく。


 クラウディオの足が、わずかに後ろへ下がった。


 誰も気づかないほど小さな動き。


 ルストだけが見た。


 クラウディオは、会議室から逃げようとしているのか。


 それとも、火刑台へ近づこうとしているのか。


 本人にも分かっていないのだろう。


 榊がモニターを見たまま言う。


「録音データの群衆の声は、SNSや報道音声を取り込んで増幅している可能性がある。現場外の声を餌にしているなら、拡散を止めない限り強くなる」


 澪奈が頷く。


「紙片の黒赤い粒も再確認中です。被害者女性の部屋からは、同系統の粒はまだ出ていません。つまり、紙片自体が現場外から持ち込まれた可能性があります」


「被害者が自分で作ったものではない可能性が高い、か」


「高い、とまではまだ。ただ、少なくとも断定はできません」


 榊は低く息を吐いた。


「断罪の声を集めて、紙片に繋げる。被害者を加害者に見せる」


 クラウディオが、かすかに笑った。


 笑みではない。


 喉の奥で、冷たい息が動いただけだった。


「火刑台を組んでいる」


 会議室の声が止まる。


 榊が見る。


「誰が」


 クラウディオは答えようとした。


 だが、その瞬間、録音機の中の声が強まった。


 魔女。


 燃やせ。


 清めろ。


 見ていろ。


 見ていろ。


 見ていろ。


 その声が、広場の声に重なった。


 石畳。


 赤い光。


 人々の影。


 甘い匂い。


 焼けた砂糖。


 白い手袋。


 何も言わない誰か。


 クラウディオの視線が、遠くなった。


 ルストは動いた。


 会議室の空気を切るように、クラウディオへ近づく。


 誰かが呼び止めるより早く、ルストはクラウディオの腕を取った。


 強くはない。


 だが、逃がさない力だった。


 クラウディオは反射的に振り払おうとした。


「何を――」


 言葉が最後まで出ない。


 ルストは低く言った。


「出るぞ」


 返事を待たなかった。


 クラウディオを会議室の外へ連れ出す。


 榊が一歩踏み出したが、止まった。


 澪奈も何か言いかけて、言わなかった。


 扉が閉まる。


 会議室の声が、薄い壁の向こうへ遠ざかった。


 署内の廊下は、人が少なかった。


 午後の会議時間帯で、ほとんどの職員は部屋の中にいる。資料室へ続く通路は白く、蛍光灯の光が平坦に落ちていた。遠くでプリンターの動く音がする。空調が乾いた風を吐く。外の街の音は届かない。ここに火はない。人の群れもない。広場もない。


 だが、クラウディオの呼吸は戻っていなかった。


 彼はルストの手を振りほどこうとした。


「離せ」


 声は低い。


 怒っている。


 だが、そこにいつもの余裕はない。


 ルストは離さなかった。


 廊下の角を曲がり、資料室の手前、監視カメラの死角にはならないが人目の少ない壁際で、ルストはクラウディオを止めた。


 壁へ叩きつけるのではない。


 逃げ道を塞ぐように。


 壁と自分の身体の間に留めるように。


 片手でクラウディオの肩を押さえ、もう片方の手を壁についた。クラウディオの横を抜ける隙間を塞ぐ。距離は近い。額が触れそうなほどではないが、息が届く。


 クラウディオは壁に背を預けなかった。


 逃げようと身を引く。


 だが、引く先がない。


 ルストは低く告げた。


「逃げるな」


 その言葉が、廊下の白い壁に落ちた。


 クラウディオの目が、ようやくルストを捉える。


「逃げていない」


「嘘だ」


「知ったような口を利くな」


「知らない」


 ルストは退かない。


「だから見ている」


 クラウディオの喉が、わずかに動いた。


 怒りがそこに来た。


 羞恥もある。


 見られたくないものを見られた苛立ち。


 過去へ引きずられているところを見られた不快。


 そして、見られているのに完全に拒めないことへの、もっと嫌な苛立ち。


「お前はいつも、それで済ませる気か」


「何を」


「知らない。聞かない。見ている。便利な言葉だな」


「便利なら使う」


「開き直るな」


「今のお前は、現場からも過去からも逃げている」


 クラウディオの目が冷えた。


「過去など見ていない」


「見ていた」


「断定するな」


「火を見ていた」


「火はない」


「お前の中にある」


 クラウディオは押し返そうとした。


 肩に力が入る。


 ルストは、その力を受け止めた。


 強く押さえつけるのではない。


 ただ、逃げる方向だけを消す。


「離せ」


「離さない」


「命令か」


「違う」


 ルストは少しだけ距離を詰めた。


「停止だ」


 クラウディオは、ひどく嫌そうに笑った。


「人を機械扱いするな」


「今は似たようなものだ」


「殴るぞ」


「戻ってからにしろ」


 クラウディオの反論が止まった。


 戻ってから。


 つまり、今はまだ戻っていない。


 それを、ルストは分かっている。


 クラウディオ自身も、分かっている。


 認めたくないだけだ。


 廊下の蛍光灯が、じり、と低く鳴った。


 その音が、群衆のざわめきに似て聞こえたのか、クラウディオの目が一瞬揺れた。


 ルストは、すぐに腕を動かした。


 クラウディオを壁際に留めたまま、抱きしめる。


 甘い抱擁ではなかった。


 慰めでもない。


 肩を包み、背へ腕を回し、逃げる隙間を塞ぐ。身体ごと、今の廊下へ固定する。火刑台の残響へ戻らせないための抱擁だった。


 クラウディオの身体が硬くなる。


「何の真似だ」


 ルストは答えない。


「離せ」


 ルストは離さない。


 クラウディオは押し返そうとする。だが、手はルストの胸元を押す前に止まり、服を掴む形になった。本人も気づいたのか、すぐに離そうとする。


 ルストは何も言わない。


 ただ、腕の中に留める。


 締め上げない。


 痛めない。


 逃げ道だけを塞ぐ。


「息をしろ」


 ルストが言った。


 クラウディオは、低く返す。


「命令するな」


「命令だ」


「傲慢な男だな」


「今は従え」


 クラウディオは睨もうとした。


 だが、視線がすぐに逸れる。


 呼吸がまだ浅い。


 喉の奥に、火の匂いが残っている。


 ルストの服に顔を埋めるようなことはしない。そんな素直なことをする男ではない。人類が期待するほど可愛げはない。吸血鬼としても大変面倒な個体である。


 それでも、クラウディオは逃げなかった。


 逃げようとして、止まった。


 腕の中で硬くなったまま、少しずつ呼吸を戻していく。


 廊下の蛍光灯の音。


 空調の風。


 遠くのプリンター。


 壁の冷たさ。


 ルストの腕。


 現代の署内の匂い。


 それらが、少しずつ火刑台の声を遠ざける。


 クラウディオは、低く漏らした。


「火は、燃える前から始まっている」


 ルストは何も聞かない。


 ただ聞く。


「名前を汚される方が先だ」


 声は淡々としていた。


 だが、その奥は乾いていた。


「魔女と呼ぶ。呪ったと言う。気味が悪いと言う。救ったことは消える。触れた手は消える。笑った声は消える。あとは、燃やすだけで済む」


 ルストの腕に、ほんの少しだけ力が入った。


 クラウディオは続けた。


「燃やした奴らは、自分が祈っている顔をしていた」


 ルストは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 それが誰の話かは、聞かない。


 菓子屋の女性か。


 過去に失った誰かか。


 彼女か。


 火刑台の残響か。


 まだ名前をつけない。


 今、名前をつければ、そこからまた何かが燃える。


 ルストは短く言った。


「今は証拠を見る」


 クラウディオの指が、ルストの服を掴んだまま止まる。


「過去じゃない。今の事件だ」


「……分かっている」


「燃やした奴を見る」


 クラウディオは笑った。


 声にならない笑いだった。


「誰が燃やした」


「探す」


「火をつけた奴か。薪を運ばせた奴か。見物人か。札を貼った奴か。祈った奴か」


「全部だ」


 クラウディオは黙った。


 少しだけ、呼吸が深くなる。


 ルストは、最後に言った。


「お前が燃えるな」


 クラウディオの身体が、わずかに強張った。


 それから、怒ったように息を吐く。


「誰が燃えるか」


「今、燃えかけていた」


「勝手に見積もるな」


「見ていた」


「だからお前は嫌なんだ」


「知っている」


 ルストは腕を緩めた。


 完全には離さない。


 クラウディオが明確に押し返せるだけの隙間を作る。


 クラウディオは一拍遅れて、ルストの服から手を離した。


 すぐに襟元を整える。


 何事もなかった顔を作る。


 だが、呼吸は戻っていた。


 ルストはそれを確認して、ようやく身を引いた。


 クラウディオは壁から離れ、少しだけ乱れた袖を直す。


「人の呼吸を勝手に管理するな」


「必要だった」


「お前の必要はだいたい雑だ」


「戻った」


「最初から戻っていた」


「嘘が下手だ」


「お前に言われる筋合いは、今後もない」


 いつもの返しが戻ってきた。


 ルストは、少しだけ目を伏せた。


 クラウディオはそれを見て、嫌そうに顔を歪める。


「安心した顔をするな」


「していない」


「嘘が下手だ、灰銀」


「お前もな」


 クラウディオは舌打ちに近い息を吐き、会議室の方へ歩き出した。


 足取りは安定している。


 ただ、まだ少しだけ遅い。


 ルストは、その半歩後ろを歩いた。


 会議室へ戻ると、榊と澪奈が資料を広げていた。二人とも、何かを聞きたそうにはしたが、聞かなかった。クラウディオの顔を見て、今は事件を進める方がいいと判断したのだろう。賢明だ。やっと人類が空気を読む訓練を始めた。


 榊はモニターを指した。


「録音データの追加解析だ。群衆の声は、SNSに投稿された音声やニュース音声の一部を取り込んで増幅している可能性がある」


 澪奈が続ける。


「完全に同一音源とは言えません。ただ、波形の一部に一致しそうな箇所があります。特に『魔女』という語が拡散された直後、現場録音内の群衆ノイズが強まっています」


 クラウディオは椅子に座らなかった。


 モニターの前へ立つ。


「断罪が餌になっている」


 澪奈は、慎重に頷いた。


「可能性です」


「それでいい」


 榊は資料をめくる。


「紙片の黒赤い粒だが、被害者の部屋からは今のところ同系統の痕跡は出ていない。つまり、紙片は被害者周辺ではなく、現場外から持ち込まれた可能性がある」


「被害者が自分で用意したと見るには弱い」


「ああ」


 澪奈は紙片裏の波形を表示した。


「裏面の波形には、クラウディオさんの『証拠は?』に似た声だけでなく、群衆の『魔女』という声の成分も組み込まれているように見えます。あくまで解析上の可能性ですが」


 クラウディオは目を細めた。


「火刑台を組んでいる」


 榊が問う。


「誰が」


 クラウディオは、今度は答えた。


「火をつけた奴と、薪を運ばせた奴は同じとは限らない」


 榊が黙る。


 ルストはクラウディオを見る。


 クラウディオの声は冷静だった。


 戻っている。


 完全ではないが、現場に戻っている。


「直接被害者を殺した者。紙片を置いた者。血術核の残滓を用意した者。報道や投稿の声を餌として設計した者。全部が一人とは限らない」


 澪奈が眉を寄せる。


「実行犯と、構造を作った人物が別にいる可能性」


「そうだ」


 榊が低く言う。


「久遠院か」


 クラウディオは即座に返す。


「証拠はない」


 榊は少しだけ苦い顔をした。


「分かっている」


 クラウディオは、警察庁の共有資料を開いた。


 そこには、久遠院怜司の新しいコメントが追加されていた。


 断罪の再現、という語がある。


 クラウディオはその文字を見て、ひどく冷たい目をした。


「再現、ね」


 ルストが見る。


 クラウディオは低く言った。


「見世物にする言葉だ」


 久遠院のコメントは、やはり正しい。


 だが、正しいだけでは済まない。


 的確すぎる分析は、時に火刑台の設計図と区別がつかない。


 澪奈が録音データを止めた。


「再生を切ります」


 だが、音は止まらなかった。


 ざ、とノイズが続く。


 魔女。


 燃やせ。


 清めろ。


 声が重なる。


 会議室の全員がモニターを見る。


 澪奈が端末を確認する。


「再生は停止しています」


 それでも、スピーカーから声がする。


 魔女。


 燃やせ。


 清めろ。


 そして、その中に別の声が混じった。


 低く、短い声。


 逃げるな。


 ルストの声に似ていた。


 会議室の空気が止まる。


 ルストの表情がわずかに変わった。


 クラウディオは、画面を見なかった。


 ただ、低く言った。


「今度はお前の声か」


 ルストは答えない。


 クラウディオは続けた。


「火刑台は、観客の声まで拾うらしい」


 録音データの中で、群衆の声がまた揺れた。


 誰もいないはずの広場から、火のない炎が、こちらを見ていた。



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