第30話 朝の工房
朝の工房《箱庭》には、夜の残り香があった。
窓の外は白み始めている。路地裏の石畳はまだ濡れており、街灯は役目を終えきれないまま、淡い朝の光の中でぼんやりと滲んでいた。古い建物の壁は湿気を含み、閉ざされた店先には夜の冷たさが薄く残っている。
工房の中だけは、妙に整っていた。
表の展示棚には、アンティークドールが静かに座っている。硝子の目は朝の光を受け、どれも生きていないものらしく、何も語らなかった。作業台の上には白い布が敷かれ、その上に壊された少女人形の部品が並んでいる。外された硝子の目。折れた指。抜かれたゼンマイ。鍵穴のような傷を写した拡大写真。黒赤い血術核の欠片。旧放送室の録音断片の記録。人形用の小さな白い靴。音声波形の印刷資料。澪奈が残した分析メモ。榊から送られてきた元教師の再聴取予定。
そして、その中央に白いカップがあった。
紅茶の湯気が細く立っている。
血術核の黒赤い粒と、硝子の目と、鍵穴傷の写真と、折れた指の横で、クラウディオ・ルジェリウスは何もなかった顔で紅茶を飲んでいた。
あまりにも整っている。
黒いシャツの襟は高く、首筋を隠している。袖は手首まで下ろされている。髪は乱れていない。顔色も変わらない。工房の奥で少女人形が壊され、鍵穴のない胸が夢の断片を見せ、誰のものとも知れない声が「開けて」と言った翌朝とは思えないほど、彼は静かにカップを持ち上げていた。
人間なら一度くらい寝不足で顔を崩せ。いや吸血鬼だった。迷惑な整い方である。
ルスト・ヴァルレインは、作業台の向かいに立っていた。
灰銀の髪は朝の光の中でも冷たく、鋼色の瞳はクラウディオではなく、彼の手元に向いていた。白いカップ。細い指。袖の下に隠された手首。昨夜までに残った痕。首筋も、手首も、指の付け根も、すべて布の下へ隠されている。
クラウディオは、視線に気づいた。
「見るな」
「見ていない」
「朝から嘘が下手だな、灰銀」
「見えただけだ」
「その言い訳も飽きた」
クラウディオは紅茶をひと口飲んだ。
その顔は平然としている。
だが、ルストには分かっていた。
平然としているのではない。
平然としているふりが、腹立たしいほど上手いだけだ。
昨夜、クラウディオは夢の形をした誘導を見抜いた。旧放送室に残った「あの子」の残響。焼けた砂糖の匂いを伴う「彼女」の記憶。作られた声。血術核の欠片。鍵穴傷。それらを誰かが意図的に混ぜ、クラウディオへ読ませようとしていた。
その夢の中で、彼女の声と、あの子の声が混ざった。
君は永遠にこの鍵を開けない。
先生。
あるいは、名前にもならない息。
それが重なった瞬間、クラウディオは低く言った。
混ぜるな。
怒鳴りはしなかった。
ただ、静かに怒っていた。
その静けさを、ルストはまだ覚えている。
さらに、その前の夜もある。
クラウディオが完成した少女人形を壊し、「彼女じゃない」と漏らした夜。
ルストが問わずに噛んだ夜。
その後、ルストがついに「彼女とは誰だ」と踏み込み、クラウディオが答えず、キスで黙らせようとした夜。
結果、黙らせられたのはクラウディオの方だった。
その記憶は、朝の紅茶では薄まらない。
ルストは、低く言った。
「昨夜のあれは何だった」
クラウディオのカップが、唇の手前で止まった。
ほんの一瞬。
すぐに紅茶を飲み、何事もなかったようにカップを皿へ戻す。白い陶器が、かすかに音を立てた。
「どれの話だ」
声は平静だった。
あからさまな逃げ方だった。人類ならもう少し隠す努力をする。いや、これで隠せていると思っているのかもしれない。重症である。
ルストは言う。
「お前は、答えないためにキスをした」
クラウディオは、湯気の向こうで薄く笑った。
「随分と自信のある解釈だな」
「違うのか」
「質問の仕方が悪い」
「なら、正しい質問を教えろ」
「嫌だね」
「逃げるのか」
クラウディオは、紅茶のカップを置いた。
音が少しだけ硬かった。
「事件の話をしろ」
白い湯気が、二人の間に細く上がる。
ルストは黙った。
逃げた。
あまりにも露骨に。
だが、机の上には確かに事件がある。
壊された人形の部品。
鍵穴傷。
血術核の欠片。
音声波形。
旧放送室の記録。
人形用の靴。
そして、「開けて」と言った声。
ルストは、クラウディオが逃げていることを分かっている。
クラウディオも、見抜かれていることを分かっている。
それでも、事件の話をしなければならない。
厄介なことに、逃げ道が正当な仕事として成立している。人間も吸血鬼も、こういう時だけ合理性を盾にする。盾の使い方が汚い。
ルストは短く言った。
「合理的な回避か」
クラウディオは、少しだけ目を細めた。
「よく分かっているじゃないか」
「開き直るな」
「お前の質問が不快だからだ」
「答えたくないだけだ」
「それを不快と言う」
クラウディオは資料を一枚引き寄せた。
旧放送室で見つかった人形用の白い靴の写真だった。片方だけ。靴底には古い埃がこびりつき、内側にはかすれた頭文字のような印が残っていた。
「廃校の人形は俺の作ではない。作風だけをなぞった偽物だ。目が違う。指が違う。重心も、塗装も、呼吸もない」
声は、もう事件のものになっていた。
ルストは黙って聞く。
クラウディオは続ける。
「歌声は、人形が歌ったわけじゃない。旧放送室の古い録音、加工された声、聞く者が自分で埋めやすい曖昧な音。それを器にして、残響型の怪異が入り込んだ」
彼は次の資料を指先で滑らせる。
音声波形。
細かく揺れる線。
「録音上は一つの音だ。だが、現場では聞いた者によって違う声に聞こえた。榊は母親に似た声を聞いた。澪奈は恩師に似た声を聞いた。折原は、おそらくあの子の声を聞いた」
ルストは何も言わなかった。
彼自身は、クラウディオの声を聞いた。
数百年前の声に似たもの。
置いていくな、と聞こえたような声。
その話を、クラウディオはここでしない。
ルストもさせない。
今は事件だ。
クラウディオは、黒赤い核の写真を取った。
「人形の胸には血術核があった。心臓のように見せていたが、臓器ではない。科学でも怪異でも血術でもある混ぜ物だ。音と記憶と怪異を結びつける媒介。人形に歌わせるためではなく、聞いた者の中にある声を引き出すための核」
紅茶の湯気が薄くなっていく。
「元教師は、怪異の被害者ではあった。だが、それだけではない。過去に自分が見なかったもの、聞かなかった声、見捨てた責任を、人形怪異へ押しつけ、自分だけ被害者の椅子に座ろうとしていた」
クラウディオの声が冷える。
「人間は、便利な椅子を見つけるとすぐ座る」
ルストは、そこに反論しなかった。
折原邦成は怯えていた。
その恐怖は本物だった。
だが、本物の恐怖が本物の誠実さに変わるわけではない。彼は過去を隠し、知らないふりをし、教師としての名で一人の声を見なかった時間を覆おうとした。
クラウディオは次に、工房の人形の写真を取った。
壊された少女人形。
外された硝子の目。
折れた指。
抜かれたゼンマイ。
開かれた胸。
「この工房の人形は、俺への挑発だ。俺の壊し方をなぞった。目を外し、ゼンマイを抜き、指を折り、胸を開く。だが下手だ。真似るなら、もう少し丁寧に壊すべきだった」
ルストは、クラウディオを見る。
その声は穏やかですらある。
だから怖い。
クラウディオは、自分の怒りを解説の形へ押し込めている。まるで、感情を部品に分け、人形の関節のように並べている。
「壊された人形の胸には、鍵穴のような傷があった。穴ではない。開く構造もない。鍵穴の形をしただけの傷だ。血術核の残滓があり、音声波形のような線があり、旧放送室の録音や『彼女じゃない』の音声と一部似た揺れがあった」
そこで、ほんの一瞬、クラウディオの指が止まる。
彼女じゃない。
端末から勝手に流れた自分の声に似た音。
その私的な言葉が、誰かに拾われ、怪異と音声加工の素材にされようとしている。
ルストは口を開かなかった。
クラウディオは、何もなかったように続けた。
「鍵穴傷は、開けるためのものではない。見せるため、閉じるため、呼ぶための印だ。そこから、少女人形のみた夢のような断片が出た」
資料の上に、澪奈が書いた走り書きがある。
夢の三層構造。
あの子の残響。
彼女の記憶。
作られた接続。
「夢は真実そのものじゃない。旧放送室に残った子どもの声。俺の記憶を模した断片。血術核の欠片と鍵穴傷を使った誰かの誘導。三つを混ぜている。あれをそのまま信じれば、見せたい形に誘導される」
ルストは静かに言った。
「見なければ読めない、とお前は言った」
クラウディオは目だけを動かす。
「お前は、読まれたいように作られた夢だと言った」
「正しい」
「癪だがな」
「分かっていて見ようとした」
「相手の手を見るには、危険物にも近づく必要がある」
「近づきすぎる」
「それを止めるために立っていたんだろう」
ルストは答えなかった。
答えないことが答えだった。
クラウディオは、紅茶を飲もうとして、カップの中身が少し冷めていることに気づいたように目を細めた。
「冷えた」
「飲むな」
「命令か」
「勧告だ」
「吸血鬼に紅茶の温度を指示される日が来るとはな。文明の終わりだ」
「飲むな」
クラウディオは一瞬だけルストを見た。
それから、飲まなかった。
ただ、カップを皿へ置いた。
小さな音がする。
その音が、妙に柔らかかった。
ルストは、すぐに言った。
「事件の話はした」
クラウディオの目が冷える。
先回りしている顔だ。
ルストは続けた。
「次は昨夜の話だ」
クラウディオは即座に返した。
「まだ事件の話は終わっていない」
「逃げるのか」
「終わったと思える頭なら楽でいいな」
「クラウディオ」
「呼ぶな。朝から声が重い」
「お前は、答えないためにキスをした」
「蒸し返すな」
「忘れていない」
「記憶力の悪い吸血鬼になれ」
「無理だ」
クラウディオは、はっきり不愉快そうな顔をした。
だが、立ち去らない。
紅茶を飲む手も止まっている。
ルストは、そこへわずかに踏み込んだ。
「お前は、彼女の話をするくらいなら、俺の方がまだましだと言った」
クラウディオの指がカップの縁にかかった。
「言ったか?」
「言った」
「覚えが悪いな。忘れろと言っただろう」
「忘れない」
第22の夜にも、同じことを言った。
忘れろ。
忘れない。
その言葉が、朝の工房で再び静かに向かい合う。
クラウディオは、しばらく黙った。
そして言った。
「お前は本当に性質が悪い」
「知っている」
「開き直るな」
「お前ほどじゃない」
クラウディオは薄く笑った。
冷たく、皮肉な笑み。
だが、完全に拒んではいない。
その時、作業台の端末が鳴った。
通信通知。
榊からだった。
クラウディオは、逃げ道を得たように画面へ視線を落とした。便利な事件である。いや便利に使うな、事件を。
ルストはそれに気づいたが、止めなかった。
クラウディオが通信を開く。
榊の声が端末から流れた。
『朝から悪い。元教師の再聴取を進める。旧放送室の記録も洗い直している。あの子に該当する生徒について、古い在籍簿と相談記録を確認中だ』
クラウディオは言う。
「名前はまだ出すな」
『分かっている。確定していないものを先に名前で呼ぶつもりはない』
「少しは学習したか」
『あんたに言われると腹が立つな』
澪奈の声も混じった。
『鍵穴傷の線と音声波形に類似があります。完全一致ではありませんが、旧放送室の録音ノイズ、第25夜の端末音声、それから血術核の反応時に出た波形と、一部同じ癖が見えます』
ルストが端末を見る。
クラウディオは視線を細めた。
「癖、か」
『はい。ただし、音声加工の具体的な工程までは分かりません。血術核の残滓がまだ反応しているので、物理的な傷だけではなく、何らかの媒介として機能している可能性があります』
榊が続ける。
『もう一つ。警察庁の共有資料に、久遠院顧問からコメントが入っている』
クラウディオの表情は変わらなかった。
だが、カップを置いた指先の音が少し硬くなった。
榊は読み上げる。
『夢は記憶そのものではなく、記憶が受け取られる形を示すことがあります。鍵穴は、開く場所ではなく、開けられないことを示す記号として機能しているのかもしれません』
工房の空気が、ほんの少し冷えた。
久遠院怜司。
穏やかで、知的で、整いすぎた言葉。
まだ犯人とは言えない。
だが、近すぎる。
クラウディオは、低く言った。
「気色悪いほど言葉が整っている」
榊が通信の向こうで息を吐く。
『同感、と言いたいところだが、分析としては使える』
「意味をつけるのが好きな男だ」
『久遠院顧問についても、情報取得のタイミングと閲覧履歴を確認する。ただ、証拠はまだない』
「証拠があるなら、今頃もっと面倒な朝になっている」
『今でも十分面倒だ』
「お前の朝の不幸まで面倒見きれない」
榊は何か言いかけたが、澪奈が通信を引き取った。
『壊された人形の鍵穴傷、朝の状態はどうですか。反応は止まっていますか』
クラウディオは作業台の上の壊された少女人形へ視線を落とした。
胸の鍵穴傷。
黒赤い粒の残滓。
水滴は、昨夜のまま乾ききらずにいる。
彼は答えようとした。
その瞬間、かちり、と音がした。
鍵が回るような音。
朝の工房で。
夜ではない。
廃校でもない。
旧放送室でもない。
朝の光が窓辺に差し込む《箱庭》の作業場で。
ルストの目が鋭くなる。
澪奈の声が通信越しに硬くなった。
『今の音は?』
クラウディオは、人形の胸を見た。
鍵穴傷の縁に、小さな水滴が生まれていた。朝の光の中で、その水滴は透明に見えた。だが、底にごく薄い赤が沈んでいる。血の色とも、薔薇の色とも、古い録音テープの茶色ともつかない。
録音端末が勝手に起動した。
赤いランプが点滅する。
ざ、と古いノイズが走る。
それから、声がした。
「開けて」
第29の夜と同じ声。
だが、今度は朝の工房に響いた。
榊の通信が止まる。
澪奈も息を呑んでいる。
ルストはクラウディオを見る。
クラウディオは、紅茶のカップを静かに置いた。
「朝まで来たか」
その声は低かった。
怒りでも、驚きでもない。
状況を認識した声だった。
廃校の夜に閉じ込められていたはずの残響が、工房へ来ている。
しかも、朝にも反応している。
怪異の条件が崩れ始めている。
ルストが言う。
「夜だけではなくなった」
「ああ」
「ここに定着し始めている」
「俺の工房を宿にする気なら、家賃を取るべきだな」
「冗談を言うな」
「言わないと殺意が漏れる」
クラウディオの声は平坦だった。
だから、冗談に聞こえなかった。
通信の向こうで榊が言う。
『すぐ向かう』
「来る前に靴を拭け。昨夜の埃をまた持ち込むな」
『この状況でそれを言うか』
「工房を汚すな」
『怪異が喋った後に言うことじゃないだろ』
クラウディオは通信を切らなかったが、返事もしなかった。
彼の視線は、作業場の奥へ向いていた。
箱庭風の展示室へ続く扉。
半分ほど閉じられている。
その向こうには、白い砂、銀色の小道、止まった噴水、小さなベンチ、踊らない少女人形たちがいる。
ルストも同じ方を見た。
「クラウディオ」
クラウディオは答えない。
奥の箱庭の園。
そこに並ぶ少女人形のうち、一体だけ。
ほんのわずかに、首の角度が変わっていた。
昨日までは空席を見ていた。
今は、作業場の方を見ているように見えた。
誰も触れていない。
扉も閉じかけていた。
それでも、その首は変わっている。
クラウディオは何も言わなかった。
ルストも、すぐには言葉を出さなかった。
朝の光の中で、紅茶の湯気だけが静かに薄れていく。
壊された人形の胸の鍵穴傷から、もう音はしなかった。
だが、箱庭の園の奥で、止まっていたはずのゼンマイが、一度だけ小さく鳴った。




