第22話 彼女じゃない
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深夜の工房《箱庭》は、灯りを落とすと、昼間よりも狭く見えた。
表の展示室には明かりがない。棚に並ぶ古い人形たちは、硝子の目に外の街灯の白い光だけを薄く映し、黙って座っていた。作業場へ続く廊下も暗い。古い木材の匂い、乾いた絵具の匂い、布と薬品の匂いが、夜の底で層になっている。奥の方からは、薄い薔薇香水の香りと、焦げた砂糖のような甘い匂いが漂っていた。
その匂いは、もう事件の匂いだった。
洋館の死体。少女の紙片。焦げた菓子。壊された人形。廃校の旧放送室。片方だけの白い靴。どこへ行っても、同じ甘さが残る。甘いのに、喉の奥へ黒い煤が貼りつくような匂いだった。
箱庭風の展示室へ続く扉は、少しだけ開いていた。
その隙間から、硝子の天蓋の冷たい反射が見える。閉ざされた園、白い砂、銀色の小道、止まった水車、鳴らないオルゴール、踊らない少女人形たち。あの部屋は、扉が開いていても閉じているように見える。誰かを招く場所ではない。入った者に、出ていけとも言わず、ただ生きているものを拒むような場所だった。
ルスト・ヴァルレインは、工房の廊下で足を止めた。
音がした。
硝子が触れ合うような、小さく澄んだ音。次に、木の軋む音。作業台の上で、何か細いものが転がる音。
警察はすでに引き上げていた。榊も澪奈も、廃校の靴と工房の展示室の照合資料を持って署へ戻っている。久遠院怜司の資料閲覧通知も、今は端末の向こう側に沈んでいた。工房に残っているのは、クラウディオとルストだけだった。
クラウディオは、奥の作業場にいる。
ルストはそう分かった。
灯りは、作業台の上だけにあった。
薄い黄色の小さな光。夜の工房では、それだけが生きているようだった。ルストが近づくと、白い布を敷いた作業台が見えた。細い筆、硝子の眼球、小さな鋏、木製の関節、銀色の針。どれも整然と並べられている。その中央に、一体の少女人形が横たわっていた。
完成している。
見た瞬間、ルストはそう思った。
人形は、美しかった。
白い肌。だが、ただ白いだけではない。肌の下に薄い青と灰が沈んでいる。生きていないのに、生きていたはずの熱を失った白さだった。細い指は、何かを掴む直前のようにわずかに丸まり、爪の先まで静かな緊張を持っている。硝子の目は少し伏せられ、こちらを直接見てはいない。見る者が、自分から覗き込みたくなる位置に焦点が置かれていた。
淡い唇。
首の傾き。
古いレース。
足先は、踊り出す直前のように片方だけ前へ出ている。白い靴はまだ履かされていない。裸の小さな足先が、白い布の上で止まっていた。
工房奥の人形たちよりも、廃校の偽人形よりも、ずっと完成度が高かった。
美しい、という言葉で済ませるには、息苦しいほどだった。
クラウディオ・ルジェリウスは、その人形を見下ろしていた。
黒い外套を脱いでいる。白いシャツの袖を肘までまくり、細い指先に薄い粉がついていた。長い黒髪は肩から胸元へ落ち、作業灯の光をわずかに拾っている。顔は静かだった。職人が出来栄えを確かめる顔ではない。鑑定でも、修復でもない。
何かを待っている顔だった。
人形が息をするはずはない。
動くはずもない。
そう知っているのに、それでもほんの一瞬、まばたきか、指の震えか、唇の動きを待っているような顔。
ルストは声を出さなかった。
出せなかった。
クラウディオは、人形の目元に触れた。
人差し指の腹で、硝子の目の下をなぞる。丁寧な動きだった。ひどく丁寧で、ひどく冷たい。その指が頬へ下り、唇のすぐ横で止まる。クラウディオは少しだけ人形を見つめた。
その時間は長くなかった。
だが、工房の夜がその一点だけ伸びたように感じた。
次の瞬間、クラウディオは人形を壊し始めた。
叩きつけない。
投げない。
怒鳴らない。
癇癪の音はどこにもなかった。
彼は、まず人形の硝子の目を外した。細い道具を使い、固定していた内側の爪を緩める。片目が、静かに外れる。白い布の上へ置かれた硝子の目は、作業灯の光を受けて薄く曇った。
次に、首の留め具を外す。
小さな金属音がした。首がわずかに傾き、さっきまで待つようだった顔が、急に何も待たないものへ変わる。胸の奥のゼンマイを抜く。銀色の細い部品が、クラウディオの指先に収まる。人形の胸の中にあったはずの中心が、簡単に取り出されてしまう。
指を一本ずつ外す。
爪の形まで作り込まれた小さな指が、白い布の上に並んでいく。
人形は悲鳴を上げない。
当然だ。
それでも、ルストの喉の奥に何かが引っかかった。
クラウディオの手は乱れない。
慣れている。
何度も繰り返してきた手つきだった。
完成したものを、完成していなかった状態へ戻していく。作り上げた順序を逆に辿り、息を待ったものから息を奪い、顔を顔ではなく部品へ戻す。完成したから壊す。完成したのに届かなかったから壊す。
美しくできたからこそ、違うことが分かってしまう。
クラウディオは、頬に細い亀裂を入れた。
刃は細い。力は強くない。だが、白い肌に一筋の線が走る。人形の顔が、一瞬で壊れたものになる。彼は古いレースのドレスの裾を持ち上げ、縫い目を切った。布が裂ける音は小さかった。小さいから、余計に痛かった。
ルストは、作業場の入口で動けずにいた。
問いが喉まで来る。
何度これを繰り返した。
誰を作ろうとしている。
何を待っていた。
誰が、そこにいない。
クラウディオは、人形の胸の奥から最後の小さな部品を抜き取った。
それを白い布の上へ置く。
その時、低い声で漏らした。
「彼女じゃない」
音は、小さかった。
ほとんど息に近い。
だが、ルストには聞こえた。
クラウディオ自身も、言った直後に気づいた。
指が止まる。
口が閉じる。
作業場の空気が落ちる。
彼は、もう何も言わなかった。
彼女。
その一語だけが、白い布の上に置かれた人形の部品よりも重くそこに残った。
ルストは、喉の奥で問いを殺した。
彼女とは誰だ。
聞けば、クラウディオは閉じる。
なぜ壊す。
聞けば、クラウディオは笑う。
何を取り戻そうとしている。
聞けば、クラウディオは切り捨てる。
過去を掘り返すな、と言う。
ルストは、それを知っている。
だから、問わなかった。
その代わりに、近づいた。
クラウディオは気づいた。
振り返るより早く、ルストの手が彼の腕を掴む。強い力だった。骨を潰すほどではない。だが、逃がさない。クラウディオが身を引こうとすると、ルストはその腕を引き、作業台と自分の身体の間へ閉じ込めた。
白い布の上で、人形の部品がかすかに揺れる。
クラウディオの背が作業台の端に当たった。
「何の真似だ、灰銀」
声は冷たい。
だが、いつもより少し低かった。
ルストは答えなかった。
クラウディオの手首を取り、作業台へ押さえる。もう片方の腕を肩へ回し、逃げる隙間を潰す。乱暴に叩きつけるのではない。ただ、退路をなくす。クラウディオが肩を捻り、身体を横へ逃がそうとした瞬間、ルストは腰を引き寄せた。
「離せ」
クラウディオが言う。
ルストは離さない。
代わりに、首筋へ顔を伏せた。
古い噛み跡の近く。
だが、まったく同じ場所ではない。少しだけずらした位置。過去の痕を消すのではなく、今のクラウディオを確かめるように。ルストは、そこへ歯を立てた。
噛んだ。
甘い噛み方ではない。
許しを請う噛み方でも、慰める噛み方でもない。
雑だった。
痛みを残すための噛み方だった。
クラウディオの息が詰まる。肩が跳ねる。押し返そうとした手が、作業台の上で白い布を掴んだ。
「痛い」
短く、低く、怒りを含んだ声。
ルストは一度だけ力を緩めた。
だが、離さない。
クラウディオが逃げようと身体を捻る。ルストは手首を押さえたまま、肩口へ噛み直した。今度は服越しだった。シャツの布を挟んでも、歯の圧は伝わる。クラウディオが低く呻き、顔を歪める。
「噛むな」
ルストは答えない。
もう一度、噛む。
手首。
袖の端を押し上げ、白い肌に歯を立てる。血を奪うためではない。吸い尽くすためでもない。痕を残すため。今ここにいる身体へ、戻ってこいと叩きつけるため。
「痛いと言ってるだろ」
クラウディオの声に怒りが滲む。
ルストは手首を離さない。
クラウディオが空いた手でルストの肩を押す。押し返そうとする。だが、その手は途中でルストの服を掴んだ。押すのか、引くのか、自分でも分からないように、布を握る。クラウディオはそれに気づき、さらに顔を歪めた。
「しつけのつもりか」
ルストは、ようやく低く言った。
「聞かない」
クラウディオの動きが一瞬止まる。
「何を」
ルストは答えない。
答える代わりに、指の付け根へ噛みついた。
クラウディオの息が荒くなる。痛みで指が跳ねる。白い布の上に並んでいた人形の指が、その震動でひとつ転がった。
「灰銀、いい加減にしろ」
「聞かない」
ルストはもう一度言った。
今度は、はっきりと。
「聞けば、お前は閉じる」
クラウディオは笑うように息を吐いた。
痛みと苛立ちが混じった、冷えた笑いだった。
「聞かない代わりがこれか」
「そうだ」
「雑な男だな」
「お前が喋らないからだ」
「喋らせる気もないくせに」
ルストは否定しなかった。
その代わり、鎖骨の近くへ噛んだ。
襟元を押し下げるほどではない。乱暴に剥ぐのではない。ただ、布の隙間から届く場所へ歯を立てる。クラウディオの背が作業台へ押しつけられ、木が小さく軋む。白い布の上で、硝子の目が転がり、作業灯の光を拾った。
クラウディオが顔を背ける。
「痛い」
今度の声は、先ほどより低く、少し掠れていた。
ルストは噛む力をわずかに緩めた。
聞いている。
痛みを確認している。
本当に壊す気はない。
クラウディオもそれを分かっている。分かっているから、余計に腹が立つ。逃げようとすれば止められる。痛いと言えばわずかに緩む。やめろと本気で言えば、おそらく止まる。だが、そこまでは言わない自分がいる。
質問されるよりまし。
慰められるよりまし。
同情されるよりまし。
彼女について聞かれるより、歯の痛みの方がまだいい。
そう思ってしまう自分が、何より腹立たしかった。
「だから噛むのか」
クラウディオは、ルストの髪越しに低く言った。
「質問を飲み込むたびに、俺へ歯を立てる。どこの野良犬だ」
「犬じゃない」
「似たようなものだろ」
「吸血鬼だ」
「便利な免罪符だな」
ルストは答えなかった。
ただ、肩口にもう一度噛みついた。
クラウディオの喉から、短い息が漏れる。
それは甘い声ではない。
痛みの声だった。
怒りの声だった。
それでも、完全な拒絶ではない。
ルストは、それを見ている。聞いている。クラウディオの肩の強張り、押し返す手の力、逃げようとする腰の角度、目の奥の怒り。そのどれもを見ている。線を越えたら止まるつもりでいる。だが、今はまだ、クラウディオは本気で止めろとは言っていない。
だから、噛む。
問いの代わりに。
慰めの代わりに。
怒りの代わりに。
クラウディオが人形の中へ沈み、自分まで部品のように分解していくのを止めるために。
白い布の上で、壊された完成人形の胸元から、音がした。
ちり、と。
金属が擦れるような、細い音。
二人の動きが止まる。
ルストは顔を上げた。
クラウディオも視線を向ける。
作業台の上。外された硝子の目の片方が、内側から曇っていた。部屋は乾いている。水滴がつく理由はない。だが、硝子の奥に白い曇りが広がり、そこへ一瞬だけ、誰かの顔が映った。
女の顔のようにも見えた。
少女の顔のようにも見えた。
廃校の「あの子」なのか、クラウディオが漏らした「彼女」なのか、それとも怪異が作った影なのか、分からない。
輪郭はすぐに崩れた。
硝子の目は、ただの曇った球に戻る。
壊された人形の胸元から、歌の断片が聞こえた。
歌詞はない。
声とも呼べない。
息だけでなぞった旋律のような、遠い鼻歌のような音。廃校で聞いた夜の歌に似ていた。けれど、もっと近い。工房の奥、箱庭の園で止まっていたオルゴールの中から、無理に引き出された一音のようだった。
クラウディオの顔から表情が消えた。
見なかったふりをする。
そう決めた顔だった。
ルストは見てしまった。
彼の胸の奥で、また問いが生まれる。
今の顔は誰だ。
この人形の中に何が混じっている。
彼女とは。
あの子とは。
問わない。
ルストはそう決めた。
問わない代わりに、もう一度噛んだ。
今度は首筋ではなく、クラウディオの手首だった。脈の近く。現在の体温が確かめられる場所。クラウディオが低く呻く。
「痛い」
ルストは、そこで噛む力を緩めた。
完全には離さない。
手首に歯を当てたまま、息を吸う。
血を飲まない。
ただ、そこに生きた温度があることを確かめる。
ルストは低く言った。
「生きている」
クラウディオは不快そうに顔を歪めた。
「確認方法が野蛮すぎる」
「お前にはこれくらいでいい」
「勝手に決めるな」
「勝手に決めないと、お前は沈む」
「詩人になるな」
「違う」
「違わない。今のは悪質な詩だ」
ルストは、少しだけ手を緩めた。
クラウディオはその隙に肩を押し返し、身体を少し離す。だが、完全には逃げない。逃げようとして、止まる。作業台の上には、壊した人形の部品が散らばっている。硝子の目、指、ゼンマイ、レース、首の留め具。そこへ戻れば、また沈むと分かっているのかもしれない。
クラウディオは、噛まれた首筋に指を当てた。
赤い痕がある。
肩口にも。
手首にも。
指の付け根にも。
鎖骨の近くにも。
薄い痛みが残っている。熱と、苛立ちと、現在に戻される不快さ。
「もういい」
クラウディオが言った。
声は低かった。
それまでの「離せ」や「噛むな」とは違う。
線を引く声だった。
ルストは、すぐに止まった。
手を離す。
腕を解く。
ただし、完全に距離は取らない。半歩だけ退き、クラウディオの呼吸を見た。クラウディオが本当に離れろと言えば、さらに下がる距離だった。
クラウディオは、乱れた襟元を直した。
舌打ちする。
「痕を残すな」
ルストは謝らない。
「残した」
「見れば分かる」
「忘れないためだ」
「お前が忘れないだけなら、俺に残す必要はない」
「お前が忘れろと言う」
クラウディオは睨んだ。
「忘れろ」
ルストは短く返す。
「忘れない」
沈黙が落ちた。
工房の奥で、箱庭の園の扉がわずかに鳴った。
開いてはいない。
風もない。
それでも、止まっていたゼンマイが一度だけ鳴った。
ちり、と。
クラウディオの視線が、作業場の奥へ動く。
硝子の天蓋の向こうで、閉ざされた園が沈黙している。踊らない少女人形たち。止まった水車。鳴らないオルゴール。白い砂。銀色の小道。そこから、息だけの旋律が聞こえた。
歌ではない。
声でもない。
だが、夜に歌う人形と同じ匂いがある。
壊した人形の硝子の目が、白い布の上でまた曇った。
一瞬だけ、誰かの顔が映る。
今度は、ルストにもクラウディオにも見えた。
輪郭だけ。
目だけ。
誰かを待つような、あるいは責めるような顔。
クラウディオは、噛まれた首筋に指を当てたまま、目を逸らした。
ルストはそれを見た。
問わなかった。
ただ、半歩後ろで黙っていた。
白い布の上で、外されたゼンマイが、ひとりでに一度だけ震えた。




