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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第2部 少女人形のみた夢

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第29話 少女人形のみた夢



 工房《箱庭》の奥には、まだ夜が残っていた。


 表の作業場では、鑑識用の灯りが白く点いている。硝子の眼球、小さな筆、細い針、未完成の手足、乾いた絵具、古いレース。整えられた道具たちは、いつも通りの場所にあった。だが、その整い方がかえって不気味だった。奥の箱庭の園が壊されているのに、表だけが何も知らない顔をしている。


 白い布を敷いた作業台の上に、壊された少女人形が横たえられていた。


 胸は開かれている。片方の硝子の目は外され、折れた指は小さな証拠袋の中へ入れられていた。抜かれたゼンマイは、澪奈が採取した旧放送室の埃とともに別の袋へ分けられている。裂かれた白いドレスの裾には、まだわずかな湿り気が残っていた。


 人形の胸には、鍵穴に似た傷が刻まれている。


 穴ではない。


 開く構造もない。


 鍵を差し込む場所ですらない。


 ただ、心臓の位置に、鍵穴の形をした傷だけがある。


 鍵穴のない胸。


 澪奈はその傷へライトを当てていた。白い光の中、傷の縁に黒赤い粒がかすかに光る。血術核の残滓に似たもの。表面には、音声波形にも、古い鍵の歯にも、血術の印にも見える細い線が走っている。


 榊悠真は、記録端末を片手に眉を寄せていた。


「映像記録、続ける。異常があればすぐ言ってくれ」


 白石澪奈は小さく頷く。


「鍵穴傷の縁を再確認します。黒赤い粒は採取済みですが、まだ反応が残っています。温度も一定しません」


「温度?」


「傷の周辺だけ、時々下がります。周囲の室温とは連動していません」


 榊は嫌そうな顔をした。


「またそれか」


「またそれです」


 澪奈の返事は冷静だったが、疲れていた。科学は逃げない。けれど、怪異が横から机を蹴ってくる。資料も機材も揃っているのに、現象の方が律儀に分類から逃げる。人間社会が作った箱は便利だが、怪異は箱に入れと言われても入らない。まあ、入ったら入ったで箱の方が泣く。


 ルスト・ヴァルレインは、作業台の横に立っていた。


 灰銀の髪が白いライトを鈍く弾く。鋼色の瞳は人形の胸に向いているが、その視線の端にはクラウディオがいる。


 クラウディオ・ルジェリウスは、作業台の反対側に立っていた。


 黒いシャツの襟は高い。首筋を隠すように整えられている。袖口も手首まで下ろされていた。あの夜の噛み痕も、深い口づけの余韻も、ここでは表へ出ない。事件の場では切り替える。そうしている顔だった。


 だが、傷のある人形を見ている時だけ、彼の表情は薄くなる。


 怒りが消えたのではない。


 消えたように見えるほど奥へ沈んでいる。


 ルストは、その静けさを知っていた。怒鳴るよりも、皮肉を言うよりも、嘲るよりも危険な静けさ。人形を壊されたことへの怒りだけではない。鍵穴の傷が、もっと古い場所へ触れている。


 クラウディオは、あの傷を見た時、ほんの一瞬だけ記憶の底へ沈んだ。


 焼けた砂糖の匂い。


 薄い手袋の指。


 冷たい鍵。


 そして、女の声。


 君は永遠にこの鍵を開けない。


 ルストは、その言葉の意味をまだ知らない。


 クラウディオも語らない。


 だから、聞かない。


 今は。


 澪奈が鍵穴傷へ器具を近づけた。


 その時だった。


 かちり、と音がした。


 鍵が回るような音。


 穴はない。


 鍵もない。


 開く構造もない。


 それなのに、何かが開いたような音だけがあった。


 作業台の灯りが、ほんの少し遠のいた。


 いや、灯りそのものは変わっていない。蛍光灯も、鑑識用ライトも、端末の画面も、同じ光を出している。それでも視界の奥で、光が一枚薄い硝子の向こうへ押しやられたように見えた。


 榊が顔を上げる。


「今の音、記録に入ったか」


 澪奈は端末を確認する。


「波形は出ています。ですが……」


 彼女の言葉が止まった。


 白い布の下から、微かな音が漏れていた。


 歌ではない。


 歌になる前の息。


 録音機が回る前の古いノイズ。


 誰かが名前を呼ぶ直前に喉で止めたような短い音。


 そして、白い砂の匂いがした。


 あり得ない。


 壊された少女人形は作業台の上にある。箱庭の園は奥の展示室にある。だが、作業台の周囲に、薄く灰を混ぜたような白い砂の匂いが広がっていく。硝子の天蓋が揺れる影。銀色に塗られた小道。止まった水車。鳴らないオルゴール。踊らない少女人形たち。


 現実は消えていない。


 作業台も、鑑識用ライトも、榊の記録端末も、澪奈の手袋も、ルストの灰銀の髪も、クラウディオの白い指も、そこにある。


 だが、その上に別の景色が重なった。


 古い学校の廊下。


 湿った木の床。


 剥がれかけた掲示物。


 曇った窓。


 遠くの旧放送室の扉。


 その扉の前に、小さな白い靴が片方だけ落ちている。


 澪奈が息を呑んだ。


「映像は、記録されていません」


 榊が低く言う。


「だが、見えている」


「はい」


 澪奈の声は硬い。


「同じ場にいるのに、見え方が違う可能性があります」


 榊は廊下の幻へ目を凝らしていた。


「俺には旧放送室の扉が見える。黒板もある。だが、人影は見えない」


 澪奈は言う。


「私は、録音機材が見えます。古いものです。音楽室ではなく、放送室の棚……それと、黒板の隅に何か文字が」


 ルストは何も言わなかった。


 彼には、廊下の奥に別の影が見えていた。


 少女のような影。


 だが、輪郭が揺れている。年齢も、顔も、髪も定まらない。歌おうとして、声を飲み込むような仕草だけが見えた。口が開きかけ、閉じる。指先が制服の裾を掴む。誰かに聞いてほしかったのに、聞かれなかった声が、口の中で腐っていくような気配。


 クラウディオは、人形の胸の鍵穴傷を見ていた。


 彼には、また別のものが見えているのだろう。


 焼けた砂糖の匂いが濃くなった。


 薔薇香水ではない。


 工房に残る甘い焦げ臭さとも違う。


 もっと柔らかい、まだ温度のある甘さ。


 白い手袋の指。


 古い鍵。


 銅鍋の底に残る砂糖の色。


 笑っているのに少しだけ悲しい声。


 君は永遠にこの鍵を開けない。


 その言葉の余韻が、鍵穴傷の線へ絡みつく。


 だが、すぐに別の声が重なった。


 古い学校の廊下。


 旧放送室。


 子どもの息。


 先生、と言いかける前の短い音。


 クラウディオの指が止まる。


 彼の顔から、さらに表情が消えた。


 ルストはそれを見た。


 彼女の記憶と、あの子の残響が混ざっている。


 意図的に。


 クラウディオは、低く言った。


「夢まで作り物か」


 澪奈が顔を上げる。


「夢、ですか」


「夢の形をしているだけだ」


 クラウディオは壊された人形の胸を見下ろした。


「人形に夢を見せる趣味まであるのか。悪趣味だな」


 旧放送室の扉が、幻の中で少しだけ開いた。


 そこに、教師の背中が見えた。


 折原邦成に似ている。


 だが、はっきりとはしない。あれが折原本人なのか、折原の記憶なのか、誰かが作った教師の影なのか分からない。声だけが、ノイズの中で歪んで聞こえる。


 全ての生徒を。


 全ての生徒を。


 全ての。


 途中で音が裂ける。


 その言葉は、愛していた、まで辿り着かない。


 代わりに、薄く笑うようなノイズが混じった。


 榊の顔が険しくなる。


「元教師の証言が混じっている」


 澪奈が端末を見る。


「機器には音の揺れだけが出ています。声としては記録されていません。波形は……旧放送室の録音断片に似ていますが、完全一致しません」


 クラウディオは、幻の中の旧放送室を見た。


「一層目は、あの廃校に残っていた残響だ」


 その声は冷静だった。


 冷静すぎた。


「聞いてもらえなかった子どもの声。旧放送室。靴。黒板。出席簿。教師の背中」


 ルストは、クラウディオを見た。


 彼は自分を保つために分析している。


 解体している。


 夢を、記憶を、傷を、層に分けることで、その中へ落ちないようにしている。


 クラウディオは続けた。


「二層目は、俺の記憶を模した断片だ。焼けた砂糖、鍵、手袋、くだらない比喩」


 くだらない、と言いながら、その声は少しだけ冷えすぎていた。


 ルストは聞かない。


 彼女とは誰か。


 その鍵は何か。


 なぜ開けないのか。


 聞かない。


 クラウディオは、自分で続けた。


「三層目は、誰かが作った接続だ。音声加工、血術核の欠片、鍵穴傷、工房の人形。二つの記憶を混ぜて、俺に読ませようとしている」


 榊が低く言う。


「読ませようとしている?」


「そうだ」


 クラウディオの声が鋭くなる。


「これは夢じゃない。夢の形をした誘導だ」


 その瞬間、幻の旧放送室の壁に、文字のようなものが浮かんだ。


 記憶を留める器。


 文字だったのか、音だったのか、一瞬で消えたため判別できない。だが、その概念だけが残る。まるで、誰かが分析文を夢の中へ貼りつけようとしたかのように。


 榊が息を呑む。


「久遠院の言葉に似ている」


 ルストが短く言った。


「久遠院か」


 クラウディオは即座に返さなかった。


 幻の中の黒板の隅に、小さな頭文字のような線が見える。人形用の靴に残っていた印と似ている。だが、次の瞬間には白い手袋の指がその上へ重なり、焼けた砂糖の匂いが廊下の埃を塗りつぶした。


 あの子の残響。


 彼女の記憶。


 誰かの作為。


 全部が、わざと絡められている。


 クラウディオは言う。


「まだ名前をつけるな。名前をつけると、そいつの望む形になる」


 ルストは黙った。


 その指摘は正しい。


 久遠院という名前を今この夢につければ、夢は久遠院の形になる。そう見せたい者がいるなら、その名前を口にすることすら利用される。


 クラウディオは鍵穴傷を見ていた。


 その奥で、女の声がまた揺れた。


 君は永遠にこの鍵を開けない。


 だが、今度は最後まで純粋には響かなかった。


 途中に、子どもの息が混じる。


 先生。


 いや、声ではなかった。


 名前を呼ぼうとして飲み込む音だった。


 愛されたかった声。


 聞いてほしかった声。


 それが、彼女の言葉の上へ乱暴に重ねられる。


 クラウディオの唇が、白くなるほど薄く結ばれた。


「混ぜるな」


 低い声だった。


 怒鳴っていない。


 けれど、作業台の灯りが一瞬揺れたように感じるほど、冷たい怒りがあった。


 ルストは、クラウディオの右手が鍵穴傷へ伸びかけたのを見た。


 それは分析のための手つきではなかった。


 もっと奥へ踏み込もうとする手だった。


 夢の構造を読みに行く。


 読めば、相手の手癖が分かる。


 だが、相手もそれを望んでいる。


 ルストは手を伸ばし、クラウディオの袖を掴んだ。


 強くはない。


 引き倒す力でも、押さえつける力でもない。


 ただ、戻るための感触を与える程度。


 クラウディオが反射的に振りほどこうとした。


 だが、完全には払わなかった。


 ルストは低く言う。


「見るな」


 クラウディオは、夢の方を向いたまま返す。


「見なければ読めない」


「読まれたいように作られた夢だ」


 その言葉に、クラウディオの動きが止まった。


 ルストは続けない。


 必要なことだけを言った。


 クラウディオは、一瞬黙る。


 そして、ほんのわずかに視線を動かした。


 ルストの手元へ。


 袖を掴んでいる指へ。


 それから、鍵穴傷へ戻る。


「……分かっている」


 声は低かった。


「分かっていて覗こうとするな」


「覗かなければ、相手の手が読めない」


「お前が読まれる」


 クラウディオは何も言わなかった。


 正しいからだ。


 また、夢の中で音が歪む。


 旧放送室の扉が開く。


 中には、録音機材がある。古いマイク。埃をかぶった機材棚。片方だけの白い靴。黒板の隅にかすれた頭文字。出席簿の端に、滲んだ線。そこへ、箱庭の園の白い砂が流れ込む。銀色の小道が旧放送室の床へ伸びる。踊らない人形たちが、教室の机の間に立つ。


 そこへ、焼けた砂糖の匂いが満ちた。


 古い学校の埃と、甘い菓子の匂いが混じる。


 ありえない組み合わせ。


 だからこそ、悪意がある。


 クラウディオは、吐き捨てるように言う。


「人の記憶を標本にする奴の匂いがする」


 榊が苦い顔をした。


「標本か」


「切り取って、名札をつけて、意味を貼る。愛されたかった声、聞かれなかった声、開かない鍵。そういう綺麗な名前をつけて、棚へ並べる」


 クラウディオの目が冷えた。


「最悪だ」


 澪奈が端末を見る。


「波形が強くなっています。鍵穴傷の線と、今の音の波形が一部連動しています。血術核の残滓も反応しています」


 壊された人形の胸の黒赤い粒が震えた。


 かちり、とまた音が鳴る。


 鍵が回る音。


 穴はない。


 開く場所もない。


 だが、何かが開いたような音。


 白い砂の上で、胸の傷から黒赤い粒がひとつ落ちた。


 それは床へ落ちる前に、白い布の上で小さく跳ねた。


 澪奈が反射的に器具を構える。


 だが、クラウディオが低く言った。


「触るな」


 澪奈の手が止まる。


 黒赤い粒は、白い布の上でひび割れた。


 かすかな音だった。


 硝子が割れる音にも、乾いた血が砕ける音にも聞こえた。


 割れた粒の中から、古い録音のような声が流れた。


 歌ではない。


 名前でもない。


 長い言葉でもない。


 ただ、短い一言。


「開けて」


 誰の声かは分からない。


 彼女か。


 あの子か。


 作られた声か。


 誰かが二つの記憶を混ぜて作った偽物か。


 榊は息を止めた。


 澪奈は端末を見たまま動かない。


 ルストはクラウディオを見た。


 クラウディオは、表情を消していた。


 怒りも、皮肉も、嫌悪もない。


 だから、ルストは袖を掴む指にほんの少しだけ力を込めた。


 クラウディオは払わなかった。


 白い布の上で、割れた黒赤い粒は、もう何も言わなかった。



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