第26話 解説してやる、人形は嘘をつかない
旧放送室の空気は、夜が明けても変わらなかった。
窓の外には薄い朝の気配がある。廃校の校庭には白い霧が低く漂い、錆びた鉄棒やひび割れた昇降口の影が、ぼんやりと湿った光の中に沈んでいた。それでも、旧白鳥坂学園の中だけは、まだ夜を抱えているようだった。廊下の板は冷え、壁の掲示跡は黒ずみ、古い蛍光灯の外された天井には、薄い埃が溜まっている。
旧放送室には、録音端末が置かれていた。
机の上には、証拠袋に入れられた小さな白い靴。古い録音断片を保存した記録媒体。偽物の少女人形の胸から見つかった黒赤い血術核の拡大写真。旧放送室の床板から採取された赤茶けた土。折原邦成の靴底から採取した粉。人形の構造写真。音声波形の印刷資料。
すべてが並んでいる。
ひとつひとつは小さい。靴も、粉も、録音の波形も、人形の部品も、どれも事件全体から見れば小さなものだった。だが、小さなものほど、嘘を隠すには向かない。人間は大きな言葉で自分を飾る。全ての生徒を愛していた、教師として間違っていなかった、ただ巻き込まれただけだ。そういう言葉は大きい。大きすぎて、中身の継ぎ目が見えにくい。
その点、人形の指や靴底の土は、余計なことを言わない。黙って残る。黙って示す。
まったく、人間より物の方が誠実である。悔い改めろ、人類。
折原邦成は、旧放送室の隣にある旧職員室から移され、今は旧放送室の入口近くに置かれた椅子に座っていた。
顔色は悪い。白髪交じりの髪は乱れ、眼鏡の奥の目は乾いているのに、怯えは残っている。両手は膝の上で組まれていた。指先はまだ細かく震えている。歌を聞いた恐怖は本物だったのだろう。旧放送室の録音が勝手に動き、あの子の声らしきものが流れた時、折原は確かに崩れかけていた。
だが、それだけではない。
怯えの奥に、保身がある。
恐怖の奥に、隠したいものがある。
榊悠真は机の前に立っていた。眠気の抜けきらない顔だが、目は鋭い。白石澪奈は録音端末と資料を確認している。科学の側から見えるものを、ひとつずつ言葉へ変える準備をしていた。ルスト・ヴァルレインは壁際に立ち、旧放送室の奥を見ている。灰銀の髪は朝の鈍い光を拾い、鋼色の瞳は動かない。
クラウディオ・ルジェリウスは、机の端に指を置いていた。
黒いシャツの襟はいつもより高く整えられている。手首も袖で隠れている。昨夜の噛み痕も、深いキスの余韻も、すでに表面からは消されているように見える。実際には消えていない。首筋、肩口、手首、指の付け根。そこにルストの痕が残っている。キスで乱された呼吸も、頬の熱も、もう落ち着いていたが、機嫌は悪かった。
ひどく悪い。
それは折原のせいだけではない。人形の胸に心臓のような核を入れられたこと。誰も録音していないはずの「彼女じゃない」が端末から再生されたこと。久遠院怜司の的確すぎる文面。ルストがついに「彼女とは誰だ」と踏み込んだこと。その全てが、クラウディオの内側を苛立たせていた。
だが、今は事件だ。
彼はそれを分かっている。
ルストも分かっている。
だから、ルストはもう「彼女」について聞かなかった。
クラウディオも語らなかった。
沈黙は、そこでいったん棚へ置かれた。厄介な荷物である。棚が壊れないことを祈るしかない。
榊が折原を見る。
「折原さん。これから、あなたの証言と現場の証拠を照合します」
折原は唇を湿らせた。
「私は、もう話しました。私は何もしていない。あの人形が、勝手に歌ったんです。私はただ、あの歌を聞いて……」
「聞きました」
榊は遮った。
乱暴ではないが、曖昧な逃げ道を塞ぐ声だった。
「ですが、あなたの証言には食い違いがあります。旧放送室の鍵の位置。入っていないと言った旧放送室付近の土が靴底についていたこと。廃校に入った理由。人形の位置。古い録音についての発言。順に確認します」
折原の肩が強張る。
「私は、怖くて混乱していたんです」
クラウディオが、そこで静かに笑った。
榊が顔を向ける。
「何だ」
「いや。そろそろ、まどろっこしいと思ってな」
クラウディオは机から指を離した。
それから、折原の正面へ立つ。
旧放送室の埃を含んだ光の中で、彼の顔は人形よりも白く見えた。美しいが、温度がない。折原が少し身を縮める。
クラウディオは低く言った。
「解説してやる」
その声で、部屋の中の空気が変わった。
澪奈の指が止まる。
榊は黙る。
ルストは、クラウディオを見る。
クラウディオは折原だけを見ていた。
「人形は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人間だ」
折原の顔が歪んだ。
「私は嘘なんて」
「最初からそれだ」
クラウディオは切る。
「お前は、聞かれてもいないのに否定から入る。何も知らない。触っていない。入っていない。見捨てていない。教師として間違っていない。順番が全部、責任から逃げる方へ向いている」
折原は息を呑む。
クラウディオは机の上に置かれた人形の写真を手に取った。
廃校の旧音楽室で見つかった、偽物の少女人形。
「まず人形だ。こいつは俺の作ではない。目が違う。指が違う。首の角度が違う。重心が違う。塗装に呼吸がない。人形の形だけを真似た、出来の悪い偽物だ」
榊が口を挟む。
「それは、白石の分析でも補強されている」
澪奈が資料をめくる。
「硝子の目の研磨痕、塗料の重ね方、関節部の処理、内部構造が工房《箱庭》の人形とは一致しません。ただし、作風の外側だけは模倣されています。素材の一部や靴の形状、首の傾け方、白い肌の処理に似せようとした痕跡があります」
クラウディオは頷きもしない。
「つまり、俺の人形ではない。だが、俺を疑わせるには十分な顔をしている。人形師クラウディオ・ルジェリウスへ疑いを向けるために作られた顔だ」
折原は小さく首を振る。
「それは、私には関係ない」
「まだお前の番ではない」
クラウディオは冷たく言った。
折原は黙る。
クラウディオは次に、録音波形の資料を指先で弾いた。
「次に歌だ。歌っていたのは人形じゃない」
旧放送室の隅で、録音端末の赤いランプが静かに点滅している。
「旧放送室の古い録音。加工された声。子どもの息。大人の声。名前になる前の母音。そういう曖昧な音を重ねて、聞く者が自分の記憶で補いやすい器を作った。そこへ、残響型の怪異が入り込んだ」
榊が言う。
「録音上は一つの音。だが、現場では聞いた者ごとに違う声として聞こえた」
澪奈が続ける。
「はい。録音データには同一の旋律とノイズしか残っていません。ですが、現場証言は一致していません。榊さんはお母様の声に似たものを、私は恩師の声に似たものを、ルストさんは……」
澪奈はそこで止めた。
ルストは何も言わなかった。
クラウディオも何も言わない。
沈黙だけが、そこに必要なぶんだけ残る。
クラウディオは折原へ目を戻した。
「お前は『子どもの歌声』と言った」
折原の指が震えた。
「そう聞こえたんです」
「違うな」
「違わない!」
「お前には、『あの子』の声に聞こえた」
折原の喉が動いた。
「そんなことは」
「言っていない、とでも?」
クラウディオは薄く笑う。
「お前は叫んだ。私は、あの子を見捨ててなんかいない、と。誰も『あの子』の話はしていなかった。なのに、お前はそう言った」
折原は顔を伏せる。
「怪異が……怪異が、私を責めたんです」
「便利だな。怪異に責められたことにすれば、責められる理由まで怪異にできる」
クラウディオの声が冷えた。
「お前が怖がっていたのは怪異じゃない。自分の名前が出ることだ」
折原が顔を上げる。
「違う! 私は本当に怖かったんです! あの声が、耳元で、ずっと……」
ルストが短く言った。
「怯えていたのは本当だ」
折原が、縋るようにルストを見る。
だが、ルストの声は続いた。
「だが、全部ではない」
クラウディオは横目でルストを見た。
ほんの一瞬だけ。
その視線には、昨夜の問いの残りがかすかに重なった。だが、彼はすぐに折原へ戻る。
「だから嘘まで本当になるわけじゃない」
折原の唇が震える。
榊が静かに言った。
「折原さん。あなたは怪異に影響された。それは事実として扱います。ですが、あなたが過去のことを隠していたことも別の事実です」
澪奈が資料を示す。
「録音時刻と現場のセンサー記録を照合しました。あなたは廊下までしか行っていないと言いましたが、旧放送室の奥の床板付近に残っていた土と、あなたの靴底の土が一致しています。埃の乱れも、最近人が入ったものです」
折原は、力なく首を振った。
「昔、入った時のものかもしれません」
「旧放送室は長期間閉鎖されていました。埃の上にある足跡は新しい。靴底に残っていた木屑も同じです」
澪奈の声は冷静だった。
「さらに、あなたは旧放送室の鍵について、聞かれていない時点で『まだ棚の裏にあるんですか』と言いました。鍵の場所を知っていたことになります」
榊が折原を見る。
「あなたは知らないと言った。ですが、知っていた」
折原は、手を握りしめる。
「私は、ただ……昔のことを思い出して」
「思い出したなら、なぜ最初から言わなかったんです」
「関係ないと思ったんです」
クラウディオが笑う。
「関係ないものを、人はそんなに怯えた声で隠さない」
折原の目が赤くなる。
「私は……私は、あの子を傷つけたくなかった」
「黙っている理由を、優しさにするな」
クラウディオの声が、薄い刃のように落ちる。
「お前は傷つけたくなかったんじゃない。自分が傷つけた側に立つのが嫌だっただけだ」
「違う!」
「違わない」
クラウディオは旧放送室の棚の方を見た。
そこから見つかった片方だけの白い人形用の靴。小さく古びた靴。あの子と旧放送室をつなぐもの。
「靴もあった。古い録音もあった。人形があったことも知っていた。旧放送室の鍵も知っていた。なのにお前は、自分は何も知らないと言った。歌が怖かったからではない。自分が知っていると認めたくなかったからだ」
折原は息を荒くする。
「私は全ての生徒を愛していました!」
またその言葉だった。
旧放送室の空気が、ひどく薄くなる。
クラウディオの表情が消える。
ルストはその顔を見た。
クラウディオは、その言葉を嫌っている。
全ての生徒を愛していた。
誰でも愛するという大きな布。
その下で、一人の声を聞かなかったことを隠す布。
クラウディオは低く言った。
「全員を愛していた。だから一人を見なかった。便利な言い訳だな」
「教師は公平でなければならないんです!」
「公平と無関心を混ぜるな」
「私は……私は、先生として間違っていなかった」
「間違っていなかったと言い張る人間ほど、何を間違えたか知っている」
折原の顔が歪む。
榊が、今度は警察としての声で言った。
「折原さん。あの子は、あなたに何を訴えていたんですか」
折原は答えない。
唇だけが震える。
「仲間外れですか。いじめですか。旧放送室に逃げていたのは、そのためですか」
「生徒同士の問題です」
折原は低く言った。
前にも口にした逃げ道。
クラウディオが即座に返す。
「生徒同士の問題。教師が手を汚さないために発明された、便利な箱だな」
「私は、何度も注意しました!」
「誰に」
「クラス全体に」
「誰の名前も呼ばずにか」
折原が黙る。
クラウディオは続ける。
「あの子だけを見られなかった。加害者の名前も呼べなかった。だから全体に注意した。全体を愛した。全体を見た。全体、全体、全体。人間は群れの名前を出すと、一人を見なかったことを忘れられるらしい」
澪奈の手が止まる。
榊は、何も言わなかった。
折原は震えながら口を開く。
「私は、あの子を見捨ててなど」
「怪異にしたかったんだろう」
クラウディオの声が落ちる。
折原が固まった。
「自分が見捨てたものを」
旧放送室の奥で、録音端末が小さくノイズを立てた。
ざ、と。
澪奈がすぐに反応する。
「入力が入りました」
榊が録音機を見る。
「再生か」
「違います。端末が拾っています。旧放送室側です」
誰も触れていない。
だが、赤いランプが点滅している。
かすかな歌の断片が漏れた。歌詞はない。声ですらない。短い母音、息、喉の奥で止まる音。折原の顔が白くなる。
クラウディオは端末を見ず、折原を見たまま続ける。
「お前は怪異に襲われた。それは本当だ。だが、怪異はお前の罪を作ったわけじゃない。元からあったものを、音にしただけだ」
「違う……」
「違わない」
「私は被害者です」
「被害者の椅子に座れば、加害者だった時間が消えると思ったか」
折原は声を失う。
旧放送室の外で、風が廊下を通り抜けた。板の隙間が鳴る。古い学校全体が、息を止めているようだった。
榊が資料を確認する。
「この事件の仕組みについて確認します。人形はクラウディオさんの作風を模倣して作られた。歌声には旧放送室の古い録音と加工音声が使われた。さらに、人形内部の血術核が残響型怪異を留め、聞いた者ごとに違う声として届くようになっていた」
澪奈が頷く。
「録音上は一つの音ですが、現場証言は一致しない。血術核は、音と怪異と記憶を結びつける媒介だった可能性があります。科学で追える加工部分と、怪異反応の部分が混在しています」
榊は折原を見る。
「あなたは、その仕組みを全て作ったわけではないでしょう。高度な音声加工、血術核、人形の模倣。あなた一人で用意するには無理がある」
折原は、そこへ縋ろうとした。
「そうです。私はそんなことは」
「ですが」
榊の声が硬くなる。
「あなたは旧放送室の過去を知っていた。鍵の場所を知っていた。古い録音の存在を知っていた可能性がある。あの子と人形を結ぶものも知っていた。そして、怪異が起きた時、自分の過去を隠し、ただの被害者として証言しようとした」
折原の顔が崩れる。
「私は……」
ルストが、静かに言った。
「利用した側でもある」
折原はルストを見る。
ルストは続ける。
「そして、利用された側でもある」
クラウディオは、そこで少しだけ目を細めた。
榊は頷く。
「事件全体の黒幕とは、現時点では断定しません。ですが、あなたが何も知らない被害者だという説明も通りません」
折原は、両手で顔を覆いかけた。
だが、泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
代わりに、低く繰り返す。
「私は、先生として……」
「まだそれを言うのか」
クラウディオの声には、疲れすら混じっていた。
「先生である前に、人間だっただろう。人間として、あの子の声を聞かなかった。教師という肩書きに隠れるな」
折原は、ようやく顔を上げた。
目は赤く、唇は震えている。
「あなたに、何が分かるんです」
クラウディオは答えなかった。
ルストは、その横顔を見た。
彼女じゃない。
人形は嘘をつかない。
見捨てたものを怪異にしたかったんだろう。
その言葉の底に、クラウディオ自身の傷がかすかに見える。だが、今は聞かない。事件を見る。クラウディオもそれを選んでいる。
ルストは短く言った。
「今は事件だ」
クラウディオは横目でルストを見る。
その声に、昨夜の問いが残っていることを分かっていた。
だが、何も言わなかった。
クラウディオは机に置かれた血術核の写真へ視線を落とす。
「狙いは二つだ」
榊が顔を上げる。
「二つ?」
「一つは、俺を疑わせること。偽物の人形、作風の模倣、人形師という偏見。人間は分かりやすい異物が好きだからな。黒髪の人形師、古い工房、笑う人形。並べてやれば、勝手に疑う」
榊は否定しなかった。
実際に、警察もクラウディオを疑った。
科学的証拠に見えるもの、証言、防犯カメラ、血の匂い、人形。それらが一方向へ並べられていたからだ。
「もう一つは、廃校の過去に関わる者を揺さぶること」
クラウディオは折原を見る。
「お前のような人間に、聞かなかった声を聞かせる。自分の罪を思い出させる。だが同時に、『怪異に襲われた被害者』の席も用意する。人間がどう逃げるかまで計算されている」
折原は黙っている。
「人間の弱さを、随分よく知っている奴が混ぜた」
その声に、榊の目が動いた。
ルストが短く問う。
「久遠院か」
クラウディオは、すぐには答えなかった。
久遠院怜司。
警察庁外部顧問。穏やかで知的で、的確すぎる男。科学と怪異は矛盾しない。人形の内部に核があるなら、それは心臓ではなく、記憶を留める器かもしれません。声は、記憶よりも早く身体へ届くことがあります。
あまりにも、合いすぎている。
だが、確証はない。
クラウディオは低く言った。
「まだ証拠はない」
「だが疑っている」
「疑うだけなら無料だ」
「お前が無料で済ませる顔じゃない」
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だな」
やり取りは短い。
だが、今はそれ以上続かない。
榊は資料を閉じる。
「久遠院顧問については、発言内容と情報取得のタイミングを確認する。だが、今は折原さんの証言を詰める」
折原が小さく震えた。
「私は……私は本当に、全部を知っていたわけじゃない」
クラウディオが言う。
「それはそうだろうな。お前に血術核は作れない。音声加工も、人形の模倣も、ここまで整えるには足りない」
折原は少しだけ顔を上げる。
「なら」
「だが、知らなかったことを免罪符にするな」
クラウディオは容赦なく続けた。
「お前は知っていた部分を隠した。知らない部分を怪異のせいにした。怖かったことを盾にした。全ての生徒を愛していたという布で、一人を見なかった穴を塞ごうとした。それだけだ」
折原の口が開き、閉じる。
言葉は出なかった。
旧放送室の録音端末が、また微かな音を拾った。
今度は歌ではない。
ノイズの奥で、子どもの声に似たものが一音だけ出た。
名前の最初の音のようだった。
母音か、子音かも判別できない。
そこから先は続かない。
折原が顔を強張らせる。
榊が息を止める。
澪奈はすぐに波形を保存する。
ルストは、クラウディオを見る。
クラウディオは録音端末を見ていた。
その目は冷たい。
だが、ほんのわずかに、痛そうでもあった。
クラウディオは低く言う。
「人形は嘘をつかない。だが、人形は全部を話してくれるほど親切でもない」
録音端末の赤いランプが、ゆっくり消えた。
旧放送室には、また沈黙が戻った。
小さな白い靴だけが、証拠袋の中で朝の光を鈍く受けていた。




