第25話 深いキスで黙らせる
工房《箱庭》の夜は、灯りを絞るほど輪郭が濃くなった。
表の展示棚には明かりがない。硝子ケースの中に並ぶ古い人形たちは、外の街灯をほんの薄く映し、闇の中で黙っている。作業場へ続く廊下には、木材と布と絵具の乾いた匂いが沈んでいた。その奥から、古い薔薇香水と焦げた砂糖に似た甘い匂いがかすかに漂ってくる。もうその匂いは、クラウディオ・ルジェリウスにとって単なる記憶の匂いではなくなっていた。事件が、悪意が、誰かの手が、そこに混じっている。
作業台の上には、資料が並んでいた。
廃校の旧放送室から見つかった人形用の小さな靴。古い録音断片の解析結果。廃校で見つかった偽の少女人形の内部写真。血術で作られた黒赤い核の拡大画像。澪奈が出した分析メモ。榊がまとめた時系列。久遠院怜司から届いた、あまりにも穏やかで、あまりにも的確なコメントの写し。
人形の内部に核があるなら、それは心臓ではなく、記憶を留める器かもしれません。
その一文が印刷された紙は、他の資料よりも薄いのに、作業台の上で一番重く見えた。
クラウディオは、その紙へ視線を落としていた。
黒いシャツの襟は高い。首筋を隠すように整えられている。袖も手首まで下ろされていた。いつも通りに見える。美しく、冷たく、隙がない。だが、ルスト・ヴァルレインには分かっていた。
襟の下には、噛み痕がある。
首筋に。肩口に。鎖骨の近くに。
袖の下には、手首の痕がある。指の付け根にも、まだ薄く赤い跡が残っているはずだった。
深夜の工房で、クラウディオは完成した少女人形を壊した。硝子の目を外し、首の留め具を外し、胸の奥のゼンマイを抜き、指を一本ずつ外し、頬に細い亀裂を入れた。怒りに任せた破壊ではなかった。丁寧で、慣れていて、儀式のような手つきだった。
その時、彼は低く漏らした。
彼女じゃない。
ルストは聞いた。
だが、問わなかった。
問わない代わりに噛んだ。問いを飲み込むたびに噛んだ。慰める代わりに、同情する代わりに、抱きしめて綺麗に済ませる代わりに、痕を残した。クラウディオが痛いと言い、逃げようとし、怒り、皮肉を返し、それでも本気の拒絶をしなかったから、ルストは噛んだ。そして「もういい」と言われた瞬間に止まった。
その痕が今もある。
クラウディオは、資料をめくるふりをしながら、無意識に襟元へ指をやった。
首筋を隠す仕草。
ルストは見ていた。
クラウディオが目だけを上げる。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ、灰銀」
「……見えただけだ」
「それを嘘と言うんだ」
クラウディオは短く笑った。
声は冷たい。だが、苛立ちの下に別のものがある。噛み痕を見られることへの不快。見られても問われないことへの苛立ち。問われなければ救われるのか、置き去りにされるのか、自分でも決められないような硬さ。
ルストは、血術核の写真を見た。
黒赤い小さな塊。
人形の胸の中、ゼンマイの空洞に仕込まれていたもの。心臓のように見えるが、臓器ではない。血の反応を持ちながら生体組織ではなく、結晶のようで鉱物ではなく、血術と音声加工と残響型怪異を縫い合わせる核。
クラウディオはそれを見て言った。
人形に心臓を入れる趣味はない。
それは、怒りというより嫌悪だった。
人形に心臓を入れる。人形に声を入れる。人形に記憶を留める。誰かが、クラウディオの人形制作と、彼が壊し続けてきたものと、その奥に沈んでいる「彼女」に触れている。
ルストは、前夜の言葉をもう一度思い出した。
彼女じゃない。
それまで飲み込んできた問いが、胸の奥で重くなる。
今までは、聞かなかった。
聞けば、クラウディオは閉じると思った。噛むことでしか止められない場所へ沈むと思った。だから聞かなかった。
だが、人形の胸に心臓めいた核を入れられた今、もう何も聞かないままではいられなかった。
血術核の写真。古い靴。声の解析。久遠院の文面。箱庭の園。壊された完成人形。
すべてが、同じ一点へ近づいている。
ルストは、静かに言った。
「彼女とは誰だ」
工房の空気が止まった。
クラウディオの指先が止まる。
紙を押さえていた白い指が、ほんのわずかに硬くなった。顔は変わらない。睫毛も、唇も、肩も、ほとんど動かない。だが、視線だけが血術核の写真から外れた。ほんの一瞬、工房の奥へ向く。箱庭風の展示室へ続く閉じた扉の方へ。白い砂、銀色の小道、止まったオルゴール、踊らない少女人形たちが眠る、あの閉ざされた園へ。
ルストは逃さなかった。
「人形を作って、壊して、彼女じゃないと言った。あれは誰だ」
クラウディオは答えない。
沈黙が落ちる。
作業台の上の紙が、空調もないのにかすかに震えた。遠くの展示室で、止まっているはずのゼンマイがひとつだけ鳴ったような気がした。ちり、と、耳の奥で金属の細い音がする。
クラウディオは、ゆっくりルストを見た。
そして、笑った。
ひどく冷えた笑みだった。
「質問が多い」
「答えろ」
「命令か」
「違う」
「なら聞くな」
「聞く」
ルストの声は低く、動かなかった。
クラウディオの目がさらに冷える。皮肉では逃げ切れないと悟った顔だった。突き放しても、ルストは引かない。噛み痕を隠しても、見えただけだと言う。聞かないでいた男が、今だけは聞くと決めている。
クラウディオは、作業台に置かれた資料から手を離した。
次の瞬間、ルストの襟を掴んだ。
距離が潰れる。
ルストが反応する前に、クラウディオは顔を寄せた。黒髪が揺れ、作業灯の光が白い頬をかすめる。噛み痕を隠していた襟がわずかに乱れる。クラウディオはルストの口を塞いだ。
キスだった。
甘い始まりではなかった。
問いを殺すためのキスだった。彼女とは誰だ、という言葉を口ごと封じるため。話題を切るため。答えないまま、相手の呼吸を奪って黙らせるため。クラウディオは襟を掴み、主導権を握ったつもりで、深く口づけた。
ルストは引かなかった。
一瞬だけ、クラウディオの髪が頬をかすめる。薔薇香水と絵具と、古い木材の匂いが近づく。唇の圧は強い。拒絶ではなく、封じるための強さ。クラウディオが問われたくないものを、キスで沈めようとしているのが分かった。
だから、ルストはクラウディオの手首を掴み返した。
襟を掴んでいた手は外さない。
そのまま逃げ道を潰すように、クラウディオの手を押さえる。もう片方の腕で腰を引き寄せ、作業台と自分の身体の間へ閉じ込めた。クラウディオが一瞬、息を詰める。
主導権が入れ替わる。
クラウディオが仕掛けたキスを、ルストがさらに深く返した。
クラウディオの肩が跳ねた。
息を吸う隙を奪われる。閉じ込めるために近づいたはずなのに、逆に逃げ道を塞がれた。ルストの手が手首を押さえ、腰を支え、離れようとする身体を戻す。乱暴に叩きつけるわけではない。だが、逃がさない。クラウディオは横へ身を引こうとしたが、作業台が背に当たった。
「っ、待て……」
言葉は途中で消えた。
ルストがさらに深く口づけたからだった。
クラウディオの指がルストの襟を掴む。押し返すためだったのか、支えるためだったのか、自分でも分からないように布を握りしめる。視界が滲む。作業灯の光が、白と金にほどける。唇だけでなく、呼吸そのものを奪われる感覚があった。
クラウディオは、逃げようとした。
身体を捻る。だが、腰を支えられたまま戻される。手首を取られたまま、腕に力が入らない。膝がかすかに揺れる。腹立たしい。自分から仕掛けたはずなのに、いつの間にか息を奪われ、立つためにルストの服を掴んでいる。
屈辱だった。
そして、完全に嫌ではないことが、もっと屈辱だった。
ルストがわずかに唇を離す。
クラウディオは、やっと息を吸った。
頬に熱がある。目元が湿っている。呼吸が乱れている。自分でそれを認識した瞬間、怒りが込み上げた。
「深すぎる、灰銀……」
声は掠れていた。
ルストは低く返す。
「仕掛けたのはお前だ」
「誰が、そこまでしろと言った」
「黙らせるつもりなら、最後までやれ」
クラウディオの目が鋭くなる。
「減らず口を」
「お前ほどじゃない」
「なら、その口を閉じろ」
クラウディオはもう一度、自分から距離を詰めようとした。
だが、ルストはその動きを読んでいた。クラウディオが主導権を取り戻す前に、手首を握る力を強め、壁際へ一歩押し戻す。作業台の角を避けるように位置を変え、箱庭の展示室へ続く扉の前で、クラウディオを閉じ込めた。
背中が扉に触れる。
閉ざされた園の気配が、すぐ後ろにあった。
踊らない少女人形たちが、扉の向こうで空席を見ているような気がする。
クラウディオが息を呑んだ。
ルストは、その一瞬を逃さず、また口づけた。
深く。
今度は、問い詰めるためではなかった。
答えを引きずり出すためでもない。
クラウディオがキスで逃げようとしたことを、見逃さないためだった。答えないなら答えないでいい。だが、黙らせて終わらせようとするな。そういう、言葉にならない反撃だった。
クラウディオの身体が震える。
腰から力が抜けかける。扉とルストの腕がなければ、その場に沈んでいたかもしれない。そんな自分が腹立たしくて、クラウディオはルストの服をさらに強く掴んだ。押すでもなく、引くでもなく、ただ縋るような形になったことに気づき、顔が歪む。
ルストは、少しだけ唇を離した。
「彼女とは誰だ」
クラウディオは、乱れた息のまま笑った。
「……お前は、質問の仕方が下手だ」
「答えろ」
「嫌だね」
「なぜ」
「質問が多い」
「逃げるな」
クラウディオは、潤んだ目でルストを睨んだ。
睨んでいるのに、頬が赤い。呼吸がまだ整っていない。襟は乱れ、噛み痕の一部が見えている。隠していたものが見えていることに気づき、彼はすぐに片手で襟を直そうとした。だが、ルストがその手首を取ったままだったため、動きが止まる。
「見るな」
「見ていない」
「本当に嘘が下手だな」
いつもの言葉。
だが、声は乱れている。
ルストは低く言った。
「今は聞かない」
クラウディオの眉が動く。
「今、聞いただろうが」
「答えろとは言っていない」
「詭弁だ」
「そうだ」
「開き直るな」
「お前が答えないからだ」
クラウディオは、一瞬だけ黙った。
その沈黙の奥に、箱庭の園があった。
白い砂。止まったゼンマイ。踊らない人形。鳴らないオルゴール。作って、閉じて、動かさなかったもの。完成しても届かなかったもの。壊しても消えなかったもの。
クラウディオは、声を低くした。
「彼女の話をするくらいなら、お前の方がまだましだ」
ルストの目がわずかに動く。
それは答えではなかった。
逃げだった。
だが、完全な拒絶でもなかった。
ルストは、それ以上踏み込まなかった。
その時、作業台の上で、録音端末が勝手に起動した。
赤いランプが点滅する。
ざ、と細いノイズが走った。
クラウディオの顔から、乱れの熱が一瞬で引く。
ルストも振り向く。
作業台には、血術核の写真と解析結果が置かれているだけだった。実物の核は密閉容器に入れられ、中央署の保管庫にある。ここにはない。なのに、端末が反応している。工房の中に、旧放送室の古いノイズが流れ込んだような音がした。
息。
短い母音。
名前を呼びかける前に途切れる音。
歌詞はない。
旋律にも満たない。
作られた声の断片だった。
クラウディオは、扉に背を預けたまま端末を見る。
頬の熱はまだ引ききっていない。目元もわずかに潤んでいる。呼吸も完全には整っていない。それでも声だけは冷えた。
「……覗き見とは、趣味が悪い」
ルストは無意識に一歩前へ出た。
クラウディオの乱れた姿を、端末からも、誰かの視線からも隠すように。
甘い保護ではなかった。
反射的な遮断。
クラウディオはすぐに気づいた。
「庇うな」
「見せたくないんだろう」
クラウディオは黙った。
図星だった。
だから余計に腹立たしい。
彼は乱れた襟を直そうとしたが、まだ手首を取られている。ルストはそれに気づき、ようやく手を離した。クラウディオはすぐに襟元を整える。噛み痕と、キスの余韻と、赤い頬をまとめて隠そうとするような動きだった。
端末の画面が光る。
警察庁の共有システムから通知。
久遠院怜司。
クラウディオの目が冷えた。
ルストも画面を見る。
届いた文面は短かった。
声は、記憶よりも早く身体へ届くことがあります。
録音されていない音ほど、残り方は深い。
血術核が反応したなら、誰かの記憶に触れたのでしょう。
静かで、穏やかで、的確な言葉だった。
あまりにも、的確だった。
クラウディオは低く笑った。
「気色悪いほど分かっているな、あいつは」
ルストが言う。
「久遠院か」
「まだ決めるな」
「だが、近い」
「ああ」
クラウディオは端末から目を離さない。
「近すぎる」
工房の奥で、箱庭の園のゼンマイが一度だけ鳴った。
ちり、と。
ルストは扉の向こうを見た。
クラウディオは見ない。
見ないまま、呼吸を整える。
乱れた襟を直し、袖口を引き下ろし、見えかけた噛み痕を隠す。頬の赤みを消すことはできない。目元の潤みも、完全には隠せない。それでも彼は、いつもの顔へ戻ろうとした。
ルストはそれを見ていた。
クラウディオは言う。
「見るな」
「見ていない」
「本当に嘘が下手だな」
その時、録音端末から、誰も再生していない声が漏れた。
低く、掠れた声。
クラウディオ自身の声に似ていた。
だが、ほんの少し遠い。
作業台の白い布の上、血術核の写真の横で、端末が勝手にその音を吐き出す。
「彼女じゃない」
クラウディオの顔から表情が消えた。
ルストは、何も言わなかった。
箱庭の園の向こうで、鳴らないはずのオルゴールが、一音にもならない金属音を立てた。




