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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第3部 火刑の街

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第31話 火の匂い




 火災報知器は鳴らなかった。


 それが、霧杜市立民俗資料館の地下展示室で最初に確認された異常だった。


 朝の開館準備に来た職員が、地下の特別展示室の扉の前で、焦げた匂いに気づいた。だが、警報は鳴っていない。スプリンクラーも作動していない。監視室の記録にも、大きな火災反応は残っていなかった。だから最初、職員は電気系統の異常か、展示に使われている古い資料の保管材が焦げたのだと思ったらしい。


 しかし扉を開けた先にあったのは、焦げた配線ではなかった。


 地下展示室は、石造りだった。


 もとは旧教会の地下礼拝堂だったという。戦後に一度倉庫として使われ、その後、資料館へ転用された。天井は低く、壁は古い石で組まれている。床も同じく石で、湿気を含みやすい。展示ケースの中には、霧杜市周辺に残る古い祭具、祈祷札、古文書、信仰道具が並んでいた。紙、布、木、蝋、古い革。燃えやすいものは、いくらでもあった。


 それらは燃えていなかった。


 壁も大きく焦げていない。


 床にも火が広がった跡はない。


 展示ケースの硝子も割れていない。


 古い木製の椅子も、資料棚も、紙の目録も、焼けていない。


 ただ、展示室の中央だけが黒く沈んでいた。


 床に、人の形を思わせる黒い影が残っている。


 そこに、焼けた輪郭があった。


 過度に近づかなくても、そこに死体があると分かった。細部を見なくても、黒く縮んだ輪郭と、熱で歪んだ金属製の小物と、床へこびりついた煤の薄い広がりが、何が起きたのかを知らせていた。


 だが、火はない。


 煙もほとんどない。


 燃えたのは、ほぼ被害者だけだった。


 そのそばに、紙片が落ちていた。


 白い紙。


 端だけが少し焦げている。


 中央には、黒い文字。


 魔女


 その二文字だけが、はっきり読めた。


 紙片は、遺体のすぐそばにあった。普通なら燃え切っていてもおかしくない位置だった。少なくとも、文字が読めるほど白く残るのは不自然だった。端だけを黒くし、中央だけを残したような状態で、紙片は床の上に貼りつくように落ちていた。


 榊悠真は、地下展示室の入口で足を止めた。


「火災じゃないな」


 声は低かった。


 白石澪奈は、鑑識用の手袋をはめながら頷く。


「現時点では、通常の燃焼とは言いづらいです。火元らしいものがありません。燃えた範囲も限定されすぎています」


 榊は展示室の周囲を見た。


 焦げた匂いはある。


 けれど、視界に炎の痕跡は少ない。火が暴れたなら、もっと痕が残る。壁の煤、天井の熱変色、展示物への延焼、煙の流れ。だが、この部屋には、それがほとんどない。まるで火が被害者だけを選び、周囲に触れずに消えたようだった。


 もちろん、そんな都合のよい火など普通はない。


 普通で済むなら、自分たちはここに呼ばれていない。


 霧杜中央署・特殊未解明事件係。


 こういう現場では、名称だけが大げさな部署などではない。むしろ名称より現場の方が毎回ひどい。人類も怪異も、もう少し地味な事件を起こしてくれ。書類が泣いている。


 ルスト・ヴァルレインは、展示室の入口から中を見ていた。


 灰銀の髪は地下の白い照明の下で冷たく光っている。二百二十センチ近い巨躯が、石造りの低い天井の下ではさらに異様に見えた。彼は死体そのものではなく、周囲の空気を見ているようだった。


 火ではないもの。


 匂いでもないもの。


 そこに残る声の形。


 榊は振り返る。


「ルストさん」


 ルストは短く言った。


「火そのものじゃない」


「見立てを聞かせてください」


「焼いた痕はある。だが、火が広がった気配が薄い。火より、声が残っている」


 榊は眉を寄せる。


「声?」


 ルストは展示室の奥へ目を向けた。


「多い」


 それだけだった。


 榊は、あまり嬉しくない言葉を聞いたように黙った。多い声。複数人。群衆。断罪。前の廃校事件で、音と怪異と記憶が混ざる構造を見たばかりだ。声が残っている現場など、歓迎できるはずがない。


 澪奈は現場の写真を撮りながら言った。


「目撃者の証言も、火より声が多いです。近くの清掃員は赤い光を見たと言っていますが、炎そのものは見ていません。別の職員は、地下から複数人の声がしたと証言しています」


「何と言っていた」


「聞き取れたのは一部だけです」


 澪奈は少しだけ口を引き結んだ。


「魔女、と」


 展示室の空気が、また一段冷えた。


 榊は紙片へ視線を落とす。


「その紙片と一致するな」


「はい。ただし、職員は紙片を見つける前に声を聞いたと言っています」


 ルストは何も言わなかった。


 その沈黙の横で、階段から足音が近づく。


 クラウディオ・ルジェリウスは、地下展示室の入口に立った。


 黒い外套の裾が、石段の冷たい空気を少しだけ揺らした。朝の工房で紅茶を飲んでいた時と同じように、彼は整っている。黒いシャツの襟は高く、首筋を隠す。手首も袖の中にある。噛み痕も、昨夜までの沈黙も、すべて布の下だ。


 榊は短く言った。


「来たか」


「呼んだのはお前だろう」


 クラウディオはいつもの調子で返しかけた。


 だが、そこで止まった。


 火は見えない。


 炎はない。


 熱も、もうほとんど残っていない。


 それでも匂いがあった。


 焼けた木。


 焦げた布。


 熱を含んだ石の湿り気。


 そして、その奥に混じる、焼けた砂糖のような甘く嫌な匂い。


 クラウディオの言葉が消えた。


 顔色は大きく変わらない。


 目元も、唇も、肩も、ほとんど動かない。


 だが、皮肉が消えた。


 言葉が短くなった。


 視線が、火のない展示室の中央へ一瞬だけ固定された。


 ルストは、それを見逃さなかった。


 クラウディオの目に、今ある現場とは別の赤い光が差したように見えた。


 石畳に揺れる赤い光。


 群衆の声。


 誰かが叫ぶ、魔女という言葉。


 小さな菓子屋の窓。


 焼けた砂糖の匂い。


 手袋をした女性の手。


 泣き声ではなく、沈黙。


 何もできなかった記憶。


 火の中で名前が崩れていく感覚。


 それらが、一瞬だけ彼の喉を塞いだ。


 ルストは低く呼んだ。


「クラウディオ」


 クラウディオはすぐには答えなかった。


 展示室の中央を見ている。


 火のない場所。


 燃えていない壁。


 焦げていない紙。


 そして、被害者だけが焼けた痕。


 数秒遅れて、クラウディオは瞬きをした。


「……見ている」


 声は低かった。


 いつもより短い。


 ルストはさらに言う。


「火を見るな。現場を見ろ」


 クラウディオの目が、わずかにルストへ動いた。


「火は見えていない」


「匂いを見ている」


 クラウディオは黙った。


 反論しない。


 それが答えだった。


 榊は二人の空気を横目で見たが、踏み込まなかった。現場では、触れない方がいい沈黙がある。やっと人類も学習したか。遅い。


 澪奈は紙片へライトを当てた。


「紙片を確認します。端に焦げがありますが、文字の周囲は残っています」


 榊が言う。


「不自然だな」


「はい。遺体の近くにあった位置から考えると、燃え残り方が不自然です。火の熱を受けたというより、端だけを焦がされたようにも見えます。ただし、方法についてはまだ分かりません」


 澪奈は言葉を慎重に選んだ。


 具体的な手順に踏み込まない。


 科学は事実を拾う。再現方法を安易に語る必要はない。人間、すぐ悪用するから。ほんと油断ならない。


 彼女は紙片の文字へ顔を近づけた。


「文字に煤以外の粒が混じっています」


「黒いインクじゃないのか」


「インクは使われています。ただ、それに混じって、黒赤い粒があります」


 榊の目が変わる。


「血術核の残滓か」


「似ています。廃校の歌う人形の内部で見つかったもの、工房の鍵穴傷の縁に残っていたものと同系統に見えます。まだ確定ではありません」


 ルストが静かに言った。


「血の匂いが薄い。だが、血術の痕はある」


 クラウディオは紙片を見た。


 魔女。


 黒い文字。


 焦げ残った白い紙。


 彼は低く言った。


「魔女、ね」


 その声はひどく薄かった。


 嘲笑ではない。


 怒鳴りでもない。


 もっと古い嫌悪が滲んでいる。


 クラウディオは、紙片から遺体の黒い影へ視線を移した。


「魔女と書けば、燃やした側が清くなるとでも思ったか」


 榊は黙った。


 澪奈の手も止まる。


 クラウディオは続ける。


「名前を貼ってから焼く。人間の好きな順番だ」


 その一言で、地下展示室の空気が少し変わった。


 これは火の事件ではない。


 少なくとも、火だけの事件ではない。


 誰かに名前を貼る。


 魔女と呼ぶ。


 燃やされてもよい存在に変える。


 それから燃やす。


 火より先に、断罪がある。


 ルストは、その構造を見ていた。


 火の匂いよりも、声が濃い。


 群衆の声。


 断罪の声。


 誰かへ罪を押しつける声。


 魔女と呼ぶ声。


 燃やした側が、自分たちは清いと思いたがる気配。


 火刑の残響。


 ルストは、短く言った。


「燃やすための火じゃない」


 榊が見る。


「どういう意味ですか」


「燃やしていいものにするための声だ」


 クラウディオの目がわずかに細くなる。


 ルストの言葉は、クラウディオが言わなかった部分をなぞっていた。


 澪奈は紙片の裏を慎重に確認した。


「裏に線があります」


 榊が身を寄せる。


「文字か?」


「いいえ。音声波形のようにも見えます。細かく震える線です。工房の鍵穴傷にあった線と似ています」


 榊が息を止めた。


「人形事件と繋がるのか」


 澪奈は端末で撮影し、比較資料を呼び出す。


「完全一致ではありません。ただ、鍵穴傷の線、旧放送室の録音波形、血術核の反応時に出た波形と、癖が近いです。紙片の文字に黒赤い粒が混じっている点も含めると、前の事件と無関係とは言いづらいです」


 クラウディオは、紙片を見下ろした。


 魔女。


 黒赤い粒。


 音声波形のような線。


 燃えていない紙。


 被害者だけを焼いた痕。


「繋げたがっている奴がいる」


 短い言葉だった。


 榊がクラウディオを見る。


「繋がっている、じゃなくてか」


「繋げたがっている、と言った」


 クラウディオは展示室の中央へ視線を向けたまま言う。


「廃校の人形。血術核。鍵穴傷。作られた声。今度は魔女と火刑。記号を増やしている。意味を貼っている。こちらに同じ線で読ませようとしている」


 ルストが言う。


「誘導か」


「そうだ」


 クラウディオの声は冷たい。


「また夢を作るつもりかもしれない。今度は火でな」


 その時、榊の端末が震えた。


 警察庁の共有資料。


 榊は画面を見て、眉をひそめた。


「久遠院顧問からコメントが来ている」


 クラウディオは顔色を変えなかった。


 ただ、目の奥がさらに冷えた。


 榊は読み上げる。


「魔女という言葉は、個人を燃やすためではなく、集団が罪悪感を分担しないための記号として機能することがあります」


 地下展示室に、数秒の沈黙が落ちた。


 榊は続ける。


「火そのものより、断罪の形式が重要なのかもしれません」


 正しい。


 的確だ。


 だからこそ不快だった。


 クラウディオは、低く言った。


「また意味をつけている」


 ルストが見る。


 クラウディオは端末ではなく、紙片の魔女という文字を見ていた。


「気色悪いほど整っている」


 榊は通信記録を保存した。


「久遠院顧問を犯人扱いする証拠にはならない」


「分かっている」


「だが、発言のタイミングは確認する」


「確認しろ」


 クラウディオの言葉は短い。


 いつもなら、ここで嫌味が二つは飛ぶ。


 今日は飛ばない。


 ルストはそれを見ていた。


 クラウディオの口数が減っている。


 火の匂いが、彼から言葉を奪っている。


 澪奈は展示室の壁を見た。


「煤の付き方が妙です。高温の火が広がったなら、もっと上部にも痕が出るはずです。でも、壁には薄い影だけ。展示ケースにも大きな熱損傷はありません」


「床は?」


「被害者の周辺だけです。床に黒い影はありますが、周囲へ広がる焦げが少ない。燃えた範囲が限定されすぎています」


 榊は展示物の目録を確認する。


「この部屋、可燃物は多い。紙資料、木製の展示台、布、古い祭具。普通なら無傷では済まない」


「はい」


 澪奈は紙片へもう一度視線を落とす。


「燃えるべきものが燃えず、燃え切るはずの紙が残っている。科学的に説明できる部分はありますが、全体としては不自然です」


 ルストは、展示室の奥へ目を向けた。


「声が残っている」


 榊が聞く。


「またか」


「一人じゃない」


 ルストの声が低くなる。


「たくさんの声だ。だが、全員が同じことを言っているわけじゃない。誰かが誰かを呼び、誰かがそれを真似ている。断罪の形だけが重なっている」


 クラウディオは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 本当に短い時間だった。


 誰かが「魔女」と叫ぶ。


 群衆がそれに続く。


 最初に叫んだ者の顔は消え、声だけが増える。


 火が上がる。


 名前が消える。


 そこにいた一人の女ではなく、魔女という記号だけが燃える。


 クラウディオの喉が、わずかに動いた。


 ルストは見逃さなかった。


「クラウディオ」


 クラウディオは目を戻す。


「戻っている」


「遅れた」


「誤差だ」


「誤差じゃない」


 クラウディオは何も言わなかった。


 否定できなかったのか、否定する気力がなかったのか。


 どちらでもいい。


 ルストはそれ以上踏み込まない。


 今ここで、何があった、と聞く必要はない。


 彼女の正体も、火刑の記憶も、焼けた砂糖の匂いも、まだ言葉にする時ではない。


 ただ、クラウディオが火の匂いに引きずられたことだけは、確かだった。


 澪奈が端末を持ち上げる。


「紙片裏の線、拡大します」


 画面に、細い波形のような線が映る。


 彼女は廃校事件のデータと並べた。


「この線、鍵穴傷の波形と似ています」


 榊が息を止める。


「人形事件と繋がるのか」


 クラウディオは、短く返した。


「繋げたがっている奴がいる」


 その言葉が落ちた直後だった。


 地下展示室の空気が、ひどく熱を持ったように感じられた。


 実際には温度計の表示はほとんど変わっていない。


 炎もない。


 煙も増えていない。


 それなのに、火の匂いだけが一瞬、強くなった。


 焼けた木。


 焦げた布。


 熱を含んだ石。


 焼けた砂糖のような、甘く嫌な匂い。


 そして、声。


 一人ではない。


 たくさんの声が重なっている。


 低い声。


 高い声。


 怯えた声。


 怒った声。


 正しいことをしていると思い込んだ声。


 誰かに罪を貼りつける声。


 それらが、地下の石壁へ吸い込まれるように重なった。


 魔女。


 誰も口を開いていなかった。


 榊も、澪奈も、ルストも、クラウディオも。


 それなのに声は聞こえた。


 魔女。


 クラウディオは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 一瞬だけ。


 すぐに戻す。


 だが、ルストは見逃さなかった。


 地下展示室には炎がなかった。


 ただ、火の匂いだけが、まだ消えなかった。




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