第23話 作られた声
霧杜中央署の鑑識室は、夜明け前の色をしていた。
窓の外はまだ暗い。街灯の光がガラスに薄く映り、机の上に並んだ機材の角だけを白く浮かび上がらせている。鑑識室の空気には、薬品、金属、紙、埃、そして眠気を押し殺した人間の体温が混じっていた。部屋の奥には音声解析用の端末が並び、複数の録音データが波形となって画面に浮かんでいる。
旧白鳥坂学園で録音された歌。
笑い声。
旧放送室のノイズ。
誰も現場では聞いていないはずの声。
それらが、冷たい画面の中で細い線になっていた。
白石澪奈は、椅子に座ったまま端末へ向かっていた。制服の上に白衣を羽織り、髪は低くまとめている。目の下には疲労の影があるが、指先は正確だった。何度も録音を再生し、停止し、波形を拡大し、比較する。旧音楽室に置いた録音機。廊下側の録音機。旧放送室側の録音機。さらに、折原邦成の証言中に旧職員室で勝手に反応した録音機。
どれも同じものを記録しているようで、同じではない。
現場で聞こえた声と、録音に残った声がずれている。
聞いた者ごとに違う声として届いている。
けれど、録音上には一つの音しか残っていない。
澪奈は息を吐いた。
「加工の痕跡があります」
その声は静かだったが、部屋の中にいた全員が顔を上げた。
榊悠真は、腕を組んで壁際に立っていた。睡眠不足の顔をしているが、目だけは鋭い。ルスト・ヴァルレインは、さらに少し奥、影の濃い場所に立っている。灰銀の髪は鑑識室の白い光を受けても鈍く沈み、鋼色の瞳は端末ではなく、クラウディオの方を見ていた。
クラウディオ・ルジェリウスは、端末の横に立っていた。
黒いシャツの襟は高く、首筋を隠すように整えられている。袖も手首まで下ろされていた。いつも通りに見える。美しく、冷たく、他人の疲労など自分に関係ない顔をしている。
だが、襟元の下に噛み痕があることを、ルストは知っていた。
手首の袖の下にも。
肩口にも。
指の付け根にも。
昨夜、深夜の工房《箱庭》で、クラウディオは完成した少女人形を壊した。硝子の目を外し、首の留め具を外し、胸の奥のゼンマイを抜き、指を一本ずつ外し、頬に細い亀裂を入れた。そして、低く漏らした。
彼女じゃない。
ルストは聞いた。
だが、問わなかった。
問わない代わりに噛んだ。首筋を、肩口を、手首を、指を、鎖骨の近くを。問いを飲み込むたびに噛んだ。クラウディオが「痛い」と言い、逃げようとし、怒り、皮肉を返し、それでも本気の拒絶はしなかった。最後に「もういい」と線を引いた時、ルストは止まった。
その痕が、今もある。
誰もそれを知らない。
いや、澪奈と榊は気づきかけているかもしれない。だが、踏み込まない。踏み込む種類のものではないと察している。人間にも学習能力はある。遅いが、ある。
クラウディオは、端末の画面を見ながら襟元に触れた。
ほんの一瞬。
ルストの視線がそこへ落ちる。
クラウディオはすぐに言った。
「見るな」
ルストは答える。
「見ていない」
「嘘が下手だ、灰銀」
「……見えただけだ」
「もっと下手になったな」
榊が端末から顔を上げ、二人を見る。
「今それをやる必要があるのか」
クラウディオは冷たく返した。
「お前が聞く必要はない」
「そうだろうな。だが、空気が悪くなる」
「この部屋の空気が良かった時を知らない」
榊は反論を諦めた。
澪奈は、見ないふりをした。これもまた、適応である。人間、怪異と吸血鬼と人形師を同じ部屋に入れておくと、社会常識の方が先に疲れる。気の毒なことだが、仕事は待ってくれない。
澪奈は画面を拡大した。
「録音には、複数の声の断片が重ねられています。子どもの声らしきもの、大人の声らしきもの、古い録音のノイズ、それから新しく処理された音が混じっています。ただ、明確な言葉はほとんどありません。母音、息、名前を呼ぶ直前のような音、それから鼻歌に近い旋律です」
榊が眉を寄せる。
「つまり、人間が加工した音声ということか」
「一部は、そうです」
「一部?」
「はい。ここまでは科学で追えます」
澪奈は、画面上の波形を示した。
「この部分は、旧放送室に残っていた古い音声記録と似ています。劣化の仕方が近い。旧放送室の機材を通したようなざらつきがあります。こちらは新しく加工された痕跡が強い。複数の声を重ね、どこから来た声か分かりにくくしているように見えます」
「意図的に曖昧な音を作った?」
「その可能性があります。歌詞がないのも、単なる偶然ではないと思います。具体的な言葉がないほど、聞いた側が自分の記憶で補いやすい。声として聞き取りやすい母音や息だけが残されている」
榊は口元を押さえた。
「それで、俺たちはそれぞれ違う声を聞いたのか」
「科学だけで説明するなら、そういう誘導が起きやすい音声だったとは言えます。ただ……それだけでは足りません」
澪奈は、別の録音データを開いた。
「録音上は一つの音です。ですが、現場にいた私たちは、それぞれ別の声として聞いた。榊さんはお母様の声に似たものを聞いた。私は恩師の声に似たものを聞いた。折原邦成は、おそらく旧白鳥坂学園の生徒の声を聞いた。そしてルストさんは……」
そこで澪奈は言葉を切った。
ルストは何も言わない。
クラウディオも何も言わない。
だが、沈黙だけで十分だった。
ルストは、廃校で数百年前のクラウディオの声を聞いた。歌の中に混じった古い声。来るな、逃げろ、見るな。そして、置いていくな、と聞こえたような声。それが本当にクラウディオの声だったのか、ルストが聞きたかった音だったのか、怪異が作った影だったのかは分からない。
クラウディオは、その場でルストの手首を掴んで引き戻した。
そっちを見るな。
声に釣られるな、灰銀。
それも、まだ残っている。
ルストの手首にではなく、記憶に。
澪奈は続けた。
「録音機には、それぞれが聞いた声は残っていません。残っているのは同じ旋律だけです。つまり、音声データ自体は一つなのに、現場では聞く者ごとに違う声として認識された。これは通常の音声加工だけでは説明しにくいです」
榊が低く言った。
「科学で説明できる部分がある。だが、科学だけでは説明できない部分が残る」
「はい」
「怪異の影響か」
「そう言うしかない部分があります。ですが、すべてを怪異にすると、人間が加工した痕跡が消えてしまいます」
榊は深く息を吐いた。
「音声加工なら、人間の犯行だ。だが、全員が違う声を聞いた説明がつかない。怪異なら、音声加工の痕跡が説明できない。どちらを信じればいい」
クラウディオが、そこでようやく口を開いた。
「どちらも信じるな。どちらも疑え」
榊がクラウディオを見る。
クラウディオは端末の波形を見下ろしていた。目は冷たい。だが、ただの皮肉ではなかった。彼は音を見ているのではない。その音の中に混じった人間の作為と、怪異の残響と、それを混ぜた誰かの手つきを見ている。
「作られた声だ」
その声は、鑑識室の白い光の中で静かに落ちた。
澪奈の指が止まる。
榊が問い返す。
「作られた声?」
「人間が作った。全部ではないがな」
クラウディオは画面を指ささない。ただ、視線だけで波形を追った。
「器は人間が作った。中身は、別のものが食った」
鑑識室が静まる。
ルストが低く言う。
「器」
「加工された声だ。子どもの声、大人の声、古い録音、息、鼻歌、名前の手前。聞く者が自分で埋めやすいように、輪郭だけを残してある。そこへ、残響型の怪異が入り込んだ」
榊が眉を寄せる。
「怪異が、加工音声に乗った?」
「人間が声を作り、怪異がそれを餌にした」
クラウディオは淡々と言った。
「聞かれなかった声。届かなかった声。愛されたかった記憶。そういうものに反応する怪異なら、曖昧な声はちょうどいい器になる。聞いた人間の中にある声を引きずり出し、そこへ自分を乗せる」
澪奈は息を呑んだ。
その説明は、科学のものではない。
だが、録音データと矛盾しなかった。
人間が作った音声には加工の痕跡がある。旧放送室の古い録音も使われている。だが、現場では聞く者ごとに違う声として届いた。録音機には残らない声。記憶の中でだけ形を変える声。そこに怪異が介入している。
榊が言った。
「科学か怪異かで分けるから見失う、ということか」
クラウディオは冷たく返す。
「科学か怪異かで分けるから見失う。混ぜた奴がいる」
その一言に、榊は黙った。
澪奈は端末へ視線を戻した。
混ぜた奴がいる。
それは、あまりにも嫌な言葉だった。
怪異が勝手に起きたのではない。
人間が音を作った。
古い録音を使った。
聞いた者が自分の記憶で補うよう、曖昧な声にした。
そして、残響型の怪異がその器に入り込んだ。
警察が科学だけを見ると、人間が作った音声にしか見えない。怪異だけを見ると、人間が用意した器を見落とす。どちらかを選ばせること自体が、罠になっている。
「科学と怪異が混ざる、なんて記録にどう書けっていうんだ」
榊は低く呟いた。
クラウディオは薄く笑う。
「正直に書け。読んだ人間の胃が痛くなるだけだ」
「それで済むなら楽だな」
「済まないから事件になっている」
澪奈は、別の部分を拡大した。
「問題は、この声です」
画面に、小さな波形が表示される。
廃校で、誰も現場では聞いていないはずの声。
遅い。
現在のクラウディオに似た声。
澪奈は慎重に言った。
「この声だけ、加工の痕跡が見えません。ほかの部分とは違います。古い録音の劣化でも、新しく処理された音でもない。録音機に直接残ったように見えます。ですが、現場では誰も聞いていない」
榊はクラウディオを見る。
クラウディオは不快そうに目を細めた。
「俺を見るな」
「似ている」
榊は言った。
「この声は、あんたに似ている」
「俺の声を勝手に使うな。……いや、俺の声とは限らないがな」
言葉の後半に、明確な嫌悪があった。
恐怖ではない。
怒りだった。
自分の声に似たものが、録音の中にある。
自分が聞かせていない声が、事件の中に混じっている。
自分の人形、自分の工房、自分の喪失、自分の声に似たものまで、事件の道具にされている。そのことへの嫌悪。
ルストは、クラウディオを見ていた。
クラウディオがそれに気づく。
「見るなと言った」
「責めていない」
「責める顔ではないな。もっと腹立たしい顔だ」
「この声は、お前に似ている」
「聞こえた」
「だが、お前が出した声ではない」
「当然だ」
「なら、誰が作った」
クラウディオは答えない。
ルストは続けなかった。
彼女について聞かないのと同じように、この声についても、それ以上踏み込まない。クラウディオが説明したくないものと、説明できないものの境目を、今は無理に開かない。
クラウディオは、その沈黙にも気づいた。
気づいて、袖口をわずかに直す。
手首の噛み痕を隠すように。
ルストの視線が落ちる。
「見るな」
「見ていない」
「本当に嘘が下手だな」
「見えただけだ」
「それもさっき聞いた」
榊が額を押さえた。
「悪いが、今だけ仕事に戻ってくれ」
クラウディオは鼻で笑った。
「お前が戻せ」
「戻している」
「なら黙って聞け」
「どっちだ」
澪奈は小さく咳払いをした。
「続けます」
ありがたいことに、彼女は現実へ戻る力を持っていた。こういう人材がいなければ、現場は吸血鬼二人の視線だけで倒壊する。建築基準法が泣く。
澪奈は、旧放送室で回収した古い記録媒体のデータを開いた。
「旧放送室に残っていた古い録音の断片です。劣化が激しく、まだ復元途中ですが、今回の歌声と共通する音があります」
端末からノイズが流れた。
ざ、ざ、と古い機械の息のような音。
その奥に、子どもの声らしき息が混じる。
歌ではない。
声でもない。
歌になり損ねた音。名前を呼ぶ直前で切れたような、喉の奥に引っかかった母音。短い呼吸。少し震えた音。
澪奈はすぐに音を止めた。
誰も何も言わなかった。
榊の顔が硬い。
ルストは、声の奥に閉じ込められたものを聞こうとしているように見えた。
クラウディオは、画面を見ていない。
だが、聞いていた。
聞いていないふりをしているだけだった。
澪奈は言う。
「これが『あの子』の声かどうかは、まだ分かりません。ただ、廃校の歌声に含まれる古い部分と一致する箇所があります。誰かがこの古い録音を素材として使った可能性があります」
榊が低く聞く。
「誰が入手した」
「旧放送室に入れる者。あるいは、過去に録音を持ち出せた者。折原邦成は鍵の場所を知っていました。ただ、彼が加工したと断定はできません」
「誰かが、古い生徒の声を使った」
榊の声に、隠しきれない嫌悪が混じる。
「それを怪異が反応しやすい音にして、廃校に置いた人形へ結びつけた」
「そう見えます」
澪奈は答えた。
「人間が作った部分と、怪異が入った部分。その境界が、録音の中で混ざっています」
その時、端末の通信通知が表示された。
警察庁の外部顧問。
久遠院怜司。
榊が顔をしかめる。
「久遠院顧問からだ」
クラウディオの目が冷える。
「読まなくていい」
「読む」
「趣味が悪い」
「仕事だ」
榊は通知を開いた。
画面には短い分析文が表示されていた。
科学と怪異が矛盾するとは限りません。
人間が器を作り、怪異が意味を与えた可能性があります。
音は、人の記憶に触れるには適した媒体です。
榊は文章を読み上げた。
鑑識室の空気が、ほんの少し重くなる。
久遠院の分析は正しい。
あまりにも正しい。
澪奈は、その正しさに微かな寒気を覚えた。科学的にも、事件の構造としても、今見えているものに合っている。人間が器を作り、怪異が意味を与えた。まさにクラウディオが言ったことと近い。
だが、久遠院の言葉には、困惑がない。
正しすぎる。
初めて見る異常への躊躇がない。
クラウディオが低く言った。
「見慣れたように言うな」
榊は画面から顔を上げる。
「クラウディオ」
「その男は、正しい顔で腐った箱を開ける。だから嫌いだ」
「久遠院顧問は、少なくとも分析としては正しい」
「正しさで人を解体する奴はいる」
鑑識室が黙る。
久遠院をこの場で疑う理由はない。
だが、クラウディオの嫌悪にも、理由がないわけではない。理由を語らないだけだ。
ルストは、その横顔を見た。
やはり聞かなかった。
なぜ嫌う。
どこでそう見た。
何を知っている。
聞かない。
今は。
クラウディオは、ルストの沈黙に気づいた。
わずかに目を伏せる。
袖口の下で、手首の噛み痕が疼いたのかもしれない。
澪奈が分析へ戻ろうとした時、端末の画面が一瞬だけ乱れた。
ざ、と細いノイズが走る。
誰も操作していない。
録音データの再生ボタンは押されていない。
なのに、波形が動いた。
「待ってください」
澪奈の声が硬くなる。
「今、入力が入りました」
榊が身構える。
「鑑識室内からか」
「違います。解析端末に保存されているデータが、勝手に再生されています」
端末から音が漏れた。
最初は、息だった。
誰かが、歌い出す前に吸うような短い息。次に、細い母音。言葉になる前の音。歌詞はない。意味もない。ただ、旧放送室の古い録音に似たざらつきがあり、その奥に新しい音の滑らかさが重なっている。
そして、一瞬だけ。
子どもの声に似たものと、クラウディオの声に似たものが重なった。
ひどく短い。
名前にもならない。
呼びかけにもならない。
だが、鑑識室の空気を凍らせるには十分だった。
ルストはクラウディオを見る。
クラウディオは画面を見ない。
見ようともしない。
ただ、袖口の下に隠した手首を、逆の手で押さえた。
噛み痕の上を。
澪奈は科学的に説明しようとして、言葉を失った。
榊は端末とクラウディオを交互に見た。
波形は、勝手に止まった。
最後に、古い録音のようなノイズだけが残る。
ざ、ざ、と。
それはまるで、廃校の旧放送室から、まだ誰かが息をしているような音だった。




