表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第2部 少女人形のみた夢

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/125

第23話 作られた声



 霧杜中央署の鑑識室は、夜明け前の色をしていた。


 窓の外はまだ暗い。街灯の光がガラスに薄く映り、机の上に並んだ機材の角だけを白く浮かび上がらせている。鑑識室の空気には、薬品、金属、紙、埃、そして眠気を押し殺した人間の体温が混じっていた。部屋の奥には音声解析用の端末が並び、複数の録音データが波形となって画面に浮かんでいる。


 旧白鳥坂学園で録音された歌。


 笑い声。


 旧放送室のノイズ。


 誰も現場では聞いていないはずの声。


 それらが、冷たい画面の中で細い線になっていた。


 白石澪奈は、椅子に座ったまま端末へ向かっていた。制服の上に白衣を羽織り、髪は低くまとめている。目の下には疲労の影があるが、指先は正確だった。何度も録音を再生し、停止し、波形を拡大し、比較する。旧音楽室に置いた録音機。廊下側の録音機。旧放送室側の録音機。さらに、折原邦成の証言中に旧職員室で勝手に反応した録音機。


 どれも同じものを記録しているようで、同じではない。


 現場で聞こえた声と、録音に残った声がずれている。


 聞いた者ごとに違う声として届いている。


 けれど、録音上には一つの音しか残っていない。


 澪奈は息を吐いた。


「加工の痕跡があります」


 その声は静かだったが、部屋の中にいた全員が顔を上げた。


 榊悠真は、腕を組んで壁際に立っていた。睡眠不足の顔をしているが、目だけは鋭い。ルスト・ヴァルレインは、さらに少し奥、影の濃い場所に立っている。灰銀の髪は鑑識室の白い光を受けても鈍く沈み、鋼色の瞳は端末ではなく、クラウディオの方を見ていた。


 クラウディオ・ルジェリウスは、端末の横に立っていた。


 黒いシャツの襟は高く、首筋を隠すように整えられている。袖も手首まで下ろされていた。いつも通りに見える。美しく、冷たく、他人の疲労など自分に関係ない顔をしている。


 だが、襟元の下に噛み痕があることを、ルストは知っていた。


 手首の袖の下にも。


 肩口にも。


 指の付け根にも。


 昨夜、深夜の工房《箱庭》で、クラウディオは完成した少女人形を壊した。硝子の目を外し、首の留め具を外し、胸の奥のゼンマイを抜き、指を一本ずつ外し、頬に細い亀裂を入れた。そして、低く漏らした。


 彼女じゃない。


 ルストは聞いた。


 だが、問わなかった。


 問わない代わりに噛んだ。首筋を、肩口を、手首を、指を、鎖骨の近くを。問いを飲み込むたびに噛んだ。クラウディオが「痛い」と言い、逃げようとし、怒り、皮肉を返し、それでも本気の拒絶はしなかった。最後に「もういい」と線を引いた時、ルストは止まった。


 その痕が、今もある。


 誰もそれを知らない。


 いや、澪奈と榊は気づきかけているかもしれない。だが、踏み込まない。踏み込む種類のものではないと察している。人間にも学習能力はある。遅いが、ある。


 クラウディオは、端末の画面を見ながら襟元に触れた。


 ほんの一瞬。


 ルストの視線がそこへ落ちる。


 クラウディオはすぐに言った。


「見るな」


 ルストは答える。


「見ていない」


「嘘が下手だ、灰銀」


「……見えただけだ」


「もっと下手になったな」


 榊が端末から顔を上げ、二人を見る。


「今それをやる必要があるのか」


 クラウディオは冷たく返した。


「お前が聞く必要はない」


「そうだろうな。だが、空気が悪くなる」


「この部屋の空気が良かった時を知らない」


 榊は反論を諦めた。


 澪奈は、見ないふりをした。これもまた、適応である。人間、怪異と吸血鬼と人形師を同じ部屋に入れておくと、社会常識の方が先に疲れる。気の毒なことだが、仕事は待ってくれない。


 澪奈は画面を拡大した。


「録音には、複数の声の断片が重ねられています。子どもの声らしきもの、大人の声らしきもの、古い録音のノイズ、それから新しく処理された音が混じっています。ただ、明確な言葉はほとんどありません。母音、息、名前を呼ぶ直前のような音、それから鼻歌に近い旋律です」


 榊が眉を寄せる。


「つまり、人間が加工した音声ということか」


「一部は、そうです」


「一部?」


「はい。ここまでは科学で追えます」


 澪奈は、画面上の波形を示した。


「この部分は、旧放送室に残っていた古い音声記録と似ています。劣化の仕方が近い。旧放送室の機材を通したようなざらつきがあります。こちらは新しく加工された痕跡が強い。複数の声を重ね、どこから来た声か分かりにくくしているように見えます」


「意図的に曖昧な音を作った?」


「その可能性があります。歌詞がないのも、単なる偶然ではないと思います。具体的な言葉がないほど、聞いた側が自分の記憶で補いやすい。声として聞き取りやすい母音や息だけが残されている」


 榊は口元を押さえた。


「それで、俺たちはそれぞれ違う声を聞いたのか」


「科学だけで説明するなら、そういう誘導が起きやすい音声だったとは言えます。ただ……それだけでは足りません」


 澪奈は、別の録音データを開いた。


「録音上は一つの音です。ですが、現場にいた私たちは、それぞれ別の声として聞いた。榊さんはお母様の声に似たものを聞いた。私は恩師の声に似たものを聞いた。折原邦成は、おそらく旧白鳥坂学園の生徒の声を聞いた。そしてルストさんは……」


 そこで澪奈は言葉を切った。


 ルストは何も言わない。


 クラウディオも何も言わない。


 だが、沈黙だけで十分だった。


 ルストは、廃校で数百年前のクラウディオの声を聞いた。歌の中に混じった古い声。来るな、逃げろ、見るな。そして、置いていくな、と聞こえたような声。それが本当にクラウディオの声だったのか、ルストが聞きたかった音だったのか、怪異が作った影だったのかは分からない。


 クラウディオは、その場でルストの手首を掴んで引き戻した。


 そっちを見るな。


 声に釣られるな、灰銀。


 それも、まだ残っている。


 ルストの手首にではなく、記憶に。


 澪奈は続けた。


「録音機には、それぞれが聞いた声は残っていません。残っているのは同じ旋律だけです。つまり、音声データ自体は一つなのに、現場では聞く者ごとに違う声として認識された。これは通常の音声加工だけでは説明しにくいです」


 榊が低く言った。


「科学で説明できる部分がある。だが、科学だけでは説明できない部分が残る」


「はい」


「怪異の影響か」


「そう言うしかない部分があります。ですが、すべてを怪異にすると、人間が加工した痕跡が消えてしまいます」


 榊は深く息を吐いた。


「音声加工なら、人間の犯行だ。だが、全員が違う声を聞いた説明がつかない。怪異なら、音声加工の痕跡が説明できない。どちらを信じればいい」


 クラウディオが、そこでようやく口を開いた。


「どちらも信じるな。どちらも疑え」


 榊がクラウディオを見る。


 クラウディオは端末の波形を見下ろしていた。目は冷たい。だが、ただの皮肉ではなかった。彼は音を見ているのではない。その音の中に混じった人間の作為と、怪異の残響と、それを混ぜた誰かの手つきを見ている。


「作られた声だ」


 その声は、鑑識室の白い光の中で静かに落ちた。


 澪奈の指が止まる。


 榊が問い返す。


「作られた声?」


「人間が作った。全部ではないがな」


 クラウディオは画面を指ささない。ただ、視線だけで波形を追った。


「器は人間が作った。中身は、別のものが食った」


 鑑識室が静まる。


 ルストが低く言う。


「器」


「加工された声だ。子どもの声、大人の声、古い録音、息、鼻歌、名前の手前。聞く者が自分で埋めやすいように、輪郭だけを残してある。そこへ、残響型の怪異が入り込んだ」


 榊が眉を寄せる。


「怪異が、加工音声に乗った?」


「人間が声を作り、怪異がそれを餌にした」


 クラウディオは淡々と言った。


「聞かれなかった声。届かなかった声。愛されたかった記憶。そういうものに反応する怪異なら、曖昧な声はちょうどいい器になる。聞いた人間の中にある声を引きずり出し、そこへ自分を乗せる」


 澪奈は息を呑んだ。


 その説明は、科学のものではない。


 だが、録音データと矛盾しなかった。


 人間が作った音声には加工の痕跡がある。旧放送室の古い録音も使われている。だが、現場では聞く者ごとに違う声として届いた。録音機には残らない声。記憶の中でだけ形を変える声。そこに怪異が介入している。


 榊が言った。


「科学か怪異かで分けるから見失う、ということか」


 クラウディオは冷たく返す。


「科学か怪異かで分けるから見失う。混ぜた奴がいる」


 その一言に、榊は黙った。


 澪奈は端末へ視線を戻した。


 混ぜた奴がいる。


 それは、あまりにも嫌な言葉だった。


 怪異が勝手に起きたのではない。


 人間が音を作った。


 古い録音を使った。


 聞いた者が自分の記憶で補うよう、曖昧な声にした。


 そして、残響型の怪異がその器に入り込んだ。


 警察が科学だけを見ると、人間が作った音声にしか見えない。怪異だけを見ると、人間が用意した器を見落とす。どちらかを選ばせること自体が、罠になっている。


「科学と怪異が混ざる、なんて記録にどう書けっていうんだ」


 榊は低く呟いた。


 クラウディオは薄く笑う。


「正直に書け。読んだ人間の胃が痛くなるだけだ」


「それで済むなら楽だな」


「済まないから事件になっている」


 澪奈は、別の部分を拡大した。


「問題は、この声です」


 画面に、小さな波形が表示される。


 廃校で、誰も現場では聞いていないはずの声。


 遅い。


 現在のクラウディオに似た声。


 澪奈は慎重に言った。


「この声だけ、加工の痕跡が見えません。ほかの部分とは違います。古い録音の劣化でも、新しく処理された音でもない。録音機に直接残ったように見えます。ですが、現場では誰も聞いていない」


 榊はクラウディオを見る。


 クラウディオは不快そうに目を細めた。


「俺を見るな」


「似ている」


 榊は言った。


「この声は、あんたに似ている」


「俺の声を勝手に使うな。……いや、俺の声とは限らないがな」


 言葉の後半に、明確な嫌悪があった。


 恐怖ではない。


 怒りだった。


 自分の声に似たものが、録音の中にある。


 自分が聞かせていない声が、事件の中に混じっている。


 自分の人形、自分の工房、自分の喪失、自分の声に似たものまで、事件の道具にされている。そのことへの嫌悪。


 ルストは、クラウディオを見ていた。


 クラウディオがそれに気づく。


「見るなと言った」


「責めていない」


「責める顔ではないな。もっと腹立たしい顔だ」


「この声は、お前に似ている」


「聞こえた」


「だが、お前が出した声ではない」


「当然だ」


「なら、誰が作った」


 クラウディオは答えない。


 ルストは続けなかった。


 彼女について聞かないのと同じように、この声についても、それ以上踏み込まない。クラウディオが説明したくないものと、説明できないものの境目を、今は無理に開かない。


 クラウディオは、その沈黙にも気づいた。


 気づいて、袖口をわずかに直す。


 手首の噛み痕を隠すように。


 ルストの視線が落ちる。


「見るな」


「見ていない」


「本当に嘘が下手だな」


「見えただけだ」


「それもさっき聞いた」


 榊が額を押さえた。


「悪いが、今だけ仕事に戻ってくれ」


 クラウディオは鼻で笑った。


「お前が戻せ」


「戻している」


「なら黙って聞け」


「どっちだ」


 澪奈は小さく咳払いをした。


「続けます」


 ありがたいことに、彼女は現実へ戻る力を持っていた。こういう人材がいなければ、現場は吸血鬼二人の視線だけで倒壊する。建築基準法が泣く。


 澪奈は、旧放送室で回収した古い記録媒体のデータを開いた。


「旧放送室に残っていた古い録音の断片です。劣化が激しく、まだ復元途中ですが、今回の歌声と共通する音があります」


 端末からノイズが流れた。


 ざ、ざ、と古い機械の息のような音。


 その奥に、子どもの声らしき息が混じる。


 歌ではない。


 声でもない。


 歌になり損ねた音。名前を呼ぶ直前で切れたような、喉の奥に引っかかった母音。短い呼吸。少し震えた音。


 澪奈はすぐに音を止めた。


 誰も何も言わなかった。


 榊の顔が硬い。


 ルストは、声の奥に閉じ込められたものを聞こうとしているように見えた。


 クラウディオは、画面を見ていない。


 だが、聞いていた。


 聞いていないふりをしているだけだった。


 澪奈は言う。


「これが『あの子』の声かどうかは、まだ分かりません。ただ、廃校の歌声に含まれる古い部分と一致する箇所があります。誰かがこの古い録音を素材として使った可能性があります」


 榊が低く聞く。


「誰が入手した」


「旧放送室に入れる者。あるいは、過去に録音を持ち出せた者。折原邦成は鍵の場所を知っていました。ただ、彼が加工したと断定はできません」


「誰かが、古い生徒の声を使った」


 榊の声に、隠しきれない嫌悪が混じる。


「それを怪異が反応しやすい音にして、廃校に置いた人形へ結びつけた」


「そう見えます」


 澪奈は答えた。


「人間が作った部分と、怪異が入った部分。その境界が、録音の中で混ざっています」


 その時、端末の通信通知が表示された。


 警察庁の外部顧問。


 久遠院怜司。


 榊が顔をしかめる。


「久遠院顧問からだ」


 クラウディオの目が冷える。


「読まなくていい」


「読む」


「趣味が悪い」


「仕事だ」


 榊は通知を開いた。


 画面には短い分析文が表示されていた。


 科学と怪異が矛盾するとは限りません。

 人間が器を作り、怪異が意味を与えた可能性があります。

 音は、人の記憶に触れるには適した媒体です。


 榊は文章を読み上げた。


 鑑識室の空気が、ほんの少し重くなる。


 久遠院の分析は正しい。


 あまりにも正しい。


 澪奈は、その正しさに微かな寒気を覚えた。科学的にも、事件の構造としても、今見えているものに合っている。人間が器を作り、怪異が意味を与えた。まさにクラウディオが言ったことと近い。


 だが、久遠院の言葉には、困惑がない。


 正しすぎる。


 初めて見る異常への躊躇がない。


 クラウディオが低く言った。


「見慣れたように言うな」


 榊は画面から顔を上げる。


「クラウディオ」


「その男は、正しい顔で腐った箱を開ける。だから嫌いだ」


「久遠院顧問は、少なくとも分析としては正しい」


「正しさで人を解体する奴はいる」


 鑑識室が黙る。


 久遠院をこの場で疑う理由はない。


 だが、クラウディオの嫌悪にも、理由がないわけではない。理由を語らないだけだ。


 ルストは、その横顔を見た。


 やはり聞かなかった。


 なぜ嫌う。


 どこでそう見た。


 何を知っている。


 聞かない。


 今は。


 クラウディオは、ルストの沈黙に気づいた。


 わずかに目を伏せる。


 袖口の下で、手首の噛み痕が疼いたのかもしれない。


 澪奈が分析へ戻ろうとした時、端末の画面が一瞬だけ乱れた。


 ざ、と細いノイズが走る。


 誰も操作していない。


 録音データの再生ボタンは押されていない。


 なのに、波形が動いた。


「待ってください」


 澪奈の声が硬くなる。


「今、入力が入りました」


 榊が身構える。


「鑑識室内からか」


「違います。解析端末に保存されているデータが、勝手に再生されています」


 端末から音が漏れた。


 最初は、息だった。


 誰かが、歌い出す前に吸うような短い息。次に、細い母音。言葉になる前の音。歌詞はない。意味もない。ただ、旧放送室の古い録音に似たざらつきがあり、その奥に新しい音の滑らかさが重なっている。


 そして、一瞬だけ。


 子どもの声に似たものと、クラウディオの声に似たものが重なった。


 ひどく短い。


 名前にもならない。


 呼びかけにもならない。


 だが、鑑識室の空気を凍らせるには十分だった。


 ルストはクラウディオを見る。


 クラウディオは画面を見ない。


 見ようともしない。


 ただ、袖口の下に隠した手首を、逆の手で押さえた。


 噛み痕の上を。


 澪奈は科学的に説明しようとして、言葉を失った。


 榊は端末とクラウディオを交互に見た。


 波形は、勝手に止まった。


 最後に、古い録音のようなノイズだけが残る。


 ざ、ざ、と。


 それはまるで、廃校の旧放送室から、まだ誰かが息をしているような音だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ