第33話 優しい菓子の匂い
会議室を出た後も、クラウディオ・ルジェリウスはしばらく口を開かなかった。
霧杜中央署の廊下は、昼の光を拒むように白かった。窓はある。だが、外から差し込む光は薄く、磨かれた床に伸びた影だけが妙に冷たい。掲示板には通常業務の連絡、落とし物の案内、署内研修の予定が貼られている。どれも、火の気のない地下展示室で焼死体が見つかった朝とは無関係の顔をしていた。
だが、廊下の空気にはまだ焦げた匂いが絡んでいるように感じられた。
実際にはない。
それは現場から持ち帰ったものだ。
焼けた木。
焦げた布。
熱を含んだ石。
そして、焼けた砂糖のような甘く嫌な匂い。
クラウディオは廊下の窓際で足を止めた。片手には端末。画面には、現場で見つかった紙片の写真が映っている。
魔女。
黒い二文字。
端だけ焦げ、中央だけが残った白い紙。
ルスト・ヴァルレインは、少し離れた場所に立っていた。灰銀の髪が蛍光灯の光を鈍く受ける。彼は問い詰めない。ただ、クラウディオの沈黙を見ている。
会議室では、世論が被害者女性を焼いていた。
画面の向こうで、匿名の文字が流れていた。
本当に魔女だったのでは。
怪異を呼んだ本人では。
燃えたのは罰では。
被害者ではなく加害者だった可能性。
火はもう消えている。
だが、名はまだ燃やされている。
クラウディオは、端末の画面を見つめたまま動かない。
ルストが低く呼んだ。
「クラウディオ」
返事はない。
廊下の先で、刑事たちの足音が遠ざかる。扉が開き、閉まる。電話の呼び出し音が一度鳴り、すぐ止まる。日常の音が、ひどく薄っぺらく聞こえた。
「戻れ」
ルストが言う。
クラウディオは、数拍遅れて視線を動かした。
「……戻っている」
声が少しだけ遅い。
ルストはそれを見逃さない。
「戻りきっていない」
「犬か、お前は」
「匂いがした」
クラウディオの目が冷える。
「勝手に人の匂いを読むな」
「菓子の匂いがした」
その瞬間、クラウディオの指が端末の縁で止まった。
ほんの一瞬。
次にはもう、何事もなかった顔に戻っている。
「鼻まで悪趣味だな、灰銀」
「火の匂いで黙った」
「現場が臭かっただけだ」
「違う」
「断定するな」
「聞かない」
ルストは短く言った。
クラウディオは返事をしなかった。
聞かない。
それは、今ここでは踏み込まないという意味だった。火の匂いに何を思い出したのか。魔女という言葉がどこを刺したのか。焼けた砂糖の匂いが何と繋がっているのか。それを問わない。
ただ、見ている。
クラウディオはそれを理解している。
だから余計に不機嫌になる。面倒な吸血鬼である。気遣われても怒る。気遣われなくても怒る。人類も吸血鬼も、心という機能の設計が雑すぎる。
クラウディオは端末を閉じた。
「行くぞ」
「どこへ」
「工房だ。警察署の廊下で湿気た顔をしている趣味はない」
「湿気ているのはお前だ」
「燃やすぞ」
「戻ったな」
「黙れ」
皮肉が戻った。
だが、それは完全な回復ではなかった。
薄い布をかぶせただけだ。
ルストは何も言わず、彼の横へ並んだ。
その足音が、白い廊下に二つ重なる。
クラウディオの視界の端で、窓ガラスに自分の姿が映った。黒い襟。整った顔。乱れていない髪。何も燃えていない顔。
だが、鼻の奥にはまだ、火がある。
焼けた砂糖の匂い。
甘い。
優しい。
最悪だった。
石畳の道は、雨の後によく冷えた。
王城の外れは、城の中よりもずっと狭く、ずっと騒がしかった。馬車の車輪が水を跳ね、荷車を押す男たちが声を掛け合い、市場へ急ぐ女たちが布を頭にかぶって歩いていく。王城の中では、声は低く抑えられる。誰が誰を見ているか、誰の耳に入るか、誰の機嫌に触れるか、すべてが慎重に計算されている。
外の声は違った。
雑で、少し乱暴で、けれど生きていた。
少年のクラウディオは、王城の裏門から出る時、いつも誰にも見つからないように歩いた。
彼はまだ幼い。
だが、幼さを許されてはいなかった。
王城では、彼が通ると侍女たちの声が止まる。
廊下の影で、誰かが囁く。
妾の子。
正統ではない。
混ざりもの。
母親の血が悪い。
王族の衣装を着せても、所詮。
声はいつも、最後まで言わない。
最後まで言わなくても、意味は届く。
食卓に席はあった。
だが、誰も彼の目を見なかった。
銀の皿。磨かれた杯。白い布。豪華な食事。正妃側の子どもたちの笑い声。王城の中で、彼だけがそこに置かれた異物のようだった。衣装は彼の寸法で仕立てられているはずなのに、なぜか借り物のように見えた。手袋をしていても、爪の先まで見下されている気がした。
何かを壊したわけではない。
誰かを傷つけたわけでもない。
ただ、生まれただけだった。
それだけで、彼の存在は最初から罪のように扱われた。
クラウディオは泣かなかった。
泣くほど素直ではない。
助けを求めるほど幼くもない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
泣いたところで、誰が拾うのか。
助けを求めたところで、誰がこちらを見るのか。
王城では、名前を呼ばれることすら少なかった。
殿下と呼ばれる時でさえ、そこには敬意よりも距離があった。名前を呼ばれる時は、だいたい叱責か、確認か、陰口の中だった。
クラウディオ。
その名が、普通に呼ばれる場所は少なかった。
だから、彼は王城の外れにある小さな店へ通った。
石畳の道沿い。
大きくも華やかでもない菓子屋だった。
窓辺には、焼き菓子が並んでいる。雨の日には、内側から湯気で窓が曇る。夕方になると店先の灯りがやわらかくなり、砂糖を煮詰める匂いが通りへ流れた。バター。蜂蜜。焼きたての生地。ほんの少し焦げた砂糖。
そこだけは、王城の匂いがしなかった。
血筋も、席順も、正妃も妾も、跡継ぎも、礼法も、陰口もない。
ただ、焼き菓子の匂いがある。
店にいた女性は、クラウディオを初めて見た時、少しも膝を折らなかった。
王族に向ける過剰な礼もない。
妾の子を見る冷たい目もない。
憐れみもない。
ただ、店に来た少年を見る顔だった。
「いらっしゃい。今日は焦げていない方を選びなさい」
クラウディオは、その言葉に眉を寄せた。
「焦げているものを売るのか」
「売るわよ。焦げた方が好きな人もいるもの」
「物好きだな」
「君もそうなりそうね」
彼女は笑った。
普通に。
王城の者がする、意味を隠した笑みではない。相手を品定めする笑みでもない。無礼にならない範囲を測る笑みでもない。ただ、菓子屋の店主が、少し面倒そうな子どもへ向ける笑いだった。
クラウディオは警戒した。
菓子へ手を伸ばすのが遅かった。
彼女はそれを見て、勝手に包みを作らなかった。
「お金は?」
クラウディオは黙った。
持っていないわけではない。
持っている金を出せば買える。
だが、王城の金で買うのが嫌だった。
彼女はそれを見抜いたように、店の奥を親指で示した。
「お金が足りないなら、皿を拭いていきなさい。施しにすると、君は嫌な顔をするでしょう」
「誰が施しを嫌がると言った」
「顔」
「失礼な女だな」
「お菓子屋には、そのくらいの目が必要なの」
クラウディオはしばらく睨んだ。
彼女は平然としていた。
結局、彼は皿を拭いた。
小さな布で、焼き菓子を並べる皿を拭く。店の奥は甘い匂いで満ちていた。砂糖を煮詰める鍋。焼き上がったばかりの生地。窓の外から入る雨の匂い。手袋をした女性の指先が、紙に菓子を包む。
彼女は包みを差し出した。
「王城の子でも、熱い菓子は熱いのよ。指でつままない」
クラウディオはむっとした顔で受け取る。
「子ども扱いするな」
「子どもでしょう」
「違う」
「熱いものを熱いと認められないうちは、十分子どもよ」
腹立たしい。
だが、嫌ではなかった。
その日、クラウディオは礼を言わなかった。
彼女も求めなかった。
ただ、彼が店を出る前に言った。
「名前で呼んでもいい?」
クラウディオは振り返った。
王城では、名前を呼ばれることにろくな記憶がない。
彼女は続けた。
「呼ばれたくないなら、呼ばないわ」
「……好きにしろ」
彼女は少し考え、確かめるように言った。
「クラウディオ。今日はそれでいい?」
胸の奥が、少しだけ変な音を立てた。
彼はそれを無視した。
「勝手にしろ」
「はいはい。怖い顔をしないの。お菓子がまずくなるわ」
それから、何度も通った。
雨の日も、晴れの日も。
王城の廊下で声が止まった日も。
食卓で誰も目を合わせなかった日も。
正妃側の子どもに、汚いものを見るような目を向けられた日も。
クラウディオは菓子屋へ行った。
彼女は毎回、普通だった。
持ち上げない。
見下さない。
憐れまない。
特別な説教もしない。
時々、普通に叱る。
「指で触らない」
「睨んでも焦げたところは消えないわ」
「椅子に座るなら、足を引っかけない」
「今日の皿拭きは雑ね。やり直し」
クラウディオは毎回、不機嫌な顔をした。
だが、店に行くのをやめなかった。
そこは、彼が燃やされていない場所だった。
名前を汚されていない場所だった。
菓子の匂いは、彼にとって、ただ甘いだけではなくなっていた。
朝の工房《箱庭》は、昼になっても薄暗かった。
警察署から戻ったクラウディオは、作業台の前に立っていた。壊された少女人形の部品は、証拠保全のため大半が警察へ移された。だが、拡大写真と記録、鍵穴傷の画像、紙片の写し、火刑めいた現場の資料は残っている。
魔女。
その二文字が画面にあるだけで、工房の空気まで焦げるようだった。
ルストは扉のそばに立つ。
クラウディオは椅子に座らない。
紅茶も淹れない。
ただ、資料を見ている。
端末には、澪奈からの追加報告が届いていた。
紙片の黒赤い粒は、廃校事件の血術核残滓と近い反応を示した。紙片裏の波形は、鍵穴傷、作られた声、旧放送室の録音ノイズと一部類似。現場録音には、炎の音ではなく、複数の声が重なったようなノイズが残る。その中に「魔女」と聞こえる音がある。
榊からも連絡がある。
被害者女性への噂は拡大中。
怪異相談、祈祷、古い信仰、都市伝説との関与が報道で切り取られ始めている。
だが、被害者が誰かを害した証拠はない。
血術核を作った証拠もない。
火の怪異を呼んだ証拠もない。
クラウディオは、画面を見たまま言った。
「燃やしたのは身体だけじゃない。名前だ」
ルストは黙っている。
「魔女と呼んでから燃やす。そうすれば燃やした側は祈れる」
クラウディオの声は冷たい。
「胸糞が悪いほど、昔から変わらない」
昔。
その言葉は珍しかった。
クラウディオは自分で言ってしまったことに気づいたのか、一度口を閉じた。
ルストは踏み込まない。
ただ言う。
「今は、事件を見ろ」
クラウディオは低く笑う。
「お前に言われるまでもない」
「遅れた」
「遅れていない」
「嘘が下手だ」
「お前に言われる筋合いはない」
いつもの言葉に戻そうとしている。
だが、戻りきらない。
ルストはそれを知っている。
端末が鳴った。
警察庁の共有資料。
久遠院怜司からのコメントだった。
クラウディオは、明らかに嫌そうな顔をした。
「またか」
ルストは画面を見ない。
クラウディオが勝手に読む。
「魔女という名は、個人の罪を示すより、共同体が不安を一つの身体へ押し込むために使われることがあります」
彼は少しだけ黙った。
続きへ目を滑らせる。
「火刑は処刑ではなく、共同体の清めとして演出されることがある」
クラウディオは、ひどく静かに笑った。
「清め、ね」
その声には温度がない。
「燃やされた側に聞かせたい言葉だな」
ルストは、クラウディオの横顔を見る。
何かが沈んでいる。
怒りだけではない。
もっと古いもの。
言葉になる前に炭になったもの。
クラウディオは端末を伏せた。
「人を燃やす側の言葉は、いつもよく整っている」
それ以上は言わなかった。
工房の奥で、箱庭の園の人形たちは沈黙している。
踊らない少女人形たち。
閉ざされた白い砂。
止まったゼンマイ。
そのすべてが、今日は火の匂いを含んでいるように感じた。
過去の菓子屋では、女性が焼き菓子を紙に包んでいた。
窓の外は雨上がりだった。
石畳が濡れ、店先の灯りが柔らかく揺れる。砂糖を煮詰めた匂いが、少しだけ焦げて甘い。店の中は暖かく、王城の白い廊下のように冷えていない。
彼女は焼き菓子を一つ、紙に包んだ。
指先には薄い手袋。
布の上からでも、温度があった。
「熱いから、少し待って食べなさい」
「命令か」
「助言」
「助言にしては偉そうだ」
「大人だからね」
クラウディオは鼻で笑った。
彼女は気にしなかった。
包みを渡す時、指先が触れた。
ほんの一瞬。
普通の温度。
普通の手。
それが、なぜか胸に残った。
彼女は笑う。
「クラウディオ。今日はそれでいい?」
その言葉に、少年は答えなかった。
答えなくても、彼女は急かさない。
ただ、紙包みを彼の手へ渡す。
その匂いは優しかった。
砂糖。
バター。
蜂蜜。
焼きたての生地。
少しだけ焦げた甘さ。
工房《箱庭》の端末から、録音データが再生された。
榊が送ってきたものだ。
火刑めいた現場の録音。
群衆の声のようなノイズ。
複数の音が重なっている。
魔女。
魔女。
魔女。
そこへ、一瞬だけ、別の声が混じった。
柔らかい女の声。
優しい声。
菓子屋の女性に似た声。
だが、言葉は分からない。
ノイズに溶け、火の匂いの奥で崩れ、何を言ったのか分からないまま消える。
ルストはクラウディオを見た。
クラウディオは、端末の再生を止めた。
指が、画面の上で静かに止まっている。
しばらく何も言わなかった。
それから、低く言った。
「今のは違う」
何が違うのかは言わなかった。
彼女ではない、という意味かもしれない。
作られた声だ、という意味かもしれない。
優しい菓子の匂いを、火刑の事件に混ぜるなという意味かもしれない。
ルストは聞かなかった。
ただ、工房の奥で、止まっていたゼンマイが一度だけ鳴るのを聞いた。




