第27話 壊れた少女人形
工房《箱庭》の看板は、夜の路地裏で濡れたように沈んでいた。
雨はもう止んでいる。だが、石畳の隙間には水が残り、街灯の白い光を細く引き延ばしていた。古い建物の壁は湿気を含み、閉じた店のシャッターには夜の冷たさが張りついている。霧杜市の路地裏は、朝を迎える前の街というより、誰かに見つからないために息を潜めている場所のようだった。
榊悠真の車が路地の入口で止まった。
先に降りたのは白石澪奈だった。彼女は証拠鞄を手にし、工房の入口へ視線を向ける。顔には疲労が残っている。旧白鳥坂学園での聞き取り、折原邦成の証言、古い録音、血術核、そしてクラウディオの解説。夜は長すぎた。人間の睡眠時間にも少しは配慮してほしいものだが、怪異も犯罪も労基法を守らない。最悪の無法地帯である。
榊は車のドアを閉め、短く息を吐いた。
「鍵に異常があれば、すぐ知らせろ」
クラウディオ・ルジェリウスは答えなかった。
黒い外套の襟を整え、静かに工房の扉の前へ立つ。首筋は高い襟に隠れていた。手首も袖の中へ収まっている。第22の夜につけられた噛み痕も、第25の夜に乱された呼吸の余韻も、表面上は見えない。
ルスト・ヴァルレインは、その背後に立っていた。
灰銀の髪は街灯の下で鈍く光り、鋼色の瞳はクラウディオの首筋ではなく、工房の扉を見ていた。見ていないふりをする必要があるものを、今は見ない。事件の場では切り替える。そう決めている顔だった。
だが、ほんの一瞬、クラウディオが鍵を取り出すために手首を動かした時、袖口がわずかにずれた。
赤みはもう薄い。
それでも、そこに痕があることをルストは知っている。
クラウディオは、振り返らずに言った。
「見るな」
「見ていない」
「嘘が下手だ、灰銀」
「……見えただけだ」
「それも嘘だ」
短いやり取りだった。
榊は何も聞かなかった顔をし、澪奈も証拠鞄の留め具を確認するふりをした。人間、こういう気配だけは無駄に察する。怪異より人間関係の方がよほど厄介である。
クラウディオは鍵を差し込んだ。
扉は、いつも通り開いた。
鍵に壊された跡はない。金具にも歪みはない。扉枠にも傷はなかった。開いた瞬間、工房の中から古い木材、絵具、布、硝子、乾いた薬品の匂いが流れてくる。表の展示棚は暗く、硝子ケースの奥でアンティークドールたちは目を閉じずに座っていた。
何も変わっていない。
見た目には。
榊はライトを少し上げた。
「入口に破損なし。鍵も正常」
澪奈が視線を走らせる。
「窓も、表から見える範囲では割れていません」
クラウディオは、返事をしなかった。
そのまま中へ入る。
表の作業場は整っていた。
白い布のかかった作業台。小さな筆。細い針。硝子の眼球。木製の関節。人形用の靴。乾いた絵具。未完成の手足。修復待ちの古い人形たち。どれも前と同じ場所にある。乱された痕跡はない。
榊は低く言った。
「表は異常なし、か」
クラウディオは黙っている。
澪奈が視線を細めた。
「クラウディオさん?」
クラウディオは作業場の中央で足を止めていた。
顔は変わらない。
ただ、空気だけを嗅ぐように、わずかに呼吸を細めている。
ルストは、その背中を見た。
クラウディオは何も言わない。
不機嫌な皮肉もない。
榊へ嫌味を投げることもない。
だから、ルストは気づいた。
何かが違う。
クラウディオは作業場ではなく、さらに奥を見ている。
箱庭風の展示室へ続く扉。
その扉が、ほんのわずかに開いていた。
隙間は小さい。知らない者なら見落とすだろう。だが、この工房で一つ一つの道具の角度まで整えているクラウディオにとって、それは十分すぎる異常だった。
奥から、薄い薔薇香水の匂いがした。
それに混じる、焦げた砂糖のような甘い匂い。
さらに、旧放送室の古い埃に似た乾いた匂い。
クラウディオは、ゆっくり歩き出した。
走らない。
急がない。
乱暴に扉を開けない。
歩調は一定だった。
一定すぎた。
ルストは、その背中を見ながら、胸の奥が冷えるのを感じた。
クラウディオが怒鳴る時はまだいい。
皮肉を言う時も、嘲笑う時も、相手を切るように笑う時もまだいい。怒りが外へ出ている。毒が言葉になっている。
だが、今は違う。
声がない。
歩調だけが一定になる。
呼吸が細くなる。
それは、刃が抜かれる前の鞘の音に似ていた。
ルストは、黙って後を追った。
榊と澪奈も続く。
奥の廊下は細い。壁に掛けられた型紙の額が、暗い光の中で浮かんでいる。手、足、首、胴体、小さな靴。人形を作るための線が並んでいる。行き止まりにある灰色の扉は、既に鍵が開いていた。
クラウディオは、その前に立つ。
指をかける。
ほんの一秒だけ止まる。
そして、扉を開けた。
箱庭の園は、閉じたまま壊れていた。
硝子の天蓋は淡い青い光を返している。床には薄く灰を混ぜたような白い砂。銀色に塗られた小道。低い柵。枯れない造花。小さな噴水の模型。止まった水車。鳴らないオルゴール。円形の舞台。踊らない少女人形たち。
その中で、一体だけが崩れていた。
倒れているのではない。
壊されている。
舞台の左手、白い砂と銀色の小道の境目に置かれていた少女人形だった。腕を宙で止め、足先を一歩前へ出し、誰かと踊る直前の姿で固められていた人形。淡い灰青のドレスを着て、白い靴を履き、首をわずかに傾けていたはずの人形。
今は、首の角度が不自然に折れている。
片方の硝子の目が外され、白い砂の上に転がっていた。胸元は開かれ、内側の空洞が見えている。ドレスの裾は裂かれ、薄いレースが白い砂に垂れていた。指が一本だけ折られ、小さな白い骨のように舞台下へ落ちている。ゼンマイは抜かれ、銀色の小道の上に置かれていた。
人形の口元は、笑っているようにも見えた。
泣く寸前にも見えた。
澪奈が息を呑む。
「現場保存を」
榊がすぐに言った。
「誰も触るな」
クラウディオはもう近づいていた。
「クラウディオ」
榊が制止する。
だが、クラウディオは止まらなかった。
ただし、乱暴には触れなかった。
白い砂を踏まない。銀色の小道だけを選び、屈む。人形に触れる前に、落ちた指、硝子の目、ゼンマイ、胸元の裂け方、砂の乱れを順に見る。手袋もしていないのに、彼の指は証拠を壊すほど無神経ではなかった。むしろ、澪奈より先に、壊された順番を読んでいるようだった。
澪奈は、言いかけた「触らないで」を飲み込んだ。
クラウディオは、折れた指を拾い上げた。
白く細い指。
爪の先まで作られている。
彼はそれを見て、低く言った。
「下手だな」
その声は小さかった。
だが、展示室の中で冷たく響いた。
ルストの目が細くなる。
榊が問う。
「何がだ」
クラウディオは答える前に、外された硝子の目を拾った。
白い砂の上に落ちていた目は、内側から曇っているように見えた。裏側には、細い傷がある。波形のような、横へ揺れる傷。クラウディオはそれを光に透かし、目を細める。
「目を外す順番が違う」
榊は黙った。
クラウディオは続ける。
「ゼンマイを抜くなら、胸を先に開くな。支えが崩れる。指を折る位置も悪い。折るなら関節の手前だ。ここで折れば、不格好なだけになる」
澪奈は、思わず彼を見た。
クラウディオの声は、平坦だった。
人形が壊された怒りではなく、技術の雑さを評する声に聞こえた。だが、その平坦さの奥に沈んでいるものが深すぎて、誰もすぐには言葉を挟めなかった。
クラウディオは、壊された人形の胸元を覗き込む。
そこには、黒赤い小さな粒があった。
第24話で見つかった血術核の完全なものではない。もっと小さい。欠片、残滓、あるいは呼び水のようなもの。乾いた血の粒のようにも、黒い硝子片にも見える。胸の内側に貼りつくように残っている。
ルストが近づく。
「血術核の欠片だ」
澪奈はすぐに鞄を開けた。
「採取します。クラウディオさん、そこから離れてください」
クラウディオは離れない。
だが、手も出さない。
「完全品じゃない。核になり損ねている」
ルストが低く言った。
「接続しようとした」
「ああ」
クラウディオの目が、さらに冷える。
「ここまで入ってきたか」
その声に、ルストは一歩横へ出た。
クラウディオの隣に立つ。
止めるためではない。
戻れなくなった時、引き戻すためだった。
クラウディオは気づいている。
気づいても、追い払わない。
澪奈は血術核の欠片らしき黒赤い粒を慎重に撮影した。
「胸部内に黒赤色の粒状異物。血術核の残滓と類似。採取します」
榊は展示室を見回す。
「侵入痕跡は?」
澪奈は足元を照らした。
「靴跡はありません。ただ……白い砂に、細い線があります」
銀色の小道の外、白い砂の表面に、髪の毛より少し太い程度の線が走っていた。人が歩いた跡ではない。人形を引きずった跡とも少し違う。糸を這わせたようにも見えるし、細い金具を通したようにも見える。
「糸か」
榊が言う。
「断定できません」
澪奈はライトをずらす。
「この線、壊された人形の足元から、展示室の入口近くまで続いています。ただ、途中で途切れています」
ルストが低く言う。
「外から引いたわけじゃない」
クラウディオが応じる。
「中で始まっている」
その言い方が、ひどく冷たかった。
榊の顔が険しくなる。
「鍵に異常はなかった。窓も壊れていない。警備記録にも侵入者は映っていない。だが、展示室だけが荒らされている」
「荒らされた、というより」
クラウディオは、硝子の目を見たまま言う。
「見せられている」
榊は口を閉じる。
澪奈が、壊された人形のゼンマイを採取用トレイへ移した。
「ゼンマイに埃が付いています。工房内の埃とは色が違います」
彼女は小型ライトで確認する。
「赤茶けた粉と古い木屑。旧放送室付近で採取したものと似ています」
榊の声が低くなる。
「廃校のものが、ここにある」
「分析しないと一致とは言えません。ただ、工房のものではありません」
クラウディオは、その報告に表情を変えなかった。
ルストだけが、その静けさを見ている。
クラウディオは怒鳴らない。
皮肉も少ない。
ただ、人形の壊れ方、埃、線、欠片、硝子の目の傷を見ている。相手の手順を読んでいる。どう入ったか。何を見せたいか。何を真似たか。何を踏みにじったか。
そして、どう壊し返すか。
その思考が静かすぎる。
「クラウディオ」
ルストが呼んだ。
クラウディオは答えない。
「戻れ」
その声で、クラウディオの視線がわずかに動いた。
完全には戻らない。
だが、聞こえてはいる。
クラウディオは低く返した。
「まだだ」
ルストはそれ以上言わない。
ただ、隣に立ったままだった。
澪奈は、壊された人形のドレスの裏側を確認していた。
「裾の内側に、印があります」
榊が近づく。
「文字か?」
「文字の一部に見えます。廃校で見つかった人形用の靴にあった頭文字と、形が似ています。完全な文字ではありません」
クラウディオの目が、わずかにそちらへ動く。
澪奈は撮影する。
「同一かどうかは解析が必要です。ただ、偶然にしては位置が妙です。人形の外から見える場所ではなく、裂かれた内側に写し取られています」
榊が言う。
「つまり、壊されなければ見えない」
「はい」
クラウディオが薄く笑った。
笑ったのに、温度がなかった。
「よく考えたな」
誰への言葉かは分からない。
だが、褒めてはいなかった。
人形の胸の空洞から、かすかな音が漏れた。
全員が止まる。
歌ではない。
歌になりきらない、息だけの旋律だった。廃校で聞いた夜の歌に似ている。だが、ずっと弱い。まだこの場所へ完全にはつながっていない。箱庭の園の空気の中に、廃校の旧放送室の埃が無理に混ぜ込まれたような音だった。
澪奈が録音端末を起動する。
「音を記録します」
音はすぐに薄くなった。
それでも、波形は残った。
榊は人形の胸を見つめる。
「廃校の怪異を、ここへ接続しようとした?」
ルストが答える。
「そうだろうな」
クラウディオは、静かに言った。
「俺の箱庭に、あの廃校の歌を植えようとした」
その言葉に、展示室全体がひどく冷たくなった。
白い砂。
銀色の小道。
止まったオルゴール。
踊らない少女人形たち。
クラウディオが閉じ込めていた園。
そこへ、廃校の歌う怪異が入り込もうとしている。
それは単なる嫌がらせではなかった。
侵食だった。
人形の破壊は挑発であり、接続の実験でもある。
クラウディオの喪失を模倣し、その模倣に廃校の声を縫いつける試み。
ルストの手が、わずかに拳を作る。
怒りはあった。
だが、今は触れない。
噛まない。
抱きしめない。
ただ、横にいる。
クラウディオは、壊された人形の外された硝子の目をもう一度持ち上げた。
裏側の細い傷を見つめる。
「これは」
澪奈がライトを当てる。
「音声波形に似ています」
「似ているだけか」
「現時点では」
澪奈は端末を取り出し、前に保存した波形資料と照合する。
「完全一致とは言えません。ただ……第25の夜、工房内端末から勝手に再生された音声の波形と、形状が近い部分があります」
榊が顔を上げる。
「『彼女じゃない』の音声か」
その言葉が展示室に落ちた瞬間、クラウディオの表情が消えた。
ルストは、すぐに彼を見た。
クラウディオは硝子の目を見ている。
顔には何もない。
怒りも、皮肉も、嫌悪も。
だからこそ、危険だった。
彼の私的な言葉が拾われている。
作業台の上で漏れた言葉が、録音端末に再生され、硝子の目の裏に波形めいた傷として刻まれている。誰かがそれを素材として扱おうとしている。彼女じゃない、という声を、怪異と音声加工の一部にしようとしている。
ルストは、低く言った。
「クラウディオ」
クラウディオは答えない。
「今は、そっちを見るな」
クラウディオの指が、硝子の目を少し強く握る。
割れる寸前の力だった。
だが、割らない。
割れば証拠が消える。
クラウディオは、それくらいの理性は残している。
残していることが、かえって怖かった。
彼はゆっくり硝子の目を採取用トレイへ置いた。
「俺の真似をするなら、もう少し丁寧に壊せ」
声は穏やかですらあった。
榊が息を止める。
澪奈も手を止める。
クラウディオは壊された人形を見下ろす。
「目を外す順番が違う。ゼンマイを抜く手が雑だ。胸の開き方も浅い。何より、壊す理由が薄い」
ルストは、静かに言った。
「理由?」
「壊す形だけ真似た」
クラウディオは低く笑う。
「だが、届かなかったものを壊す手じゃない。見せるために壊した手だ」
展示室の奥で、止まっているはずのゼンマイが一度だけ鳴った。
ちり、と。
澪奈が顔を上げる。
「今の音は」
「記録しろ」
榊が即座に言う。
澪奈が端末を向ける。
音は続かなかった。
代わりに、壊された人形の片方の硝子の目が、白い砂の上でゆっくり曇った。
内側から白い曇りが広がる。
その中に、一瞬だけ顔が映った。
女の顔にも見える。
少女の顔にも見える。
久遠院怜司の影のようにも、まったく別の誰かの輪郭にも見える。
判別できない。
ただ、見ている。
こちらを見ている。
クラウディオは、その硝子の目を見下ろした。
そして、初めて笑った。
小さく。
冷たく。
楽しそうではなかった。
それは、怒鳴るよりもずっと危険な笑いだった。
ルストは、その横顔を見て思った。
怒鳴ってくれた方が、まだよかった。
白い砂の上で、壊れた少女人形の指が、誰も触れていないのにほんのわずかに震えた。




