第32話 証拠は?
霧杜中央署の会議室には、朝から焦げた匂いが残っているようだった。
もちろん、実際に何かが燃えているわけではない。机も椅子も、壁も資料棚も無事だった。蛍光灯は白々しく点き、空調は低く唸り、捜査員たちが持ち込んだ紙資料と端末の画面だけが、いつも通りの事件の顔をしている。
それでも、地下展示室から戻った者たちは誰もが、あの匂いを身体のどこかに持ち帰っていた。
焦げた布。
熱を含んだ石。
焼けた木。
そして、焼けた砂糖のような甘く嫌な匂い。
それは鼻に残るだけではなく、記憶の奥に薄く貼りついていた。シャワーで落とせるものではない。服を替えれば済むものでもない。火のない場所で見つかった焼け跡は、現場から離れてもまだ、人の喉の奥を焦がしている。
会議室の正面モニターには、民俗資料館地下展示室の現場写真が映されていた。
石造りの地下展示室。
大きく焦げていない壁。
無傷の展示ケース。
燃えていない古文書や布の資料。
床に残った黒い輪郭。
そして、その近くに落ちていた白い紙片。
魔女。
黒い二文字が、画面の中で妙に鮮明だった。
紙片は端だけ焦げ、中央の文字は読める。遺体のそばにあったとは思えない残り方だった。澪奈が撮影した拡大画像では、文字の黒に混じって、ごく細かな黒赤い粒が見えた。さらに裏面には、音声波形にも、鍵穴傷の線にも似た細い揺れがあった。
白石澪奈は、資料を手元に並べながら言った。
「現時点で確認できているものを整理します。火元は未特定。防火設備の記録に大きな火災反応はありません。周囲の可燃物に大きな延焼なし。燃えた範囲は被害者周辺に限定されすぎています」
榊悠真は、腕を組んでモニターを見ていた。
「紙片は」
「遺体の近くから発見。端に焦げがありますが、燃え切っていません。文字は判読可能。文字部分には通常のインクのほか、黒赤い粒が混入しています。廃校の少女人形内の血術核、工房《箱庭》の鍵穴傷の縁に残っていた粒と類似しています」
会議室の後方で、若い捜査員が小さく息を呑んだ。
特殊未解明事件係の中でも、血術核という単語はまだ扱いづらい。報告書に書きづらいからだ。警察の書類は現実の形をしていなければならない。だが現実の方が、最近は書類へ入る気を失っている。大変迷惑である。
澪奈は続けた。
「紙片裏の線は、工房の壊された少女人形の鍵穴傷、および旧放送室の録音波形と一部類似しています。ただし、完全一致ではありません」
「目撃証言は?」
榊の問いに、別の捜査員が資料をめくった。
「資料館近くの清掃員が、地下窓から赤い光を見たと証言。ただし炎そのものは確認していません。夜間警備員は、地下から複数の声を聞いたと言っています。『魔女』という言葉を聞いた可能性あり。別の職員は、声ではなく、低い唸りのようなものだったと」
榊は眉を寄せる。
「また声か」
「はい」
澪奈は淡々と頷いた。
「廃校事件と同じく、現場にいた者によって聞こえ方に差があります。録音機器には、低周波のノイズと複数の音声らしき揺れが残っていますが、言葉として明確に抽出できる部分は少ないです」
会議室の空気は重かった。
その重さを押し広げるように、モニターの右側に別の資料が表示される。
被害者女性の写真。
四十代後半。資料館の非常勤職員。民俗信仰や地域伝承に詳しく、個人でも怪異相談や古い祈祷札の調査を行っていたらしい。近隣住民の中には、彼女について「変わった人だった」と語る者がいた。人を呪うようなことを言った、と証言する者もいる。古い人形や札、占いの道具を集めていたという話も出ていた。
どれも、まだ証拠ではない。
だが、噂としては十分だった。
人間は不確かなものを嫌うくせに、不確かな噂にはすぐ集まる。砂糖に群がる蟻より勤勉だ。せめてその勤勉さを納税や掃除に向けろ。
会議室の端で、一人の捜査員が言った。
「被害者が怪異に関わっていたのは、ほぼ間違いないんじゃないですか」
榊はそちらを見た。
「関わっていた可能性がある、だ」
「でも現場に『魔女』の紙片です。周囲の噂もある。怪異相談だの祈祷だのもしていた。本人が何か呼んで、返り討ちに遭った線は」
「断定するな」
榊の声は低かった。
だが、空気は揺れていた。
署内だけではない。
世論も、すでに動き始めている。
会議室の別画面には、ニュースサイトの見出しが並んでいた。
火のない地下展示室で女性死亡。
現場に「魔女」の紙片。
怪異相談に関与か。
民間信仰研究者に不審な噂。
さらに、SNSの画面が断片的に映る。
やっぱり本当に魔女だったんじゃないか。
誰かを呪って返ったんだろ。
怪異を呼んだ本人では。
燃えたのは罰では。
被害者じゃなくて加害者だった可能性。
文字は流れていく。
誰が書いたかも分からない。
誰も責任を持たない。
だが、言葉だけが増える。
魔女。
魔女。
魔女。
たった二文字が、死んだ女性の名前より早く広がっていた。
クラウディオ・ルジェリウスは、会議室の窓際に立っていた。
黒い外套は脱いでいない。高い襟が首筋を隠し、袖は手首まで下りている。朝の工房からそのまま連れて来られたような顔をしているが、彼の目は地下展示室の火の匂いをまだどこかで見ていた。
口数は少なかった。
いつものように、捜査員たちを刺す皮肉が飛ばない。
それがかえって、周囲を黙らせていた。
ルスト・ヴァルレインは、その少し後ろに立っている。
灰銀の髪は会議室の白い光の中で静かに沈み、鋼色の瞳はクラウディオの横顔を見ていた。第31話の現場で、クラウディオが火の匂いに言葉を失った瞬間を、ルストは見ている。いまも、その余韻が残っている。
クラウディオは画面の流れる匿名の言葉を見ていた。
魔女。
罰。
加害者。
呪い。
返り討ち。
被害者ではないかもしれない。
それらの言葉は、火そのものより早く人を燃やす。
燃やされる前から有罪にする。
名前を汚し、立場を奪い、死んだ後の沈黙に意味を貼る。
クラウディオの視線が、わずかに紙片の写真へ戻った。
魔女。
黒い二文字。
焼けた砂糖の匂いが、会議室にはないはずなのに、ほんの一瞬、喉の奥で蘇る。
菓子屋の窓。
白い手袋の指。
誰かの名が、火より先に汚された記憶。
群衆の声。
魔女、と叫ぶ声。
自分が何もできなかった悔しさ。
ルストが低く呼んだ。
「クラウディオ」
クラウディオはすぐには答えなかった。
一拍遅れて、視線だけを動かす。
「……戻っている」
その声は、少し遅かった。
ルストは見逃さない。
「証拠を見る」
クラウディオは薄く笑った。
「それを言うべき相手は俺じゃない」
そして、会議室の中央へ歩いた。
靴音が一つ、二つ、床に落ちる。
誰も止めない。
クラウディオは、モニターに映る被害者女性の写真と、「魔女」と書かれた紙片を交互に見た。
それから、会議室の捜査員たちを見回す。
低く、短く言った。
「証拠は?」
その場の空気が凍った。
蛍光灯の音だけが、妙に大きく聞こえる。
クラウディオは怒鳴らなかった。
声を荒げもしなかった。
長々と演説することもなかった。
ただ、一言だけ。
証拠は?
その一言が、会議室に漂っていた熱を切った。
誰もすぐには答えられない。
なぜなら、そこが空白だったからだ。
被害者女性が怪異の加害者だったという証拠は、まだない。
血術核を作った証拠もない。
火の怪異を呼んだ証拠もない。
誰かを呪った証拠もない。
「魔女」と書いたのが本人だという証拠もない。
あるのは紙片。
噂。
変わった人だったという証言。
怪異や民間信仰に関わっていた可能性。
それだけだ。
それだけで、彼女はすでに“燃やされても仕方がない側”へ押し込まれ始めている。
榊が、低く息を吐いた。
「クラウディオ」
「紙に魔女と書いてあった。それが証拠か?」
クラウディオの声は冷たい。
「怪しい女だった。変わっていた。嫌われていた。だから燃えていい。便利な理屈だな」
若い捜査員の顔が強張る。
「そうは言っていません」
「言う前に顔が言っている」
クラウディオは、モニターの匿名投稿を一瞥した。
「証拠もないまま名前を貼る。焼く前から火刑は始まっている」
会議室は、さらに静かになった。
火はない。
だが、誰もが火の前にいるようだった。
榊は、視線を落とした。
苛立ちはある。
クラウディオの言い方はいつも悪い。誰の心臓にも遠慮なく針を刺す。しかも、だいたい刺す場所が正しい。最悪である。
だが、榊は否定できなかった。
「現時点で、被害者が加害側だったと示す証拠はない」
澪奈が静かに言った。
「少なくとも、検出結果としてはありません。被害者の所持品に怪異資料や民間信仰関連のものはありましたが、それ自体は犯罪性を示すものではありません。血術核を作った痕跡も確認されていません」
別の捜査員が言う。
「ですが、世論がもう動いています。上も、被害者の背景を詳しく洗えと」
榊がそちらを睨む。
「背景を洗うのと、加害者扱いするのは違う」
「しかし、報道が」
クラウディオが口を挟んだ。
「世論が待たないから証拠を捨てるのか」
誰も答えない。
クラウディオは、紙片の写真を見た。
「これは遺留品じゃない。札だ」
澪奈が顔を上げる。
「札?」
「置けば人が読む。読むと意味を探す。意味を見つけると、その意味で人を縛る」
クラウディオの声が低くなる。
「魔女と書かれた紙があった。だから、こいつは魔女だったのだろう。魔女なら、怪異を呼んだのだろう。怪異を呼んだなら、燃えても仕方がなかったのだろう。見事な階段だな。誰も証拠を踏まずに上まで行ける」
榊は険しい顔でモニターを見る。
魔女。
その二文字は、紙片に書かれた時点で証拠品だった。
だが、同時に誘導だった。
被害者を加害者へ転倒させるための札。
死んだ後の名誉まで燃やすための火種。
澪奈は端末へ視線を落とした。
「久遠院顧問から追加コメントが来ています」
クラウディオは、露骨に不快そうな顔をした。
「またか」
澪奈は読み上げる。
「“魔女”という語は、被害者を加害者へ転倒させるための記号として機能している可能性があります」
クラウディオの表情は変わらない。
だが、目の奥が冷えた。
澪奈は続けた。
「断罪は、対象の死後にも続きます。むしろ死後の方が制御しやすい」
会議室に、奇妙な沈黙が落ちた。
的確だった。
正しすぎた。
だから、気味が悪かった。
クラウディオは低く言う。
「死んだ人間まで分類するのが好きな男だ」
ルストが短く問う。
「久遠院か」
「証拠はない」
クラウディオは即座に返す。
「だが、気色悪いほど燃え方を知っている」
榊は端末を確認する。
「久遠院顧問を犯人扱いする段階じゃない。閲覧履歴、コメントのタイミング、事件資料へのアクセスは洗う」
「洗え」
クラウディオは言った。
「ただし、名前をつけるな。こちらが久遠院と決めた瞬間、相手がその形を利用する」
ルストは、クラウディオを見た。
この前の夢と同じだ。
まだ名前をつけるな。名前をつけると、そいつの望む形になる。
クラウディオは、誘導を嫌っている。
意味を貼られることを嫌っている。
魔女という札も、久遠院という名も、まだ証拠より先に貼ってはならない。
澪奈は画面を切り替えた。
紙片裏の線。
鍵穴傷の線。
旧放送室の波形。
工房の壊された少女人形の胸部反応。
四つが並ぶ。
「比較します。紙片裏の線は、鍵穴傷の波形と似ています。廃校事件の作られた声、血術核反応時の波形とも一部類似。完全一致ではありませんが、同じ設計思想、あるいは同じ人物の癖がある可能性があります」
榊は低く言う。
「被害者女性の正体を示すものではなく、前の事件と同じ設計者が置いた誘導札の可能性が高い、か」
「はい」
澪奈は頷いた。
「少なくとも、『魔女』の紙片だけを根拠に、被害者が怪異の加害者だったとは言えません」
会議室の隅で、誰かの端末が震えた。
ニュース通知。
また新しい見出しが流れる。
怪異研究に傾倒か。
女性は「魔女」だったのか。
近隣で不審な噂。
匿名の投稿が、さらに増えていく。
火は消えている。
死体はもう動かない。
それなのに、名前だけがまだ燃やされている。
クラウディオは画面を見た。
静かに言う。
「燃やした後に、まだ名前を焼く気か」
その声は小さかった。
だが、会議室の誰にも聞こえた。
榊は、資料を閉じた。
「被害者の背景は洗う。ただし、加害者前提では扱わない。噂と証拠を分ける。ネットの投稿は証拠じゃない。紙片も、誰が置いたか確認できるまで断定しない」
若い捜査員たちは頷いた。
完全に納得した顔ばかりではない。
それでも、会議室の空気は少しだけ変わった。
クラウディオの「証拠は?」が、火の前に水を置いたようだった。
火は消えない。
だが、勝手に広がるのを一度止めた。
その時、澪奈の端末が小さく鳴った。
「現場録音データの解析が進みました」
榊が顔を上げる。
「流せるか」
「一部だけです。群衆の声のようなノイズがあります」
澪奈は音量を絞って再生した。
ざ、と古い録音のようなノイズが流れる。
地下展示室の空気。
石壁に反響する低い音。
複数の声。
重なり、擦れ、歪み、言葉になる直前で崩れる。
魔女。
誰かがそう言ったように聞こえた。
だが、その後に別の声が混じった。
低く、冷たい声。
「証拠は?」
会議室の全員が止まった。
クラウディオの声に似ていた。
けれど、その録音は昨夜の現場データだった。
クラウディオが会議室でその言葉を発する前の音声。
地下展示室で、彼はそのタイミングでは言っていない。
澪奈が青ざめた顔で波形を見た。
「今の音声、現場録音です。会議室の音ではありません。時刻は、昨夜の現場検証中……クラウディオさんがこの言葉を言う前です」
榊がクラウディオを見る。
ルストも、クラウディオを見る。
クラウディオは画面を見なかった。
ただ、低く言った。
「……俺の声まで燃やす気か」
会議室の蛍光灯が、かすかに瞬いた。
録音データの中で、群衆の声がまた遠く揺れた。




