34話 魔女狩りの再現
火は、消えたはずだった。
霧杜市立民俗資料館の地下展示室に、炎はもうなかった。石造りの壁は大きく焦げていない。展示ケースも割れていない。燃え残った紙片は、証拠袋に封じられて霧杜中央署の保管庫に移された。焼けた輪郭だけが床に黒く残り、被害者の身体は司法解剖へ回された。
火は、そこにはもうない。
だが、被害者の名前は、朝から燃え続けていた。
署内休憩室のテレビは、薄い音量でニュースを流している。画面には、民俗資料館の外観。規制線。集まる報道陣。顔を伏せて出入りする職員。短く切られた住民インタビュー。
近隣住民は、少し困ったような顔で言っていた。
『変わった方でしたね。古いお札とか、人形とか、そういうものをよく扱っていたみたいで』
別の画面には、ニュースサイトの見出しが流れる。
火のない地下展示室で女性死亡。
現場に「魔女」の紙片。
被害女性に怪異関連の噂。
呪いの相談をしていた?
被害者か、加害者か。
その下では、匿名の短い言葉が次々に流れていた。
やっぱり本当に魔女だったんじゃないか。
怪異を呼んだ本人では。
死んだ後に正体が分かっただけ。
誰かを呪って返ってきたんだろ。
火の怪異に焼かれたなら罰では。
投稿は、火の粉より早い。
誰かが打った短い言葉は、別の誰かの画面へ飛び、また別の誰かの指で増える。顔も名もない者たちが、それぞれほんの少しずつ火を足していく。誰も松明を握っていない。誰も広場に集まっていない。だが、火刑台は確かにそこにある。
画面の中に。
タイムラインの上に。
人間、火がなくても人を燃やせるようになった。文明とは便利な地獄である。
榊悠真は、休憩室の入口で足を止めた。
テレビの音声が、妙に耳障りだった。
『警察は、被害者の周辺に怪異関連の相談記録があったことを確認しており――』
榊はリモコンを取り、音量を下げた。
画面の中のアナウンサーの口だけが動く。音が消えると、余計に不気味だった。言葉がなくても、見出しだけで人は勝手に意味を読む。
白石澪奈は休憩室のテーブルに資料を置いた。手には端末。目元には寝不足の色が薄く出ている。
「発表文、切り取られています」
榊は低く息を吐いた。
「断定はしていない」
「はい。ですが、世間は断定したように読んでいます」
澪奈は端末を見せる。
警察発表の原文には、慎重な言葉が並んでいた。
被害者の周辺に怪異関連の相談記録があった。
現場の紙片との関連を調査中。
被害者と複数の相談者との接点を確認している。
事件に巻き込まれた経緯を慎重に調べている。
どれも、事実を述べているだけだった。
だが、見出しになると形が変わる。
怪異相談に関与か。
「魔女」の紙片との関連を調査。
複数の相談者と接点。
被害者に不可解な背景。
榊は画面を見て、苦い顔をした。
「言葉を選んでも、切り取られる」
「言わなければ、隠していると言われます」
「言えば燃える。言わなくても燃える」
榊は休憩室の窓へ目を向けた。
外は昼に近い明るさだった。署の駐車場には報道車両が増えている。民俗資料館の事件は、もう単なる怪異事件ではなくなっていた。世間は「魔女」という分かりやすい札を見つけた。そこに、被害者の過去や生活や趣味や孤独を貼りつけていく。
白石澪奈は、端末の画面を閉じた。
「まだ、被害者が加害側だった証拠はありません」
「分かってる」
「怪異関連の相談記録があることと、怪異を使ったことは違います」
「分かってる」
榊の声は荒くなかった。
だが、疲れていた。
「そこが混同されている」
「警察内部でもな」
澪奈は反論しなかった。
署内の空気も、外と完全に切り離されているわけではない。現場に「魔女」の紙片があり、被害者の周辺には怪異相談の記録があり、近所には「変わった人だった」という証言がある。人は、証拠と噂の間にある段差をよく踏み外す。しかも、踏み外している自覚がない。困ったものだ。転ぶなら一人で転べ。
休憩室のテレビが、無音のまま新しい見出しを映した。
死後に浮かぶ「魔女」の顔。
榊は、苛立ちを押し殺したようにリモコンを置いた。
「顔なんか、誰が作っているんだ」
その言葉に、澪奈は答えなかった。
答えは画面の中にあった。
報道。
匿名投稿。
警察発表の切り取り。
住民の証言。
現場の紙片。
怪異の声。
それらが、死んだ女性の輪郭を勝手に作り替えていく。
被害者ではなく、魔女へ。
死者ではなく、燃やされる理由のある者へ。
同じ頃、工房《箱庭》の奥でも、画面は燃えていた。
作業台の上に、複数の端末が置かれている。榊から送られてきた資料。澪奈の分析メモ。警察庁の共有コメント。報道の切り抜き。SNS上の投稿の記録。現場紙片の拡大写真。紙片裏の波形。鍵穴傷の線。旧放送室の録音波形。血術核の黒赤い粒の分析結果。
それらに囲まれて、クラウディオ・ルジェリウスは椅子に座っていなかった。
立っている。
紅茶も飲んでいない。
黒いシャツの襟は高い。袖は手首まで下りている。首筋も手首も隠されているが、その布の下に残る痕を、ルスト・ヴァルレインは知っている。
今日は、その痕の話をする時ではない。
ルストは工房の扉近くに立っていた。灰銀の髪が、薄暗い室内の光を鈍く受ける。彼の鋼色の瞳は端末ではなく、クラウディオの横顔を見ている。
クラウディオは、画面に流れる言葉を見ていた。
魔女。
呪い。
怪異相談。
罰。
自業自得。
正体が分かっただけ。
被害者女性の本名は、すでにいくつかの投稿で晒されていた。住んでいた地域も、過去の勤務先も、趣味も、近所での印象も、断片的に掘られている。どこまでが事実なのか分からない。だが、それを気にする者は少ない。小さな違和感は、魔女という札に貼られると急に証拠のような顔をする。
クラウディオは、低く言った。
「火刑台が画面に変わっただけだ」
ルストは、黙って彼を見る。
クラウディオの声は静かだった。
静かだから、冷たい。
「広場に集まらなくても、人は燃やせるらしい」
端末の画面が切り替わる。
被害者女性の部屋の写真。
警察資料だ。
古い木製の棚。民間信仰に関する本。いくつかの人形。相談者からの手紙らしき封筒。古い祈祷札。小さな箱。ひとり暮らしの部屋は、雑然としているが、荒れてはいない。
被害者女性は、完全な聖人でもなければ、今の時点で悪人でもない。
ただ、何かに関わっていた人間だった。
怪異相談を受けていた可能性がある。
誰かに救われたと言われていた可能性がある。
同時に、気味が悪いと避けられていた可能性もある。
その曖昧さごと、彼女は燃やされていた。
クラウディオは資料を見ながら言う。
「便利な時代だな。手を汚さずに魔女狩りができる」
ルストが短く問う。
「同じなのか」
クラウディオの指が、端末の縁で止まった。
彼は、しばらく画面を見たままだった。
それから言う。
「道具が変わっただけだ」
「火はない」
「ある。画面の向こうに」
ルストは、それ以上聞かなかった。
クラウディオの中で、火の匂いがまだ残っている。
焼けた砂糖の匂い。
優しい菓子の匂い。
菓子屋の女性の手。
王城で妾の子として嫌われていた少年時代。
そこまでは、ルストは知らない。
だが、火と魔女と冤罪が、クラウディオの過去に刺さっていることは分かる。
ルストは低く呼んだ。
「クラウディオ」
クラウディオは、少し遅れて目を動かした。
「戻っている」
また、少し遅い。
ルストは見逃さなかった。
だが、踏み込まない。
クラウディオは端末を操作し、被害者女性に関する警察資料を開いた。
「この女は怪異相談を受けていた」
「ああ」
「何人かは、救われたと言っている。何人かは、気味が悪いと言っている」
「両方あり得る」
「そうだ。人間はだいたい両方だ。誰かの救いになり、別の誰かの不快になる。珍しくもない」
クラウディオは、投稿欄へ視線を戻した。
「だが魔女と書けば、救われた者の声は消える。気味が悪いと思った者の声だけが証拠に見える」
ルストは、画面に流れる匿名の言葉を見た。
あんな人に相談する方が悪い。
怪異に関わったなら自己責任。
気味悪い人だったって証言あるじゃん。
やっぱり魔女。
クラウディオは、薄く笑う。
楽しそうではない。
「証拠の代わりに噂を積む。昔から何も変わらない」
その時、警察庁の共有画面に新しいコメントが表示された。
久遠院怜司。
外部顧問としての簡潔な分析文だった。
クラウディオは、名前を見ただけで不快そうに眉を動かした。
ルストが見る。
「久遠院か」
「まだ証拠はない」
「聞く前に言うな」
「お前が聞く顔をした」
クラウディオは画面へ視線を戻した。
久遠院のコメントは、いつものように穏やかで、整っていた。
断罪は、事実認定よりも早く共同体へ広がります。
“魔女”という語は、証拠ではなく、感情の整理箱として機能しているのかもしれません。
現代の群衆は広場に集まりません。画面の中で十分です。
クラウディオは、低く笑った。
「まるで見てきたように言う」
ルストは答えない。
「気色悪いほど、燃え方を知っている」
久遠院のコメントは正しい。
正しいからこそ不快だった。
クラウディオは、画面の文字を一つずつ目でなぞる。感情の整理箱。共同体。事実認定より早く広がる断罪。広場ではなく画面。
それは分析だ。
だが、クラウディオには、火刑台の設計図に見えた。
「広場の場所まで教えてくれるとは親切だな」
端末の光が、彼の目に冷たく映る。
その横で、ルストは何も聞かなかった。
工房の奥、箱庭の園では、踊らない少女人形たちが静かに並んでいる。白い砂、銀色の小道、止まった噴水、小さなベンチ。第30話の朝、ほんのわずかに首の角度を変えた人形は、今はまた動かないふりをしている。
だが、工房の空気は以前とは違っていた。
廃校の怪異は、夜から朝へ来た。
今度は、火刑事件の声が、画面から工房へ入ってくる。
クラウディオは言う。
「断罪が餌か」
ルストが反応する。
「怪異がか」
「魔女と書かれる。誰かが読む。勝手に意味を足す。声が増える。増えた声を、あれが食う」
クラウディオは、現場紙片の写真を開いた。
魔女。
その文字は、証拠袋越しに撮影されている。
端が焦げ、中央だけが白い。
「声を食っている」
ルストは、画面に向けた目を細めた。
「群衆の声か」
「そうだ。昔は広場で十分だった。今は画面で足りる。誰も自分だけが殺したとは思わない。少しずつ書く。少しずつ燃やす。責任が薄まる。罪悪感が薄まる」
クラウディオの声が低くなる。
「その薄さが、怪異にはちょうどいいんだろうな」
端末が震えた。
澪奈からの通信だった。
クラウディオは一度ルストを見る。
ルストは頷かない。
ただ、そこにいる。
クラウディオは通信を開いた。
『白石です。保管庫の紙片について、追加確認です』
澪奈の声は硬かった。
「何が出た」
『保管中の紙片を再撮影しました。文字の濃度に変化があるように見えます』
クラウディオは目を細めた。
「見えます、か」
『はい。照明条件や撮影角度の影響を排除しきれていません。現時点では断定できません』
榊の声が割り込む。
『だが、録音データも動いている。現場の群衆ノイズが、今日の報道後に強まったように見える』
ルストが低く言った。
「報道に反応している」
クラウディオは短く返す。
「世論にだ」
澪奈は続けた。
『SNS上に投稿された音声付き動画を複数確認しています。現場近くで撮られたものとは限りませんが、そのうち一つのノイズ波形が、紙片裏の線と一部似ています』
「拡散された情報にも乗り始めている可能性がある、か」
『可能性です。まだ確定ではありません』
「それでいい。確定していないものを確定した顔で喋る連中は、画面の向こうに山ほどいる」
澪奈は少し黙った。
『被害者女性についても、追加情報があります』
「言え」
『怪異相談を受けていた相手の中に、廃校事件の旧放送室に関する古い話を知る人物がいる可能性があります。まだ接点は薄いですが、相談記録の断片に、旧校舎、声、歌、という語があります』
榊が続ける。
『それから、被害者女性が事件の数日前に、誰かと電話で揉めていた可能性がある。近隣住民の証言だ。内容は不明だが、住民は「私は魔女じゃない」と聞こえた気がすると言っている』
工房の空気が冷えた。
クラウディオは、しばらく何も言わなかった。
「録音は」
『ない。証言だけだ』
「なら、まだ扱いは慎重にしろ」
『分かっている』
クラウディオは画面を見つめた。
私は魔女じゃない。
その言葉が、火よりも遅く届く。
言っていたかもしれない。
言っていないかもしれない。
だが、もし本当に言っていたのなら。
彼女は、生きている間にすでに札を貼られていた。
魔女。
死ぬ前から。
燃える前から。
榊は通信の向こうで言った。
『被害者の部屋も追加で確認する。相談記録と通話履歴を洗う。報道対応は、被害者を加害者と断定しない表現に修正させる』
「修正しても、切り取られる」
『分かっている。だが、何もしないよりはましだ』
「それはそうだ」
クラウディオは通信を切らずに、少しだけ視線を奥の箱庭へ向けた。
踊らない少女人形たちが、暗がりに沈んでいる。
その中の一体が、こちらを見ているように見えた。
気のせいか。
見せられているのか。
もう、そこも簡単には分からない。
澪奈の声が続いた。
『保管庫の紙片の映像、送ります』
端末へ映像が転送される。
証拠保管室。
白い棚。
透明な証拠袋。
その中に、端だけ焦げた白い紙片。
魔女。
画面越しでも、文字が妙に濃く見えた。
保管庫の蛍光灯が少しちらつく。
澪奈が映像の向こうで言った。
『照明のせいかもしれません』
その声は、科学者としての慎重さを保っている。
だが、すぐ後で録音機が動いた。
ざ、と低いノイズ。
群衆のような声。
魔女。
魔女。
魔女。
重なっていく。
ルストの目が細くなる。
クラウディオは動かない。
音の奥に、別の声が混じった。
低く、冷たい声。
証拠は?
クラウディオの声に似ていた。
だが、それは保管庫の録音機から流れている。
そこにクラウディオはいない。
澪奈が息を止めた。
『また……拾っています』
榊の声も硬くなる。
『クラウディオの声を、また素材にしているのか』
工房の端末越しに、群衆の声が揺れる。
魔女。
証拠は?
魔女。
証拠は?
混ざる。
断罪の声と、それを止める声が、同じ火の中へくべられていく。
クラウディオは、画面を見なかった。
彼は低く言った。
「俺の声まで火にくべる気か」
その声には怒りがあった。
だが、怒鳴らない。
静かで、冷たい。
ルストは一歩近づく。
クラウディオは手を上げなかった。
拒まなかった。
ただ、端末から流れる群衆の声を聞いている。
画面の中では、証拠袋の紙片に書かれた「魔女」の文字が、ほんのわずかに濃くなったように見えた。
澪奈が、小さく言う。
『照明のせいです』
誰も、それを否定しなかった。
誰も、それを信じきれなかった。
工房《箱庭》の奥で、止まっていたはずのゼンマイが、一度だけ鳴った。




